朝、部屋を出ると、廊下はいつも通り静かだった。
寝ぼけた頭で鍵をかけ、階段の方へ向かう。
三〇三号室の前を通るとき、特に意識したわけじゃないのに、一瞬だけ足取りが緩んだ。
ドアは閉まっている。
それだけだ。
講義に向かいながら、そのことを考えるでもなく、
頭はすぐに今日の予定へ切り替わった。
午前の講義を終えて、昼休み。
学食で席を探していると、向こうの方に見慣れた後ろ姿があった。
柊先輩だ。
一人で座っていて、スマホを見ている。
いつも通りの光景だった。
声をかけようかと思って、やめる。
理由は特にない。
トレーを持ったまま別の席に向かい、
食べ始めてから、ふと視線を上げる。
柊先輩は、まだ同じ姿勢のままだった。
食べている様子はない。
忙しいのかな、と思って、それで終わりにした。
午後は実習が長引き、身体を動かす時間が多かった。
集中していると、余計なことを考えずに済む。
夕方、寮に戻る。
共同リビングの明かりがついていて、テレビの音が漏れていた。
中に入ると、
柊先輩がソファに座っていた。
画面はついているのに、
見ている感じではない。
「おつかれ」
先に声をかけられる。
「ただいまです」
それだけで、
いつもと変わらないやり取りだった。
そのままソファの方へ行くと、
柊先輩が少しだけ身体の位置をずらした。
その分だけ、隣との間にひとり分の空間ができる。
ソファに腰を下す。
その拍子に、ソファの上に置かれた柊先輩のスマホに指が触れて、思わず手を引っ込めた。
一瞬点いた画面は、そのままアプリの並んだ画面で、
ロック画面を挟む様子はなかった。
無防備だな、と思う。
でも、それが妙に柊先輩らしい気もした。
そのまま視線を戻したとき、
柊先輩の肩の線が、少し細くなったように感じた。
前は、こんなふうに思ったことはなかった。
いろんな感情が混ざっていて、そういうところまで、見えていなかっただけなのかもしれない。
「今日はバイトないんですか」
「今日は休み」
短い返事。
「珍しいですね」
「たまにはな」
会話は、そこで終わった。
気まずさはない。 ただ、テレビの音を、二人とも聞いていなかった。
しばらくして、柊先輩が立ち上がる。
「先、戻る」
「はい」
数歩進んだところで、柊先輩が足を止めた。
眉間を指で押さえて、そのまま、少しの間立ち尽くす。立ちくらみがきたときみたいな、あいまいな間。
「……先輩?」
思ったより、声が早く出た。
柊先輩はすぐに手を下ろして、こちらを見る。
表情はほとんど変わらないまま、声だけが少し柔らかくなった。
「最近、寝不足でさ、ちょっと疲れてるだけ」
そう言って、穏やかな笑い方をする。
気遣わせないための笑顔だと、分かるくらいには、やさしかった。
「今日は、早く寝るわ」
「……無理しないでください」
「してねーよ」
柊先輩はそのまま歩き出し、
三〇三号室のドアの前で振り返らずに手を上げた。
その背中を見送りながら、
もう少し、何か言えばよかったのかもしれないと思う。
でも、何を言えばいいのかは、分からなかった。
部屋に戻って、シャワーを浴びる。
湯気の中で、柊先輩のことを思い返す。
学食でひとり時間を過ごしていたこと。
昼飯を食べていなかったこと。
早く部屋に戻ったこと。
どれも、理由は簡単につく。
疲れていたんだろう。
忙しかったんだろう。
そうやって、全部まとめて片づける。
ベッドに腰を下ろし、スマホを置く。
誰かに連絡するほどの用事はない。
電気を消して、目を閉じる。それで、この日は終わった。
寝ぼけた頭で鍵をかけ、階段の方へ向かう。
三〇三号室の前を通るとき、特に意識したわけじゃないのに、一瞬だけ足取りが緩んだ。
ドアは閉まっている。
それだけだ。
講義に向かいながら、そのことを考えるでもなく、
頭はすぐに今日の予定へ切り替わった。
午前の講義を終えて、昼休み。
学食で席を探していると、向こうの方に見慣れた後ろ姿があった。
柊先輩だ。
一人で座っていて、スマホを見ている。
いつも通りの光景だった。
声をかけようかと思って、やめる。
理由は特にない。
トレーを持ったまま別の席に向かい、
食べ始めてから、ふと視線を上げる。
柊先輩は、まだ同じ姿勢のままだった。
食べている様子はない。
忙しいのかな、と思って、それで終わりにした。
午後は実習が長引き、身体を動かす時間が多かった。
集中していると、余計なことを考えずに済む。
夕方、寮に戻る。
共同リビングの明かりがついていて、テレビの音が漏れていた。
中に入ると、
柊先輩がソファに座っていた。
画面はついているのに、
見ている感じではない。
「おつかれ」
先に声をかけられる。
「ただいまです」
それだけで、
いつもと変わらないやり取りだった。
そのままソファの方へ行くと、
柊先輩が少しだけ身体の位置をずらした。
その分だけ、隣との間にひとり分の空間ができる。
ソファに腰を下す。
その拍子に、ソファの上に置かれた柊先輩のスマホに指が触れて、思わず手を引っ込めた。
一瞬点いた画面は、そのままアプリの並んだ画面で、
ロック画面を挟む様子はなかった。
無防備だな、と思う。
でも、それが妙に柊先輩らしい気もした。
そのまま視線を戻したとき、
柊先輩の肩の線が、少し細くなったように感じた。
前は、こんなふうに思ったことはなかった。
いろんな感情が混ざっていて、そういうところまで、見えていなかっただけなのかもしれない。
「今日はバイトないんですか」
「今日は休み」
短い返事。
「珍しいですね」
「たまにはな」
会話は、そこで終わった。
気まずさはない。 ただ、テレビの音を、二人とも聞いていなかった。
しばらくして、柊先輩が立ち上がる。
「先、戻る」
「はい」
数歩進んだところで、柊先輩が足を止めた。
眉間を指で押さえて、そのまま、少しの間立ち尽くす。立ちくらみがきたときみたいな、あいまいな間。
「……先輩?」
思ったより、声が早く出た。
柊先輩はすぐに手を下ろして、こちらを見る。
表情はほとんど変わらないまま、声だけが少し柔らかくなった。
「最近、寝不足でさ、ちょっと疲れてるだけ」
そう言って、穏やかな笑い方をする。
気遣わせないための笑顔だと、分かるくらいには、やさしかった。
「今日は、早く寝るわ」
「……無理しないでください」
「してねーよ」
柊先輩はそのまま歩き出し、
三〇三号室のドアの前で振り返らずに手を上げた。
その背中を見送りながら、
もう少し、何か言えばよかったのかもしれないと思う。
でも、何を言えばいいのかは、分からなかった。
部屋に戻って、シャワーを浴びる。
湯気の中で、柊先輩のことを思い返す。
学食でひとり時間を過ごしていたこと。
昼飯を食べていなかったこと。
早く部屋に戻ったこと。
どれも、理由は簡単につく。
疲れていたんだろう。
忙しかったんだろう。
そうやって、全部まとめて片づける。
ベッドに腰を下ろし、スマホを置く。
誰かに連絡するほどの用事はない。
電気を消して、目を閉じる。それで、この日は終わった。
