Summer Blue ~君が残したシトラスの嘘と約束~



 蒸し暑い空気がこもった控室。
壁に貼ってある八月のシフト表を見た瞬間、
そらは小さく拳を握った。

「……っしゃ!」

 声は抑えたつもりだけど、周囲の痛い視線が突き刺さる。
日付が並ぶ紙の中で、
自分の名前とあの人の名前が並んでいる。
それだけで、胸の奥からじわっと熱が上がってくる。
今日も明日も会える――。

 着替えを終えて鏡の前に立つ。
Tシャツの裾を直し、前髪にそっと手をやる。
ワックス、今日もつけすぎてないかな。
くしゃっとさせたとこ、変じゃないよな……?
そらの脳内は、ひとり突っ込みがエンドレスだ。
あの人に見られるかもって思うと、少しでもよく見られたくて仕方ない。
自分でも色ぼけている自覚はあったがどうしても止めることはできなかった。

 昼休憩の時間になり、
お化け屋敷の前には入れ替わりのスタッフたちが集まっていた。
仕事の引継ぎをしていたはずなのに、いつのまにか雑談が弾んでいる。

そこへ現れたのは、三人組の女の子だった。
上品なメイクにゆるく巻いた髪。
パステルカラーのワンピースやとろみのあるブラウスに品のいいスラックス。
田舎の遊園地には全く似付かわしくない面立ちで垢抜けていた。

「啓太朗くん、ひさしぶり」

 その声に、そらは思わず振り返った。
遠くからでもわかる。笑い方がやわらかくて、啓太朗と話し慣れている。
彼は少し驚いた顔をしたあと、軽く頷いた。

「麗香(れいか)。きとったんやな」

 その名前が出た瞬間、周りがざわつく。

「え、あの子……黒川さんの元カノちゃうん?」

「やっば、めっちゃ美人やん……お嬢様感すご」

 そらは作業しながら、聞きたくない声までぜんぶ拾っていた。
顔を上げれば、彼女が笑っている。
落ち着いた雰囲気。澄んだ声。
立っているだけで視線を集める存在感。
 たしかに——誰が見ても文句なしの美人だった。

(……この人か。黒川さんの、元カノ)

 並んで話すふたりはしっくりしていて、ものすごく絵になる。
背の高い彼の横に立つ、上品で可憐なお嬢様。
肩の高さも、雰囲気も、言葉の距離感も――。

(ああ、こういうのをお似合いって言うんや……)

そう思った瞬間、胸の奥底がずしんと重くなる。
 友人たちに手を振ったあと、彼女は顔を近づけて啓太朗に呟いた。

「うちの大学の友達が、今度合コンしたい言うてるんよ。
また連絡するわ。東京戻る前に、一回くらいええやろ?」

 悪気のない、さらっとした誘い方。
それがまた、大人っぽくて余裕があって……。

(……なにこれ。きっつ……)

 本物の過去を見せつけられると、
自分の気持ちなんて子どものおままごとみたいな片想いにしか思えなくなる。
恋に気づく瞬間は、映画みたいにキラキラしていて、
劇的におとずれるものだと思っていた。
けれど、実際はふとした拍子に胸がざわついて、
嫉妬して、傷ついて……

(あぁ……俺、啓太朗さんのことやっぱり好きなんや。
そういう意味で……)

 そらはそっとその場を離れた。
存在も、濁った気持ちも、誰にも気づかれないように……


 バイトが終わると、あたりはすっかり暗くなっていて、
遠くで花火が打ちあがっていた。
横を歩く涼が「夏やなぁ」などと感傷的に呟いた。
そらはちらりと花火を見てため息をついた。

「なあ、涼……今日のあの人見て思った。
元カノ、めっちゃ綺麗で家もええとこの人みたいで……。
なんか、全方向で負けてる気ぃして。
俺、全然釣り合わんのちゃうかなって思ってきた」

 涼は、まるで「お前何言うてんねん」とでも言いたげな顔をして、
こちらを見てくる。

「いや逆に、なんで釣り合う思った?あほなん?」

「えっ……」

てっきり慰めてくれるのかと思いきや、
ストレートな暴言が飛んできた。
そらは返す言葉が見当たらずただ瞬きを繰り返す。

「そんなん言い出したら、俺なんか土俵にも立たれへんわ。
顔が致命的すぎ」

「おまえ……それ自分で言うて悲しない?」

「だって事実やし。そして現実やし。
……でもな、そらにはそらのフィールドあるやろ」

 そらは涼の後を少し遅れてついていく。

「外見とか家柄とか、気にしてもしゃーないやん。
お前はお前の持ち味で勝負せえよ。
素直でまっすぐで、顔にぜーんぶ出るとこ。……それ、最強やで」

そらは何のことかピンと来なくて悶々する。

「どんな武器よりそれが一番強い。
学校の先生なる夢も持っとるし、酒屋も継ぐ心構えあるし。
高二なんやからそれで十分やろ。
俺やったら継がんでええ言われた時点で万歳三唱や」

「おまえ、褒めてんのかバカにしてんのかどっち?」

「両方や。お前がへこむと世界の元気ちょっと減るから困んねん」

 軽口なのに、不思議と胸に響いた。

「……ありがと」

「ん? なんも言うてへんけど?」

「いや、言うたやん。めっちゃ言うたやん」

 笑い合いながら並んで歩くふたり。
風が木々の枝葉を揺らしながらそっと見守っている。

「……今度、遊びに誘ってみよかな」

「ええやん! 遊びという名のデートのお誘いやな」

 また、遠くで花火の音が響く。
空に咲いた光が恋の始まりを告げる合図みたいだった。