柊の花に触れずに、恋をした。

昨夜のことが、頭から離れなかった。
布団に入っても、目を閉じても、あの距離と声が何度も戻ってくる。

「本音だから」

言い切るみたいな言い方だった。
視線は合わなかったのに、逃げ場がない感じだけが残った。

朝になっても、その感じは消えなかった。
廊下ですれ違っても、キャンパスで顔を見かけても、
柊先輩はいつもどおりだった。

挨拶は短く、態度も変わらない。
特別に近づいてくるわけでも、避けるわけでもない。

――じゃあ、あれは何だったんだ。

考えないようにしても、意識だけが先に向いてしまう。視線を探して、距離を測って、勝手に落ち着かなくなる。

おれだけが引きずっている気がして、
それが一番、みっともなかった。

夜になって、共同リビングに向かう。
扉の前で、一度だけ呼吸を整えた。

中から、缶の音と笑い声が聞こえてくる。
ドアノブに手をかけて、一拍置いてから中に入った。

下田先輩と初瀬先輩がテーブルを占領していて、
その少し離れたところに、柊先輩が座っていた。

おれが入ると、下田先輩が軽く手を上げる。

「井ノ原も来たか」
「おつかれさまです」

冷蔵庫から飲み物を取って、空いている椅子に腰を下ろす。自然と、柊先輩の方を見る。

目が合う。
逸らされない。
それだけで、胸の奥が少しだけざわつく。

話題はどうでもいいことばかりだった。
講義の愚痴、サークルの噂、寮の細かい話。

初瀬先輩が、缶を置いた。

「なあ、ゲームしない?」
「またそれか」

下田先輩が笑う。

「負けたやつ、罰ゲームな」
「どんな?」
「同フロアの誰かにLINE」

初瀬先輩が、楽しそうに続ける。

「意味深なやつ、“ちょっと困っててさ”とか」

その言葉に、胸の奥が引っかかる。
困ってる、という言葉を、そんなふうに使うのが。

柊先輩が、即座に言った。

「俺はやらない」

迷いのない声だった。

「時間の無駄だろ」

下田先輩が肩をすくめる。

「はいはい、柊はそうだよな」
「ノリ悪いって」
「悪くていい」

柊先輩は、それ以上広げない。
話を終わらせるための拒否だった。
初瀬先輩が笑いながら言う。

「でもさ、次は逃げんなよ、今度は絶対な」

冗談めいた口調だけど、しつこいのは本当だ。

柊先輩は返事をしなかった。
缶を一口飲んで、視線を落とす。

結局、その夜はゲーム自体が始まらず、
自然と解散の流れになった。

照明を落として、廊下に出る。
下田先輩と初瀬先輩は先に行った。

「じゃーな、次は覚悟しとけよー」

声が遠ざかる。
廊下には、おれと柊先輩だけが残った。
足音が、妙に揃う。

「……あの二人、ほんとしつこいですね」

柊先輩が、小さく息を吐く。

「ああ、次は逃げられないかもな」

冗談みたいな言い方だった。
でも、完全に笑ってはいない。

「先輩、ああいうの本当に嫌いなんですね」
「嫌い、困ってもないのに、困ってるって送るの、信じる側の時間を使う」

淡々としているのに、重い。

「本当に困ったときに、冗談だと思われたら、終わりだろ」

三〇三号室と三〇四号室が見えてくる。
おれは、少しだけ歩幅を緩めた。

「……じゃあ」

声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「次ほんとに、ゲームに巻き込まれたら」

柊先輩が、足を止める。

「同フロアの誰かじゃなくて俺たちで送り合えばいいんじゃないですか」
「……それ、何の意味がある」
「誰にも迷惑をかけずにあのゲームから逃げられます!」

すぐに答えた。

「形だけ送る、返事はいらない、でどうですか?」

ほんの一瞬、沈黙。

「……まあ」

柊先輩が小さく言う。

「それなら、誰かを巻き込まなくて済むな」
「はい!」
「送るのは、そのときだけだぞ」
「分かってます!」

短いやり取り。
それで、話は終わった。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

それぞれのドアが閉まる。

部屋に戻り、鍵をかける。
ベッドに腰を下ろして、スマホを手に取る。

柊先輩の名前は、そこにある。
でも、今は送らない。

送るのは、ゲームのときだけ。
困ってるふりをするときだけ。

そう決めたことが、
なぜか胸の奥に、重く残った。