幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 図書室の扉を閉めたあと。
 俺は廊下の壁にもたれて、しばらく動けなかった。

 胸が痛い。
 喉が詰まる。
 息を吸うと、苦しくなる。

 ――無理。

 琉人の声が、頭の中で何度も反響している。

 昔みたいに話したい。
 それだけの言葉だったのに。

 たったそれだけが、“無理”だと突き返されるだけで――俺はこんなに弱くなる。

「……俺、何してんだろ」

 小さく呟いて、笑おうとして。
 笑えなくて。

 俺は背中を壁から離し、ふらふらと歩き出した。

 帰ろう。
 今日はもう、帰ろう。

 図書室であんなこと言って、気まずくなって。
 それでも明日になれば、また隣の席で会う。

 会う。
 けど――会うだけ。

 きっと、これ以上は近づけない。

 そう思うと、胸の奥が冷たくなった。

 ……近づかなくていい。
 幼馴染じゃなくなっても、いい。
 そうやって諦められたら、どれだけ楽なんだろう。

 でも。

 諦めたいのに、諦められない。

 琉人がいる教室に戻ったら、
 琉人の横顔を見たら、
 きっとまた、期待してしまうから。

 俺は帰るために昇降口へ向かう。
 廊下を歩くと、ざわざわと人の気配が増えていく。
 放課後の学校は、部活や委員会で意外と賑やかだ。

 その中で、耳に入ってくる声があった。

「篠山くん、待って!」
「ねぇ、ほんとに一瞬だけでいいから!」

 ――琉人?

 胸が、ぎゅっと締まった。

 嫌な予感。
 だけど足が勝手に止まる。

 声の方向を見ると、廊下の先――図書室近くで、黒い影が見えた。

 背の高い美しいセンターパートの彼。
 完璧な姿勢。

 琉人だ。

 そして――琉人を囲むように、女子が数人立っていた。

 桐生を含めた女子たち。
 桐生だけじゃない。
 知らない子もいる。

 進学校の女子らしく、声は大きくない。
 でも、距離が近い。

 囲んでる。

 まるで“逃がさない”みたいに。

 俺の胸が痛む。

 ……なんで、今これを見るんだ。

 図書室で心が折れたばっかりなのに。
 これ以上、俺を痛めつけないでほしい。

 でも、見てしまう。

 琉人は表情を変えずに、淡々としていた。
 顔は冷たいまま。
 視線はどこにも落ち着かない。

 女子が言う。

「篠山くんさ、明日からでもいいから、一緒に帰れない?」
「転校してきたばかりだし、道とか分からないでしょ?」
「ね、少しだけでいいの!」

 ……分からないでしょって。
 琉人、現代人だぞ。

 そんな冷静なツッコミすら、胸の痛みには勝てない。

 琉人は短く言った。

「……無理」

 また“無理”。

 その言葉が、女子に向けられているのに、俺の胸にも刺さる。

 桐生が一歩近づく。

「篠山くん、そんなに拒絶しなくても……私たち、ただ話したいだけなのに」

 言い方が上手い。
 “悪者”を作る言い方。

 琉人の眉が、ほんの少しだけ動いた。
 でも、すぐ元に戻る。

「……興味ない」

 淡々とした拒否。

 女子の空気が少し揺れる。

 それでも、引かない。

 誰かが言う。

「崎枝くんとは話してるのに?」

 ……っ。

 その言葉が、俺の胸をえぐった。

 俺の名前を出すな。
 今ここで。
 俺を巻き込むな。

 俺は呼吸が止まりそうになりながら、立ち尽くしていた。

 琉人は女子を見たまま、短く言う。

「……崎枝は関係ない」

 関係ない。

 関係ないって、言った。

 それは女子への牽制の言葉かもしれない。
 俺を巻き込むな、って意味かもしれない。

 でも、俺の耳には――違う音で入ってきた。

 俺は関係ない。

 そう言われたみたいに聞こえた。

 胸の奥が冷たくなる。

 俺はその場に立っていられなくなって、足を動かした。

 ……やめろ。
 見ないふりをしろ。
 帰れ。

 そう思ったのに。

 俺の体は、琉人に向かって歩いていた。

 馬鹿だ。
 ほんとに馬鹿。

 でも――

 囲まれている琉人が、ほんの少しだけ苦しそうに見えた。

 表情は変わらないのに。
 空気だけが、窮屈そうだった。

 俺は思ってしまった。

 助けたい。

 助けたいって思った。

 幼馴染だから。
 そうだ、幼馴染だからだ。
 それだけだ。

 ――そう言い訳して、俺は近づいた。

「琉――」

 呼びかけようとした瞬間。

 琉人の視線が、俺を捉えた。

 一瞬で。

 冷たい黒い目が、俺を刺す。

 そして。

 琉人の口が、動いた。

「……来んな」

 ――え。

 耳が、理解を拒否した。

 来んな?
 俺に?
 今?

 琉人の声は低くて、冷たくて、余白がなかった。

 拒絶。
 完全な拒絶。
今までとは違う確実な拒絶。

 女子たちの空気が止まる。
 周りの廊下を歩く生徒の足音まで、遠のく。

 俺は、そこで足が止まった。

 動けない。
 息ができない。

 来るな。

 来るなって、言われた。

 俺は、何か言おうとした。

(助けたかっただけ)
(違う、そうじゃなくて)
(ごめん)

 「……」
 でも、言葉は出なかった。

 喉が詰まって、声が死んでいく。

 琉人は俺を見たまま、もう一度言った。

「……もう来んなって」

 同じ言葉。
 同じ温度。

 俺の胸の奥が、ぱき、と音を立てて割れた気がした。

 心が折れるって、こういうことなんだ。

 涙が出そうになって、俺は慌てて目を逸らした。
 泣くな。
 泣くな。
 泣くな。

 でも、視界が滲む。

 女子たちが勝ち誇ったように顔を見合わせる。
 桐生が小さく息を吐き、微笑んだ。

 その笑い声は、勝者みたいに聞こえた。
 俺の胸がさらに痛む。

 琉人は女子たちに向き直って、淡々と言った。

「もう行くから」

 そう言って、歩き出す。

 女子たちは道を開ける。
 琉人はそのまま、昇降口へ向かっていった。

 俺は――動けなかった。

 廊下の真ん中で、立ち尽くした。

 胸が痛い。
 息が苦しい。
 指先が冷たい。

 来るな。

 来るなって、言われた。

 俺は、近づかない方がよかったんだ。
 勝手に期待して、勝手に痛くなって。

 俺は何をしていたんだろう。

 幼馴染。
 久しぶり。
 同じクラス。

 そんな言葉に甘えて、勝手に“特別”を求めてた。

 琉人は、そんなもの望んでなかった。

 望んでないから、“無理”って言った。
 望んでないから、“来るな”って言った。

 ……分かった。

 分かったよ。

 俺はゆっくりと、後ろへ一歩引いた。
 そして、そのまま踵を返す。

 昇降口へ向かう琉人とは逆方向。

 どこへ行くかなんて、決めてない。
 ただ、あの場から消えたかった。

 廊下の窓に夕日が差して、床が赤く染まっている。
 その赤が、俺の胸の内側みたいだった。

 熱くて、痛くて、どうしようもない。

 俺は視界が滲むのを必死で堪えながら、早足で歩いた。

 泣くな。
 泣くな。
 泣いたら、終わる。

 でも、終わってしまったのは――もう、心の方だった。




 その頃。

 昇降口を抜けた俺は、冷たい風の中で足を止めた。

 誰もいない。

 そこでようやく、肩が少しだけ落ちる。

 俺は拳を握りしめていた。
 爪が皮膚に食い込むほど強く。

 手が、少し震えている。

 誰にも見えないように。
 誰にも気づかれないように。

 ――さっき、言ってしまった。

 「来るな」と。

 あんなに冷たく。

 でもそれは、拒絶じゃない。
 拒絶に見せるための言葉だった。

 俺の胸の奥は、静かに痛んでいた。

 けれど雄大は――その痛みに気づかない。

 ただ、心が折れたまま。

 俺から遠ざかっていった。