柊の花に触れずに、恋をした。

駅を出た瞬間、空気の匂いが変わった。
海の近くではないのに、湿った土みたいな匂いが混じっている。道幅は狭く、車がすれ違うたびに水たまりの端が跳ねる。ナビアプリの矢印を追って歩きながら、見なれない道を進んでいく。

角を曲がって、さらに一本入った先に、
古いマンションがあった。

外壁は色が抜けていて、ところどころに黒ずんだ筋が伸びている。エントランスの灯りは昼でも薄暗い。郵便受けの角がへこんだまま戻っていないものがいくつもあって、テープで補修された箱も混じっていた。綺麗に片づいていないとか、そういうことじゃない。直しても直しても追いつかない時間が、ここに積もっている感じがした。

階段で二階へ上がる。
段の縁が少し丸く削れていて、踏むたびに小さく鳴る。
部屋番号を確認して、インターフォンを押した。

ピンポン、という音が、自分の耳にだけ響く。
少し間があって、内側で鍵が外れる音がした。
ドアが開く。

そこに立っていたのは、柊先輩の母親だった。

初めて会ったはずなのに、柊先輩の面影を感じて、はじめましてとは思えなかった。特に目元が似ていた。眉の形、視線の置き方。

ただ、顔色が薄く、目の下が赤い。泣いたあとが残っているのがはっきり分かった。頬はこけているのに、背筋だけはピンとしている。

「……井ノ原くん?」

呼ばれて、喉が鳴る。
うまく声が出ない。

「……はい」

それだけ絞り出すと、
先輩の母親は小さく頷いた。

「来てくれて、ありがとう。寒かったでしょう。入って」

玄関の匂いは、洗剤と、
少し古い木の匂いが混ざっていた。

靴を揃える手が震える。
揃えたところで、ちゃんと揃っているか分からない。

通された部屋は広くなかった。
茶色い家具が多くて、余白が少ない。けれど、雑ではない。必要なものだけが残っている。居間の隅に、小さな仏壇が見えた。布がかかっていて、まだ直視できない。

ちゃぶ台の前に座るよう促され、正座になる。
視線を落としている間に、台所でポットを使う音がした。

湯気が、静かに立っている。湯呑みが置かれる。湯気の向こうで、手が少し震えているのが分かった。

「温かいうちに。……ごめんね、こんなのしか出せなくて」
「いえ」

また、声が薄い。
自分の湯呑みにも手を添えるが、口には運ばない。

「……本当に、来てくれてありがとう」

そう言ってから、少しだけ視線を落とした。

「柊、あなたのこと、よく話してた」

心臓が変な動きをする。
鼓動が速いのに、血の気が引く。

「柊ね、あんまり自分のことは言わない子だったの。小さい頃から、そう。……弱いところ、見せたがらない。でも、病室ではね、ぽつぽつ話してた」

言葉を選ぶみたいに間を置く。
こちらに投げるというより、
自分の中から掬い(すくい)上げている声だった。

「会いたい人がいるって。でも、いまは会えないって。会ったら、傷つけるから、って」

その言い方が、柊先輩の声に聞こえた。
勝手に、喉が詰まる。

「……あなたのことよ。ずっと、気にしてた。何度も名前が出た」

何か返さなきゃと思うのに、言葉が出ない。
湯呑みの縁だけを見ていた。

「それでね」

ちゃぶ台の横に置いてあった小さな袋を引き寄せ、封筒を一通取り出した。厚みのある封筒。封はされている。

「これを、渡してほしいって。……柊に頼まれてたの。中は、私も見てない。柊が、そうしてほしいって言ったから」

封筒が、机の上に置かれる。
紙なのに、石みたいに重く見えた。

「……ここで開けてもいいし、でも、もし……」

言葉が途切れて、指が湯呑みの縁をなぞる。

「柊の前で、読みたいなら、そうして」

頷くしかできなかった。
視界の端で、立ち上がる動きが見える。

「仏壇、開けてくるね」

仏壇の前まで歩く数歩が、やけに長い。
布を取る音は、静かだった。
金具の光が少し揺れて、線香の匂いが薄く残っている。

写真があった。
柊先輩の顔だった。

自分の意思に反して、足元が崩れた。
崩れるというより、力が抜ける。
(ひざ)が畳に落ちて、すれる音がした。

声は出なかった。泣けもしない。
ただ、写真の目がこちらを見ていて、
逃げられなかった。

背中越しに、静かな声が落ちてくる。

「……少しだけ、席外すね。ゆっくり、柊と……」

最後まで言い切らない。
(ふすま)が閉まる音がして、
部屋が一人分の静けさになった。

仏壇の前に正座する。
膝が擦れて痛い。

それでも、ここから逃げたくなくて、
じっと座り続けていた。

「先輩」

声が出て、驚く。
自分の声がここに落ちるだけで、返事はない。

「なんで……」

喉が鳴って、言葉が途切れる。

「なんで、死んじゃったんですか。なんで、何も言わずに……なんで、離れたんですか」

言っても、意味がない。
分かっているのに、止まらない。

「おれ、ずっと。おれ、ずっと、追いかければよかったって後悔してて」

手のひらが濡れている。
いつの間にか、涙が落ちていた。

「……ごめんなさい、ほんとにごめんなさい」

謝っても、届かない。
それでも、今ここで言わないと、
もっと壊れる気がした。

封筒を膝の上に置く。
指先が震えて、封をうまく切れない。
深呼吸を一度して、やっと封を開ける。
中には、丁寧に折られた便箋が入っていた。

柊先輩の字だった。
見たことのある字。時間をかけて書かれた字だった。

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井ノ原へ

井ノ原、元気にしていますか。
おれはいま、静かな部屋で、
こうして手紙を書いています。
顔を思い浮かべながら書くのは、
思っていたより、ずっと胸が苦しくて、難しいです。

まず、
こんな形で気持ちを伝えることになって、ごめん。
本当は、きちんと会って話したかった。
井ノ原の顔を見て、声を聞いて、
それから言葉を選びたかった。
それでも、どうしても、それができなかった。

いま、おれが井ノ原に会うことで、かえって、
井ノ原を苦しめてしまうんじゃないかと思った。
それは、おれの一方的な思い込みかもしれない。
でも、どうしても、その考えを振り払うことができなかった。

何も言わずに寮を出たことも、
きっと、心配をかけたと思う。
驚かせてしまったこと、
黙ったまま離れてしまったこと、
本当に、申し訳ないと思ってる。

これを書きながら、自然と、
出会ったころのことを思い出してる。

正直に言うと、最初は、井ノ原とどう向き合っていいのか分からなかった。どこか噛み合わなくて、正直、少し苦手だと思っていた。話し方も、向き合い方も、そのころのおれには、よく分からなかった。

それでも、一緒に過ごす時間が増えて、
いつの間にか、その感じは薄れていった。
気づくと、井ノ原が何を考えているのか、
どんな顔をしているのか、自然と目で追うようになってた。

特別なきっかけがあったわけじゃない。
ただ、同じ時間を重ねるうちに、
少しずつ、気になる存在になっていった。

おれが体調を崩してからも、
一緒にご飯を食べたり、煙草を吸ってみたり、
何気ない時間を井ノ原と過ごした。
特別なことは何もなかったけど、その一つひとつが、
おれにとっては大切で、かけがえのない時間だった。
それは今でも変わらない。

ただ、一緒に過ごす時間が増えるにつれて、
次第に井ノ原が、自分の予定よりもおれの都合を優先するようになった。

最初は、一緒にいられる時間が増えて嬉しかった。
でも、同じことが何度も重なるうちに、
井ノ原が、自分の時間を犠牲にしてまで、
おれとの時間を無理に優先しているのではないか。
おれが、そうさせているのではないか。
もしそうだとしたら、おれは、井ノ原の大切な時間を削ってしまっている。
そんな考えが、頭から離れなくなった。
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違う、と言いたくなった。
そんなつもりで動いていたわけじゃない。

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井ノ原自身が、どう思っていたのかは分からない。
それでもおれには、おれがそばにいることで、
本来なら使えたはずの時間や選択肢を、
少しずつ奪ってしまっているように思えた。

そして、あの夜、井ノ原が、
自分の夢を諦めるかもしれない、
そんな話をしたとき、これ以上、
ここにいてはいけないと感じた。
このまま一緒にいれば、おれの存在が理由になって、
井ノ原の人生が止まってしまう。
そう思って、離れることを選んだ。
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そこで、手紙を持つ指に、力が入った。
あの夜の光景が、今になって、
別の形で胸に戻ってくる。

あれは、拒まれたんじゃなかった。
切られたわけでもなかった。
――先輩は、先に痛むほうを選んだだけだった。

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あのとき、
井ノ原を深く傷つけてしまったことは、分かってる。
もっと違う伝え方があったはずだって。
本当に、申し訳ない。

それでも、それは、
井ノ原を嫌いになったからじゃない。
井ノ原のことが、好きだったからだ。
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そこから先が、すぐに読めなかった。
息を吸おうとして、うまくいかない。
胸の内側が、急に忙しくなる。
名前を呼ばれたみたいに、
感情だけが、前に出てきてしまった。

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井ノ原は、勉強熱心で、人の話を丁寧に聞いて、
自分のことより、誰かのことを先に考えられる優しさがある。

そういうところが、自然と人を惹きつける。
夢の話をするときの、井ノ原の目を、
おれは今でも覚えている。
あんな純粋で、まっすぐな目をしているやつが、
何もできないはずがない。
心からそう思った。

おれは、井ノ原の夢に直接、
何かをしてあげられる人間じゃない。
それでも、もし許されるなら、
遠くから、そっと応援していたいと思ってる。

封筒の中に、通帳を入れています。
大した額じゃないけど、時間をかけて、
少しずつ残してきたものです。
もし使うとしたら、井ノ原の夢のために使ってほしい。
それが、一番自然だと思えた。

最後に、これだけは伝えておきたい。

おれは、井ノ原のことが好きだ。
どうしようもないくらい。
この感情に名前をつけるのは難しい。
でも、可能なら、許されるなら、
これからもずっと一緒にいたい、
同じ時間を共有したい。
そのぐらい、好きだ。

離れていても、
井ノ原の時間が前に進んでいくことを、
おれはいつも願ってる。

井ノ原、夢を諦めるな。
自分を信じて、向き合い続ければ、きっと叶う。
井ノ原なら、できるよ。

またどこかで会えるといいな。

柊より
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読み終わっても、すぐに紙を畳めなかった。

文字が滲んで、行の端が揺れる。
手のひらが震えて、便箋(びんせん)が小さく鳴る。

喉の奥が鳴って、声にならない音が漏れる。
便箋を畳むこともできず、そのまま胸に押し当てた。

「……先輩」

名前を呼んだだけで、
涙が溢れた。

「おれ、先輩のこと、ほんとに……好きでした」

声が震える。

「優しいところも、不器用なところも、何でも一人で抱え込むところも、全部です。全部、好きでした。ちゃんと怒ってくれるところも、何も言わずに隣にいてくれるところも……おれが抱え込んでるの、すぐ気づくところも。先輩のそういうところに何度も、助けられたのに」

便箋を握りしめる。

「おれが先輩を優先したのは、かわいそうだとか、償いだとか、そんな理由じゃない」

涙が畳に滲みていくのが分かる。

「一緒にいたかった。先輩のそばにいる時間が……おれにとって、一番楽しかった。先輩といるときだけ、ちゃんと自分でいられた。なのに、突き放された夜、おれ、何も言えなかった。好きだって、行かないでほしいって、一緒に考えたいって……最後のチャンスだったのに」

便箋を見下ろす。

「先輩が、そんなふうに考えてたなんて。おれの人生のことまで……そんなに、大事にしてくれてたなんて」

封筒の中にある通帳に気づき、奥から取り出す。
中は見ない。それでも、重みだけで分かる。

どれだけの時間を、
どれだけ我慢して、
貯めてきたのか。

嗚咽(おえつ)が漏れる。

「こんなの……ずるいですよ」

涙が止まらない。

「でも、先輩の気持ちから、おれ、逃げません」

声に、少しだけ力が入る。

「先輩が背中を押してくれた人生を、ちゃんと、生きます。自分の夢から、もう、目を逸らしません。先輩が好きだったおれで、ちゃんと、前に進みます」

涙を拭う。

「……だから、見ててください」

言い切ると、胸の奥に、かすかな熱が残った。
まだ痛い。まだ苦しい。
それでも――いまは立っていられる。

胸の奥が軽くなったわけじゃない。
悲しみが消えたわけでもない。
ただ、崩れ落ちるしかなかった足元に、
ようやく、踏みしめられる場所ができた気がした。

先輩が残した言葉は、
確かに、おれの背中を押していた。

声を荒らげるでもなく、
無理に引っ張るでもなく、
それでも、はっきりと――
前に進め、と言っていた。

逃げ道を塞ぐ言い方じゃない。
立ち止まっていい場所を残したまま、
それでもなお、進むほうを選べるように、
背中に手を添えられている感覚だった。

忘れようとしなくていい。
無理に整理しなくていい。
先輩がいた事実を、そのまま胸に残したまま、
前に進んでもいいと、初めて思えた。

それだけで、
いまのおれには、十分だった。

そう決めた気持ちだけが、
いまのおれを、強く立たせていた。

先輩の母親が、静かに部屋に入ってきた。
おれは慌てて涙を拭いた。

こちらを見て、一度だけ小さく頷く。
何も言わないまま、湯呑みを取り替えるような手つきで、線香を整えた。

「……もう柊がいないなんて信じられないよね」

その声は、優しいというより、哀愁(あいしゅう)が混じった音だった。

おれは頷く。
口を開くとまた崩れそうで、声は出さない。

「柊、不器用だったでしょう」

静かに頷いた。
その一言が、やけに柊先輩を思い出させて、
我慢していた涙が一気に流れ落ちた。

帰り際、玄関まで送られる。

「来てくれて、ありがとう。……またいつでもきてね」

そう言いながら、目が少し赤い。

「柊、あなたに会えて、嬉しかったと思うわ」

返事はできなかった。
深く頭を下げることだけが精一杯だった。

外に出る。
空がやけに青い。冬の手前の青さで、澄んでいる。
泣いたあとの目が痛いのに、空だけははっきり見えた。

頬を拭う。涙はまだ出る。
でも、流れっぱなしにはしない。
吸って、吐いて、息を整える。

「……先輩、見てますか、おれ、少しずつだけど前に進みますから」

小さく言って、顔を上げる。

マンションの脇に、柊の木が一本生えているのに気づいた。葉は濃く、縁が少し尖っている。近づくと棘が硬い。それなのに、一本だけ、花が咲いていた。白くて小さい。目立たないのに、妙に凛としている。

柊先輩みたいだと思った。
強がって、棘があって、でも、優しい。

その横を静かに通り過ぎる。
背中を丸めないように、背筋を伸ばしながら。

歩き出す足取りはまだ重い。
でも、もう止まることはなかった。
そんなはずはないのに、先輩が背中をやさしく押してくれているようにも感じた。

先輩が残したものは、謝罪でも義務でもなくて、
おれがこれから選ぶための、道筋。

そう受け取って、
先輩がいない空の下を、
おれは一歩ずつ、進んでいった。