しゃれこうべ娘と呼ばれた私ですが、地本問屋の若旦那に溺愛されてるようです

 お使いの帰り道をとぼとぼと歩いていたが、ふと足を止めた。ゆらゆらとした水面を覗き込むと、そこにはぼんやりとした顔が映り込む。
 着古した小袖姿でも、水面に映るのはまだ人の形をしている。
 小袖に隠れる手足はまるで枯れ枝のようだし、不格好な眼鏡をかけた顔は青白い。みすぼらしい顔貌を鏡に映したら割れてしまうかもしれないが、ゆらゆらと揺れる川面は優しく私を受け入れてくれるようだ。

 いつでも空腹を抱えているお腹がぐうっと鳴る。
 今朝は冷や飯すら余らなかったから仕方ない。今夜は釜におこげが残っていればいいんだけど。再びお腹が鳴り、具の欠片すら残らない汁物と漬物の切れ端を齧る夕飯ですら恋しくなる。
 祖母が生きていた頃、まさかこんな惨めな思いをするようになるとは思いもしなかった。あの頃だって伯父さんや従姉妹の牡丹は、私を蔑んでいたけど、三食同じご飯を出してもらっていた。

「いっそう、脚気(かっけ)にでもなって死ねたら楽なのかな」

 いくら十八歳を迎えたといっても、こんな貧相な体では嫁の貰い手もないだろう。これからも私は死ぬまで、柳屋で下女よろしく蔑まれて暮らすに違いない。
 この川に身を投げたら、母と祖母の元へ行けるのだろうか。

 川底を覗き込むようにした時だった。

「なにをしている、お菊」

 聞きなれた低い声がして、枯れ枝のような手首を大きな手が掴んだ。仰ぎ見れば、精悍な顔立ちをした男──八雲堂の若旦那、八代賀之助さんが険しい表情で私を見下ろしていた。

「……賀之助さん、あの、これは、その」
「命を粗末に扱うな」

 返答に困っていると、賀之助さんはぶっきらぼうに低くいう。私が身投げをしようとしていたと勘違いしたのだろう。

「お使いの帰りで、少し川の流れを見ていただけです」
「誠にか?」

 切れ長の瞳が覗き込むように、私の表情をうかがう。
 死のうとしていた訳じゃない。ただほんの少し、弱った心が川の流れを求めてしまっただけだ。

「……誠にございます」

 賀之助さんから視線を逸らすように俯き、小さく頷いた。
 早く手を離してくれないかな。賀之助さんと一緒のところを牡丹に見つかりでもしたら、また意地悪をいわれるに決まっている。

 こんなところで道草を食わず、さっさと帰るんだった。
 小さなため息が零れそうになった時、またお腹がぐうっと鳴った。

「お前はいつも腹を空かせているな」
「こ、これは……今朝、寝過ごして食べ損ねたのです」
昼餉(ひるげ)はどうした」

 下女扱いされている私に、昼餉など出されるわけがない。だけど、そんなこと話せるわけもなく、苦し紛れに「忙しくて」と呟くと、賀之助さんは私の手首を掴んだまま歩き出した。

「か、賀之助さん?」
「川を見ても腹は満たされんだろう」
「……あ、あの、私そろそろ帰らないと、伯父に叱られますので」
「饅頭を食うくらいの時間はあるだろう」

 ──え、饅頭?
 聞き返す間もなく、賀之助さんは道端の饅頭売りに声をかけた。そうして、やっと私の手を離したかと思うと、湯気を立てる酒饅頭を買い求める。
 陽気な饅頭売りは、私に好機の視線を向けながら湯気を立てる蒸籠を開け、甘酒の香りを立てる饅頭を取り出した。

「お菊、受け取れ」

 四文銭を饅頭売りに渡した賀之助さんは酒饅頭を受け取らず、私に視線を向ける。饅頭売りも釣られるように私を見た。

「えっ、でも……」
「俺は甘いものが好きではない」

 だったら買わなければいいのにと、いうわけにもいくまい。きっと、私を不憫(ふびん)に思って買ってくれたのだろうことは明白だ。
 汚れた小袖に隠れた手を差し出すと、あつあつの酒饅頭がのせられた。思わず「あつっ」と声を上げると、饅頭売りが「熱いうちに食いな」と笑った。
 勧められるまま床几台(しょうぎだい)に腰を下ろし、冷えた指先を温めるほかほかの白い饅頭を見下ろした。

「さっさと食え。早く帰らないといけないのだろう?」
「……いただきます」

 意を決してふかふかした白い皮に口をつけると、甘い麹の香りがふわりと立ち上がった。
 空っぽのお腹に優しい甘みが染み渡る。

 もしも牡丹に見られたら、施しを受けて恥ずかしいって怒鳴られ、叩かれるかもしれない。だけど、久しぶりの温かい食べ物に、そんな心配事は吹き飛ばされてしまった。

 小さな酒饅頭を黙々と食べていると、賀之助さんが「美味いか?」と尋ねた。それに頷くと、彼は饅頭売りに声をかける。

「あと二つ、包んじゃくれないか?」
「……え?」

 私が驚いて目を瞬いていると、饅頭売りは「まいど」といって早々に竹の皮で酒饅頭二個を包んだ。

「夜も忙しくて食えないのだろう?」

 竹の皮で包まれた饅頭が膝の上に置かれた。

「あ、あの、賀之助さん……」
「懐にでも隠し持っておけ」
「でも、伯父に見つかったら」
「心配なら今食えばいい」

 淡々という賀之助さんは湯呑の番茶を啜ると、私をじっとみた。私が観念して饅頭を懐に入れるまで、視線をそらしてくれそうにない。

「もうすぐ七つの鐘が鳴る頃じゃないか。ぐずぐずしていていいのか?」

 空になった湯呑を下ろした賀之助さんの忠告にハッとした。
 懐に酒饅頭の竹包みを隠し、慌てて立ち上がる。

「あ、あの、ありがとうございました」
「気にするな。目の前で身投げでもされちゃ寝覚めが悪い」
「このご恩は……」

 いいかけて、はたと気づく。
 私に返せるものなんてあるだろうか。
 言葉に詰まってやせ細った指を見つめる。渡せるとしたら私自身だろうけど、この身体になんの価値があるのか。柳屋のお荷物、厄介者と蔑まれる私に、なにが……

「そのうち返してもらう」

 ぼそっと聞こえた声に、でもといいかけた時だった。七つ時を告げる鐘が鳴った。しまった。今夜はお客様が来るから夕餉(ゆうげ)の支度を早くしろといわれていたんだ。

「急ぐんだろう」
「え、あ、はい……賀之助さん、ありがとうございました」

 私を追い返すよう、ひょいひょいと手を払った賀之助さんに頭を下げる。お使いの風呂敷を抱え直して道を蹴った。
 懐の中は酒饅頭のぬくもりが残っている。その心地よさのおかげか、お腹が少し満たされたからか、重かった足取りはほんの少し軽やかになった。

 店の勝手口から中に入って炊事場に急ぐと、女中たちが忙しく動き回っていた。

「遅くなりました」

 抱えていた風呂敷を古参の女中に渡すと、これ見よがしに溜息をつかれた。
 風呂敷と交換するように、菜っ葉がのるザルを渡される。

「野菜を洗っておいで。水汲みもだよ」

 ザルを抱えてはいと頷き、井戸へと向かう。そこには、夕餉に使う大根や人参、ゴボウが置かれている。これも洗えということだ。
 袖に(たすき)をかけて、井戸に釣瓶桶(つるべおけ)を落とし、あかぎれとマメだらけの手で水を汲む。そうして、一人で黙々と野菜を洗った。台所から「野菜はまだかい!?」と怒鳴り声が聞こえ、せっせと洗った野菜を運んだ後は、水瓶を満たすため、桶を抱えてひたすら往復した。

 冷たい井戸水で指先はかじかみ、懐にしまった酒饅頭もとうに冷えてしまった。
 だけど、後でこっそりこれを食べよう。蔵の隅に行けばきっと見つかりやしない。そう思えば、ほんの少し望みがあるように思えて頑張れた。

 桶を返して水を注いでいた時だった。

「相変わらずどんくさいわね、しゃれこうべは!」

 台所に牡丹の甲高い声が響き渡った。

 空になった桶を手に下げて振り返ると、薄紅色の振袖姿をした牡丹が、台所の入り口で薄ら笑いを浮かべて立っていた。
 台所に来たとて、牡丹がなにをするわけでもない。私が泥にまみれて働いているのを見て、気分よくなりたいだけだろう。

 五年前はそれがたまらなく屈辱的で、惨めで、毎晩のように泣いていた。でも、今はどうでもいい。牡丹に歯向かったところでなにも変わらないし、涙を見せたら喜ばすだけだ。

 それに、水瓶はまだ満たされていない。
 任された仕事をこなすべく、そそくさと井戸へ向かおうとした時、牡丹は「そうそう!」とわざとらしく声を上げた。

「今夜は八雲堂の若旦那がお見えになるのよ。粗末な料理をお出しして、お父様や私に恥などかかせるんじゃないわよ!」

 牡丹の話しに思わず反応し、足を止めてしまった。
 私と視線が合った牡丹の顔が満足げに歪んだ。

「なんでも賀之助様は、お父様にお願いがあってくるそうよ。私もその席に呼ばれているわ。ふふっ、しゃれこうべは鍋底でも洗って待ってなさい。あとでたーっぷり、賀之助様のことを聞かせてあげるから!」
「わ、私は別に……」

 胸元にそっと手を寄せ、昼間顔を合わせた賀之助さんの不愛想な顔を思い出した。

「ふんっ、今日も会ってたんですってね。黙っていればバレないとでも思ってるの?」

 牡丹の声が地を這うように響いた。黒い双眸は、まるで蛇のように怪しく光っている。
 背筋を汗が伝い落ちた。
 賀之助さんと私が一緒にいるところを誰かが見たのだろう。もしかしたら、酒饅頭を食べているとことも牡丹に告げ口されたかもしれない。
 息を呑んで台所を見渡すと、奉公人たちは忙しく動きだした。

「あんたみたいな汚い、しゃれこうべ娘が賀之助様に釣り合うわけないでしょ」
「私と賀之助さんは、そんなんじゃ」
「ええ、そうよ! 賀之助様はお優しいから、惨めなあんたに施しをなさっただけ。勘違いなんてするんじゃないわよ!」

 甲高い声で喚いた牡丹は、どこか勝ち誇った顔で「それと」と話しを続けた。
 
「饅頭でお腹がいっぱいでしょう? 夕餉は抜きよ!」

 ぴしゃりと言い放った牡丹は、板の間を鳴らしながら台所を出ていった。
 誰かがため息をついて声をひそめ「面倒事は困るよ」と囁いた。それに頷く声が上がる。

 奉公人たちは、私が柳屋の姪だと知っている。祖母が生きていた頃は綺麗な着物を着ていたことも知っている。だから、あからさまな意地悪をしてこない。でも、私を庇うようなこともしない。そんなことをしたら、自分たちに矛先が向くからだ。

 この大店(おおだな)に私の味方はいない。わかっていたことなのに。
 込み上げた涙を堪えていたけど、井戸に駆け寄った頃には視界が霞んでいた。

 あんな嬉しかった懐の饅頭が、今では厄介な重みを与えてくる。こんなものと投げたい気持ちが芽生えるけど、空腹の辛さを知る私に、そんなことはできなかった。
 夕闇の中、井桁(いげた)の側に腰を下ろした。眼鏡を外し、そっと袖の端で涙を拭う。
 牡丹にこんな姿を見られたら、またなにをいわれるだろう。

 声を押し殺して泣いていると、私の足元になにか白いものがすり寄った。
 薄暗い中でもぼんやりと浮き上がるそれは、小さく「なー」と鳴いた。

「……猫?」

 すんっと鼻を鳴らすと、白い猫は二本の尻尾を揺らす。それを見て、ハッとした。慌てて眼鏡をかけると、さっき見たものは幻だといわんばかりに、尻尾は一本になった。
 白猫は変わらずに「なー」と鳴いた。

 ずいぶん毛並みがいいから、どこかの飼い猫だろうか。だけど、首に鈴や飾り紐が見当たらない。

「どこから迷い込んだの?」

 尋ねてみるも、猫と言葉が通じる筈もない。
 ふわふわの体に手を伸ばしてみると、意外なことに逃げずにすり寄ってきた。ずいぶん人慣れしているし、やっぱり飼い猫だろう。試しに抱き上げてみたが嫌がりもせず、またひと鳴きした。
 日の落ちた井桁の影で、宝石のような眼が輝いた。右が瑠璃色で左が琥珀色をしている。左右の色が違う目なんて初めて見た。もしかしたら、名のあるお武家様が飼われているのかもしれない。

「ご主人が心配しているだろうからお帰り」

 そういって地面に戻そうとした時、白猫は前足で私の胸元をふみふみと押した。地面に下ろしても、また膝に上がって胸元へと前足を伸ばす。

「……もしかして、お腹が空いてるの?」

 酒饅頭の匂いがしたのだろうか。
 猫が饅頭を食べるなんていうのは聞いたことがない。だけど、物は試しと思って包みを引っ張りだすと、白猫は嬉しそうに鳴いた。
 そうして一つ地面に転がすと、白猫は尻尾を振って饅頭に嚙り付いたではないか。

「美味しいかい?」

 人の言葉なんてわからないだろうと思いつつ尋ねると、白猫は「なー」と応える。もう一個食べるかと訊ねようとした時、勝手口から誰かがこちらを覗いた。
 慌てて残った饅頭を懐に押し込めて立ち上がり、台所へと走って戻った。

 炊事場は夕餉の用意が終わり、お膳もすっかり運ばれたようで落ち着いた空気だった。まだ私の仕事はなさそうだと思ったときだった。慌ただしい足音が聞こえてきた。

「お菊、お菊はいるかい!?」

 顔面蒼白で走り込んできたのは、古参の女中だった。

「ここにいます」
「お菊、あんたなにを仕出かしたんだい!?」
「……え?」
「八雲堂の若旦那様が、お菊を呼ぶよういわれたんだよ」
「……賀之助さんが?」
「とにかく、旦那様と牡丹お嬢様の機嫌が悪くなる前に、早く来ておくれ!」

 いわれるがまま土間から上がって足を雑巾で擦っていると、早くしろとせっつかれ、腕を引っ張り上げられた。そのまま引きずられるようにして、客間に続く縁側へと向かった。

 ひやりとした板間に膝をつき、両手を揃えて頭を下げると、女中は「お菊様をお連れしました」といった。
 こんな時ばかり、様をつけなくたっていいのに。
 おかしいやら悲しいやらで黙ったまま頭を下げていると、客間と縁側を隔てる障子が静かに開けられた。

「若旦那、お菊がなにかご迷惑をおかけしたのでしょうか?」

 伯父の低い声から不愉快さが伝わってきた。
 また叩かれるのだろうかと思うと、板の間についた指先が小刻みに震えた。

 顔を下げたままじっと身構えていると、賀之助さんは伯父の問いに返さず「お菊、そこは寒いだろう」と、私に声をかけてきた。顔を上げられずにいる私を見て、寒くて震えていると勘違いしたのだろうか。
 汚れた小袖姿で座敷に上がったりしたら、後で伯父にどんな酷い仕打ちをされることか。

「……お気遣いありがとうございます」
「俺の横へこい」
「水仕事をしていましたので、座敷を汚してしまいますから」

 ご勘弁をというと、衣擦れの音がしたかと思えば、すぐ横で縁側の板がぎしりと鳴った。
 ふわりと白檀の香りがして、釣られるように横を見れば、そこに深い藍染の羽織をまとった賀之助さんが座っていた。

「賀之助様、お足が冷えてしまいますわ!」
「牡丹、お前は黙っていなさい」

 声を上げた牡丹を、伯父の低い声が窘める。
 この時、顔を上げたら、私を忌々しく睨む牡丹と目が合っただろう。だけど私は、伯父の声に胆を冷やして身動きがとれないでいた。

「若旦那、お菊なんぞ気にすることはない。好きでそうしておるのだ。そうだな、お菊」
「……はい。私などお気になさらず、座敷へお戻りください」
「そういうことなら尚のこと、ここでいい。俺も好きにさせてもらう」

 伯父に臆することない賀之助さんが、少し私の方へと肩を寄せた。
 なにが起きているのだろう。全く理解ができずにいると、冷えた肩に温かいものがかけられ、白檀の香りに包まれた。

「賀之助様!?」

 牡丹が悲鳴のような声を上げた。

「柳屋さん、お菊をもらいたい」
「……どういう意味ですか、若旦那?」
「お菊を私の嫁として迎えたい」

 動揺する伯父に、賀之助さんは静かに告げ、その大きな手を私の手に重ねた。
 温かく大きな手にそっと触れられても、状況が全く理解できなかった。

「し、しかし、お菊は先代からよく世話をするよういわれ」
「嫁に出すのも、その世話の内ではありませんか?」
「それはそうですが……お菊は見ての通り、器量も悪く」
「なるほど。八雲堂の八代賀之助では不服、もっと格の高い嫁ぎ先をということか」
「いいえ、決して、そのようなことではなく」

 伯父が焦る声を聞くのは、いつぶりだろうか。
 矍鑠(かくしゃく)とした祖母が生きていた頃、伯父は時折、脂汗をかいて頭を下げていた。その姿が重なり、ほんの少し胸の内がすっとなる。

「嫁ぎ先が決まっていないのであれば、問題はなかろう」
「で、でも! お菊はそそっかしいですし、賀之助様のお側には相応しくありませんわ!」
「少なくとも、飾りにすらならない女よりは俺の嫁に相応しい」

 牡丹の訴えに淡々と返した賀之助さんは、私の肩に手を置いた。そうして、唐突に私を抱え上げて立ち上がった。
 牡丹が悲鳴を上げるように「賀之助様!?」と叫び、座敷に並ぶお膳がひっくり返る音がした。

 私はといえば、なにが起きたのか理解できず、目の前に迫った賀之助さんを見つめていた。胸の鼓動を速め、それまで感じていた不安や恐怖をすべて吹き飛ばして、ただただ端正な顔を見るしかできなかった。

「祝言の支度もすべてこちらで執り行う」
「し、しかし、それではうちの面子(めんつ)が……」
「お菊を嫁がせぬといったと思えば、今度は面子か」

 伯父の慌てた声に賀之助さんはふんっと鼻で笑った。

「柳屋さん、この(たな)は先代の築いたもんだ。あんたは、それに胡坐(あぐら)をかいた」

 私を抱える賀之助さんの手に少し力が込められた。

「うちも長らく世話になったから、親父は目をつぶっていた。けどな、俺は身内を守れない男を許しやしない」
「ま、待っておくれ! 金なら出す。お菊を瑞江戸(みずえど)一、いいや、東雲国一の花嫁にして嫁がせる。だから」

 お膳を払い除けた伯父は、畳に額をこすりつけんばかりに頭を下げた。

「その必要もない。あるお武家さんが、お菊との養子縁組を望んでいてな」
「なっ、なにを勝手なことを!」
「俺としても、落ちぶれた薬問屋の娘より、格の高い武家の娘を嫁にもらう方が箔がつく。そうだろう?」
「そ、そんなことをされたら、うちは……」

 弾かれるように顔を上げた伯父は真っ青で、がくがくと震えていた。
 瑞江戸の町は広いようで狭い。噂好きな町人たちが知ったら、醜聞は尾びれ背びれがついて広まるのが世の常だ。
 陰で伯父は、揶揄いをこめて「毒人参」だとか「渋珍問屋」なんて通り名で呼ばれている。それでも扱う薬の品質がいいことで取引先と続いてきた。どうやら、年貢の納め時がきたのかもしれない。

「せいぜい、取引先に頭を下げるんだな」

 賀之助さんの静かな声が響き、伯父のぎょろりとした目が私に向いた。

「おっ、お菊! すまなかった。今までのことは謝る。このとおりだ! だから、お前からも若旦那に頼んでおくれ。お前の祝言の用意はうちでやる!」
「お父様!? なにをいってるの。うちで世話した恩を忘れるような、しゃれこうべに」
「お前は黙っていろ!」

 伯父に縋りつこうとした牡丹は、勢いよく手を払われてよろめき、座敷に倒れた。その両目が大きく見開かれ、小さな口があんぐりと開かれる。
 みっともない二人の様子を見て、言葉もなく呆気にとられていた。すると、すぐ横で「しゃれこうべ?」と賀之助さんが低く呟いた。
 切れ長の瞳には怒りが滲み、叔父たちに向けられる。

「よくもまあ、そんな名をつけたな。お菊をこのような姿にしたのはお前たちだろう」
「うちの不出来な娘が申し訳ありません!」
「お父様!?」
「きつく叱っておきます。どうか、どうかご容赦ください」

 ただ謝るしかない伯父を見て、祖母が生きていた頃にへこへこしていた姿を思い出した。
 この人は、謝れば許されてきたのだろう。私はどんなに謝っても許してもらえなかったのに。

 あかぎれで荒れた指先で、胸元をそっと抑える。
 伯父と牡丹がどんな目にあおうと、私の知ったことではない。そう切り捨てることができたら、どんなに楽だろうか。でも、それはこの柳屋を失うということ。
 ぱたぱたと涙がこぼれてきた。

「賀之助さん……伯父を許してあげてください」
「お菊?」
「こんな人でも、柳屋の主なんです。ここは祖母が守った店で、たくさんの奉公人がいて、だから……」

 私が頼んだくらいで賀之助さんの気持ちを変えられるのか。
 不安を抱きながらも、ここで伯父たちを見捨てたら、私も伯父と変わらない非道な人間に落ちるような気がした。だから、繰り返し「お願いします」と乞うしかなかった。

 賀之助さんの口から深い溜息が零れた。

「菩薩でもなければ、非道なあんたを許したりはしないだろう。可愛い菩薩の頼みとあれば、聞かないわけにはいかないが」

 淡々と告げられる言葉を、伯父はどんな思いで聞いているのだろう。畳に額をこすりつけたまま、その肩を震わせている。

「支度金は軽く見積もって千両。柳屋さん、用意できるのかい?」
 
 さらりと流れでた言葉に、思わず「千両!?」と声を上げたのは、私だけではなかった。伯父と牡丹も目がこぼれんばかりの顔をこちらに向けている。

「婚礼の家具に衣装は当然だが、養子縁組にも持参金が必要だ。可愛い姪の幸せを買えるんだ、安いもんだろう? まあ、用意できないっていうなら、俺が立て替えてやらんこともないが」

 脂汗をかく伯父に冷ややかな視線を向けた賀之助さんは、私を抱え直すと「返答は明日、聞かせてもらおう」といい、踵を返した。
 立ち去る座敷から牡丹の金切り声が聞こえてきたけど、賀之助さんは気にも留めなかった。

 薬の匂いが染み付いた暗く沈んだ柳屋を出て、すっかり日の落ちた通りに出る。
 賀之助さんは周囲を気にせず、黙って歩き続けた。
 暗い夜道、提灯に照らされる繋がれた手を、誰かが気にすることはないだろう。それでも、気恥ずかしさが拭えない。

 ほんのりと白檀の香りが漂ってくる。
 胸の奥をざわめかせながら辿り着いたのは、夜になっても華やいだ賑わいを見せる錦町だった。その一角にある八雲堂の脇戸をくぐると、内玄関を照らす温かな提灯の明かりが迎えてくれた。
 賀之助さんが戸を引くと、ひと際大きくガタガタと引き戸が鳴る。すると、静寂に包まれていた内玄関の向こうから足音が聞こえてきた。

「賀之助さん、戻ったのかい。柳屋さんとちゃんと話しを──お菊ちゃん!?」

 手燭(てしょく)をかかげて現れた賀之助さんの母、おみつさんが私を見て目を丸くした。

「すまないが、お菊を頼む」
「頼むって……お菊ちゃん、まずはお上がり」

 さあと促されるも、汚れた足で上がることを躊躇ってしまう。

「気にせず上がれ」
「でも……」
「おっかさん、まずはお菊を風呂に入れて、なにか食わせてやってくれ」
「それは構わないけどね。柳屋さんでなにがあったんだい。まさか、喧嘩を吹っかけてやしないよね?」

 おみつさんに促されるようにして板の間に上がると、木戸が再びガタンッと鳴った。

「どこに行くんだい?」
「……今夜は久世様と会う約束をしている。お菊、まずは休め。話しはまた明日だ」

 ほんの短い沈黙はなにを意味したのか。
 おみつさんが「ちょっとお待ち!」と引き留めるのを聞かず、賀之助さんは戸を閉めて出ていってしまった。

「まったくあの子には困ったもんだ。やっと嫁を迎える覚悟をしたかと思えば、変わらず久世様のお屋敷通いとはね……」

 女将さんの言葉に、胸の奥がざわめいた。
 久世様──初めて耳にする名だけど、どなたなのだろう。おみつさんの口ぶりからすると、ずいぶん親しくされているようだけど。

「お菊ちゃん、まずは湯で温まっとくれ。いろいろ大変だったろうけど、もう心配ないからね」

 差し出された温かな手を握り、閉ざされた戸を振り返った。

 どうして私を助け出してくれたのか、私なんかのために千両も出す気になったのか、聞きたいことは山ほどあった。だけど、当の賀之助さんはそこにいない。
 胸に忍ばせている酒饅頭を探るよう、そっと胸元のに手を寄せた。 

 こうして八雲堂での新しい生活が、静かに幕を開けた。