十八歳の誕生日の朝だった。
目覚ましが鳴るより早く目が覚めてしまって、天井を見つめたまま、しばらく呆けていた。
今日から私はまたひとつ大人になる。
その事実が、胸の奥に小さく、でも確かな重みとして沈んでいる。
机の上には昨日の内に母から渡された誕生日プレゼントの腕時計が置いてあった。
「前に買ってあげたのは随分古いでしょ。
大学に入ってからも着けられそうな、大人っぽいやつにしたの。
受験もこれからさらに本腰入れないとね」
そう言う母に、「うん」とだけ返して簡単に笑った昨夜を思い出す。
数年前両親が離婚してからは、各自の誕生日だってお祝いのパーティーも、豪華な外食の予定もない。
それが不満なわけじゃない。
専業主婦だった母が急に社会復帰して、忙しくして稼いでくれることで、
私も何不自由なく生活させてもらってる。
思えば、3人家族だった中学1年まで、
水泳にバレエにピアノに習字にと忙しなく母の勧めで幼い頃から通っていた習い事を
母と2人暮らしを始めると同時に学習塾だけと決められ、
「とにかく良い大学、良い企業に入れるように」と酸っぱく言われ流されるままの日々も
もうこれで5年目になる。
(私は、このまま何者にもならないまま、歳を重ねるのかな)
胸の奥でずっと同じ言葉がぐるぐると回っていた。
成績は悪くない。
模試の順位も安定しているし。
でもそれはやりたいことがあるからじゃなく
母に言われたから。
それだけで、ここまで来てしまった。
カーテンの隙間から
まだ青みの強い空が見える。
朝というには早すぎる時間。
起きている人はまだほとんどいないような時間。
気がついたら、私はベッドを抜け出していた。
クローゼットから適当に選んだスカートとスニーカー。
鍵をそっと開け、音を立てないように玄関を出る。
こんな時間に外へ出るなんて、初めてだった。
春先のひんやりとした朝の空気が頬に触れる。
胸いっぱいに息を吸うと、少しだけ頭が冴えた。
(なんでだろう、なんだか、逃げたい)
誰かからじゃない。
今の自分の置かれている場所から。
考えを振り払うように駆け出した足は
自宅から15分ほどの
川のほうへ向かっていた。
住宅街を抜け、街灯の間隔が広くなる。
川にかかる橋を渡り、草の匂いが混じりはじめる。
河川敷に着いたとき、東の空がわずかに薄紫に色づいていた。
まるでいつも生きている世界とは別のもののようなその風景に心が動いて
私は土手を下りて、靴を脱いだ。
冷たい草の感触に、思わず声が漏れる。
スカートの裾を膝まで持ち上げ、川の縁まで近づく。
裸足で水に足を入れた瞬間、思った以上の冷たさに息をのんだ。
でも、不思議と引き返したいとは思わなかった。
(この前、テレビで見たCMみたいに……)
ふと、脳裏に映像がよみがえる。
裸足の女の人が、朝焼けの海を走っていくシーン。
何にも縛られていないみたいで、
どこへでも行けそうで。
(私も、あんなふうに——)
考えるより先に、体が動いた。
水しぶきを上げながら、足を踏み出す。
習っていたけど、上手ねって褒められたけど、
賞や主役の座は手にできないまま辞めたバレエの動きのように
ただ、思いつくままに脚を軽くあげてくるりと回る。
スカートが揺れて、冷たい水が跳ねる。
息が上がって、そして、少し笑ってしまった。
変なことをしている自覚はあった。
それでも、この瞬間だけは、何も背負っていない気がして。
——がさり。
不意に、風が吹き上げ草音がなった。
背後から私以外の足音。
心臓が跳ねる。
振り向いた先には同世代くらいの男子が立っていて、
ギターケースを背負い少し驚いたような顔で、こちらを見ている。
——え。
声が出なかった。
彼は一瞬視線を逸らし、気まずそうに口を開いた。
「……あ、ごめんなさい。びっくりさせて」
透き通った、やわらかい声。
「あっちから見えて、すごいなって思って」
何が、とは言わなかった。
でもその一言だけで胸の奥が一気に熱くなる。
恥ずかしさと、恐怖と、後悔が一気に押し寄せた。
私は慌てて岸に戻り、濡れているのも気にせず靴を履く。
「っ……!!」
顔を上げられないまま、彼を避けるようにその場を離れた。
(最悪……!)
頭の中が真っ白になる。
絶対"変なやつがいる"って、思われた——。
走りながら、ふと、さっきの男の子の横顔が浮かぶ。
栗色のさらさらとした髪。
ギターケース。
(……もしかして、同じクラス、の――?)
考えかけたところで、私は首を振った。
そんなはずない。
他人の空似、ただの偶然だ。
そう自分に言い聞かせながら、朝焼けの中を家へと戻った。
家に戻った頃には、すっかり朝になっていた。
玄関で靴を脱ぎながら、心臓の音がようやく落ち着いてきたのを感じる。
さっきまでの出来事が夢だったみたいに遠くなる。
(……何やってたんだろ、私)
洗面所で顔を洗うと、鏡の中の私はいつも通りだった。
ローポニーテール、眠そうな目。
成績くらいしか取り柄のない
真面目で、平凡な——井出有羽子。
河川敷で踊っていた私はどこにもいない。
濡れたまま靴を履いた足が気持ち悪くて、
シャワーで軽く流してから靴は自分の部屋のベランダに干した。
朝食の時間になって、慌ただしく仕事の支度を進める母が
私の分も焼いてくれたトーストを皿に乗せる。
「有羽子、昨日も伝えたけど今日からしばらく私帰り遅いから、夕飯先に食べててね」
「うん、わかった。パンありがとう」
職場の新人の教育係になったらしい母は
しばらく定時退勤は難しそうとのことで、
昨日の内に誕生日前日のプチお祝いをしてもらった。
トーストをコーヒーで流し込んで、リビングを離れた母。
この様子だと明け方家を抜け出したことには気づかれていないみたい。
心のなかで安堵の息をはく。
生まれて初めての早朝外出なんて、悪いことをしたかのようにそわそわしてしまう。
家を出てからも朝の光景がチラついて落ち着かなかった。
ギターケース。
あの男の子の横顔。
やっぱり見たことある気がする。
でも、はっきりとした確証は持てない。
明るく変わりかけた空と
風になびいていた柔らかそうな髪。
絵になるほどぴったりで、
やたらと鮮明に思い出せてしまう。
気が進まない足取りで教室に入ると、
いつも通りのざわめきが耳に飛び込んでくる。
笑い声、椅子を引く音、チャイム前の中途半端な空気。
——そこで私は一瞬、足を止めた。
窓際の席。
数人に囲まれて立っている男の子がいた。
明るい髪色に、薄めの瞳の色。
柔らかそうな雰囲気。
未だ鮮明なままの記憶と合致する。
口角が、ひくりと引きつる。
(……やっぱり、まさか)
でも、その人は笑いながら誰かと話していて、
こちらを見る気配はなかった。
気のせい。
きっと、気のせいだ。
そう自分に言い聞かせて席につく。
授業が始まっても、ノートを取りながら、何度も視線を"彼"に向けた。
でも、こちらを気にする様子はない。
……あんなに変なところを見られたのに。
昼休みを過ぎても
本人から話しかけられることも、
周りで噂されることもない。
(よかったぁ。
今朝のことは、私の中だけの出来事ってことにしよう)
そう思って放課後、もう帰ろうというとき
一人中庭のベンチに
腰掛ける彼の姿を見つけてしまった。
無言で、何事もないように、通り過ぎようとして
思わず足が止まる。
ギターの音。
凛とした静かな朝とは違って、
夕方の空気にすっと馴染むような、やさしい旋律。
ギターケースを足元に置いて、
弦を鳴らしていた彼、詩谷瑠依くんと
思わず目が合ってしまった。
一瞬の沈黙のあと、
彼は少し驚いたように首を傾けて——
「……?」
さらりと揺れた髪で、全部が思い出される。
朝焼け。
水音。
草花の匂い。
今朝のこと。
誰にも言わないでほしいって、今なら言えるかも。
「あ、あの……」
声を出した瞬間だった。
「瑠依くーん! バンド練、そろそろ始めよー!」
少し離れたところから、明るい声が飛んでくる。
振り向くと、見覚えのない男子がこちらに手を振っていた。
明るい茶髪をふわふわさせながら、無邪気に笑っている。
「……あ、うん。今行く」
詩谷くんがそう答えて、ギターケースに手を伸ばす。
(うわ、タイミング悪……!)
私が声をかけたなんて
なかったことになってるような空気に、
私は気づくと踵を返していた。
「あれ、井出さ――」
背後で声をかけられた気がしたけれど、
振り返る勇気はなかった。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに浮かぶのは、
夕方の中庭と、詩谷くんの驚いた顔。
時計を見ると、まだ空は暗い。
昨日と同じくらいの時間。
気づけば私は、また家を抜け出していた。
明け方の河川敷。
昨日と同じ場所。
——いる。
川のそばに立つ、ひとつの影。
腕に抱えたギターを覗き込む背中に、心臓が大きく跳ねた。
「あ、あの……!」
思い切って声をかける。
詩谷くんが振り返る。
逆光。
昇りかけた朝日が、彼の輪郭を淡く縁取っていた。
視線が絡んで、逃げ場がなくなる。
「昨日の……ここでのこと、誰にも言わないでください!」
一息に言ったせいで胸が苦しい。
詩谷くんは目を丸くして、しばらく固まったまま——
「……えっ」
次の瞬間、妙に納得したような表情で言った。
「やっぱり、昨日の……井出さんだったのか」
——え。
頭が、真っ白になる。
……『やっぱり』?
もしかして、私だって気づかれていなかった?
じわじわと顔から血の気が引いていく。
詩谷くんは困ったように笑って、頭をかいた。
「ちょっと似てるなとは思ったけど……
制服姿とはかなり雰囲気が違うし、
まさか本人だとは思わなくて」
朝日がさらに高くなる。
逆光の中で、彼の表情ははっきり見えない。
でも声はやさしかった。
逃げ場のない距離で、私はただ立ち尽くす。
「あ、嘘……私、てっきり絶対変なやつって思われたんだって、思って――」
「それで昨日放課後なにか話しかけようとしてくれてた?」
うわ、恥ずかしい、それもバレてたんだ。
恥ずかしさと驚きとで口があわあわしてしまいうまく喋れない。
「変とか思わないし、誰にも言わないから、安心して」
まさに聖人ってこの人のことを言うのかな。
眩しさと相まって、彼の人気者たる所以に納得して目を細める。
「まあでもこんな時間に、なんでこんなところに――ってびっくりしたけど、俺も人のこといえないしな」
確かに、と思ってしまったのが顔に出たんだろう。
「俺、ここから見る、朝焼けが好きなんだ。
この空気を独り占めして、歌うのが日課、的な」
朝焼けに恍惚とした目線を送ったあと、ハッとして、恥ずかしそうに俯いた。
詩谷くんがこの時ここにいる理由がさらっと明かされてしまい、
要するに私ってポッと出の邪魔者では……?
「ご、ごめんなさい、私そんな時間を邪魔しちゃって……!」
「えっ、違う違う!正直昨日の朝は井出さんってわかんなくて、
ほんと一瞬だったし、
なんか俺妖精のまぼろしでも見たのかって思って――!
って、何言ってんだ、恥ずっ!」
「ぷっ……あはっは!」
慌てて、否定する詩谷くんの
教室では見たことない様子に思わず笑ってしまう。
「……よかった、昨日は、すごく何かに囚われてそうな感じだったけど――」
そう言って目を細め優しく微笑んだ彼は
どこかの国の王子様のように眩しく儚い。
――なんて、まるで、私を"妖精"なんて言った詩谷くんのロマンチスト加減につられちゃったみたい。
らしくない考えを振り切るようにうぅんっと咳払いをして、
「私、昨日で18になったんだけど、そしたら急に"何か"に"怖く"なっちゃって。
はじめて、こんな時間に、外に出てみたんです。
別に……何に追われてるとかないのに、逃げたくなって」
真剣に耳を傾けてくれる詩谷くんと目が合う。
「何か背負ってたものをおろしたくて、でも何か掴みたくもあって、気づいたらくるくる回ってました」
あはは、と苦笑して呼吸を置くと
「……わかる、いや、正確には多分違うけど、俺も――わかるよ」
教室で明るく人気者の彼から想像つかない弱々しさがそこにあった。
すっかり朝日が登って、あたり一面明るくなる。
犬の散歩や、ジョギングする人が河川敷を通り過ぎていく。
あ、まずい、家に戻らないと。
母が起きて私がいなかったらなんて言われるか。
なんて切り出して、家路につこうか戸惑っていると
「井出さん、よかったらまたこの時間に、またここで話さない!?」
「えっ――!」
どうして急に、そんなことを。
でも今はそれに言及している時間はなさそう。
「あ、えっと、は……はい! そしたらまた明日!
――あ、でも正確には後で教室で、会うか」
パニクってわけのわからないことがごにょごにょと口を出る私に笑って
詩谷くんはなんだか楽しそうに、
「うん、また後で、教室で。
でもこのことは、誰にも言わないから安心して。
この時間の"俺と井出さん"は、また明日ね」
なんて。
——こうして。
誰にも言えない朝と、
名前のない時間が、
静かに、始まった。
