Summer Blue ~君が残したシトラスの嘘と約束~




日曜日。
そらは相手が涼だからと、いつも通り適当な格好で家を出た。
頭は軽く寝ぐせを直しただけのボサボサ。
Tシャツにゆるいジーパン。足元はビーサン。
でも、なけなしのオシャレで香水だけはつける。
カバンの中には、バスの中で勉強できるように単語帳を忍ばせた。

バスに乗り込み窓際の席に座ると、
ふと来週のことが頭をよぎる。――いいな新しい靴。

(六月二日、俺もちょっとマシな格好したいし……
服とか覗いてみようかな……)

バスから降りると、
初夏の陽ざしとアスファルトの熱気がふわっと押し寄せた。
人混みを見渡しても、涼らしき姿はまだない。
ポケットからスマホを取り出して画面を確認するも、
新着メッセージはない。
ふぅ、と軽く息を吐いて、そらは噴水近くの影に腰を下ろした。

すると、視線の端にゆっくりと近づいてくる長身の男の影が映った。

(あれ……涼って、あんな髪型やったっけ……?)

影が伸びて、足音が近づく。
そっと顔を上げた瞬間、そらは息をのんだ。

 去年より少し短くなった髪。
前よりちょっとだけ幼く見える。
けれど、背格好はあの頃のまま。
そして、見覚えのあるTシャツ。

目の前には涼ではなく、ここにいるはずのない啓太朗の姿があった。

「……え」
驚きすぎて息すらうまく吸えない。声が出ない

ただそこに立つ啓太朗の姿を呆然と見つめ続ける。

「――ただいま」

やわらかく笑って、低く落ち着いた声でそう言った。
その声が耳に入った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

「ごめん、来ちゃった」

右手には、小さなスーツケース。
まだ何も言えずに固まっているそらの手をそっと握り、彼は言った。

「……カラオケ、行かん?」

唐突すぎて、反射的に「……あ、はい」と頷いてしまう。
手を引かれるまま、ふたりは駅前のロータリーを抜け、
徒歩一分の場所にあるカラオケボックスへ向かった。
啓太朗は店員と手際よくやり取りを済ませ、
小さな個室を一つ押さえる。

不愛想な店員に機器の使い方とドリンクバーの説明をされ、
啓太朗は「コーラでいいよな」といって、
そそくさと二人分のコーラを持ってきた。
案内された部屋の中は、
隣から聞こえるヘタクソな歌とモニターから今週のランキングが流れていて、
沈黙と喧騒が同居する不思議な空気になっている。

そらは頭の中をフル回転させて「涼は?」と聞いた。

「涼くんには手伝ってもらったんや。
俺がどうしてもそらに会いたくて。
六月二日って約束したのに、声聞いたらそこまで待てんくなって……
だから涼くんに遊ぶ約束を取り付けてもらって、
その時間を俺がもらうことにしたんや。……ここまでOK?」

「はい……全然OKじゃないですけど、OKです。
ってか、啓太朗さんと会えるならオシャレしてこればよかったやん!
こんな適当な格好で、ハズ!」

啓太朗はふっと笑い少しだけそらのほうに寄った。
そしてまっすぐ視線を合わせてくる。

「そら、一年前の約束、覚えてる?」

 ふたりの空気が変わる。
とたんに部屋を満たしていた喧噪が遠のき、
真っ白な長方形の箱にポツンとふたり閉じ込められたように感じた。

「……はい。覚えてます」

「その約束を、守りに来た」

短くそう告げてから、優しく笑った。

「そら、俺は……そらが好き。
会ったときから、ずっと……。
去年の夏、そらの想いに応えられんくてごめん。
でも……やっと、受け入れる準備ができたから。迎えに来た」

胸の奥に、熱がぐっと押し寄せる。思わず視線が靴まで落ちる。

「そら……もしよかったら……
まだそらが俺のことを想ってくれとったら、俺の恋人になって」

その言葉を聞きながら、そらの頬を温かいものが伝った。
止めようと思っても、涙はぽろぽろとこぼれ落ちる。

――どうしよう。

胸の奥で鼓動がどんどん大きくなっていく。
耳の奥で自分の心臓の音がはっきりと響く。
呼吸が浅くなるたび胸がじんじん熱くなる。

啓太朗は何も急かさず、ただそらを見つめていた。
その視線が、優しくて、強くて――。
逃げ場なんてなかった。
言葉を探そうとしても、喉がきゅっと締めつけられて、
声にならない。涙をぬぐうことも忘れて、
そらは啓太朗の胸に飛び込んでいた。

「……好き。大好き。ずっと待っとったよぉ……」

声は涙で震えて、言葉の合間に嗚咽が混じる。
啓太朗はぎゅっと強く抱きしめ返した。

「……俺、ずっと会いたかった。ずっと待っとった。めっちゃ嬉しい」

「……うん、俺もやっと言えて嬉しい。
ほんまに、めっちゃ待たせた。ごめんな」

腕の力が、さらに強くなる。

「なんも聞かずに……待ってくれてありがとう。
……ほんまに、そら、大好き」

二人の想いがようやく重なった。
啓太朗に包まれながら、彼の胸の奥から響く音を聞く。

その鼓動が自分の中まで流れ込んで、
痛いほど早くて、でも苦しくはなかった。
ただ、ふたり溶けていくみたいに心が満たされていく。

「……啓太朗さんも、ドキドキしてるんですか」

「当たり前やろ? ……どんだけ怖かったか。
もうそらが次の恋に行っとるかもしれへん、
俺のことなんて眼中になかったらどうしようって……ずっと不安やった」

その声が、少し震えているのに気づく。

「……だから、今めっちゃ嬉しいし、
正直……めちゃくちゃホッとしとる」

二人はしばらく、言葉もなく静かに抱きしめ合った。
今まででいちばん長く、そして近く触れ合っている。
肌と肌が重なった部分は、じんわりと熱を帯びていて、
意識すればするほど鼓動が速くなる。少し気恥ずかしいのに、
それ以上に離れたくなかった。
相変わらず啓太朗からは、シトラスのいい香りがする。
胸の奥で、ドキドキと安心が同時に広がっていく。
ずっと、ずっと思い焦がれていたことが現実になった。

啓太朗さんの彼氏になりたい――。
その気持ちだけで離れていた時間を踏ん張ってきた。
それが今、叶った。
心の奥深くがじんわりと温まって、また新しい熱が広がっていく。
ふと啓太朗が体を離した。
まっすぐに、そらだけを見つめる。
その瞳は、とびきり愛おしそうにそらを見つめていて息が詰まるほどだった。

「そら……キスしていい?」

「……はい。してください。
いっぱい。もう、公式に、彼氏なんで……」


少し照れながらも、はっきりと答えた。
啓太朗の目が、やわらかく細められた。
そらの視界にゆっくりと近づいて、そっと唇が重なった。
そらの頬に触れる指先。
熱を帯びた掌が、耳のすぐ下を包み込む。

「……いっぱい、ね」
低く落ちた声がそらの奥まで響く。
それからはもう止まらなかった。
触れては離れ、また触れて――。
ひとつひとつのキスが、心の奥底にじんわり染みていく。
啓太朗の吐息が近くて、そのたびにそらの心臓は破裂しそうに高鳴った。

「……ずっと、こうしたかった」

かすれた声が耳元で落ちる。
その響きに、そらは目を閉じて身をゆだねた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
気づけば二人は何度も何度も唇を重ねていた。
すると突然、そらの身体が引き離された。

「そら、ちょっと待って。俺、これ以上はちょっと……」
 
そらは小首をかしげ、熱の残る声で問う。

「……なんで? ダメなんですか?」

「だって、……そらに一年も待たせて、
そのうえ今、こんなカラオケボックスで告白することになって……
本当は……もっと雪響山とか、いろいろ……今までの思い出の場所で言いたかった。
ちゃんと雰囲気作って、かっこよく……そういう告白、したかったのに……」

 息を吐くたび、少しずつ悔しさが混ざる。

「……でも、そらに会いたいって思ったら……
我慢できんかった。
実家にも、今日帰ってんの言ってへんから車も取りに行けん。
駅の近くの、こんなカラオケボックスで……
いい雰囲気もクソもないまま、勢いで告白して……そ
のうえ、勢いでやらしいことまでしようなんて……
これ以上かっこ悪いとこ見せたくないねん……」

 そらはきょとんとした顔で見上げたが、
すぐ彼の胸に飛び込んだ。

「……そ、そら……話、聞いとったん?」

戸惑い混じりの声が落ちてくる。

「聞いてましたよ、ちゃんと。……啓太朗さんのちょっとダサいところ。
でも、俺どんな啓太朗さんも大好きやから、そんなん気にしません。
それでも啓太朗さんが気にするって言うんやったら今日はこの先はやめときます……
でも、俺も高校生男子っすよ? ちゃんと、そこんとこ分かっとってくださいよ」

そらはニィっと笑った。

「……だから、今日はキスだけ。キスだけやったら、ええやろ?」