翌日。
胸の奥がズキズキしていて、目も腫れて重たい。
それでも、バイトの時間は容赦なくやってくる。
少しでも気を抜いたら、また泣きだしそうなくらい心が不安定だ。
よりにもよって、今日の担当は啓太朗も同じ「お化け屋敷」。
ただそれだけで、胸の奥がぎゅっと潰されるみたいに痛んだ。
腫れたまぶた、むくんで輪郭の消えた顔。鏡に映る悲惨な自分の姿。
「……終わった」
つぶやいた瞬間、また涙がにじみそうになって、
慌てて顔をそらした。
靴を履いて、ドアノブを握る手がやけに重い。
外に出た瞬間、夏の日差しが容赦なく襲ってくる。
光は鋭くて目に刺さり、蝉の声は頭に響いてうるさい。
世界はこんなにも鮮やかなのに、自分の中だけ色が全部抜け落ちたみたいだ。
「……はぁ……」
そらは、重い腰を上げて自転車をこぎ出す。
駅に着いたときには、もうすでに気力の半分が削られていた。
いつもの、ど派手なサンサンパーク行きの送迎バス。
正面の虎の顔も、にぎやかな音楽も、
今日はただの騒音でしかない。
足を引きずるように乗り込んで、席にずるずる沈み込む。
もういっそこのまま深い海の底に引きずり込まれて沈んでしまえればいいのに……
窓の外を眺めるふりをしながら、まぶたの裏で闇がゆっくり広がった。
控室に入るなり、すぐに声が飛んできだ。
「うわ、そらくん……目パンパンやん」
「昨日泣いた? どしたん?」
一瞬、息が詰まる。
苦笑いを貼りつけて、強引に言葉をひねり出した。
「夜中に、めっちゃ感動する映画見てもーて……
泣きすぎて寝れんかったんすよ」
「……大丈夫なん?」
「全然! 大丈夫っす! 心配かけてすんません!」
口角だけあげて頬が引きつるのが自分でもわかる。
みんなは一瞬言葉を飲みこみ、各自持ち場に向かった。
きっとなにか察して、あえて触れずにいてくれたのだろう。
気まずさと優しさが混ざった空気。
そこにはそらと涼、そしてロッカーの前で髪を整える啓太朗だけが残った。
「黒川さん」
涼が唐突に立ち上がった。
いつもと違う、かすかに怒りを含んだ声で、
まっすぐ啓太朗を射抜いていた。
「……ちょっと、いいっすか」
控室の空気が、一瞬で凍りつく。
「俺、こいつと幼馴染みなんですけど、
めっちゃええヤツなんすよ。
素直で、まっすぐで、一生懸命で。
不器用なりに、髪とか服とか頑張って……
あんたに好かれたくて必死やったんすよ。
俺、ぜんぶ知ってますから」
啓太朗の目に、一瞬だけ痛みが浮かぶ。
けど涼は止まらない。
「もしも……もしも、あんたのこの夏の気まぐれってやつで、
こいつの事もてあそんでんねやったら。
俺は絶対あんたのこと許さんからな」
言葉に重さを込めて、涼は啓太朗を睨みつけた。
「黒川さんにとっては遊びかもしれんけど、
こいつにとっては人生かかっとるんです。
そこんとこ、ほんまにわかってます?」
「……遊びやなんて思ったこと、一度もない」
その声は淡々としていて、驚くほど冷静だった。
「ちゃんと、そらくんには向き合ってるつもりや。
……まあ、涼くんの言いたいことも、分からんでもないけど」
ぽつりと息を吐いて、彼は目を伏せた。
「大事にされて、守られて……
地元の中で楽しく暮らしてきた君らには、
わからんかもしれんけどな。……大人にはいろいろあんねん」
「……また、そうやって逃げるんすか」
堪えていた声が、震えながら漏れる。
啓太朗はちらりとそらを見やり、少しだけ語気を強めた。
「逃げてない。……俺は俺なりに、真剣に向き合ってる」
短く、きっぱりと。
そして冷静さを崩さないまま、突き放すように言った。
「わかってへんのは、君らの方やで」
そのまま腕時計を見下ろし、淡々と続けた。
「……もう出勤の時間や。
切り替えて、仕事はちゃんと頑張ろうな」
それだけを残し、啓太朗は扉を押し開けて出ていった。
静かに閉まる音のあと、
残された空気は、まだ重たく張りつめたままだった。
「……行こか。時間や」
そらは小さくうなずいた。
顎に力を込めて、こぼれそうな涙をぎりぎりでせきとめる。
泣いている場合じゃない、今は仕事や──。
そう自分に言い聞かせて、ふたりは静かにお化け屋敷へ向かった。



