高二の夏が始まった。
今年も、町の遊園地「サンサンパーク」で夏限定のバイトが始まる。
サンサンパークは、山々にぐるりと囲まれた高台にある。
最寄駅から車で二十分、川沿いを抜けて山道を登れば、
澄んだ空気と一緒に観覧車のシルエットが見えてくる。
夏休みの間だけ、地元の子どもたちや観光客で賑わう特別な場所だ。
春川 空(はるかわ そら)は、
園内の片隅にある控室の前で、スマートウォッチに視線を落とした。
時刻は午前八時三十五分。
夏休みの始まり。
浮ついた期待と不安の粒が同居して、交互にのどを通り抜ける。
ドアを開けると、数人の仲間がすでに集まっていた。
去年と同じ顔ぶれで、空は少しホッとして口元が緩んだ。
「おはようございます!」
室内を見回すと、懐かしい笑顔が次々に返ってくる。
「空くんやん。おはよう」
「今年もよろしく!」
「はい、よろしくお願いします!」
初日の朝特有の、少し張りつめた空気が控室を包んでいる。
笑い声もどこか小さく、みんな少しだけ背筋が伸びている気がした。
去年と同じ夏――。
そう思った矢先、控室の扉がノックされた。
会話が中断され、自然とみんな振り返る。
ドアが開いた瞬間、空気が変わった。
そこには背の高い男の人が入ってきた。
空の見たことない顔だった。
「お疲れ様です。今日からお化け屋敷の応援に入ります。黒川 啓太朗(くろかわ けいたろう)です。よろしくお願いします」
低く通る声。落ち着いた雰囲気。
背筋はまっすぐのびていて、
所作に無駄がない。
彼はひと目で「大人だ」とわかる雰囲気を纏っていた。
「サンサンパークは高校の頃から働いていて、今年で六年目になります。ずっとプールがメインでした。お化け屋敷は今年初めてです。よろしくお願いします」
「え、黒川さん?」
「うわ、久しぶりやなぁ。こっち入ってくれんのめっちゃ助かるー」
その反応だけで、彼がただの新人ではないとわかる。
周囲は彼の登場に浮かれて、楽しそうに笑い合っている。
「おーい、そろそろ聞いてなー」と社員がホワイトボードの前に立った。
そして、次々に担当エリアの割り振りを書き込んでいく。
「春川くんは去年と一緒で中盤のゾンビ担当な。あの回転扉のところや」
「了解っす!」
元気よく返事をした瞬間、彼がこちらを見た。
ほんの一瞬、視線が重なる。
「黒川くんは入り口案内と緊急対応。お化け屋敷は初めてやけど、サンサンのバイト自体は長いし、サポート頼むで」
「はい」
低く落ち着いた声が耳に残る。
鼓動が一拍遅れて跳ね、息をするのも忘れていた。
開園前の遊園地は、静寂に包まれている。
観覧車は止まったままで、風の音と鳥のさえずりだけが耳に届く。
お化け屋敷は入口から一番離れていて、
かなり奥まった場所にある。
メリーゴーラウンドやジェットコースター、
プールを抜けてさらに、
その先にあるなだらかな丘を登らなければならなかった。
「黒川さん、お化け屋敷初めてなんすね」
斜め前を歩いていた黒川が少し驚いたように振り向き、「うん、そう」とだけ言った。
「てっきり、全アトラクション経験済みなんかと思いました。みんな知ってるみたいやし」
「プールがメインやったからなぁ。大きいアトラクションは社員さんらが動かしとるし。小さいのは何個か担当したけど、お化け屋敷は初めてやな。中がどうなっとるんか楽しみや」
彼はそう言って穏やかに笑った。
百八十センチ近い長身。
細すぎず無駄のないバランスよく整った体。
切れ長の目が印象的で、派手な顔立ちではないのに輪郭のどこをとってもきれいに整っている。
ダサいと評判の黄色いスタッフTシャツでさえ、
彼はカッコよく着こなしていた。
一方の自分はというと、身長百七十二センチ。
高いわけでも低いわけでもない。
それでも黒川の隣に立つとどうしても小さく見える。
最近はおしゃれに目覚めて髪も伸ばし始めた。
朝、鏡の前でワックスをつけてみるけど、
それが似合っているのかどうかは自分でもよくわからない。
「……春川、やんな?」
「は、はいっ。そうです。春川空です。
みんな、『そら』って呼んでるんで……黒川さんもそう呼んでください」
「そらか。……いい名前やな。めっちゃさわやか」
その言葉だけで、心臓がドクンと跳ねた。
「……ありがとうございます。なんか照れます……」
「じゃあ俺のことは啓太朗な」
「えっ、いやいや、それは無理っすよ! めっちゃ年上っすよね?」
「今、大学三年やね。二十一歳」
「うわ、めっちゃ大人やん。じゃあ……啓太朗さんって呼んでいいですか?」
「いいよ。ふふ……照れるなぁ」
ふたりはそれ以上何も言わず、静かに前を向いて歩きだした。
やがて開園の音楽が鳴り、サンサンパークが動き出す。そらもゾンビの衣装に着替え、お化け屋敷の中盤エリアへ向かった。館内は薄暗く、空調の音に混じってお経が流れている。たまにヒュゥーとかチーンとかいかにもホラーな音が響いて、慣れているそらもビクッと肩を震わせた。薄明かりに照らされた通路。ミイラやゾンビの人形たち。
――ああ、この空気、懐かしい。
そらが去年の記憶をかみしめていると、小さな子供連れの親子が近づいてきた。 母親の足にしがみついている五歳くらいの男の子は、鼻水を垂らしながらこれでもかというくらい泣いている。
「すみません……ちょっともう無理みたいで……」
「大丈夫ですよ! すぐ出口にご案内しますね!」
そらが誘導ライトをつけたそのとき。別ルートから戻ってきた啓太朗と出くわした。
「……こっちのが近いで」
低く静かな声。暗闇の中すれ違ったその瞬間、ふわっとシトラスの香りが鼻をかすめた。
(今の……香水?)
ほんの一瞬、視線が交差する。
そらは香りと視線の余韻を抱えたまま、親子を出口まで送り届けた。
「今日、みんなで飯行かへん? 歓迎会ってか、決起集会?」
「とりあえずこのメンバーだけで、打ち上げっぽい感じのやつ!」
控室はバイト初日を無事終えた高揚感で満ちていた。まだ少し緊張は残っているけれど、みんな今朝ほどのぎこちなさはなくなっていた。
「黒川さんも来ますよね?」
誰かの声に、そらも期待を込めて目を向ける。
「いやー、今日はやめとくわ。昨日帰省したばっかりやし、さすがに家帰るわ」
「うわ真面目―!」
「俺やったら迷わず行くけどな。バイト終わりのビール最高!」
「お前と黒川さん一緒にすんな!」
控室が笑いに包まれる中、そらはひっそりと落胆していた。
(なんや……こーへんのか……)



