あの空き教室。
扉を開けると、静かな光が俺たちを包んだ。
ここだけ、学校の音が遠い。
風の音が小さく窓を叩いて、冬と春の混じった匂いがする。
琉人は椅子に座る。
昨日と同じ位置。
俺は隣に座るか迷って――昨日と同じくらいの距離に座った。
近すぎると怖いし、遠すぎると寂しい。
ちょうどいい距離なんて、俺には分からない。
弁当箱を開ける手が、少し震えた。
琉人はパンの袋を丁寧に開け、静かに食べ始める。
なんだろう。
この空気。
会話がないのに、完全な拒絶ではない。
それが甘いのか苦いのか、俺の中でまだ決まってない。
俺は箸を取って、卵焼きを口に運ぶ。
「……うま」
思わず声が漏れる。
琉人が、視線だけ俺に寄越した。
「……自分で作ったのか」
「え? ううん。これは母さん。俺はたまに手伝う程度」
「ふうん」
たったそれだけ。
たったそれだけで、胸が跳ねる。
俺、ほんとどうかしてる。
しばらくして、俺は我慢できずに口を開いた。
「琉人、昼ってさ」
琉人の目が動く。
顔は向かない。
「……何」
「毎日ここにいくの?」
聞きながら、心臓がうるさい。
答えによっては、俺の居場所が消える気がするから。
琉人はパンを一口食べてから、淡々と言った。
「……静かだから」
昨日と同じ答え。
でも、その答えが“俺が来てもいい”の理由になる気がして、胸が少しだけ軽くなる。
「そっか。俺も静かなとこ好き」
嘘だ。
俺は賑やかな場所も好きだ。
でも“ここ”は好きになってしまった。
琉人がいるから。
俺はそんな自分に少しだけ落ち込んで、弁当に視線を落とした。
その瞬間。
箸を置いた指先が、机の端に当たって。
コロン、と小さな音がした。
「……あ」
落ちた。
箸。
手元から滑って床に落ちた。
変なところで鈍い俺は、一拍遅れて動いた。
拾わなきゃ、と体を屈める――その前に。
琉人が、すっと手を伸ばした。
長い腕が、床へ。
動作が速い。無駄がない。
琉人の指先が箸を拾う。
「ほら」
琉人が、俺の方へ差し出した。
茶色と青の箸。
その上に、琉人の指。
――近い。
俺は思わず息を止めた。
「ありが……」
礼を言いながら、俺は手を伸ばす。
受け取るだけ。
ただそれだけ。
なのに。
琉人の手が――
一瞬、止まった。
差し出したまま。
ほんの一瞬、時間が固まったみたいに動かなくなる。
指先の角度も、距離も、そのまま。
まるで、触れるかもしれない未来を避けるように。
まるで、触れたら何かが壊れるみたいに。
俺の指が、ほんの少し近づくだけで――
琉人の手が、わずかに引いた。
逃げるというほど大きな動きじゃない。
でも確かに、“避けた”。
そして、琉人の瞳が一瞬だけ揺れた。
冷たい黒が、ほんの少しだけ焦点を失ったように見えた。
……え?
今の、何?
俺は箸を受け取ったまま固まった。
琉人はすぐに手を引っ込めて、何事もなかったようにパンを持ち直す。
さっきの“止まった時間”なんて最初から存在しなかったみたいに。
だけど。
俺の中では、確かに今――何かが起きた。
嫌悪?
俺の手が汚かったとか?
いや、そんなことならもっと露骨に避けるはずだ。
琉人の反応は、違った。
“嫌”というより――
……動揺?
俺は胸がざわついて、言葉が勝手に口から漏れた。
「……今の、何?」
声が小さすぎて、自分でも驚いた。
琉人の動きが止まる。
パンを持った手が、ほんの少し固まった。
視線は窓の外のまま。
「……何が」
とぼけたような、いつもの短い返事。
でも、それが余計に怪しい。
俺は箸を握りしめた。
「俺が取ろうとしたとき、止まったじゃん」
「止まってない」
即否定。
……え、否定の仕方、早い。
俺は喉が乾いて、でも笑って誤魔化すことができなかった。
だって、見た。
感じた。
琉人は、俺の手に触れそうになって――止まった。
そこに“嫌悪”はなかった。
あるとしたら、もっと別の。
俺の胸が勝手に期待して、勝手に苦しくなる。
「……そっか」
俺はそれしか言えなかった。
それ以上突っ込んだら、壊れそうだから。
琉人の表情は変わらないのに、空気だけが少しだけ張り詰める。
しばらく沈黙が落ちた。
窓の外の冬空が高い。
遠くで体育館の方からボールの音が聞こえる。
俺は弁当の唐揚げを口に入れた。
なのに味がしない。
さっきの“止まった一瞬”が、頭の中で何度も繰り返されるからだ。
俺は耐えきれず、少しだけ話題を変えようとした。
「……琉人、パンそれ何?」
「……クリームパン」
「甘いの食べるんだ」
「別に」
またそれだ。
便利な言葉。
でも、俺はその“別に”に救われる。
会話が続くから。
俺たちは少しだけ喋って、また黙って食べた。
さっきよりは空気が柔らかくなった気がする。
でも俺の心臓は、ずっと忙しいままだった。
昼休みがもうすぐ終わるころ。
扉の外から足音が聞こえた。
コツ、コツ。
嫌な予感がする。
噂が広まった今、ここはもう“秘密”じゃない。
扉が、ギ、と開く。
そこに立っていたのは――
桐生だった。
清楚な黒髪。
優等生の笑顔。
でも目は、鋭い。
「あ、やっぱりここだった」
言葉は柔らかい。
でも“探してた”って音がする。
俺の喉が鳴る。
「篠山くん、これ。先生から。提出期限が明日で――」
桐生がプリントを差し出す。
琉人は顔色一つ変えずに言った。
「机に置いといて」
桐生の笑顔が、一瞬だけ固まる。
それでも、崩れない。
崩さないのが彼女の強さだ。
「分かった」
桐生はベンチの端にプリントを置き、今度は俺を見た。
「崎枝くん、ここ……落ち着くよね」
視線が刺さる。
“ここを知ってるのは、あなただけじゃない”
そんな牽制に聞こえる。
俺は笑って返すしかない。
「うん、静かでいいよね」
桐生は小さく頷いて、琉人へ視線を戻す。
「篠山くんって、誰にもあんな感じなの?」
探り。
しかも本人がいる前で。
俺が答える前に、琉人が淡々と言った。
「……誰でも同じだ」
冷たい声。
桐生はふっと笑う。
「そっか。ありがとう」
そして、扉を閉めて出ていった。
残った沈黙は、さっきより冷たかった。
俺は胸が苦しくて、視線を落とした。
誰でも同じ。
俺も同じ。
……そういうこと?
さっきの、あの一瞬の動揺は。
俺の勘違い?
俺が勝手に意味をつけただけ?
俺は指先で箸を握り、先を少し潰してしまう。
琉人が立ち上がった。
「戻る」
いつもの言葉。
いつもの冷たさ。
俺は弁当箱を片付けながら、小さく言った。
「……うん」
歩き出す琉人の背中。
高くて、遠い。
なのに――さっきの一瞬だけ、近づいた気がした。
触れそうになって、止まった手。
揺れた瞳。
あれが俺の気のせいじゃないなら。
琉人の冷たさの奥には、何か矛盾がある。
拒絶じゃないのに、近づかせない。
嫌いじゃないのに、距離を取る。
俺は廊下で小さく息を吐いた。
冬の息が白くなる。
……今の、何?
答えは出ない。
でも。
あの一瞬だけ、俺は確かに見た。
琉人の“冷たさ”に隠れてる、
説明できない矛盾を。
それが甘いのか、苦いのか。
俺はまだ分からないまま、隣の席へ戻っていった。
扉を開けると、静かな光が俺たちを包んだ。
ここだけ、学校の音が遠い。
風の音が小さく窓を叩いて、冬と春の混じった匂いがする。
琉人は椅子に座る。
昨日と同じ位置。
俺は隣に座るか迷って――昨日と同じくらいの距離に座った。
近すぎると怖いし、遠すぎると寂しい。
ちょうどいい距離なんて、俺には分からない。
弁当箱を開ける手が、少し震えた。
琉人はパンの袋を丁寧に開け、静かに食べ始める。
なんだろう。
この空気。
会話がないのに、完全な拒絶ではない。
それが甘いのか苦いのか、俺の中でまだ決まってない。
俺は箸を取って、卵焼きを口に運ぶ。
「……うま」
思わず声が漏れる。
琉人が、視線だけ俺に寄越した。
「……自分で作ったのか」
「え? ううん。これは母さん。俺はたまに手伝う程度」
「ふうん」
たったそれだけ。
たったそれだけで、胸が跳ねる。
俺、ほんとどうかしてる。
しばらくして、俺は我慢できずに口を開いた。
「琉人、昼ってさ」
琉人の目が動く。
顔は向かない。
「……何」
「毎日ここにいくの?」
聞きながら、心臓がうるさい。
答えによっては、俺の居場所が消える気がするから。
琉人はパンを一口食べてから、淡々と言った。
「……静かだから」
昨日と同じ答え。
でも、その答えが“俺が来てもいい”の理由になる気がして、胸が少しだけ軽くなる。
「そっか。俺も静かなとこ好き」
嘘だ。
俺は賑やかな場所も好きだ。
でも“ここ”は好きになってしまった。
琉人がいるから。
俺はそんな自分に少しだけ落ち込んで、弁当に視線を落とした。
その瞬間。
箸を置いた指先が、机の端に当たって。
コロン、と小さな音がした。
「……あ」
落ちた。
箸。
手元から滑って床に落ちた。
変なところで鈍い俺は、一拍遅れて動いた。
拾わなきゃ、と体を屈める――その前に。
琉人が、すっと手を伸ばした。
長い腕が、床へ。
動作が速い。無駄がない。
琉人の指先が箸を拾う。
「ほら」
琉人が、俺の方へ差し出した。
茶色と青の箸。
その上に、琉人の指。
――近い。
俺は思わず息を止めた。
「ありが……」
礼を言いながら、俺は手を伸ばす。
受け取るだけ。
ただそれだけ。
なのに。
琉人の手が――
一瞬、止まった。
差し出したまま。
ほんの一瞬、時間が固まったみたいに動かなくなる。
指先の角度も、距離も、そのまま。
まるで、触れるかもしれない未来を避けるように。
まるで、触れたら何かが壊れるみたいに。
俺の指が、ほんの少し近づくだけで――
琉人の手が、わずかに引いた。
逃げるというほど大きな動きじゃない。
でも確かに、“避けた”。
そして、琉人の瞳が一瞬だけ揺れた。
冷たい黒が、ほんの少しだけ焦点を失ったように見えた。
……え?
今の、何?
俺は箸を受け取ったまま固まった。
琉人はすぐに手を引っ込めて、何事もなかったようにパンを持ち直す。
さっきの“止まった時間”なんて最初から存在しなかったみたいに。
だけど。
俺の中では、確かに今――何かが起きた。
嫌悪?
俺の手が汚かったとか?
いや、そんなことならもっと露骨に避けるはずだ。
琉人の反応は、違った。
“嫌”というより――
……動揺?
俺は胸がざわついて、言葉が勝手に口から漏れた。
「……今の、何?」
声が小さすぎて、自分でも驚いた。
琉人の動きが止まる。
パンを持った手が、ほんの少し固まった。
視線は窓の外のまま。
「……何が」
とぼけたような、いつもの短い返事。
でも、それが余計に怪しい。
俺は箸を握りしめた。
「俺が取ろうとしたとき、止まったじゃん」
「止まってない」
即否定。
……え、否定の仕方、早い。
俺は喉が乾いて、でも笑って誤魔化すことができなかった。
だって、見た。
感じた。
琉人は、俺の手に触れそうになって――止まった。
そこに“嫌悪”はなかった。
あるとしたら、もっと別の。
俺の胸が勝手に期待して、勝手に苦しくなる。
「……そっか」
俺はそれしか言えなかった。
それ以上突っ込んだら、壊れそうだから。
琉人の表情は変わらないのに、空気だけが少しだけ張り詰める。
しばらく沈黙が落ちた。
窓の外の冬空が高い。
遠くで体育館の方からボールの音が聞こえる。
俺は弁当の唐揚げを口に入れた。
なのに味がしない。
さっきの“止まった一瞬”が、頭の中で何度も繰り返されるからだ。
俺は耐えきれず、少しだけ話題を変えようとした。
「……琉人、パンそれ何?」
「……クリームパン」
「甘いの食べるんだ」
「別に」
またそれだ。
便利な言葉。
でも、俺はその“別に”に救われる。
会話が続くから。
俺たちは少しだけ喋って、また黙って食べた。
さっきよりは空気が柔らかくなった気がする。
でも俺の心臓は、ずっと忙しいままだった。
昼休みがもうすぐ終わるころ。
扉の外から足音が聞こえた。
コツ、コツ。
嫌な予感がする。
噂が広まった今、ここはもう“秘密”じゃない。
扉が、ギ、と開く。
そこに立っていたのは――
桐生だった。
清楚な黒髪。
優等生の笑顔。
でも目は、鋭い。
「あ、やっぱりここだった」
言葉は柔らかい。
でも“探してた”って音がする。
俺の喉が鳴る。
「篠山くん、これ。先生から。提出期限が明日で――」
桐生がプリントを差し出す。
琉人は顔色一つ変えずに言った。
「机に置いといて」
桐生の笑顔が、一瞬だけ固まる。
それでも、崩れない。
崩さないのが彼女の強さだ。
「分かった」
桐生はベンチの端にプリントを置き、今度は俺を見た。
「崎枝くん、ここ……落ち着くよね」
視線が刺さる。
“ここを知ってるのは、あなただけじゃない”
そんな牽制に聞こえる。
俺は笑って返すしかない。
「うん、静かでいいよね」
桐生は小さく頷いて、琉人へ視線を戻す。
「篠山くんって、誰にもあんな感じなの?」
探り。
しかも本人がいる前で。
俺が答える前に、琉人が淡々と言った。
「……誰でも同じだ」
冷たい声。
桐生はふっと笑う。
「そっか。ありがとう」
そして、扉を閉めて出ていった。
残った沈黙は、さっきより冷たかった。
俺は胸が苦しくて、視線を落とした。
誰でも同じ。
俺も同じ。
……そういうこと?
さっきの、あの一瞬の動揺は。
俺の勘違い?
俺が勝手に意味をつけただけ?
俺は指先で箸を握り、先を少し潰してしまう。
琉人が立ち上がった。
「戻る」
いつもの言葉。
いつもの冷たさ。
俺は弁当箱を片付けながら、小さく言った。
「……うん」
歩き出す琉人の背中。
高くて、遠い。
なのに――さっきの一瞬だけ、近づいた気がした。
触れそうになって、止まった手。
揺れた瞳。
あれが俺の気のせいじゃないなら。
琉人の冷たさの奥には、何か矛盾がある。
拒絶じゃないのに、近づかせない。
嫌いじゃないのに、距離を取る。
俺は廊下で小さく息を吐いた。
冬の息が白くなる。
……今の、何?
答えは出ない。
でも。
あの一瞬だけ、俺は確かに見た。
琉人の“冷たさ”に隠れてる、
説明できない矛盾を。
それが甘いのか、苦いのか。
俺はまだ分からないまま、隣の席へ戻っていった。
