柊の花に触れずに、恋をした。

旅行から戻って、寮の廊下はすぐに元の顔を取り戻した。洗剤の匂い、換気扇の低い唸り、どこかの部屋から漏れるテレビの音。
潮の気配は、もうどこにも残っていない。

当たり前だ。
非日常は、終われば簡単に剥がれる。

剥がれなかったのは、気持ちの方だった。
三〇三号室の前では、歩き方がぎこちなくなる。
早く通り過ぎたいのに、無意識に足が止まりそうになる。

講義に出て、サークルに顔を出して、部屋に戻る。
生活の形は変わらない。変わっているのは、ふとした瞬間に柊先輩のことが浮かぶ回数だった。

――お前みたいなやつ、好きだ。

その言葉を思い出すたび、胸の奥が一拍遅れてざわつく。冗談でも、勢いでもなかったことは、分かっている。だからこそ、どう受け取ればいいのか分からないまま、残っている。

夕方、共同リビングに寄ると、初瀬先輩と下田先輩が先にいた。ソファにだらけた姿と、テーブルに肘をついた姿。いつもの組み合わせだ。

「お、井ノ原」
「おつかれさまです」

会釈して冷蔵庫を開ける。
飲み物を取って戻ると、下田先輩がふと思い出したみたいに言った。

「柊、今日遅いな」

その名前が出ただけで、胸が小さく跳ねる。
自分でも分かるくらい、反応が早い。

「バイトじゃないですか」
「だろうな」

それで話は終わった。
終わるはずだった。

リビングのドアが開く音がして、空気が一段落ち着く。

柊先輩が入ってきた。
コンビニの袋を片手に、肩からバッグを下ろす。動作に無駄がない。

「おつかれ」

下田先輩が言い、初瀬先輩が軽く手を上げる。

柊先輩は短く頷いて、空いている席に腰を下ろした。
視線が一度だけこちらに向く。

「……まだ起きてたのか」

言い方は淡々としているのに、妙に近い言葉だった。

「はい。なんとなく」

それ以上、言えなかった。
柊先輩が袋からパンと缶コーヒーを出す。
肩が触れそうな位置に来た瞬間、あの夜の近さを思い出す。

「井ノ原、課題終わった?」

初瀬先輩が聞いてくる。

「まだです」
「じゃあやれ。俺もやる」

下田先輩が笑って立ち上がり、テーブルにノートを広げる。結局その流れで、全員が何かしら紙を開くことになった。

黙々とペンを動かす時間は、嫌いじゃない。
静けさの中に、ペンの音と、紙をめくる気配だけがある。

柊先輩は、途中で一度もスマホを触らなかった。
缶コーヒーを飲み、パンをかじり、紙の上に目を落とす。

目線の角度が、やけにまっすぐで。
真剣な横顔から、視線を外せなくなる。

しばらくして、柊先輩がペンを止めた。

「……井ノ原」

名前を呼ばれるだけで、反射的に顔が上がる。

「それ、提出用か」
「え……あ、はい」

柊先輩は立ち上がり、おれのプリントの端を指で軽く押さえた。

「内容じゃなくて、書き方の話な」

椅子を引いて近づく。

距離が縮まる。
近づいた分だけ、匂いが分かる。
洗剤と、缶コーヒーと、ほんのわずかなタバコの香り。

「段落、ここで一回切った方が読みやすい」
「……あ」
「あと、行間。詰めすぎると読む側しんどい」

専門的な指摘じゃない。
でも、的確だった。

「内容は分かんねえけど、ちゃんと書いてるのは分かる」

その言い方が、妙に胸に残った。

「……ありがとうございます」

声が、少し低くなる。
柊先輩はそれ以上覗き込まず、さっと距離を戻した。
その自然さが、さっきの近さだけを強く残す。

「お、柊、面倒見いいじゃん」

下田先輩がにやっとする。

「うるさい」

柊先輩はそれだけ言って、何もなかったみたいに席に戻った。

でも、おれの方だけが落ち着かなかった。
見られた、という感覚が残っている。
課題じゃない。おれ自身を。

夜が深くなると、初瀬先輩と下田先輩は先に立った。

「じゃ、俺ら寝るわ、おつかれ」

ドアが閉まり、リビングにはおれと柊先輩だけが残る。

急に静かになるわけじゃないのに、空気の密度が変わる。同じ部屋なのに、世界が狭くなる。

柊先輩はプリントを畳み、ノートを閉じた。
おれはまだペンを動かしているふりをして、文字を見ていない。

「……終わんねえの」
「終わります。あと少し」

嘘じゃない。
ただ、終わってほしくない気持ちが混じっているだけだ。

柊先輩は冷蔵庫を開け、水を一本取った。
キャップを開けて一口飲み、もう一本を黙ってテーブルに置く。

おれの前に。

お礼を言うのが遅れる。
水一本で、こんなふうになる自分が、少し怖い。

「……ありがとうございます」

柊先輩は頷くだけだった。
しばらく、ペンの音だけが続く。

柊先輩はソファにもたれて、天井を見ていた。
休んでいるというより、待っているみたいだった。

「……先輩」

理由もなく、名前を呼ぶ。
柊先輩がこちらを見る。

「なに?」
「……いや」

言葉が続かない。
柊先輩は、ほんの少しだけ目を細めた。

「眠いなら寝ろ」
「眠くないです」

即答だった。
柊先輩が小さく息を吐く。

「無理すんな」

あの夜と同じ言い方だった。

課題が終わり、プリントを揃える。
指先が、落ち着かない。

「終わりました」
「じゃあ戻るか」

待ってくれていたんだろうか。そんなわけない。 

並んで廊下に出る。
蛍光灯(けいこうとう)の白い光が、影をはっきり落とす。
三〇三号室と三〇四号室の前で、自然と足が止まる。
鍵を取り出すタイミングまで、同じだった。

「……井ノ原」

気まずそうな声だった。
呼ばれるのを、どこかで待っていた自分に気づいて、胸の奥が騒がしくなる。

「はい」

返事は早かった。
隠したつもりでも、少しだけ声が明るい。

柊先輩は一度、廊下の奥に視線をやってから、こちらを向く。

「旅行で言ったやつなんだけど」

頭出しだけで、何の話か分かるほど、器用じゃない。

「……どれですか」

真剣に聞き返すと、柊先輩は一瞬だけ眉を寄せた。

「ほら、夜に」
「夜?」

全然違う場面が浮かぶ。

「タバコのことですか?」

言った瞬間、違うと分かった。

「いや、そうじゃなくて」

柊先輩の声が、少しだけ低くなる。

「……あれだ」

言い(よど)む。

「お前みたいなやつ、好きだって」

空気が止まる。間があった。
その沈黙に耐えきれなくて、先に口を開く。

「からかってたんですよね」

笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。ほぼ同時に、声が重なる。

「本音だから」

被った声。
近い距離で、低く落とされた言葉。

視線は合わない。
それが、余計に本気だと分かる。

「……それって」

続きが出てこない。
“好き”が、どの種類なのか分からない。
聞くのも、怖い。

「じゃあな、早く寝ろよ」

そう言って、柊先輩は視線を落とし、鍵を差し込んだ。
回す動きが少し早くて、ドアを開けると、振り返らないまま中へ入った。

取り残されたみたいに、廊下の白い光の下に立ち尽くす。

部屋に入っても、すぐに電気をつけられなかった。
壁にもたれて、息を整える。

体が熱い。これまでにないくらい心臓が動いている。
視線が合わなかったことも、距離が近かったことも、
どれも、ちゃんとした理由が見つからないままだ。

ベッドに腰を下ろして、スマホを見る。
何も来ていない。

それでいいはずなのに、
期待していた自分に気づいて、画面を伏せた。

目を閉じると、あの夜よりも、今夜の方が眠りづらかった。名前はない。でも、おれはもう、柊先輩を「遠い先輩」とは呼べなくなっていた。