九月最初の土曜日。サンサンパークのプールはまだ営業中だが、
とりあえずこの週末で夏の繁忙期はひと段落する。
今日は、そらと啓太朗が並んで働ける最後のシフトだった。
九月に入って、いつもの顔ぶれの中に空席が目立つようになってきた。
笑い声も少し減って、どこか寂しい空気が漂っている。
吹き抜ける風の温度もやわらいで、
もう夏がゆっくり遠ざかっていくのを感じた。
「ちょっと早いけど、お疲れ会&黒川さん行ってらっしゃい会しよか!」
少し物寂しい空気の中、
自然とみんなが集まって地元の居酒屋へ向かった。
「おい、未成年組は絶対酒飲むなよ。炭酸で我慢しとけよー」
「わかってますって〜」
テーブルには唐揚げやポテトが次々と運ばれ、
油の匂いが腹を刺激する。
笑い声が飛び交う中、ふと誰かが啓太朗に聞いた。
「黒川くん、大学三年やんな? 就活とかどうすんの?」
「んー……まだあんまり考えてへんけど、
東京よりは関西かな。
地元に帰ってくるかはわからんけど……
東京は、もうええかなって思ってる」
「そうなん? 俺も一回でええから東京住んでみたいわー」
何気ない会話の一端にすぎないのに『東京はもうええかな』という、
その言葉だけが心にざらりと残る。
最近のそらは、ずっとどこか上の空だった。
授業の内容は頭に入らないし、休み時間もぼんやり窓の外を見ているだけ。
どこか遠くに意識が飛んでいて中身のない抜け殻のようだった。
「お前、マジで抜け殻やな。中身どっか行っとるで」
「うーん……そうかぁ?」
料理の並んだ机に突っ伏したまま、気の抜けた声を出す。
「はぁ……ほんま重症やな」
涼が大きく息をついて目の前のポテトをそらの口に運んだ。
それを、微動だにせず口だけを動かして食べる。
「あと三日で黒川さん東京帰ってまうんやろ?
そんなんでええんか?」
「……いいも何も、俺、ふられとんやで。
しかも、無駄に三回……しかも最後には、お情けまでかけられたんや。
来年、まだ俺が啓太朗さんのこと好きやったら、
そのときは俺から告白する――やって。
そんなん、落ち込んどる俺を見かねてついた、
その場しのぎの嘘に決まっとるやん」
伏せた顔から漏れる声は重く沈んでいる。
「ほんま、もう、しんどいわ。
もう……これ以上、傷つきたない。何も考えたない……」
自分の声なのに、
どこか遠くから聞こえるみたいで他人事のようにぼんやりと響く。
すると、いきなり背中にバシンと衝撃が走った。
乾いた音と同時に、体がビクッと跳ねてのけぞった。
「いっ……てぇ! なにすんねん!」
「お前の持ち味はなんや?
まっすぐで、素直で、一直線ちゃうんか? このポンコツ!」
その言葉が胸の奥をズドンと打ち抜いた。
ただでさえ啓太朗に振られてボロボロなのに、
そこに追い打ちをかけられて……。
そらは何も言えず、唇をきゅっと噛みしめた。
「今のお前は、もうスライムや。
だらだら、ねちゃねちゃ、ぐちゃぐちゃしやがって……
お前のええとこ、一個もなくなってもとるぞ」
ドン、と目の前のテーブルが鳴った。
そらの前にコーラのペットボトルと唐揚げが置かれる。
「ほら、炭酸飲んでうまいもん食べて元気出せや」
「……うい」
情けない声で返していると「おい、そら、こっち来い」と、
涼がひょいっと体をひねる。
端っこの席に並んで座っていたのに、
背を向けたかと思えば、そらの肩に腕を回してきた。
「え? 何ごと?」
「お前さ……もう、完璧に諦めたんか?」
「……なんでそうなんねん」
そらは口をとがらせ、むすっと言い返す。
「東京帰ります。はい、だから諦めます。
バイバイ、おわりって。そんな、きれいさっぱりできるかいな」
言い終えたあと、声が少し震えているのに気づく。
「でも……もう砕けたくないんや。
これ以上、傷つきたくない」
「アホかお前は砕けてナンボやろ。
砕け散ってナンボの春川そらやろが」
「……物騒な紹介すな」
「ええか? やって砕けたら、それで終われる。
でもな、やらんと終わったら、一生引きずるからな?」
そらは黙ったまま、少しだけ考えて——ポツリと口を開く。
「……なあ。でも、お前、啓太朗さんのこと反対してたやん。
あんなやつやめとけって」
「まぁ、そやな」
「やのになんで急に応援しだすん? 何の心変わりなん?」
「……まあ、俺も一回、腹割ってあの人と話したからな」
「へえ?」
「正直、まだいけ好かんけどな!
都会っぽいし、モテるし、イケメンやし。
ほんで意外と大人げないしな。ほんま全部ムカつく」
「いやそれ、ただのひがみやん」
「うっさい。まあ聞けや」
涼は一度仕切りなおすように肩を組みなおした。
「あんな人でもな……いろいろあるらしいわ。
……だから、頭ごなしに目の敵にするのはやめることにした。
だからってめっちゃ応援するわけちゃうけどな」
「……うん」
「ただお前がこのままだらだら終わるぐらいやったら、
後悔するぐらいやったら……
最後にもっかい砕け散ってこい」
「……くだけ……」
「そうや。どでかく砕け散ってまえ。
ど派手に。花火みたいに。ドカーーーンと!」
涼が笑いながら手を広げる。
「これからまた、誰かに出会って……
彼氏か彼女か、どっちかわからんけど、
ラブラブの相手ができるかもしれへん。
そしたら、あんなクソみたいな奴のこと、笑って忘れられるかもしれへん」
「……」
「でも、最後にもう一回ちゃんと告白して、
秋になって、冬になって、春になって……
それでもまだ、やっぱ好きやったって思ったらさ」
涼がまっすぐそらの目を見る。
「それはもう、ほんまもんやろ」
その一言に、そらの胸が少しだけ熱くなる。
涼はコップのコーラを一気に飲み干して、笑った。
「ほな、俺が一丁お膳立てしたるから……まあ、見とけ」
そう言うやいなや、涼が思いっきりのしかかってきた。
「……は? お、おい、なに——」
「……そら、なんか頭痛なってきた。ちょっと俺しんどいわ」
わざとらしく眉間を押さえ、そらの肩に寄りかかる。
「今からチャリで送ってくれへん?
ニケツで……そのままそらんち泊まろかな。
どうせ明日も一緒やろ。部屋、泊めてや」
「はっ……な、な、なんやねんお前、いきなり」
慌てるそらの耳元で、涼が小声で囁く。
「ええから……話、合わせろ」
「……は?」と返す間もなく、涼が腰に腕を回してくる。
「なあ、もうそら、帰ろう。先出よ」
その瞬間、すぐ横から啓太朗の声がした。
「涼くん、しんどいんやったら……俺が送ったろか?」
「いやいやいや、結構ですー。そらに送ってもらうー」
涼はさらに体をずらして、
ほぼ寝転んだ格好でそらの腰にしがみつく。
周りの先輩たちが「おいおい、いちゃつくな」
「何やってんねん」と笑って茶化してくる。
そこへ、顔なじみの居酒屋スタッフが手を叩く。
「はい、未成年は解散ー。何人か送ってったるから準備しぃな!」
涼はそらにだけ聞こえる声で、ぽつりと言った。
「……作戦、成功」
その顔はいたずらっ子みたいににやけていて、
そらは思わず眉をひそめる。
「先輩! なんか、そらはコンビニ寄りたいみたいなんすよ」
そらは「は?」と小声で聞き返す間もなく、涼が続けた。
「だから、そらは別で申し訳ないんやけど……
黒川さん、送ったってもらえます?」
涼はちらりとそらを振り返り、ニヤリと笑う。
(……おい、マジか)
心臓が一気に跳ね上がるのを、
そらはごまかすように視線を落とした。
「はぁ? 何言——」
言いかけた瞬間、啓太朗が落ち着いた声で口を挟む。
「いいよ。そらは俺が送る。ほな行こ」
あっという間に流れが決まってしまい、
そらは呆然と涼を見る。涼はしたり顔で親指を立てた。
「ほな未成年のみんなはそら以外、うちが送るわー」
「はいはい、割り勘なー!」と年上組がまとめて
、居酒屋は一気にお開きムードになった。
外に出ると、夜風が少しだけ涼しい。
気まずい沈黙がふたりの間に横たわったまま、
並んで歩く足音だけが響いた。



