Summer Blue ~君が残したシトラスの嘘と約束~


助手席に乗り込んで、そらは思わず口をついた。

「……啓太朗さん、飲み屋やのに車なんすね」

「仕事帰りやし、一旦家に車置きに行くのもめんどかったからな。
どうせあいつら、飲み始めたら止まらんやろ? 
そしたら絶対帰れんなる……だから、これは戦略なんよ」

啓太朗が悪いことを思いついたような子供の顔をしていて、
そらの胸がまたキュッと縮こまる。

(なんやねん、その顔。好きすぎる……)

「今日で最後やったね」

不意に落とされた言葉が、そらにグサッと刺さる。

「もうこれでそらのゾンビ見れへんと思ったら……
やっぱり寂しいなぁ」

「いやいや、俺、思ったんすけど」

わざと明るい声で返す。

「啓太朗さん、結局受付ばっかやったじゃないすか。
ゾンビもおばけもしてへんし」

「そんなことないと思うけどなあ」

軽口を交わしながら、車はもう見慣れた道に入っていく。

いよいよこれで最後かと思うと、
そらの胸の奥から、言葉にならない何かがこみあげてくる。

「そら、あと五分ぐらいで家着いてまうけど、
ちょっとだけドライブせえへん?
 どこ行くわけでもないけど」

「したいです! します!」

 啓太朗からの思いがけない誘いに、
驚きよりも先に嬉しさが言葉になっていた。

「そら、今日、門限は?」

「大丈夫っす。打ち上げって言ってるんで、
親も気にしてないです」


「……そっか」

啓太朗の口角が、少しだけ上がる。

「じゃあ……星、見に行こか」

「……星?」

「そう、星。往復で一時間半は見とってほしいけど……ええ?」

「全然大丈夫っす。行きましょう、星」

明るいやり取りの裏で、二人とも気づいていた。
別れの時間がせまっていることを知りながら、
それを忘れようと必死だった。

 車は山の方へと向かい舗装された細い道に入った。
ガードレールがヘッドライでト光り、道端に落ちる影が流れていく。
街の灯りが少しずつ減ってくのが、
ふたりでいられる時間とシンクロしているみたいで、
ただ切なくて、堪らなかった。

「……啓太朗さんってさ、運転あんま得意やないって言っとったのに、
けっこういろんなとこ知ってるんすね」

「いやー、自分で行くのはほとんど初めてやで。
隣に乗せてもらうのは結構あるけどな。
帰ってきた時に、地元の奴らがいろんなとこ連れてってくれるから」

「へぇ〜」

「兄貴もドライブ好きやったしな。
前も言うたけど免許取りたての頃、よう練習付き合わされてん。
だから知っとるだけやで」

少し間を置いて、声のトーンがふっと優しくなる。

「でも、俺が自分で誰か連れてきたのは、全部そらが初めて」

ドカン、と胸の奥で何かが爆発した。

(……そんな言葉、反則やろ……)

「……もうさぁ……お別れってわかってんのに、
なんでそんな惚れさすんすか。やめてくださいよ」

 小さく口を尖らせて、せいいっぱい明るくしてみせた。
本当は、自分の口からついて出た
『お別れ』の言葉に打ちのめされそうになっている。
気を抜けば涙が零れ落ちそうになるのを必死に食いしばって、
そらはわざと話題を変えた。

「今年のゾンビ、去年より怖くなかったっすよね」とか、
「あのお化け屋敷、どこに非常口あるんか未だに迷う」とか。
ふっと笑いが途切れたとき、そらはぽつりと口を開いた。

「さっき、居酒屋でちょっと聞いたんですけど……
就職、東京でしないんですね」

「うん。東京は……もうええかな。
嫌いとかやなくて、
向こうには向こうの良さもあるけど俺にはちょっと合わん気がしてな。
かといって、地元もなぁって思っとる」

「え、そうなんすか?」

「有力候補は、地元から少し離れた関西のどっかやな。
それより、そらは? 将来のことなんか決まっとるん?」

「俺っすか?」

少しだけ笑って、そらは前を向いたまま答える。

「俺、小学校の先生になりたいんすよ。
……だから、大学は地元の教育大行くつもりで。
うちの学校、推薦枠もあるらしいんで、なんとかそれ狙ってます」

「先生かぁ。なんか、らしいな」

「でしょ?」

少しだけ肩の力が抜けて、そらも笑った。

「……親父らが引退するくらいには、教員も辞めて、
実家の酒屋つごうかなとも思ってるんすけどね。
ま、それはまだまだ先の話ですわ」

「ええな、しっかり考えとるやん」

「いや、しっかりってほどでも……
てか、目の前のテストが先決っす。
もう担任に『このままじゃ教育大やばいぞ』って釘刺されてて。
夏サボりすぎたっすわ……」

「……それは、がんばれ」

二人の声が、夜道にゆっくり溶けていく。
もう街の明かりはなく、満天の星空が見え始めていた。

しばらく街灯の少ない山道を静かに車が進んでいく。
窓の外には黒い山々の影と、かすかに聞こえる川の音だけ。
そらはふと、川の位置と車の進む方向に気づいた。

「……え、もしかして。これ、しのみダムっすか?」

そう問いかけると、啓太朗は笑って、軽くハンドルを切った。

「はい、あたりでーす。来たことある?」

「いや、ないっす。でも名前だけは聞いたことあります。
めっちゃ綺麗って有名っすよね。昼間来たら川遊びもできるって……」

「そうそう。去年、地元の奴らとバーベキューしたんよ、ダムで。
で、そのまま夜までおったんやけど、めちゃくちゃ星きれいやってさ。
……だから、そらにも見せたいなって思ってな」

その言葉に、
ときめくなって必死に言い聞かせても心臓は言うことを聞かず暴れだした。


「さあ、もうすぐ着くで」

「うわー、楽しみやなあ……」

車はゆるやかに坂を下って、駐車スペースに滑り込む。
二人が車を降りると、夜の空気がふわりと体を包んだ。
しんと静まり返った暗闇の中、川のせせらぎが近くで聞こえる。

そして、顔を上げた瞬間——。
そこに広がっていたのは、言葉を失うほどの星空だった。
闇の中に、数えきれない光の粒が散りばめられ、息が止まるほど美しかった。

深呼吸すると、澄んだ夜の空気と森の匂いが胸いっぱいに広がった。

「……うわあ」

思わず声が漏れる。

「どう? お気に召しましたか」

啓太朗がどこか誇らしげに微笑んだ。

「これは……やばいっす」

そらは瞬きも忘れて空を見上げたまま答える。

「今まで行った中で、ここが一番好きかもしれん」

啓太朗がくすっと笑い、同じように空を見上げる。

「俺も、実は一番ここが好き」

 ぽつりと続けた声は、川の水音に溶けるように消えていく。

「去年ここに連れてきてもらってからさ、
なんか悩み事があると、一人で来るんよな」

「へぇ……」

「今年は、全然来てなかったんやけど。
……帰るまでに一回、そらを連れてきたいなって思っとったからこれてよかった」


その横顔は星の光に照らされて柔らかく透けている。

「でもな、実は先週一人で予習しに来たんよ。
場所とか暗さとか、確認しとこうかなーと思って……
ちょっとダサいやろ?」

 少し照れくさそうに笑うその声が、そっと優しく胸に響く。

「……でも、それぐらいこの景色はそらに見せたかったんや」

そらはもう逃げ出したかった。
あと一回揺らぐと喉から好きの気持ちがあふれ出て大声で叫びそうになる。

「ほら、靴脱いでみ。
ちょっとだけ川渡ったら、すぐそこがダムなんよ。
座れる場所あるから。もっと綺麗に見える」

 そらは促されて無言で靴を脱いだ。
二人で並んで、裸足のままそっと浅瀬に足を入れる。
まだ夏の川なのに足先が触れた瞬間、
冬の朝に顔を洗った時のような冷たさが一気に駆け上がった。

「ひぃー、冷たっ……!」

「やろ。でも、気持ちええやろ」

ざぶざぶと水をかき分ける音だけが、
夜の静けさに響く。星の光が水面で揺れて、ふたりの足元をやさしく照らした。
対岸の平らな岩場にたどり着くと、並んで腰を下ろす。
星は、さっきよりもずっと近くに見えた。
手を伸ばせば届きそうなほどの光に、
そらはしばらく息をするのも忘れる。

「……あー、ここ、永遠におれそうっす」

ため息と一緒に、ぽろっと本音がこぼれた。

「やろ? よかった。最後にそらを連れて来れて」

最後という言葉が、夜の空気をかすかに震わせる。
そらの胸の奥に、さっきよりも重い何かが、ぼとりと落ちてきた。

「……最後、なんすよね。ほんまに」

そらが夜空を見上げたまま、ぽつりとつぶやく。

「うん。最後やで」

月明かりに照らされた横顔に、冷たい風がひとすじ通った。

「これで最後。
……もう、十日の午前中の新幹線に乗って、東京に帰る」

そらは何も言えず、ただ夜空を見つめた。
ズキズキした胸の痛みが血管を通って全身に広がっていく。

「なんか、この夏はさ、そらがおったから、あっという間やったなぁ」

そんなことを言うから——。

「……ほんと、啓太朗さんは、ずるいわ」

うつむきながら言った声は、ほんの少し震えていた。

「もう……これ、見送りは行けないっす。
たぶん俺、号泣してどえらいことになりそうやから」

「……」

「たぶん、新幹線……無賃乗車して、飛び乗ってまいそうやわ」

乾いた笑いでごまかしながらも、目の奥はずっと熱いまま。

「それは困るなぁ……」

啓太朗が、少し笑って返してくれる。
ふたりのあいだにそっと沈黙が落ちる。
その沈黙は苦しいのに、やさしい。
森の木々も満天の星空も川の流れも、
すべてがふたりを包み温かく見守ってくれている。
そんな錯覚に、心が後押しされている気がした。

「……啓太朗さん」

「ん?」

「ほんまに、最後やから……
もう別に返事とか、いらないんで。
俺の気持ち……言っても、いいっすか?」

啓太朗は、すぐには答えなかった。
目を伏せ、ひと呼吸置いてから、静かにうなずく。

「……うん。いいよ。ちゃんと聞く」

そらは星空を仰ぎ、息を整えてからまっすぐ啓太朗を見た。
目の奥が焼けるように熱く、鼻の奥に鋭い痛みが走った。
それでも、まっすぐ逃げずに言葉を紡ぐ。

「……啓太朗さん。俺、やっぱり……
啓太朗さんのこと、めっちゃ好きっす。
この夏……ほんま、めっちゃ楽しかった。これが初恋やって思ったもん。
辛いことも多かったけどな……啓太朗さんのせいで」

笑おうとした口元は震えて、目の奥はもう滲んでいた。

それでも、そらは言葉を続ける。

「でもな、全然後悔なんかしてへんし、
この夏のこと全部、きっと俺の一生の宝物になると思う」

啓太朗は、何も言わずに聞いていた。
その横顔が、夜の青に沈んで、輪郭だけが優しく浮かんでいる。

「……啓太朗さん、
俺のこと縛らへんし次の恋いってもええって言うとったやないですか。
でもな、俺……絶対そんなんできへんわ。
たぶんずっと東京の方向いて『啓太朗さん』って思っとる気いする」

夜風がそっと吹き抜ける。
沈黙が、星の瞬きに溶けていった。
そらは必死に笑おうとするけど、
声が震えてきて……次の瞬間、涙がぽろぽろと頬を伝いはじめた。

「……俺、啓太朗さんの恋人になりたかった……」

泣きながらも、最後まで言葉を絞り出した。
その瞳には、ダムよりも深く濃い想いが揺れている。

「あぁ……俺の初恋、ホンマ最高やったわ。ありがとう、啓太朗さん」

唇の端が、わずかに笑みの形を作った。
けれど、それもすぐに涙に溶けていった。

「啓太朗さん、東京でも頑張って。
就活、応援してるんで……俺も次、高三やし今から本腰入れて勉強します。
啓太朗さんが東京で頑張っとるって思ったら、なんか俺も頑張れる気ぃしますわ」

そらの視線はずっと川下のほうへと伸びていた。
風が頬を撫でていく。どこまでも流れ続ける川を見つめながら。
ただ前へと静かに進む。

「……ほんまに、ほんまに……そ、ら……」

啓太朗は、それ以上言葉が続かなかった。
沈黙の中、彼の目から一筋の涙が頬を伝う。

「……俺、もうありがとうしか、出てこーへんわ」

彼は少し息を整えてから、低く、しかしはっきりと告げる。

「来年の七月、俺から連絡する。
絶対。でもこれは約束じゃない。
そらは守らんでええ。俺だけの、一方的な約束や」

そらが目を見開く間もなく、啓太朗はやわらかく続けた。

「また、そらが今年より楽しい夏になるように……祈っとく」

そう言って、そっとそらの額に唇を落とす。
ほんの一瞬、かすかに触れただけのキス。
それなのに、そのキスから伝わるのは、
愛しさも、切なさも、祈りも、期待も……
すべてが混ざっていて胸を締めつけた。


涙は止まらない。

「……さあ、帰ろか」

啓太朗は少し笑ってみせる。

「ずっと、ずっとここにおりたいけどな……
しゃあない、帰るしかないから」

そう言って、そっとそらの手を取った。
その手は驚くほど優しく、あたたかい。
指先に込められた想いを感じながら、ただ握り返す。
そらも同じように自分の好きを指先に込めて、
体温を通じて啓太朗に届いて欲しいと心から願った。

二人はそのまま、夜の川辺から車まで、ゆっくりと歩く。
ピチャピチャと水を踏む音が、夜の静けさにやさしく溶けていく。

(帰りたくない。ずっと、ずっとこのままおれたらええのに――)

やがて車が見えてくる。
啓太朗が立ち止まり、深呼吸をしていた。

「なぁ、そら。もし、そらが許してくれるんやったら……
最後に、思いっきりハグしてもいい?」

返事をする間も惜しいように、
そらは飛び込むように啓太朗の胸へ抱きついた。
シトラスの香りがはっきり鼻をかすめる。
今までで一番近く、強く、包まれている。

この匂い、このあたたかさ、この鼓動――。

(……忘れたくない)
心から、そう思った。

そらは泣きながら、胸に顔をうずめたまま、かすれた声で言った。

「啓太朗さん……これ、香水っすよね。どこのやつですか?
俺もおんなじの、使いたい」

啓太朗は驚いて、そして頭を撫でた。

「……そんな、かわいいこと言ったら……離れられんくなるやろ」

そして、さらに強く抱きしめる。

「あとで携帯にリンク送ったるわ。お揃いにしよか」

その瞬間、お互いの心が、そっと理解し合った。

言葉にはしなくても、「さよなら」が胸の奥で鳴っていた。
ゆっくりと腕をほどき、啓太朗が小さく微笑む。

「――ほな、行こか」

啓太朗にやさしく背を押され、車に乗り込んだ。
ドアが閉まる音が夜の静寂に響き、エンジン音が二人の余韻をやさしく包んだ。