放課後。
チャイムが鳴ると、教室が一気に緩む。
部活へ向かう人、残って自習する人、早々に帰る人。
青霞学院の放課後は、それぞれの“目的”に分かれる。
俺は――
目的が、定まっていなかった。
いや、正確には。
目的はある。
琉人と、話したい。
でも、話す理由がない。
いつかの書類みたいな口実が、今日はない。
それに、昼休みにあんなことがあったせいで、余計に近づきにくい。
いや、本当は図書室に行って、中間テストの対策をしなければならない。
先週行われた天文学基礎の小テストで赤点を食らってしまった。
家では勉強できないので、他に勉強している人がいれば自ずとできると思って図書室ですることにした。
琉人は何も気にしていないように見える。
でも俺は、気にしてしまう。
だって俺は、琉人のことが――
……いや。違う。
違う、って言い聞かせる。
幼馴染だし、寂しいだけだし。
昔みたいに話したいだけだし。
その言い訳を胸に積んだまま、俺は鞄を肩にかけて席を立った。
隣を見る。
琉人も立ち上がっていた。
鞄を持って、机の上を整えて、静かに帰る準備をしている。
俺は呼び止めたい衝動を飲み込んだ。
ここで呼んだら、また“無理”って言われる気がする。
だから、今日も――
俺は一歩引いた。
琉人が教室を出ていく。
黒い背中が遠ざかる。
俺はその背中を見つめてから、ふっと視線を落とした。
「崎枝」
真木が後ろから声をかけてきた。
「今日も浮かない顔してるな」
「俺、そんな顔してる?」
「してる」
真木は淡々と続ける。
「図書室、行くんだろ」
「……うん」
「その顔は“逃げ場所探してる顔”だな」
……当たってる。
俺は苦笑して鞄の紐を握り直した。
「課題の参考文献、探さないと」
「大変だなー。赤点は」
「うるさ」
真木は呆れたように息を吐く。
「行ってこい。ついでに頭冷やせ」
「ありがと」
俺は教室を出た。
図書室は、校舎の奥にある。
廊下を曲がると、空気が変わる。
足音が吸い込まれるように静かになって、喋り声も自然と小さくなる。
扉を押す。
カラン、と控えめな鈴の音。
中は静寂。
古い紙とインクの匂いがして、落ち着く。
……ここなら。
琉人のことでいっぱいになった頭を、少しだけ整理できる気がした。
俺は棚の間を歩きながら、探すふりをする。
課題の参考文献。
天文学の授業で出された“近代科学の軌跡”がどうとか。
でも、正直何でもいい。
何かに集中してないと、胸が潰れそうだから。
俺は適当な棚で立ち止まり、背表紙を眺める。
――と、その時。
視界の奥に、見覚えのある黒があった。
背が高い。
姿勢がいい。
黒髪のセンターパート。
……嘘だろ。
琉人。
図書室の奥、窓際の席。
一人用の机に座って、本を読んでいる。
姿勢が美しい。
空気に溶け込むみたいに静かで、なのに存在だけが異常に目立つ。
俺の心臓が、どくんと跳ねた。
どうしてここに?
帰るんじゃなかったの?
俺は足を止めた。
迷う。
近づく?
帰る?
いや、図書室だし、話しかけても迷惑だろ。
……迷惑。
その言葉が胸に刺さる。
俺が近づくのは、いつも“迷惑”なんじゃないかって思ってしまう。
でも。
ここで何もしなかったら、今日も終わる。
また一日が、過去になっていく。
俺は小さく息を吸い、足音を殺して近づいた。
琉人の視線は本に落ちたまま。
気づいていないのか、気づいていて無視しているのか分からない。
俺は机の横で立ち止まり、声を落とした。
「……琉人」
琉人がページをめくる手を止めた。
ゆっくり顔を上げる。
黒い瞳が、俺を映す。
「……何」
静かな声。
図書室の空気に馴染む冷たさ。
俺は小さく笑って、指で棚の方を示した。
「課題の本、探しに来た。琉人も?」
「……そう」
短い答え。
でも“そう”って言った。
俺を追い払わなかった。
その事実に、胸がまた軽くなる。
こういう瞬間に浮かれると、あとで落ちる。
俺は自分に言い聞かせる。
それでも、足が勝手に動いてしまった。
「隣、座ってもいい?」
口から出てしまった。
言った瞬間、後悔が襲う。
図書室で、二人きり。
また噂になったら。
桐生に見られたら。
――面倒なことになる。
でも、琉人は一瞬だけ沈黙して。
「……勝手にしな」
その言葉が返ってきた。
……またそれ。
“勝手にしな”は、琉人の最低限の許可だ。
俺は心臓を落ち着かせながら、隣の席に座った。
距離は近い。
でも、触れないくらいの距離。
俺は本を一冊取って、適当にページを開いた。
文字が目に入らない。
琉人がページをめくる音だけが響く。
沈黙。
静かすぎる沈黙。
昼休みの空き教室では平気だった沈黙が、ここでは妙に重い。
理由は分かってる。
図書室は、“言葉”の場所だからだ。
黙っていると、言えないことが増えていく気がする。
俺は耐えきれず、喉の奥に溜まっていたものを出した。
「……琉人さ」
琉人の視線がわずかに動く。
顔は向けない。
「何」
俺は唇を噛んでから、言った。
「……やっぱ昔みたいに話しそうよ……」
その言葉は、願いというより――祈りだった。
昔みたいに。
笑って。
くだらないことで喧嘩して。
帰り道に寄り道して。
俺が転んだら笑って、でも手を差し伸べて。
そんな当たり前の時間。
それが欲しいだけ。
なのに。
琉人の空気が、一瞬だけ硬くなる。
ページをめくる手が止まる。
沈黙が落ちる。
俺は息を止めた。
拒絶される予感が、肌を冷たくする。
琉人はゆっくり本を閉じて、俺を見た。
目が冷たい。
でも、そこに怒りはない。
ただ、決めたみたいな硬さがある。
「……無理」
たった二文字。
でも、その二文字は鋭かった。
胸が、きゅっと縮む。
「……そっか」
俺は笑おうとした。
笑って誤魔化そうとした。
でも、うまく笑えない。
喉が熱い。
目の奥が熱い。
俺は本の文字を見つめたまま、言葉を探した。
無理。
昔みたいに話すのは無理。
それは、つまり――
昔には戻れないってことだ。
琉人は、もう俺の幼馴染じゃないってことだ。
そんな現実が、胸の内側を冷たくしていく。
俺は小さく息を吐いた。
白い吐息は、図書室では見えない。
なのに胸の中だけ、白く冷える。
「……ごめん。変なこと言って」
言ってしまった後で、自分が惨めになる。
謝りたくなかったのに。
琉人は何も言わなかった。
本を開き直して、視線を落とす。
会話が終わる。
俺の心が、そこで折れた。
俺は立ち上がることもできず、ただ本を閉じた。
ここにいると、苦しい。
隣にいるのに、遠いのが苦しい。
俺は震える指で本を棚に戻し、席を立った。
「……俺、戻る」
琉人は顔を上げない。
「……好きにしろ」
好きにしろ。
その言葉が、さっきより冷たく聞こえた。
俺は何も言えず、図書室の出口へ向かった。
カラン、と鈴が鳴る。
廊下に出た瞬間、胸が痛くなって息ができなくなった。
……無理。
その言葉が頭の中で何度も反響する。
無理って、何だよ。
幼馴染なのに。
久しぶりなのに。
少しずつ近づいた気がしたのに。
箸を拾ってくれた。
昼休み、場所教えてくれた。
泣くなって言ってくれた。
優しいみたいな瞬間があったのに――
「昔みたいに話したい」は無理。
俺は廊下の壁に背中をつけて、深く息を吸った。
泣くな。
琉人はそう言った。
だから泣かない。
泣かないけど。
胸が痛いのは、止められない。
図書室の中。
彼はページを見ていた。
文字は目に入っていない。
胸の奥が熱い。
指先が冷たい。
彼は、机の下で片手を握りしめた。
――ぎゅ、と。
拳が、わずかに震える。
誰にも見えないように。
誰にも気づかれないように。
机の上では、何事もなかったように本を開いたまま。
でも、その拳だけが。
小さく、確かに――震えていた。
俺はそれを知らない。
俺はただ、廊下で苦しくなって、息を整えていた。
琉人の冷たさの奥で何が揺れているのか。
まだ、何も知らないまま。
チャイムが鳴ると、教室が一気に緩む。
部活へ向かう人、残って自習する人、早々に帰る人。
青霞学院の放課後は、それぞれの“目的”に分かれる。
俺は――
目的が、定まっていなかった。
いや、正確には。
目的はある。
琉人と、話したい。
でも、話す理由がない。
いつかの書類みたいな口実が、今日はない。
それに、昼休みにあんなことがあったせいで、余計に近づきにくい。
いや、本当は図書室に行って、中間テストの対策をしなければならない。
先週行われた天文学基礎の小テストで赤点を食らってしまった。
家では勉強できないので、他に勉強している人がいれば自ずとできると思って図書室ですることにした。
琉人は何も気にしていないように見える。
でも俺は、気にしてしまう。
だって俺は、琉人のことが――
……いや。違う。
違う、って言い聞かせる。
幼馴染だし、寂しいだけだし。
昔みたいに話したいだけだし。
その言い訳を胸に積んだまま、俺は鞄を肩にかけて席を立った。
隣を見る。
琉人も立ち上がっていた。
鞄を持って、机の上を整えて、静かに帰る準備をしている。
俺は呼び止めたい衝動を飲み込んだ。
ここで呼んだら、また“無理”って言われる気がする。
だから、今日も――
俺は一歩引いた。
琉人が教室を出ていく。
黒い背中が遠ざかる。
俺はその背中を見つめてから、ふっと視線を落とした。
「崎枝」
真木が後ろから声をかけてきた。
「今日も浮かない顔してるな」
「俺、そんな顔してる?」
「してる」
真木は淡々と続ける。
「図書室、行くんだろ」
「……うん」
「その顔は“逃げ場所探してる顔”だな」
……当たってる。
俺は苦笑して鞄の紐を握り直した。
「課題の参考文献、探さないと」
「大変だなー。赤点は」
「うるさ」
真木は呆れたように息を吐く。
「行ってこい。ついでに頭冷やせ」
「ありがと」
俺は教室を出た。
図書室は、校舎の奥にある。
廊下を曲がると、空気が変わる。
足音が吸い込まれるように静かになって、喋り声も自然と小さくなる。
扉を押す。
カラン、と控えめな鈴の音。
中は静寂。
古い紙とインクの匂いがして、落ち着く。
……ここなら。
琉人のことでいっぱいになった頭を、少しだけ整理できる気がした。
俺は棚の間を歩きながら、探すふりをする。
課題の参考文献。
天文学の授業で出された“近代科学の軌跡”がどうとか。
でも、正直何でもいい。
何かに集中してないと、胸が潰れそうだから。
俺は適当な棚で立ち止まり、背表紙を眺める。
――と、その時。
視界の奥に、見覚えのある黒があった。
背が高い。
姿勢がいい。
黒髪のセンターパート。
……嘘だろ。
琉人。
図書室の奥、窓際の席。
一人用の机に座って、本を読んでいる。
姿勢が美しい。
空気に溶け込むみたいに静かで、なのに存在だけが異常に目立つ。
俺の心臓が、どくんと跳ねた。
どうしてここに?
帰るんじゃなかったの?
俺は足を止めた。
迷う。
近づく?
帰る?
いや、図書室だし、話しかけても迷惑だろ。
……迷惑。
その言葉が胸に刺さる。
俺が近づくのは、いつも“迷惑”なんじゃないかって思ってしまう。
でも。
ここで何もしなかったら、今日も終わる。
また一日が、過去になっていく。
俺は小さく息を吸い、足音を殺して近づいた。
琉人の視線は本に落ちたまま。
気づいていないのか、気づいていて無視しているのか分からない。
俺は机の横で立ち止まり、声を落とした。
「……琉人」
琉人がページをめくる手を止めた。
ゆっくり顔を上げる。
黒い瞳が、俺を映す。
「……何」
静かな声。
図書室の空気に馴染む冷たさ。
俺は小さく笑って、指で棚の方を示した。
「課題の本、探しに来た。琉人も?」
「……そう」
短い答え。
でも“そう”って言った。
俺を追い払わなかった。
その事実に、胸がまた軽くなる。
こういう瞬間に浮かれると、あとで落ちる。
俺は自分に言い聞かせる。
それでも、足が勝手に動いてしまった。
「隣、座ってもいい?」
口から出てしまった。
言った瞬間、後悔が襲う。
図書室で、二人きり。
また噂になったら。
桐生に見られたら。
――面倒なことになる。
でも、琉人は一瞬だけ沈黙して。
「……勝手にしな」
その言葉が返ってきた。
……またそれ。
“勝手にしな”は、琉人の最低限の許可だ。
俺は心臓を落ち着かせながら、隣の席に座った。
距離は近い。
でも、触れないくらいの距離。
俺は本を一冊取って、適当にページを開いた。
文字が目に入らない。
琉人がページをめくる音だけが響く。
沈黙。
静かすぎる沈黙。
昼休みの空き教室では平気だった沈黙が、ここでは妙に重い。
理由は分かってる。
図書室は、“言葉”の場所だからだ。
黙っていると、言えないことが増えていく気がする。
俺は耐えきれず、喉の奥に溜まっていたものを出した。
「……琉人さ」
琉人の視線がわずかに動く。
顔は向けない。
「何」
俺は唇を噛んでから、言った。
「……やっぱ昔みたいに話しそうよ……」
その言葉は、願いというより――祈りだった。
昔みたいに。
笑って。
くだらないことで喧嘩して。
帰り道に寄り道して。
俺が転んだら笑って、でも手を差し伸べて。
そんな当たり前の時間。
それが欲しいだけ。
なのに。
琉人の空気が、一瞬だけ硬くなる。
ページをめくる手が止まる。
沈黙が落ちる。
俺は息を止めた。
拒絶される予感が、肌を冷たくする。
琉人はゆっくり本を閉じて、俺を見た。
目が冷たい。
でも、そこに怒りはない。
ただ、決めたみたいな硬さがある。
「……無理」
たった二文字。
でも、その二文字は鋭かった。
胸が、きゅっと縮む。
「……そっか」
俺は笑おうとした。
笑って誤魔化そうとした。
でも、うまく笑えない。
喉が熱い。
目の奥が熱い。
俺は本の文字を見つめたまま、言葉を探した。
無理。
昔みたいに話すのは無理。
それは、つまり――
昔には戻れないってことだ。
琉人は、もう俺の幼馴染じゃないってことだ。
そんな現実が、胸の内側を冷たくしていく。
俺は小さく息を吐いた。
白い吐息は、図書室では見えない。
なのに胸の中だけ、白く冷える。
「……ごめん。変なこと言って」
言ってしまった後で、自分が惨めになる。
謝りたくなかったのに。
琉人は何も言わなかった。
本を開き直して、視線を落とす。
会話が終わる。
俺の心が、そこで折れた。
俺は立ち上がることもできず、ただ本を閉じた。
ここにいると、苦しい。
隣にいるのに、遠いのが苦しい。
俺は震える指で本を棚に戻し、席を立った。
「……俺、戻る」
琉人は顔を上げない。
「……好きにしろ」
好きにしろ。
その言葉が、さっきより冷たく聞こえた。
俺は何も言えず、図書室の出口へ向かった。
カラン、と鈴が鳴る。
廊下に出た瞬間、胸が痛くなって息ができなくなった。
……無理。
その言葉が頭の中で何度も反響する。
無理って、何だよ。
幼馴染なのに。
久しぶりなのに。
少しずつ近づいた気がしたのに。
箸を拾ってくれた。
昼休み、場所教えてくれた。
泣くなって言ってくれた。
優しいみたいな瞬間があったのに――
「昔みたいに話したい」は無理。
俺は廊下の壁に背中をつけて、深く息を吸った。
泣くな。
琉人はそう言った。
だから泣かない。
泣かないけど。
胸が痛いのは、止められない。
図書室の中。
彼はページを見ていた。
文字は目に入っていない。
胸の奥が熱い。
指先が冷たい。
彼は、机の下で片手を握りしめた。
――ぎゅ、と。
拳が、わずかに震える。
誰にも見えないように。
誰にも気づかれないように。
机の上では、何事もなかったように本を開いたまま。
でも、その拳だけが。
小さく、確かに――震えていた。
俺はそれを知らない。
俺はただ、廊下で苦しくなって、息を整えていた。
琉人の冷たさの奥で何が揺れているのか。
まだ、何も知らないまま。
