柊の花に触れずに、恋をした。

新入生歓迎会は、寮の共同リビングで開かれた。
別館の同じフロアに住む学生だけが集まる、小さな集まりだ。
机を壁際に寄せ、中央に長テーブルを並べただけの簡素な準備。
それでも、いつもは静かなリビングが、人の気配で満たされている。

床にはコンビニの袋や紙皿が置かれ、缶やペットボトルが雑然と並んでいた。
誰かが持ってきたスピーカーから、控えめな音量で流れる音楽。

端の席に腰を下ろし、周囲を見回した。
見覚えのある顔もあれば、今日初めて見る先輩の姿もある。
同じフロアというだけで、妙な連帯感があるらしく、会話は思ったよりも内輪向けだ。

「三〇四だよね?」
「あ、はい」

名前より先に、部屋番号で呼ばれる。
それがこの場では自然らしい。悪くはないが、どこか仮の呼び名を与えられているような感覚が残った。

乾杯の合図があって、紙コップが軽くぶつかる。
別に(のど)が渇いていたわけじゃない。ただ、乾杯という流れに合わせて、紙コップを口に運んだ。

「どこ出身?」
「サークル、もう決めた?」

質問は途切れない。
答えながら、相手の反応を気にしてしまう。
会話は成立しているはずなのに、どこか表面をなぞっている感じが抜けない。

楽しくないわけではない。ただ、気を抜く場所が見つからない。

先輩たちは場を回しながら、新入生に声をかけていく。
冗談を言う人もいれば、静かに様子を見ている人もいる。
おれはその中で、なんとなく所在(しょざい)なさを抱えたまま、時間が過ぎるのを待っていた。

ドアが開く音がして、リビングの空気が一瞬だけ変わった。

「遅くなりました」

落ち着いた声だった。
大きくもなく、通る声。

スーツ姿の先輩らしき人が、肩にかけたバッグを下ろしながら中に入ってきた。
バイト帰りなのだろう。黒に近い髪は、光の加減でわずかに茶色がかって見える。
整えすぎていない、爽やかな髪型。派手ではないが、きちんとした印象がある。

(ひいらぎ)、今日もバイト?」
「うん、そう」

先輩同士の短いやりとり。
その中で、名前だけが耳に残った。

 ――(ひいらぎ)

遅れてきたその先輩は、空いている席に腰を下ろし、周囲に軽く会釈をする。
無理に輪に入ろうとしない態度が、かえって落ち着いて見えた。

自分がさっきまで感じていた居心地の悪さを、少しだけ忘れていることに気づく。
理由は分からない。ただ、胸の奥が、少しだけ浮き立つような感じがした。
柊先輩は紙コップを受け取り、一口だけ飲んだ。
スーツの袖口から覗く(のぞく)手首は白く、動作に無駄がない。

「一年生?」

向けられた声に、姿勢を正した。

「はい」
「部屋、どこ?」

淡々とした聞き方だった。

「三〇四です」
「……じゃあ、隣だな」

思わず目を瞬く(またたく)

「俺、三〇三」

そう言って、柊先輩は軽く口元を緩めた。
それは笑顔というほどのものではなく、事実確認に近い表情だった。

「あ、そうなんですね」

それ以上、言葉が続かなかった。
ただ、隣だと分かった瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。

「俺、秋庭 柊」

名乗り方は簡単だった。ただ不思議と冷たさは感じない。

「井ノ原です。下の名前は空希っていいます」

名前を返すと、柊先輩は一度だけ頷いた(うなずいた)

「よろしく」

それだけの会話だった。何か特別なことをされたわけじゃない。それでも、なぜか目が離せなかった。

大人っぽくて、ちゃんとしていて、少し遠い。
自分とは、違う場所に立っている人。

その存在を意識したせいか、それまでの飲み会が、どこか色の薄い時間だったことに気づく。
笑って、相槌を打って、無難にやり過ごすだけの時間。

けれど今は、少し違う。
その距離感が、今のおれには心地よかった。
この飲み会が、自分にとってさっきまでとは少し違う意味を持ち始めていることだけは、確かだった。