「そら……」
けれど、そらには届かなかった。
前を向いたまま、ただじっと座っている。
──ぽた。
左の頬を伝って、一粒の涙がこぼれ落ちる。
その音なき声が、車内の静寂を大きく揺らした。
涙は一粒で終わらず、まるで堰が切れたように、
ぽろぽろ、ぽろぽろと溢れていく。
拭っても止まらず、呼吸も乱れて、うまく息が吸えない。
「……そう、やった。俺……忘れてた。楽しすぎて……
この夏、めちゃくちゃ楽しくて……啓太朗さんが……
東京の人やってこと、すっかり、忘れてた……」
言葉を繋ぐたび、肩が震えた。
(いや……忘れてたんやない。ただ見たくなくて、
現実から目を背けたくて、
自分で心の奥に押し込んで蓋しとっただけや……)
手で顔を覆いながら、嗚咽が混じる。
指の隙間から、ぽつ、ぽつと雫が落ちていく。
「俺……なんで……なんで、
こんな……好きになってもたんやろ……」
「……っ」
その瞬間、シトラスの香りとともに抱きしめられていた。
そして頬に残った涙へ、啓太朗は静かに唇を落とした。
ほんの軽く。触れるだけの、優しいキス。
視線が重なり、距離が近づく。
今度は唇に、何度も。
やさしく、軽く、気持ちを確かめ合うように。
「……んっ……」
すると、啓太朗の瞳がフッと揺れ、身体が離れた。
「……ごめん……」
その一言で、空気が沈む。
静かで、重たい沈黙。
「……家まで送る。帰ろか」
さっきまでとはまるで違う声。
低くて遠いその声は、そらの胸を氷の刃で切り裂いた。
「……はい」
短く返事をすると、
それきりふたりは一言も喋らなかった。
車は夜の街をゆっくり抜けていく。
街灯の光がフロントガラスを横切るたび、
啓太朗の横顔が浮かんでは消えた。
やがて車がそらの家の前に止まる。
エンジンが切れ、静寂のあと、啓太朗が口を開いた。
「……じゃあ、またバイトで」
でも、そらは動かなかった。
シートに沈んだまま俯いて黙っている。
その頬を、涙が切り裂くように流れた。
「……ずるいわ」
かすれた声。
けれど、啓太朗の胸に、はっきりと刺さった。
「啓太朗さん。これは……恋愛初心者の俺でもわかる。
……ずるくない? 振りましたよね俺のこと。
東京に帰るんやろ? なのに、優しくして、キスまでして……
俺が好きなの、知っとるくせに……なんで……
気もたせるようなこと、すんの……?」
最後はもう、涙でぐしゃぐしゃだった。
それでも、そらは全身で想いをぶつける。
「もう、わからんわ」
沈黙が落ちる。
啓太朗はしばらく言葉を探して、
「……ごめん。ほんまに」と言った。
「……啓太朗さん、それしか、言わんよね。
俺、うっとうしい?
そりゃ、そうよな。しつこいよな……振られてるのに……」
言葉を詰まらせて、か細く続ける。
その姿に、啓太朗はゆっくり手を伸ばし、
震えるそらの手を優しく握った。
「……違う。そんなふうに思ったこと、一度もない」
そらが顔を上げると、
啓太朗の瞳がまっすぐ自分を捉えていた。
「……そらが好きって言ってくれて、
ほんまに嬉しかった。これは嘘やない。
でも……今の俺やったら……そらを守れん」
再び、静かな沈黙が落ちた。
そらは目を見開いたまま、ただ震える声で言った。
「……それじゃぁ、わからん……」
啓太朗は小さくうなずいて、視線をそらした。
「……うん。やんな……ほんま、ごめん」
そらはしばらく見つめていたけど、
やがて目を閉じて、小さく息を吐く。
「……わかった。もう、ええわ……
啓太朗さんのことは……諦める」
その声は静かに、でも強く車内に響いた。
「……ご飯、ごちそうさまでした。
じゃあ……おやすみなさい」
そらは振り返らずに、暗い玄関に向かう。
──気づいたら、ベッドにうつ伏せで倒れていた。
靴を脱いだ覚えも、ドアを閉めた感覚もない。
ただ、布団に沈んだ音だけが現実だった。
目を閉じても、啓太朗の顔が浮かぶ。
車内の声も、温度も、シトラスの香りも。
唇に残った、軽いキスの感触も。
熱は消えないまま、涙だけがこぼれていく。
ぽたぽたと枕を濡らしながら、
声も出せずに、泣き続けた。
(……もう、終わった)
喉が痛い。
目も鼻も頭も痛い。
でも、胸の奥はそれ以上に締めつけられて痛い。
「……バイトも行きたくない。啓太朗さんに会うの、いやや……」
「……一生、もう誰も好きにならん……」
呟いた瞬間、また涙があふれる。
呼吸が苦しくて、感情もぐちゃぐちゃて、
ただ心が沈んでいった。
「……もう、全部……やめたい……」
そのまま着替えもせず、布団にくるまる。
湿った枕に顔を埋め、涙のまま、眠りに落ちた。



