柊の花に触れずに、恋をした。

それから七年が経った。

駅からバスに揺られて、終点で降りる。舗装(ほそう)の切れ目から先は、ゆるい坂道だった。住宅の屋根が少しずつ低くなって、かわりに空が広がっていく。まだ、息が白くならない季節なのに、風だけが冷たい。

石段を上がると、区画ごとに並んだ石が目に入った。足元で、砂利が鳴る。その音だけが、自分の歩幅に合わせて戻ってくる。

区画の端に、柊の木が植えられていた。

葉は硬くて、縁が細かく尖っている。近づきすぎると服に引っかかりそうな形なのに、枝先の新しい葉は、少しだけ丸い。光の当たり方で、濃い緑が黒っぽく見えた。

墓石の前で立ち止まる。
石に刻まれた名前を見て、視線を止めた。
柊先輩がいる場所。

名前はもう、何度も見たはずなのに、今日も確認してから目を上げた。石は冷たくて、昨日までの雨を少しだけ含んでいる。花立ての水は澄んでいた。線香の匂いはもう残っていない。

鞄の中から、薄いケースを取り出す。
白いカード。写真と、名前と、資格の文字。

医師免許証。

指先で端を押さえて、墓石の前にかざす。見せるというより、置き場所を探すみたいに、一度角度を変えた。

「……久しぶりです」

声は、自分が思ったより落ち着いていた。ここに来るまで、何を言うかを何度も考えていたのに、最初に出たのはそれだけだった。

「柊先輩がいなくなってから、おれ、必死で勉強しました。」

決めたのは自分だ。
そう言えるようになるまで、時間がかかった。

「そして医学部に入りました。6年間、大学で勉強して、……今日、医師になりました」

カードを少し持ち上げて、もう一度見せる。

「今日、これを見せたかったんです。報告したかった」

墓の前にしゃがんで、花を置く。
派手な色じゃないものを選んだ。白と、薄い緑。
指で(くき)を整えてから、水を足す。

「今は、現場に出ています。いろんな科を回って、毎日ついていくのがやっとで」

少し間を置いて、言葉を選ぶ。

「でも……脳神経外科に進みたいと思っています。柊先輩みたいな人を、助けられる側に行きたくて」

“助けられなかった”を、消すためじゃない。
自分がそうしたくて決めた道だ。

「……あのとき、先輩が言ったこと、残してくれたこと」

手紙の文字の癖。
紙の薄さ。封筒の折り目。
すべて今でも覚えている。

「ずっと、支えになってました。しんどい日も、落ち込んだ日も、手が止まる日も。そういうとき、先輩の声が、聞こえるんです」

低い声で、短く切る話し方。
言い切る癖。必要なことだけを置いていく感じ。

「“進まない選択肢は取るなって”」

墓石の表面を、視線でなぞる。
指では触れない。

「そして、今日、ここにこれました」

鞄の外ポケットに手を伸ばして、タバコの箱を取り出す。見慣れた銘柄だった。柊先輩が好きだったやつだ。

一本取り出して、指先で転がす。
ライターを出して火をつけると、
先端が赤くなり、細い煙が立ち上った。

吸い込んだ瞬間、喉が焼けた。

「っ……」

思わず咳が出る。肩が上下する。
落ち着かせようとして、もう一度吸って、また咳き込む。

「……やっぱり、前と同じでした」

(せき)の合間に言うと、変な笑いが漏れた。
情けないのに、どこか安心する。
七年経っても、変わってない部分がまだある。

風が弱く、白い筋はそのまま上に伸びた。
しばらくそれを見送ってから、もう一度吸おうとして――やめた。

墓石の前に立ったまま、
指先でタバコを挟み直す。

「……今でも、好きです」

短く言う。
余計な飾りはつけない。理由も足さない。

「これからも、おれのこと見ててほしいです。おれ、前に進みますから」

タバコの箱の中を確かめてから、蓋を閉じたまま、墓石の前にそっと置いた。

手を合わせる。指先に、少しだけ冷えが来る。
そのとき、風が吹いた。

強い風じゃない。
葉が一斉に鳴るほどでもない。
けれど、柊の木の枝先は揺れて、乾いた音を立てた。

落ちたのは、葉じゃなかった。小さな白い花が、一片だけふわっと舞って、医師免許証のケースの上に乗った。
花の匂いが、ほんの少しだけ届く。甘いというより、近くで嗅ぐと分かる程度の、淡い香りだ。

花びらを中に残したまま、
ケースを閉じて、鞄へしまった。

立ち上がると、街がもう少し遠く見えた。
空は高くて、雲が薄い。

歩き出す前に、もう一度だけ墓石を見る。
表情が“晴れやか”かどうかは、自分では分からない。
でも、眉間(みけん)の力は抜けていた。

「じゃあ、また来ます」

そう言って、足を動かす。
背中に、柊の木の気配が残る。

柊の葉は、とげとげしい。
近づけば、少し痛い。

それでも、寒い時期に咲くその花は、
立ち止まりそうになる足元を、黙って照らしている。

おれは空を見上げた。
高いところに、雲が流れていく。

七年経っても、全部が分かったわけじゃない。
失くしたものが軽くなることもない。

それでも、おれは歩く。
自分で選んだ道を、先輩が残した言葉を抱えたまま。

風が、背中を抜けていく。
おれはそのまま、振り返らずに歩き出した。

ーーー
おわり