幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 “来るな”。

 その三文字は、俺の中の何かを、綺麗に折った。

 廊下を早足で進みながら、視界の端がずっと滲んでいる。
 泣いてない。泣いてないはずだ。
 ただ、埃が目に入っただけ。そういうことにしておく。

 でも。

 胸の奥がずっと痛い。
 息を吸うたび、痛い。
 吐くたび、少しだけ楽になる気がして――また吸って痛くなる。

 意味が分からない。

 俺はどこへ向かっているのかも分からないまま、階段を上がった。
 気づいたら、校舎の上の方。
 放課後の静かな屋上。

 誰もいない場所が欲しかった。
 今の俺は、誰かに見られたら崩れる。

 柵の前に立ち、外を見た。

 夕方の空が薄い橙色に染まっている。
 遠くで部活の声が聞こえる。
 楽しそうな笑い声。

 全部、遠い。

 俺の世界だけが、ガラスの向こうみたいに隔離されてる。

「……馬鹿だな、俺」

 小さく呟いて、苦笑した。

 助けたかった。
 囲まれている琉人を、助けたかっただけ。

 幼馴染だから。
 それだけのはずだった。

 なのに。

 琉人は俺を見て、迷いなく言った。

 ――来るな。

 俺に向けた言葉だ。

 あの声は、冷たかった。
 何も残さない音だった。

 俺はその瞬間、分かった。

 俺が近づくことは、琉人にとって邪魔なんだ。
 迷惑なんだ。
 必要ないんだ。

 だから、もう。

 期待しない。
 近づかない。
 昔に戻ろうなんて、思わない。

 それが、俺が生きるための唯一の方法だ。

 ……そうしないと、壊れる。

 ガラスに映る自分の顔は、情けないくらい赤かった。
 茶髪のゆるふわパーマが、いつもよりぼさっとして見える。
 目だけが妙に大きくて、涙を堪えてるのがバレそうだった。

 俺は鞄の持ち手を強く握りしめて、息を吸った。
 帰ろう。
 今日は帰ろう。

 琉人のことを考えるのをやめよう。

 そう思って踵を返した瞬間――

「崎枝」

 背後から声がした。

 聞き慣れた声。
 落ち着いた声。
 うるさくない声。

 真木だ。

 俺は反射で顔を隠すように下を向いた。

「……何で」
「顔が終わってるぞ」
「……」
「バカだなぁ」

 真木は俺の横に立ち、窓の外を見た。
 空の色が変わっていくのを眺めながら、淡々と言う。

「さっき見たぞ」
「……見たって、何を」
「篠山が囲まれてたのと、お前が突っ込もうとして止められたの」

 俺の胸が、ぎゅっと縮む。

「……見ないでよ」
「無理無理。廊下の真ん中だぞ」

 真木は容赦がない。
 でも、その容赦のなさが少しだけ救いだった。

 俺は唇を噛んで、震える声を押し殺した。

「……俺さ、助けようとしただけなのに」
「止められたってわけか」
「……来んなって言われた」

 言った瞬間、喉が痛くなる。
 言葉にしたら、現実になる。

 真木は少しだけ黙ってから言った。

「傷ついたな」
「……ん……」

 分かってる。
 傷ついた。
 でも認めたら、本当に終わりそうで怖い。

 真木は俺の顔を見ないまま続ける。

「お前はどうしたい」
「……どうしたいって何」
「このまま、何もしないのか」

 俺は笑ってしまった。
 笑い方が、きっと泣きそうだったと思う。

「何もしないよ。だって……あんなこと言われたし」

 来るな。

 つまり、来るな。
 話しかけるな。
 近づくな。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 真木は小さく息を吐く。

「じゃあ、お前から距離取る?」
「……取る」

 即答だった。

 即答しないと、揺れる気がしたから。

「もう、話しかけない」
「……本気か?」
「本気」

 言った瞬間。

 胸の奥が、ちくっと痛んだ。

 でも、痛みより先に、楽になった気がした。
 諦めたら楽になる。
 そういうやつだ。

 真木は俺の顔をちらっと見る。

「お前、嘘つくの下手」
「……嘘じゃない」

 嘘じゃない。
 嘘じゃないけど。

 “話しかけない”って宣言してるのに、心が泣いている。

 俺は鞄を肩にかけ直した。

「もう帰る」
「送る」
「要らない」
「お前今、危ない顔してる」

 危ない顔って何。
 自分が危ないのは分かるけど、顔に出てるのは嫌だ。

 俺は早足で階段を下りた。
 真木もついてくる。

 廊下を曲がったところで、視界の端に人影が見えた。

 ――琉人。

 昇降口の方へ向かう途中、廊下の角に立っている。

 一人。
 女子はいない。

 たぶん、逃げてきたんだ。
 いつもの無表情で、壁に背中をつけている。

 俺は足が止まりかけた。
 反射で。
 体が、近づこうとしてしまう。
 でも、俺はその瞬間、思い出した。

 ――来るな。

 胸が痛い。

 俺は視線を逸らして、琉人を見ないようにした。
 真木が小声で言う。

「……いるな」
「……知らない」
「崎枝……」

 俺は唇を噛み、琉人の横を通り過ぎようとした。

 その時。
 琉人の声がした。

「……崎枝」

 呼ばれた。
 苗字で。
 心臓が跳ねた。
 でも、跳ねた心臓を自分で押さえつける。
 俺は足を止めずに、冷たく返した。

「何」

 声が、自分のものじゃないみたいだった。
 琉人の気配が僅かに動く。
 俺の方へ一歩近づいたような気がする。

「……さっきは」

 さっきは。

 何。
 何を言うつもりなの。

 謝るの?
 それとも、もっと突き放すんだろ?
 もういいよ。
 俺は怖くて、早く終わらせたくて。
 それでも、振り向いてしまった。

 琉人が、そこにいた。

 黒髪。
 高い背。
 冷たい目。

 だけど。

 その冷たい目の奥が、ほんの少しだけ揺れている気がした。

 ――気がしただけだ。

 俺は自分に言い聞かせる。
 期待するな。

 琉人が口を開く。

「……」

 言葉が出ないみたいに、唇が僅かに動いた。
 その沈黙が、逆に怖い。
 俺は先に言った。
 言ってしまった。

「もう、話しかけないから」

 自分の口から出た言葉に、自分でびっくりした。
 でも止められなかった。

 琉人の瞳が、一瞬だけ大きくなる。

 ほんの僅か。
 ほんの僅かだけど、表情が崩れた。

 冷たい仮面の端が、割れたみたいに。

 ……え?

 俺は息が止まった。

 琉人は何か言おうとした。
 でも、その前に俺が続けてしまう。

「琉人が嫌なら、俺はもう近づかない」

 言葉が刃みたいに落ちていく。

 言いたくなかった。
 でも言ってしまう。

 自分を守るために。
 これ以上傷つかないために。

「……だから、安心して」

 安心して。

 その言葉は、優しさじゃない。
 ただの突き放しだ。

 俺は言い終えた瞬間、胸がひどく痛んだ。
 琉人の表情が、僅かに固まる。

 そして、ほんの少しだけ――苦しそうに眉が寄る。
 でも、すぐにいつもの無表情に戻る。
 戻ってしまう。
 俺はその無表情が怖くて、視線を逸らした。
 真木が一歩前に出て、琉人をちらっと見る。

「……お前」
「……やめて」

 俺が小さく言う。

 違う。
 琉人は悪くない。

 俺が一方的に折れただけだ。

 琉人は何も言わない。
 ただ、拳を握りしめているのが視界の端に入った。

 ……握ってる。

 強く。

 でも、俺はそれを深く考えなかった。
 俺は今、琉人の何も見たくなかった。
 俺は背を向けて歩き出した。
 真木もついてくる。
 廊下の角を曲がる直前、琉人の気配が僅かに近づいた気がした。

 呼ばれる気がして、俺は息を止めた。

 でも、呼ばれなかった。

 静かなまま、放課後の帰り道が続く。

 俺は胸を押さえて歩いた。
 話しかけない。
 近づかない。
 そう決めたはずなのに。

 胸の奥は、今にも崩れそうだった。



 翌日。
 教室の空気が、少し変わっていた。

 いつもなら俺が教室に入ると誰かに声をかける。
 でも今日は、声が出ない。
 俺は自分の席に座り、弁当のことも、昼休みのことも考えないふりをした。

 隣の席に琉人が座ってくる。
 椅子の音が小さく鳴る。

 近い。
 なのに、遠い。

 俺は前だけを見る。

 そして、誰にも聞こえない声で、自分に言い聞かせた。
 ――もう、話しかけない。

 真木が後ろから小さく呟く。

「……大丈夫か?」
「大丈夫じゃない」

 周囲のクラスメイトも、少しずつ気づき始める。

「え、崎枝と篠山くん、今日静かじゃね?」
「昨日なんかあった?」
「喧嘩……?」

 囁き声が、また静かに広がっていく。

 でも今の俺は、それを止める気力もない。

 ただ。

 隣の席の気配が、いつもより重いことだけが気になった。

 琉人は何も言わない。
 何も言わずに、ノートを開く。

 でも――

 俺が「もう話しかけない」と言ったとき、
 ほんの一瞬だけ崩れた琉人の表情が、頭から離れなかった。

 あれは、何だったんだろう。

 嫌がってるだけなら、あんな顔をするはずがない。

 ……いや。

 期待するな。

 俺はペンを握り、文字を書いた。

 書いたはずなのに、心はずっと揺れていた。