柊先輩の姿を見なくなって、
数週間が経っていた。
最初は、忙しいんだろうと思っていた。
バイトも多いし、責任感も強い。
そういう人だ。
でも、三〇三号室の前を通るたび、何も変わらない廊下に、少しだけ引っかかるようになった。
共同リビング。
講義棟までの道。
寮の玄関。
どこにも、柊先輩はいなかった。
ある日の昼過ぎ、
寮の廊下で初瀬先輩とすれ違った。
「おつかれ」
軽く会釈して、そのまま通り過ぎる。
いつもなら、それで終わりだった。
「……あ、初瀬先輩」
思わず、足を止めていた。
「ん?」
「柊先輩って、最近……何してるんですか」
聞くつもりはなかった。
でも、理由を考える前に、言葉が出ていた。
初瀬先輩は少し首を傾げてから、笑った。
「そういえば、見てねえな。あいつ、ほんとバカみたいに働くからさ、忙しいんじゃね?」
深く考えていない口調だった。
それで、話は終わる。
「ですよね。ありがとうございます」
そう答えて、その場を離れる。
納得できないわけじゃない。
自分に言い聞かせるには、十分な理由だった。
忙しいだけ。
それで、説明はつく。
*
夜、寮に戻る。
部屋に入って、鞄を置き、
何気なくスマホを見ると、1件のLINE通知があった。
画面に表示された名前を見て、一瞬、呼吸が詰まる。
柊先輩だった。
急いで画面を開く。
でも、そこに並んでいた言葉は、
柊先輩のものじゃなかった。
《はじめまして。柊の幼馴染の、水田といいます。突然の連絡で、すみません。柊は、数週間前の夜、バイトの帰り道で倒れて、桜峰総合医療センターに搬送されました。人通りの少ない場所で、発見がかなり遅れたそうです。》
意味が、すぐに頭に入ってこない。
文字を追っているだけなのに、
指先の感覚が、少しずつ遠のいていく。
《もともと、本人も気づいていなかった病気があって、倒れてから処置が遅れると、重い状態になる可能性が高いと聞いています。現在も意識は戻っていません。》
視界が、ゆっくり歪む。
画面を一度閉じて、
もう一度、開く。
書いてあることは、変わらない。
《柊の友人たちに状況を伝えるため、本人のLINEを使って連絡をしています。その中で、倒れた日の夜に、あなたに「たすけて」と送っているのを見ました。》
呼吸が、浅くなる。
《なぜ、助けなかったんですか?既読がついていました。気づいていたんですよね。正直に言って、友人として、許せません。その場に行けなかったとしても、救急に連絡することはできたはずです。何もしない、という選択はなかったと思います。》
言葉が、胸に落ちる前に、
身体の方が先に反応した。
耳鳴りがする。
手が、細かく震え出す。
思考が、追いつかない。
でも、次の瞬間、ばらばらだった記憶が、
一気につながった。
ソファで感じた、肩の細さ。
立ち上がったとき、眉間を押さえた仕草。
「寝不足でさ」「今日は早く寝るわ」
そして――
合宿の夜。
「たすけて」、あの一行。
約束。返事はいらない。形だけ送る。
全部が、同じ線の上に並ぶ。
遅れて、息が詰まった。
喉の奥が、ひくりと鳴る。
スマホを持つ手が、震えて止まらない。
どう打てばいいのか分からないまま、
画面に指を落とす。
《……知りませんでした。すみません。本当に、すみません》
短い文を送って、それ以上、何も書けなかった。
スマホを握ったまま、床に座り込む。
背中が、壁に当たる。
顔は、何も動かない。
涙だけが、勝手に落ちてくる。
声は出ない。
嗚咽もない。
ただ、分かってしまった。
あのとき、助けを求められていたこと。
そして、それを、自分が無視したこと。
おれは、どうやって償えばいいんだろう。
考えようとしても、
浮かぶのは同じ場面ばかりだった。
あの夜、画面に残った一行。
既読をつけて、スマホを伏せた自分。
でも、その「何もしなかった」が、
いまは、はっきり形を持っている。
もし、あのとき。
もし、返事をしていたら。
もし、電話をかけていたら。
もし、誰かに知らせていたら。
どれも、いまさらだ。
取り消せるものは、何一つない。
謝ることはできる。
頭を下げることもできる。
責められることも、受け止められる。
でも、戻せるものは、ない。
答えは、
どこにもなかった。
数週間が経っていた。
最初は、忙しいんだろうと思っていた。
バイトも多いし、責任感も強い。
そういう人だ。
でも、三〇三号室の前を通るたび、何も変わらない廊下に、少しだけ引っかかるようになった。
共同リビング。
講義棟までの道。
寮の玄関。
どこにも、柊先輩はいなかった。
ある日の昼過ぎ、
寮の廊下で初瀬先輩とすれ違った。
「おつかれ」
軽く会釈して、そのまま通り過ぎる。
いつもなら、それで終わりだった。
「……あ、初瀬先輩」
思わず、足を止めていた。
「ん?」
「柊先輩って、最近……何してるんですか」
聞くつもりはなかった。
でも、理由を考える前に、言葉が出ていた。
初瀬先輩は少し首を傾げてから、笑った。
「そういえば、見てねえな。あいつ、ほんとバカみたいに働くからさ、忙しいんじゃね?」
深く考えていない口調だった。
それで、話は終わる。
「ですよね。ありがとうございます」
そう答えて、その場を離れる。
納得できないわけじゃない。
自分に言い聞かせるには、十分な理由だった。
忙しいだけ。
それで、説明はつく。
*
夜、寮に戻る。
部屋に入って、鞄を置き、
何気なくスマホを見ると、1件のLINE通知があった。
画面に表示された名前を見て、一瞬、呼吸が詰まる。
柊先輩だった。
急いで画面を開く。
でも、そこに並んでいた言葉は、
柊先輩のものじゃなかった。
《はじめまして。柊の幼馴染の、水田といいます。突然の連絡で、すみません。柊は、数週間前の夜、バイトの帰り道で倒れて、桜峰総合医療センターに搬送されました。人通りの少ない場所で、発見がかなり遅れたそうです。》
意味が、すぐに頭に入ってこない。
文字を追っているだけなのに、
指先の感覚が、少しずつ遠のいていく。
《もともと、本人も気づいていなかった病気があって、倒れてから処置が遅れると、重い状態になる可能性が高いと聞いています。現在も意識は戻っていません。》
視界が、ゆっくり歪む。
画面を一度閉じて、
もう一度、開く。
書いてあることは、変わらない。
《柊の友人たちに状況を伝えるため、本人のLINEを使って連絡をしています。その中で、倒れた日の夜に、あなたに「たすけて」と送っているのを見ました。》
呼吸が、浅くなる。
《なぜ、助けなかったんですか?既読がついていました。気づいていたんですよね。正直に言って、友人として、許せません。その場に行けなかったとしても、救急に連絡することはできたはずです。何もしない、という選択はなかったと思います。》
言葉が、胸に落ちる前に、
身体の方が先に反応した。
耳鳴りがする。
手が、細かく震え出す。
思考が、追いつかない。
でも、次の瞬間、ばらばらだった記憶が、
一気につながった。
ソファで感じた、肩の細さ。
立ち上がったとき、眉間を押さえた仕草。
「寝不足でさ」「今日は早く寝るわ」
そして――
合宿の夜。
「たすけて」、あの一行。
約束。返事はいらない。形だけ送る。
全部が、同じ線の上に並ぶ。
遅れて、息が詰まった。
喉の奥が、ひくりと鳴る。
スマホを持つ手が、震えて止まらない。
どう打てばいいのか分からないまま、
画面に指を落とす。
《……知りませんでした。すみません。本当に、すみません》
短い文を送って、それ以上、何も書けなかった。
スマホを握ったまま、床に座り込む。
背中が、壁に当たる。
顔は、何も動かない。
涙だけが、勝手に落ちてくる。
声は出ない。
嗚咽もない。
ただ、分かってしまった。
あのとき、助けを求められていたこと。
そして、それを、自分が無視したこと。
おれは、どうやって償えばいいんだろう。
考えようとしても、
浮かぶのは同じ場面ばかりだった。
あの夜、画面に残った一行。
既読をつけて、スマホを伏せた自分。
でも、その「何もしなかった」が、
いまは、はっきり形を持っている。
もし、あのとき。
もし、返事をしていたら。
もし、電話をかけていたら。
もし、誰かに知らせていたら。
どれも、いまさらだ。
取り消せるものは、何一つない。
謝ることはできる。
頭を下げることもできる。
責められることも、受け止められる。
でも、戻せるものは、ない。
答えは、
どこにもなかった。
