Summer Blue ~君が残したシトラスの嘘と約束~




 

季節は駆け足で過ぎ、
春のぬくもりをほんのり残したまま、空気は夏の匂いを帯びていた。
川沿いに咲き誇っていた桜は、あっという間に散り、
いまは淡い緑の葉桜が陽射しにきらめいている。
朝の空気には草の匂いが混じり、
制服の袖口にもう冷たさはなかった。

そらと涼は、三年生になった。
遊びよりも、勉強や進路の話題が増え、
教室の空気はすこしずつ受験に向かって緊張を帯びてきた。
そらもバイトのシフトを少し減らして、
塾へ通い始め、放課後のほとんどを机に向かって過ごした。

机の横には、スマホが置いてある。
待ち受けは、あの夏、しのみダムで撮ったツーショット。
笑っている自分と、横顔で笑う啓太朗。
ロック画面をつければ、それが真っ先に目に入る。
香水も、まだ大事に持っている。
手首にひと吹きするたび、胸の奥がきゅっとなる。
もう何度も嗅いだはずの香りなのに、
心臓が跳ねる感覚はもらった時から変わらない。

――あれから一度も連絡はなかった。
そらも、しなかった。

たまに地元の先輩から、
「こないだ就活で帰ってきてたらしいで」と聞くことはあった。
けれど不思議とそれが致命的なショックになることはなかった。
根拠なんてどこにもない。それでも、必ずまた連絡がくると信じていた。

その気持ちがそらを机に向かわせる。
次に会えるとき、胸を張って笑えるように。
五つ上の彼と肩を並べられるように――。

 そらは休み時間も単語帳をぱらぱらとめくり、
ページの端を親指で弾きながら英単語を頭に叩き込む。

「……おまえ、ほんま変わったな」

隣の席に腰かけた涼が、感心したように言った。

「めっちゃ勉強するやん。おまえ見てたら、
俺も勉強せなあかん気になるわ」

「いや、おまえも勉強せなあかんやん」

そらはページから目を離さずに返す。

「関西の四大学のどっか行くんやろ?」

「せや!」

涼が胸を張る。

「俺は大学行ってモテんねん! 
合コンで『K大ですー』って自己紹介して、
『きゃー、カッコいい上に賢いんですね!』って言われて、
モテまくるんや!」

その宣言は教室中に響き渡った。
休み時間のざわめきが一瞬止まり、
視線が一斉に涼へ向く。そらは、心の底からあきれた。

案の定、周囲から冷たいツッコミが飛ぶ。

「……K大受かっても、中身それやったら女はついてこんでー」

「せやせや、合コン以前の問題やわ」

女子たちの辛辣な一言に、
涼は「ぐはっ!」と胸を押さえて椅子にもたれかかる。
そらは半笑いで単語帳を閉じた。

でもそらは知っていた。涼はできるやつだ。
ちゃらんぽらんに見えるけど、やると決めたら一気に結果を出すタイプ。
部活を引退した三年の夏からたった数か月で偏差値を十以上上げ、
この高校に滑り込んできた。肝心なところではちゃんと力を出せる。

――こいつは、侮れない。
そして、何より。K大の経営学部。
ここは啓太朗さんの滑り止めだったらしい。
バイトの集まりで何度か顔を合わせたとき、
涼と啓太朗さんは、なんだか妙に息が合っていた。
しかもこの涼、こんなアホやのに、
実は地元で数店舗展開しているスーパーの社長の息子だ。
将来的には跡取りになるに違いない。――本当に、侮れない。

うちはしがない酒屋で、家も普通。
けれど涼の家は違う。純和風の立派な造りで
、門から玄関までは手入れの行き届いた庭が広がっている。
物心ついた頃から十年以上の付き合いになるが、
涼の家に入るときは今でも少し緊張する。
なのに、当の本人はあんなちゃらんぽらんだ。
長男と次男という違いはあれど、境遇は啓太朗さんとよく似ている。
地元の、お金持ちの家の子。
同じ大学、同じ学科志望……

――もしかして、涼を観察したら啓太朗さんも攻略できるんちゃうやろか。
そんなことを思い、しばらく涼を観察してみた。
が、あまりにも参考にならなさすぎて、
すぐやめた。たぶんあのときは、啓太朗さんに会いたすぎて、
頭がおかしくなっていたに違いない……。

帰りのホームルーム。担任が分厚い紙の束を抱えて教卓に立った。

「進路調査くばるぞー。
週末にちゃんと親御さんと話して、週明けには絶対出せよー!」

ざらついた紙が机に置かれる。
そらは受け取った紙を、しばらく凝視した。


(……進路。真剣に考えないと)

ホームルームが終わると、クラスの中は一気にざわつきはじめた。
進路の話、塾の話、模試の話……笑い声と真剣な声が入り混じる。
そらがさっさとリュックに教科書を詰め込んでいると、
涼がやってきた。

「なあ、そら。お前、H教育大一本勝負のままか?」

「……うーん、最近ちょっと悩み出した」

そらはリュックのベルトを直しながら答える。

「うちは金ないからな……国公立は譲れんし、
下宿も親に負担かかるからずっとH教育大しか考えてなかったけど……
でも、ちょい遠くても家から通えて、
国公立で教員免許とれるとこって結構あるんよな。
もちろん偏差値も上がるけど……
今上がり調子やし、そこも考えるつもり」

「ほんま、お前は真面目やな」

「俺はボンボンやないんで。
お前みたいに私立は無理なんですぅー」

二人で軽く笑い合った、そのとき――。
そらのポケットの中で、スマホが震えた。


画面を見ると、そこには「黒川啓太朗」の文字があった。


「うわっ!」

そらは、椅子を派手にひっくり返した。
ガタン!と大きな音が響いて、クラスの数人がこちらを振り返る。
一瞬、世界が止まったみたいに全てが真っ白になった。
心臓が、ドン、と大きく跳ねる。
握っているスマホがじっとりと熱くなる。

(……うそ。なんで、いま……)

頭の中でいくつも言葉がぐるぐる回り
、指先がかすかに震えた。
ドキドキしながらメッセージをひらく。

『そら。久しぶり。就職決まったよ。』

啓太朗らしい、無駄のない短い文章。
それだけで胸の奥がじんわり熱くなる。
返事を打とうと親指を動かした瞬間、またスマホが震えた。

『六月の二.三日。地元帰るよ』

その文字を見た途端、息が詰まった。
喉がカラカラになり、額が汗ばむ。

(――え、え、待って。待って)

考えるより先に、またメッセージが届く。

『そら、二日の土曜日、もし会ってくれるなら、
そらの一日、俺にちょーだい』

心臓が破裂しそうで、顔が熱い。

息の仕方がわからない。これが過呼吸ってやつか……?

「おいおいおい、どうなしたんや? 大丈夫か?」

涼がのぞきこんでくる。

「……やばい、大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない!」

そらは顔を真っ赤にして叫ぶと、
リュックを背負って教室を飛び出した。

「お、おい! どこ行くねん!」

涼の声なんてもう一ミリも耳に入っていない。
椅子を押しのけ、教室のドアを勢いよく開けて駆け出した。

「……なんやねん、あいつ」

涼が呆れたように呟いた。
バタバタと駆け出すそらの背中を、
クラスの視線が一斉に追った。
ざわめきが、遅れて広がっていく。

「最近めっちゃ真面目やったのに……」

「かと思ったら急にドタバタしてるし、情緒不安定やな」

「まあ受験生やからな」

そんな声が飛び交い、教室はまたいつもの喧騒に戻っていった。

そらはもう止まれなかった。
靴を履き替え、校門を抜ける。
駐輪場まで一直線に走り、自転車にまたがった。
リュックをカゴに放り込み、ハンドルの上でスマホを取り出す。
画面には、さっきのメッセージ。
六月二日――その日付が、頭の中で何度もリフレインする。

会える。やっと会える……
胸の奥から、いろんな感情がじわじわとあふれ出してきた。

――うれしい。
 就職決まって、めでたい。
あの約束、覚えててくれた。
大好き……でも……なんで連絡してくれへんかったん。
悲しかった。
信じとったけど……やっぱり、ちょっとだけ不安やった。
もし帰ってきとったなら、会いたかった。
でも――誘ってくれて、めっちゃうれしい。

やっぱり大好き……

気づけば、視界がにじんでいた。
涙がせりあがってきて今にも溢れそうだ。
うれしさと、心の奥にあった不安が、
今、この瞬間ふっと溶けていくみたいで――。

そらは、シャツの胸のあたりをぎゅっと掴む。
こみ上げる熱を押さえつけるみたいに、うつむいた。
そして、堪えきれずに、一粒の涙がぽとりと落ちた。
しばらく自転車にまたがったまま、その場から動けなかった。

笑い声、部活の話、下校のざわめき――。
全部が遠くに聞こえる。
ふと、横を制服姿の生徒たちが通り過ぎていく。
そこでようやくそらは自分がずっと固まっていたことに気づき、
はっと我に返った。


(よし、俺はこの一年で成長したんや。
散々じらしっていうテクニックを、啓太朗さんから受けた。
だから今度は俺がじらす番や。
本当は今すぐ返事をしたくてたまらん。
けど、そこをぐっとこらえるのが大人ってもんやろ)

冷静なフリをしながら、
ぶつぶつ呟きつつそらは自転車を漕ぎはじめた。

(よし、家帰ってから……部屋に入ってから返事する……)

彼は玄関に飛び込み、靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上がる。
自分の部屋に入り、
ドアを閉め「さあ返事しよ」と意気込んでスマホを握りしめた。
そのときだった。

手の中が震える。画面には「黒川啓太朗」の文字。
メッセージかと思ったら、それは電話の画面だった。

「えっ……あ、わ、」

指先が震えて、焦りすぎて勝手に通話ボタンを押してしまい、
スマホが手からするりと落ちて床に転がった。

『もしもし、そら?』

床から、懐かしい声が響く。
一瞬、時間が止まったみたいにそらは固まった。

『……そら? 聞こえとる?』

二度目の呼びかけでようやく我に返り、
慌ててスマホを拾い上げる。

「あ、あのっ……春川です!」

『ははっ、何それ? どうしたん?』

スマホの向こうで、啓太朗が楽しそうに笑った。

『そら、LIMEのメッセージ見た?』

「はい、見ました!
 あ、えっと……内定、おめでとうございます!」

『ありがとう』

「早くないすか?」

『外資系の会社に決まったから。
外資は採用試験がちょっと早いねん。はよ受かってよかったわ』

「そうなんですね」

少しの沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのは啓太朗だった。

『そら、六月二日……会える?』

「会えます!
てか、予定入ってても、それ押しのけてでも会うんで! 
絶対俺と会ってください!」

スマホの向こうから、くすっと笑い声がした。

『相変わらず可愛いなぁ』

その一言で、そらの心を一瞬で恋の色に染め上げた。

『じゃあ、それ確認したかっただけやから。また連絡する』

「はい! 待ってます!」

通話が切れた。そらはスマホを握ったまま、
ベッドにバタンと倒れ込む。
そして自分のほっぺを思いきりつねった。

「……痛っ! 現実や……!」

布団の上で「あああああああああ!」と叫びながら、
ゴロゴロゴロゴロ転がった。

その夜、風呂から上がってふわふわしたままスマホをいじっていると、
LIMEの通知が鳴った。

『日曜日、久しぶりに息抜きで駅行くぞ。
俺靴買うから、それに付き合え』

それは涼からのお誘いだった。
最近は勉強ばかりで、ろくに出かけていないことに今さら気が付いた。

(あー、そういうの久しぶりやな……)

『わかった。どないする?バスで一緒に駅まで行く?』

すぐに既読がつき、返事が返ってきた。

『いや、俺、先にちょっと用事もあるから、駅前待ち合わせな』

『OK』

そらは窓を開け夜の空気を吸い込んだ。
涼しさとぬくもりの間を行き来する風が気持ちいい。
それだけで、なんとなくただの休日がちょっと楽しみになった。