柊の花に触れずに、恋をした。

それからの日々は、思っていたよりも早く流れていった。

朝、寮を出てキャンパスへ向かい、講義を受け、昼は学食かコンビニで済ませる。
夕方になるとサークルの練習があり、夜は疲れた身体を引きずるようにして寮へ戻る。
特別なことは何もない。ただ、毎日が少しずつ埋まっていく。

おれはバレーサークルと、よさこいサークルを掛け持ちすることにした。
どちらも「大学生っぽいから」という理由が大きかった。
身体を動かしていると、余計なことを考えずに済む。

「元気だよね」
「若いから」

そんなふうに言われるたび、笑ってやり過ごす。
本当は、元気というより、止まるのが苦手なだけ。

講義では、周囲の様子をうかがいながらノートを取った。
真面目に前を向く人もいれば、早々にスマホを見る人もいる。
高校の教室とは違い、同じ場所にいても、それぞれ別の時間を生きている感じがする。

保健学科だと言うと、「将来は?」と聞かれることが多い。
そのたびに、少しだけ言葉に詰まった。

「まだ、決めてなくて」

そう答えると、大抵(たいてい)の人はそれ以上踏み込んでこない。
助かる反面、自分でもその答えに納得していないことが分かってしまう。

寮に戻ると、廊下ですれ違う顔が増えてきた。
名前を知らなくても、会釈だけは自然にできるようになる。
同じフロアに住んでいるというだけで、関係は少しずつ形を持ち始めていた。

歓迎会に遅れて現れた、隣の部屋の先輩――柊先輩の姿も、そうした日常の中に混ざっていった。
夜遅く、スーツ姿で帰ってくることが多い。バイト帰りなのだろう。
廊下で軽く会釈を交わすだけで、会話は続かない。

それでも、なぜか印象だけは残る。
同じフロアに住んでいるのに、生活のリズムがまるで違う。
近い場所にいながら、別の世界で生きている感じがした。
三〇三号室の前を通るとき、無意識に足音を立てないようにしていることがある。
気を遣っているわけではない。ただ、夜遅くに帰ってきた人の空気を、壊さないようにしているだけだ。

サークルの飲み会が長引いた夜、寮に戻ったのは日付が変わる頃だった。
廊下の照明は落とされ、足音がやけに響く。

角を曲がったところで、柊先輩と鉢合わせた。
手にはコンビニの袋。スーツではなく、ラフな服装だった。

「……こんばんは」

思ったより近くて、反射的に声が出る。

「こんばんは」

短い返事。言葉に温度を感じる暇も与えないほどの形式的で、短いものだった。

ただ、同じフロアに住んでいる先輩と、深夜にすれ違った。
それだけのことが、部屋に戻ってからも一度だけ頭の隅をかすめる。

柊先輩は、おれよりもずっと、密度の濃い時間を生きているように見えた。

共同リビングで課題をしていると、少し離れたところで、柊先輩の低く抑えた声が聞こえてくることもあった。仕事の話らしい、短いやり取りが、断片的に耳に入る。普段は他人の会話なんて気にすることはないのに、なぜか柊先輩の声だけは自分で拾いにいっている自分がいる。

柊先輩には、講義やサークルとは別の時間が、当たり前のようにある。
その事実が、少し大人っぽく感じられた。

自分が同じ立場になるには、まだ時間がかかる。
そう思うと、自然と背筋が伸びた。

大学生活は、思っていたよりも忙しく、思っていたよりも静かだった。
毎日は賑やか(にぎやか)に過ぎていくのに、心の奥はどこか落ち着かない。

おれは、まだその理由を見つけられていない。
ただ、日常の中に小さな違和感が混ざり始めていることだけは、はっきりと感じていた。