床に座ったまま、柊先輩の腕の中にいた。
背中に回された腕は、さっきと同じ位置にある。
力は入っていないのに、離れる気配もない。
おれは正座を崩したまま、
身体の重さをそのまま預けていた。
床の冷たさが膝に伝わっているのに、
それも気にならなかった。
耳元で、柊先輩が息を吐く。
「……なんか、温かいな」
感想というより、
確認みたいな言い方だった。
「お前の、そういうところ。変に取り繕わないところ」
言われて、何のことかすぐには分からなかった。
少し間が空く。
「正直で。……好きだ」
床に置いた自分の手のひらが、
ぎゅっと縮こまった。
胸の内側が騒がしくなるのに、
逃げたい感じはなかった。
身体は、ここにいたがっている。
今回は、迷わなかった。
「おれもです」
顔は上げずに言った。
近すぎて、目を見る勇気がなかった。
「柊先輩の……不器用なところ。ちゃんと向き合おうとするところ。優しいところ」
言葉にした瞬間、全部本当だと分かった。考えて選んだ言葉じゃない。ただ、口から出てきただけだった。
柊先輩は、何も言わずに小さく息を吐いた。腕の位置が、ほんの少しだけ変わる。抱くというより、包むみたいな感触になって、背中に当たる手のひらが広がった。
「前の旅行さ」
不意に、話題が変わる。
「最初は、行くつもりなかった」
おれは、黙って聞いた。
続きを待つ、というより、途中で止めたくなかった。
「お前が行くって聞いたから、行った」
理由を探すみたいに、言葉がゆっくり続く。
「理由はない。……でも、なんか気になる、っていうか、ほっとけない、というか」
照れも、言い訳もなかった。
ただ、事実だけが置かれる。
「変な話だよな」
「変じゃないです」
間を置かずに返した。
「おれも、柊先輩が参加しなかったら、行ってなかったと思います」
それを言った瞬間、胸の奥がすっと静かになった。
あのとき迷った理由も、決めた理由も、全部ここにつながっていた気がした。
視線が合う。床に座ったままなのに、距離だけが縮んだ気がした。視線を外すタイミングが分からなくて、そのまま見てしまう。
そのとき、柊先輩の視線が一瞬揺れた。
それと同時に、身体がわずかに傾く。
「先輩?」
抱き合う形のまま、支える。
さっきまでとは違う集中の仕方で、腕に力を入れる。
頭の中で、はっきりと何かが切り替わった。
「大丈夫ですか」
「ちょっと、くらっとしただけだ」
そう言いながら、額に手を当てる。
「悪い。ベッドで少し横になりたい」
おれはうなずいて、腕を回す。立ち上がらせるのではなく、体重を分け合うようにして、ゆっくり身体の向きを変える。床からベッドへ移動するあいだ、息遣いが近くて、歩幅を合わせることだけに意識を向けた。
柊先輩が横になるのを確認してから、手を離した。
しばらく、静かだった。時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……ありがとう」
柊先輩が言う。
顔色は、さっきより落ち着いていた。
「助かった」
その言葉に、肩の力が抜ける。
自分でも、気づかないうちに力が入っていたらしい。
「お前に、何か返さないとな」
冗談めいた口調だったけれど、視線はまっすぐだった。おれは、一度息を吸った。さっきまでなら言えなかったと思う。でも、いまは違った。
「……ひとつだけ、お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「もう一回、ハグしてもいいですか」
言ってから、視線を逸らした。
さすがに少し恥ずかしかった。
断られたらどうしよう、という考えが遅れて浮かぶ。
柊先輩は、困ったように笑う。
「今は起き上がれない。このままでもいいか」
「はい」
短く答える。
布団をめくる音が、やけに大きく聞こえた。境界を越える、というほど大げさなことじゃないはずなのに、足を踏み入れるまでに一拍あった。戻ろうと思えば戻れた。でも、戻らなかった。
静かに布団に入り、柊先輩の胸元に顔を寄せる。さっきより近い。逃げ場がない距離だった。布の向こうから、体温がじわじわ伝わってくる。
「……あったかい」
思ったまま、口から出た。
布越しに、心臓の音が伝わってくる。速さが、自分のと重なっているのが分かった。どちらの音か、分からなくなる。
柊先輩の手が、背中に回る。
「何かあったら、いつでも頼れ」
低く、落ち着いた声だった。
「こんなおれでよければ、だけどな」
父親みたいな、包み込むような言い方だった。
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
おれは、腕に力を入れて、さっきより強く抱きつく。
はじめての感覚のはずなのに、ずっと前から慣れていたみたいに居心地が良かった。どこにも引っかかるものがなくて、この位置が最初から決まっていたみたいに、呼吸が揃っていく。
しばらくして、意識がゆっくり遠のいた。
目を開けたとき、窓の外が白んでいた。
はじめて二人で迎えた朝だった。
背中に回された腕は、さっきと同じ位置にある。
力は入っていないのに、離れる気配もない。
おれは正座を崩したまま、
身体の重さをそのまま預けていた。
床の冷たさが膝に伝わっているのに、
それも気にならなかった。
耳元で、柊先輩が息を吐く。
「……なんか、温かいな」
感想というより、
確認みたいな言い方だった。
「お前の、そういうところ。変に取り繕わないところ」
言われて、何のことかすぐには分からなかった。
少し間が空く。
「正直で。……好きだ」
床に置いた自分の手のひらが、
ぎゅっと縮こまった。
胸の内側が騒がしくなるのに、
逃げたい感じはなかった。
身体は、ここにいたがっている。
今回は、迷わなかった。
「おれもです」
顔は上げずに言った。
近すぎて、目を見る勇気がなかった。
「柊先輩の……不器用なところ。ちゃんと向き合おうとするところ。優しいところ」
言葉にした瞬間、全部本当だと分かった。考えて選んだ言葉じゃない。ただ、口から出てきただけだった。
柊先輩は、何も言わずに小さく息を吐いた。腕の位置が、ほんの少しだけ変わる。抱くというより、包むみたいな感触になって、背中に当たる手のひらが広がった。
「前の旅行さ」
不意に、話題が変わる。
「最初は、行くつもりなかった」
おれは、黙って聞いた。
続きを待つ、というより、途中で止めたくなかった。
「お前が行くって聞いたから、行った」
理由を探すみたいに、言葉がゆっくり続く。
「理由はない。……でも、なんか気になる、っていうか、ほっとけない、というか」
照れも、言い訳もなかった。
ただ、事実だけが置かれる。
「変な話だよな」
「変じゃないです」
間を置かずに返した。
「おれも、柊先輩が参加しなかったら、行ってなかったと思います」
それを言った瞬間、胸の奥がすっと静かになった。
あのとき迷った理由も、決めた理由も、全部ここにつながっていた気がした。
視線が合う。床に座ったままなのに、距離だけが縮んだ気がした。視線を外すタイミングが分からなくて、そのまま見てしまう。
そのとき、柊先輩の視線が一瞬揺れた。
それと同時に、身体がわずかに傾く。
「先輩?」
抱き合う形のまま、支える。
さっきまでとは違う集中の仕方で、腕に力を入れる。
頭の中で、はっきりと何かが切り替わった。
「大丈夫ですか」
「ちょっと、くらっとしただけだ」
そう言いながら、額に手を当てる。
「悪い。ベッドで少し横になりたい」
おれはうなずいて、腕を回す。立ち上がらせるのではなく、体重を分け合うようにして、ゆっくり身体の向きを変える。床からベッドへ移動するあいだ、息遣いが近くて、歩幅を合わせることだけに意識を向けた。
柊先輩が横になるのを確認してから、手を離した。
しばらく、静かだった。時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……ありがとう」
柊先輩が言う。
顔色は、さっきより落ち着いていた。
「助かった」
その言葉に、肩の力が抜ける。
自分でも、気づかないうちに力が入っていたらしい。
「お前に、何か返さないとな」
冗談めいた口調だったけれど、視線はまっすぐだった。おれは、一度息を吸った。さっきまでなら言えなかったと思う。でも、いまは違った。
「……ひとつだけ、お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「もう一回、ハグしてもいいですか」
言ってから、視線を逸らした。
さすがに少し恥ずかしかった。
断られたらどうしよう、という考えが遅れて浮かぶ。
柊先輩は、困ったように笑う。
「今は起き上がれない。このままでもいいか」
「はい」
短く答える。
布団をめくる音が、やけに大きく聞こえた。境界を越える、というほど大げさなことじゃないはずなのに、足を踏み入れるまでに一拍あった。戻ろうと思えば戻れた。でも、戻らなかった。
静かに布団に入り、柊先輩の胸元に顔を寄せる。さっきより近い。逃げ場がない距離だった。布の向こうから、体温がじわじわ伝わってくる。
「……あったかい」
思ったまま、口から出た。
布越しに、心臓の音が伝わってくる。速さが、自分のと重なっているのが分かった。どちらの音か、分からなくなる。
柊先輩の手が、背中に回る。
「何かあったら、いつでも頼れ」
低く、落ち着いた声だった。
「こんなおれでよければ、だけどな」
父親みたいな、包み込むような言い方だった。
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
おれは、腕に力を入れて、さっきより強く抱きつく。
はじめての感覚のはずなのに、ずっと前から慣れていたみたいに居心地が良かった。どこにも引っかかるものがなくて、この位置が最初から決まっていたみたいに、呼吸が揃っていく。
しばらくして、意識がゆっくり遠のいた。
目を開けたとき、窓の外が白んでいた。
はじめて二人で迎えた朝だった。
