Summer Blue ~君が残したシトラスの嘘と約束~




 八月十三日 午後。

「……つっかれた〜!」

 控室のパイプ椅子に全体重を預け、
そらは天井を仰いだ。
汗ばんだ首筋に扇風機の風がぬるく当たり、ちょっとだけ生き返る。

 午前はフットサル場のバイトで、ちびっこ体験会。
小学生に混じって走り回り、笑って、こけて——。
「おにいちゃんすごーい!」なんて言われてヒーロー気分になっていたのに。

 午後はサンサンパークのお化け屋敷。
ゾンビになって笑われ、ときにはキレられて……
体力なんて、とっくにどこかに置いてきた。

「そらくん、タフやなあ〜! 午前フットサルやったんやろ?」

「やば、えらすぎるわ」

 先輩たちがスポドリ片手に笑う。
そらはぼんやり笑って手を振った。

「もう気合いと根性っす」

「いやいや、それで午後ゾンビ役て」

「夏休みの宿題とかやってんの?」

「そんなんやってるわけないやないっすか!」

 そらの一言に、控室に笑いが広がった。
 その瞬間、スマホの画面が光る。
【黒川啓太朗】――。表示された名前を見た瞬間、一気に心臓が跳ね上がる。

『そら、今日のバイト終わり、会える?』

「えええええっ?」

 画面を二度見して、息が止まりそうになった。
そらはパイプ椅子ごと派手にひっくり返った。

  昨日の夜、『最近シフト入ってないですね。
早く一緒に働きたいです。よかったら、またドライブ連れてってください』
――そうメッセージを送った。
けれど、待てど暮らせど返事はなく、
気づけば疲れの限界がきて眠りに落ちていたのだ。
そして、朝になっても返事はなかった。
送らなければよかったと思いながら、
この世の終わりみたいな気分のまま、無理やり笑顔を作って、
ちびっ子たちと走り回っていたのだ。

「そらくん! 大丈夫?」

「なになに、どないしたん?」

 顔を真っ赤にしたそらは、
床に転がったままスマホをぎゅっと握りしめていた。

「……や、や、やばいっす!」

「いや、なにが?」

 周囲はポカンとしてたけど、
そらの頭の中では打ち上げ花火が乱れ咲いていた。

(まじか! 今日会える!)

 啓太朗からのお誘いが来てから、
脳内は完全に恋愛ハイモードになった。
疲れも眠気も体の重さも、ぜんぶ吹き飛んでいく。
——あの人に、会える。それだけで、全身が勝手にフル充電された気がした。
今日はお盆休みの初日。
今年一来場客が多いらしいと聞いて、
そらは気合を入れるために炭酸を一気飲みした。


 おばけ屋敷の前には長蛇の列ができている。
入り口付近では、中に入った人のけたたましい悲鳴が聞こえてくる。
それが待っている人にまで恐怖を煽っていた。

「うわぁああああ!!!」
「ぎゃああああ!!!」

 入場者は絶叫して逃げまどい、
中にはうずくまって動けない人まで出てきた。
「……そらくん、今日、ちょっとやりすぎちゃう?」

「えっ、そうっすか……すんません……」

「うん。ちょっと抑えてこ」

「は、はい。気を付けます」

ゾンビ役のそらは、
ハイテンションのまま全力で壁から飛び出していた。
夜のことを思うと勝手に体が動いてしまう。

(やばいやばい……はしゃぎすぎた……
でも……ああもう、ニヤけるの止まらん……)

 先輩の言葉でようやく我に返り、
うなり声を一段階トーンダウンさせた。
最後の客が帰ったのを見届けると、
そらは控室に猛ダッシュして身なりを整えた。

「……よし。大丈夫。いける!」

 呼吸を整える暇もなく、
スタッフ通路を抜けて外へ出た。
夏の夜はもう暗く、遠くの木々がシルエットになって揺れている。

(……ほんまに、今日会えるんや!)

 駐車場の外灯の下。
夜の空気に溶け込むように啓太朗が立っている。
 胸の奥がきゅっと鳴った。
タバコの煙がふわりと立ちのぼる。
そらは彼の横顔から目を離せなかった。

「お疲れ。ごめんな、遅番の日に。大丈夫?」

「……全然、大丈夫です。
今日、会えて……めっちゃ嬉しいです」

 声は少し震えたけど、ちゃんと届いてほしくて目を見て言った。
啓太朗はふっと笑い、タバコを携帯灰皿に落とした。

「……明日は? バイトどんな感じ?」

「昼からラストまでお化け屋敷っす」

「そっか。じゃあ朝はゆっくりやな」

 他愛ない会話。
けど、その一言一言が、かけがえのないもののように感じる。

「宿題とか、大丈夫なん?」

「あっ……」と思わず声がもれる。

「今日、同じこと聞かれました。……デジャブっす」

「はは、それフラグ立ってんな」

「……夏休みラストに、全力で頑張ります。たぶん……」

「多分かよ!」

 いつもより楽しそうに笑う彼に胸がキュッとなる。
駐車場の片隅。虫の声と、遠くの花火の余韻が夜に混じる。

「今日はお腹大丈夫そう? すいてる?」

「大丈夫です、休憩でちょっと食べたんで」

 お腹をポンと叩くと、彼は「ははは」と笑って車に乗った。

「変わり映えないけど……また夜景、見に行く?」

「行きます!」

 即答した自分に、啓太朗がふっと笑った。

「今日はあかつき岬いこかなって。海の方なんやけど」

「そこ、知ってます。行ったことあります」

「別にかまへん?」

「全然いいです!むしろ行きたい」

 なんでなのかはわからないけれど、
今日の啓太朗はどこかふわふわして見えた。
その空気に釣られるみたいに、
気づけば自分まで心がふわふわしていた。
小さな箱に二人きり。
その時間がそらにとっては何より幸せで尊い。
心臓の音が、また速くなっていくのがわかった。

 窓の外には、だんだんと街の灯りが遠ざかり、
暗闇が広がっていった。街灯もまばらな道を奥深くまで進んでいく。
山道に入るとエンジン音がひと際大きくなった。
上り坂で背中がシートに押し付けられ一瞬落ちるかもという恐怖が襲う。
手のひらと額にはじんわり汗がにじんでいる。
やがて、舗装された道に出ると、二人はホッと胸をなでおろした。

「ひやっとしたな。四駆でよかった」

「そうですね、ちょっと背筋凍りました」

駐車場に着くと、すぐ目の前が展望台だった。
外に出た瞬間、ぬるい潮風に包まれて視界いっぱいに夜の海が広がった。

「……めっちゃ綺麗ですね」

「うん」

海の向こうでは街の灯りが揺れ、
波の音が足元から胸の奥へと静かに染み込んでいった。
 ふたり並んで柵に肘をつき、夜景を見下ろす。
潮風が髪をなで、夜の匂いが濃くなる。

「そういえば、小学生のとき、ここでキャンプしました。
妹も一緒で、はしゃぎすぎて下のテトラで派手にこけて。
病院行くから帰るでって言われたけどまだおる! ってごねて。
結局涼んちの家族が見てくれることになって、
最後までキャンプできたんすよ」

「ははっ。そらっぽいなぁ」

 静かな海風が、ふたりの間をそっと抜けていく。
優しい静けさがふたりをそっと包んだ。

「……そらは地元好き?」

 いつも聞き役の啓太朗からめずらしく問いかけられた。

「好きですよ。家族はたまに鬱陶しいときもあるけど、
一応尊敬してるし。友達もおもろいやつばっかで。
都会やないけど、空気きれいやし……ええとこやなぁって。
あ、でももうちょいコンビニは欲しいっすね」

「……そっか」

 その声に、ほんの少し切なさが混じる。
そらは彼がなにか言いたいことがあるような気がして、
「啓太朗さんは……違うんですか?」と聞いた。

「……まあ、俺にとっては、ちょっと窮屈なところかな」

 夜風が強く吹き、シトラスの匂いがふっと香った。
そのあとに続いた笑顔は、どこかさみしくて、
彼が今なにを考えているのか、そらにはどうにも判断がつかなかった。

「そらは、どこでもうまくやっていけそうやな。愛されキャラやしな」

 やわらかく笑う声。けど、その奥に小さな影が見え隠れする。
そらはしばらく黙りこみ、まっすぐ彼を見つめた。

「俺、地元は好きですけど……啓太朗さんの窮屈ってやつもわかります。
正直、息が詰まるなって……。何してても、ぜんぶつつぬけやしね……」

 啓太朗は口をつぐんだまま耳を傾けている。

「……啓太朗さん、なんか悩んでるんですか?
別に詮索したいんやなくて……もし話したくなったら、
俺に言うてください。俺なんかでよければ、なんぼでも聞きますから」

「……ありがとな、そら。頼りになるやん」

 また波音で空気が満ちていく。

(……今やんな? タイミング! 今しかないよな?)

胸の鼓動がドクドクと力強く響き、
啓太朗にまで聞こえるんじゃないかと本気で思う。

そらは唇を軽く噛み、そして息を吸って思いきり吐いた。

「……この流れで、なんかずるいんですけど」

 横顔をちらりと見て、すぐに真っ黒な海へ視線を戻す。

「俺、啓太朗さんのこと……めっちゃ好きです」

 波の音が、余韻をさらっていく。

「初めて会ったときから、ずっと気になってて……」

 顔が熱い。声が震えそうになるのを必死でこらえながら続けた。

「啓太朗さん。……よかったら、俺と付き合ってください」

 胸の鼓動が、苦しいほどに速い。
肺の中の空気が逆流してくるのがわかる 。

 啓太朗は、そらの視線を一瞬だけ受け止め、
けれどすぐに伏せた。

「……ごめん、そら」

低く落ち着いた声が、はっきりとその場の空気を断ち切った。

「……それは、受け取れへん。本当に、ごめん」

 俯いた横顔からは表情がはっきり読めない。
けれど、その奥に隠された拒絶だけは、そらにも伝わっていた。

 心の中でなにかが崩れる音がする。
「……理由、聞いてもいいですか」

 震える声でどうにか絞り出した。 啓
太朗はしばらく言葉を探すように夜の空を仰いだ。

「そらは何も悪くない。俺もそらのことは好き……でも、ごめんな」

 夜風が頬をなでる。
さっきまで熱かった胸の奥が、すうっと冷えていく。

「……帰ろか」

 やさしく、けれどはっきり幕を下ろすような声色。
 そらは無言で頷き、助手席に戻った。
車内には、前に聴いたあの曲が流れていた。
好きだと口にしたあのメロディ。
けれど今は甘さよりも切なさのほうが強く胸を締めつけていく。

 ふたりとも何も話さないまま、
街の灯が窓の外をゆっくりと流れていった。

「バイト、頑張ってな。……次は盆明けやな」

「……はい」

 一言、せいいっぱい返事をして車を降りる。
走り去る車のエンジン音が、やけに耳に残った。
そらの視界はぼやけて見えて、気づけば玄関の前で立ち尽くしていた。