春は、いつも音から始まる。新しい場所に立つと、だいたいそうだ。
引っ越し業者の台車がアスファルトを擦る低い音。段ボールが重なってぶつかる鈍い響き。
遠くで誰かが名前を呼び合う声。それらが混ざり合って、大学のキャンパスに薄く広がっている。
大学のキャンパスは国立大学らしく、構内は過剰に整えられてはいない。派手な装飾も、歓迎の横断幕もない。
ただ、長年ここに人が出入りしてきた痕跡だけが、歩道の端や建物の壁に静かに残っている。
その敷地の端に、大学寮があった。
ここが、今日から自分の場所になる。
大学寮の別館、三〇四号室。
ドアの前に立ち、紙に書かれた番号を確認する。
あっていると分かっているのに、もう一度だけ確かめてから、鍵を差し込んだ。金属が擦れる乾いた音がして、ドアが開く。
六畳ほどの部屋だった。
ベッドと机、古さの残る棚。窓は南向きで、午後の光が白い壁に斜めに落ちている。
新品のシーツの匂いに、長く使われてきた木材の匂いが混ざっていた。
誰かの生活が、何層にも重なって残った匂いだ。
「……大学生、か」
思わず漏れた声は、すぐに部屋の中に吸い込まれた。
ひとり暮らしではない。実家でもない。大学の寮。
自分の居場所が、少しだけずれた場所に移ったような感覚だ。
さっき部屋に運び込んだ段ボールの一つに、黒いマジックで「コーヒー」と書いてあるのが目に留まった。
母さんの字だ。特にコーヒーが飲みたい訳ではなかったが、そのダンボールを開け、インスタントのスティックと小さなマグカップを取り出す。共同の台所を使わなくても、部屋で飲めるようにと、母さんが考えたのだろう。
そんな母さんの気遣いがありがたい反面、どこか子ども扱いされているような恥ずかしさもあった。
無意識に視線を落としたところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
《着いた?》
母さんからのメッセージだった。
ベッドに腰を下ろし、少し考えてから返信する。
《着いた。今、部屋》
すぐに既読がつき、間を置くことなく返事が来る。
《無理しないでね。困ったらすぐ連絡して》
いつも通りの言葉。
優しいのに、その優しさが今日は少しだけ重く感じる。
自分がここに来られたのは、母さんが一人で支えてきたからだ。
母さんの生活に空いたスペースのことを思うと、胸の奥が少しきゅっと縮む。
それ以上考えないように、スマートフォンをそっと伏せた。
部屋の静けさが、さっきより少しだけはっきりと耳に残る。
その静けさが、ふっと途切れた。笑い声、足音、ドアの開閉音。
知らない生活の気配が、薄い壁を通して流れ込んでくる。
香水の匂い、洗剤の匂い、誰かの緊張した声。
寮という場所は、個人の境界が思ったより曖昧だ。
ベッドの端に座り、しばらく何もせずに部屋を見回した。
まだ何も置かれていない机と、壁際に積んだ段ボール。
自分の生活が、これからここに重なっていくのだと思うと、落ち着かない気持ちと一緒に、わずかな実感が湧いてくる。
本当は、もう少し部屋にいたかった。
けれど、時計を見ると、そうもいかない。
今日は入寮の手続きとオリエンテーションが残っている。
夜には、新入生歓迎会もあるらしい。
歓迎会。
大学生らしい響きだ。
自分は、こういう場所が得意なのか、それとも苦手なのか。まだ分からない。
高校までは、クラスという枠が勝手に関係を作ってくれた。大学では違う。動かなければ、何も始まらない。
鏡の前で髪を整え、ジャケットを羽織る。
母さんに「少し大人に見えるね」と言われた服だ。
鏡の中に映る姿は、心なしかいつもより背筋が伸びて見えた。
廊下に出ると、空気が一気に人のものになる。
段ボールを抱えた新入生、親と話す学生、スマホを見ながら笑う誰か。
すれ違いざまに軽く会釈をすると、相手も同じように返してくる。
そのやり取り一つ一つが、まだぎこちない。
階段を下りる途中、壁に貼られた寮内ルールが目に入った。
喫煙は指定場所で。夜十時以降は静かに。困ったことがあれば寮務室へ。
ここは、生活の場なのだと改めて思う。大学が始まる前に、もう生活は始まっている。
寮の外に出ると、春の匂いが、さっきよりはっきりと鼻に届いた。
新しい土の匂いと、芽吹き始めた草の匂い。キャンパスの端に並ぶ桜は、まだ満開ではない。
色づき始めたばかりの枝が、風に揺れている。
「……あの」
背後から声をかけられて振り返ると、同じ寮の名札を下げた男子が立っていた。
丸い眼鏡に、少し緊張した表情。互いに、相手の名前を知らないことが、視線の揺れ方で分かる。
「同じ別館ですよね」
「え、あ、はい」
一瞬の間があってから、相手が先に名乗った。
「俺、二〇九です。今日入ったばかりで」
「おれは……三〇四です」
それだけ言ってから、一拍遅れて続ける。
「井ノ原空希です。あきって呼ばれます」
相手はほっとしたように息を吐いて、笑った。
名前が交わされたことで、ようやくこの場所に線が引かれた気がした。
二人で寮の前の道を歩きながら、今夜の歓迎会を思い浮かべる。
うまく笑えるだろうか。うまく話せるだろうか。大学生らしく、振る舞えるだろうか。
その問いの答えは、まだ出ない。
ただ、春が始まったばかりの今は、立ち止まらずに歩いてみようという気持ちだけが、確かにあった。
風が吹き、桜の枝が揺れる。
一枚の花びらが、肩に触れて、静かに地面へ落ちた。
新しい生活の始まりは、いつも軽くて、あっけない。
この時はまだ、誰かの存在が生活に入り込むなんて思ってもいなかった。
引っ越し業者の台車がアスファルトを擦る低い音。段ボールが重なってぶつかる鈍い響き。
遠くで誰かが名前を呼び合う声。それらが混ざり合って、大学のキャンパスに薄く広がっている。
大学のキャンパスは国立大学らしく、構内は過剰に整えられてはいない。派手な装飾も、歓迎の横断幕もない。
ただ、長年ここに人が出入りしてきた痕跡だけが、歩道の端や建物の壁に静かに残っている。
その敷地の端に、大学寮があった。
ここが、今日から自分の場所になる。
大学寮の別館、三〇四号室。
ドアの前に立ち、紙に書かれた番号を確認する。
あっていると分かっているのに、もう一度だけ確かめてから、鍵を差し込んだ。金属が擦れる乾いた音がして、ドアが開く。
六畳ほどの部屋だった。
ベッドと机、古さの残る棚。窓は南向きで、午後の光が白い壁に斜めに落ちている。
新品のシーツの匂いに、長く使われてきた木材の匂いが混ざっていた。
誰かの生活が、何層にも重なって残った匂いだ。
「……大学生、か」
思わず漏れた声は、すぐに部屋の中に吸い込まれた。
ひとり暮らしではない。実家でもない。大学の寮。
自分の居場所が、少しだけずれた場所に移ったような感覚だ。
さっき部屋に運び込んだ段ボールの一つに、黒いマジックで「コーヒー」と書いてあるのが目に留まった。
母さんの字だ。特にコーヒーが飲みたい訳ではなかったが、そのダンボールを開け、インスタントのスティックと小さなマグカップを取り出す。共同の台所を使わなくても、部屋で飲めるようにと、母さんが考えたのだろう。
そんな母さんの気遣いがありがたい反面、どこか子ども扱いされているような恥ずかしさもあった。
無意識に視線を落としたところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
《着いた?》
母さんからのメッセージだった。
ベッドに腰を下ろし、少し考えてから返信する。
《着いた。今、部屋》
すぐに既読がつき、間を置くことなく返事が来る。
《無理しないでね。困ったらすぐ連絡して》
いつも通りの言葉。
優しいのに、その優しさが今日は少しだけ重く感じる。
自分がここに来られたのは、母さんが一人で支えてきたからだ。
母さんの生活に空いたスペースのことを思うと、胸の奥が少しきゅっと縮む。
それ以上考えないように、スマートフォンをそっと伏せた。
部屋の静けさが、さっきより少しだけはっきりと耳に残る。
その静けさが、ふっと途切れた。笑い声、足音、ドアの開閉音。
知らない生活の気配が、薄い壁を通して流れ込んでくる。
香水の匂い、洗剤の匂い、誰かの緊張した声。
寮という場所は、個人の境界が思ったより曖昧だ。
ベッドの端に座り、しばらく何もせずに部屋を見回した。
まだ何も置かれていない机と、壁際に積んだ段ボール。
自分の生活が、これからここに重なっていくのだと思うと、落ち着かない気持ちと一緒に、わずかな実感が湧いてくる。
本当は、もう少し部屋にいたかった。
けれど、時計を見ると、そうもいかない。
今日は入寮の手続きとオリエンテーションが残っている。
夜には、新入生歓迎会もあるらしい。
歓迎会。
大学生らしい響きだ。
自分は、こういう場所が得意なのか、それとも苦手なのか。まだ分からない。
高校までは、クラスという枠が勝手に関係を作ってくれた。大学では違う。動かなければ、何も始まらない。
鏡の前で髪を整え、ジャケットを羽織る。
母さんに「少し大人に見えるね」と言われた服だ。
鏡の中に映る姿は、心なしかいつもより背筋が伸びて見えた。
廊下に出ると、空気が一気に人のものになる。
段ボールを抱えた新入生、親と話す学生、スマホを見ながら笑う誰か。
すれ違いざまに軽く会釈をすると、相手も同じように返してくる。
そのやり取り一つ一つが、まだぎこちない。
階段を下りる途中、壁に貼られた寮内ルールが目に入った。
喫煙は指定場所で。夜十時以降は静かに。困ったことがあれば寮務室へ。
ここは、生活の場なのだと改めて思う。大学が始まる前に、もう生活は始まっている。
寮の外に出ると、春の匂いが、さっきよりはっきりと鼻に届いた。
新しい土の匂いと、芽吹き始めた草の匂い。キャンパスの端に並ぶ桜は、まだ満開ではない。
色づき始めたばかりの枝が、風に揺れている。
「……あの」
背後から声をかけられて振り返ると、同じ寮の名札を下げた男子が立っていた。
丸い眼鏡に、少し緊張した表情。互いに、相手の名前を知らないことが、視線の揺れ方で分かる。
「同じ別館ですよね」
「え、あ、はい」
一瞬の間があってから、相手が先に名乗った。
「俺、二〇九です。今日入ったばかりで」
「おれは……三〇四です」
それだけ言ってから、一拍遅れて続ける。
「井ノ原空希です。あきって呼ばれます」
相手はほっとしたように息を吐いて、笑った。
名前が交わされたことで、ようやくこの場所に線が引かれた気がした。
二人で寮の前の道を歩きながら、今夜の歓迎会を思い浮かべる。
うまく笑えるだろうか。うまく話せるだろうか。大学生らしく、振る舞えるだろうか。
その問いの答えは、まだ出ない。
ただ、春が始まったばかりの今は、立ち止まらずに歩いてみようという気持ちだけが、確かにあった。
風が吹き、桜の枝が揺れる。
一枚の花びらが、肩に触れて、静かに地面へ落ちた。
新しい生活の始まりは、いつも軽くて、あっけない。
この時はまだ、誰かの存在が生活に入り込むなんて思ってもいなかった。
