幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 高校の怖いところは、成績でも校則でもない。

 噂の伝染速度だ。

 声を荒げる人はいない。
 盛り上がり方も派手じゃない。
 でも、だからこそ。

 囁きが、静かに、確実に広がっていく。

 昨日の昼休み。
 俺と琉人が、校舎の端の踊り場で二人きりになっていたこと。

 あれは、ちゃんと見られてたらしい。
 翌日の朝、教室に入った瞬間から空気が違った。

 視線が一瞬集まって、すぐ逸れる。
 ひそひそ声が飛んで、俺が近づくと止まる。

 ……やめてくれ。
 俺はこういう空気に弱い。

 席に着く前、女子数人の会話が耳に入る。

「昨日さ、篠山くんと崎枝くん……二人でどっか行ってなかった?」
「え、やっぱり? 私も見た」
「幼馴染って本当なんだ」
「っていうか、崎枝くんといると篠山くん、ちょっと雰囲気違う気がする」

 ちょっと。
 雰囲気違う。

 その言葉だけで心臓が跳ねる自分が、悔しい。
 俺は何も知らないふりをして、自分の席へ向かった。
 隣の席には、今日も琉人がいる。

 黒髪センターパート。
 背が高くて、姿勢がいい。
 顔が、反則みたいに整ってる。

 ……ここまで整ってると、同じクラスにいるのが怖い。

 俺が席に座ると、琉人は一瞬だけ視線を寄越した。

 でも、すぐノートへ戻る。

 いつも通り。
 冷たいくらい、いつも通り。

 ――なのに。

 昨日、確かに近づいた距離があるから、俺は余計に落ち着かない。

「崎枝」

 後ろから真木が声をかけてきた。

「お前、噂の中心だな」
「やめろって……」

「進学校の噂は、興味がない顔して加速する。気をつけろ」
「なに名言っぽく言ってんだよ……」

 俺はため息をついて、隣を見る。

 琉人は、周囲の視線を何一つ気にしていないように見えた。
 ……いや、気にしてない“ふり”なのかもしれない。

 分からない。

 分からないけど、分かってることが一つだけある。

 琉人は、俺にだけ冷たい。
 いや、正確には――俺にだけ“距離”がある。
 近づけそうで、近づけない距離。
 それが、俺を毎秒切なくする。


 昼休み。
 今日は、俺からは誘わなかった。

 昨日の“二人きり”が広まってる今、下手に動けば騒ぎが大きくなる。
 俺は進学校の噂の怖さを知っている。

 だから、今日は普通に教室で弁当を食べる。

 ……そのはずだった。

「篠山くん!」

 柔らかい声が教室に落ちた。

 その声の主は、俺の斜め前の席の女子――桐生秀美。
 成績上位で、先生からも信頼が厚い。
 髪は黒くて艶があって、清楚系。

 つまり、進学校の中でも“強い女子”のタイプだ。

 桐生は小さく笑って、琉人の机の横に立つ。

「昨日転校してきたばかりだし、学校案内しようと思って。よかったら昼、一緒に食べない?」

 ……きた。

 これが、こういう感じになるんだ。

 周囲の空気が、一瞬固まる。
 教室の女子たちが、何も言わずに耳をそばだてる。

 男子たちも、興味の目を向ける。
 俺は箸を持ったまま、動けなくなった。
 琉人が断るのか、受けるのか。

 それだけで、この教室の温度が変わる。

 琉人は顔を上げた。
 視線は冷静で、感情が見えない。

「ごめん、今日は大丈夫」

 短い。
 乾いた拒否。

 桐生は一瞬だけ表情を固めたけれど、すぐに綺麗な笑顔に戻した。

「そっか。急にごめんね。じゃあまた今度!」

 そのまま退く。

 上品な敗退。
 それが余計に、“次がある”空気を残す。

 教室が静かにざわついた。

「断った……」
「え、桐生さんでも?」
「篠山くん、女子興味ない系?」
「かっこいい……」

 ……うるさい。
 声は小さいのにうるさい。

 俺は弁当を食べながら、胸の奥が変な感じになっていた。

 断った。
 琉人は、桐生を断った。
 それは、変に安心するべきことなのに――
 なぜか、胸が痛む。

 桐生は綺麗だし、ちゃんとした女子だし、琉人と並んだらすごく絵になる。
 その二人が一緒に歩いていたら、誰が見ても“完璧”だ。

 俺は完璧じゃない。
 茶髪でふわふわしてて、声がでかくて、落ち着きがない。
 こういう進学校では、ギリギリ許されてるだけの存在。

 琉人は、俺といるのは恥ずかしくないのかな。
 そんな考えが頭をかすめて、苦しくなる。
 俺は箸を持ったまま、琉人を見ないようにした。
 ……見たら、余計に痛い。

 その時。

 琉人が机の上のパンを畳み、立ち上がった。
 そして、何も言わずに教室を出ていく。

「え、篠山くんどこ行くんだろう」
「トイレ?」

 周りが囁く。
 俺の胸がざわつく。

 ……昨日みたいに、“人が少ない場所”に行くのか。
 でも今日は俺、誘われてない。

 俺は無意識のうちに弁当を閉じて立ち上がった。

 真木が後ろから声をかける。

「行くの?」
「……行かない」

 そう言いながら、俺の足は止まらなかった。

「崎枝」
「……何」
「お前、嘘つくの下手だな」

 真木の言葉を背中に受けながら、俺は教室を出た。

 昼休みの人の波が行き交う廊下。
 俺はその中で、琉人の背中を探した。

 背が高いからすぐ見つかる。
 黒髪センターパートの、整いすぎた背中。

 琉人は階段を上がっていく。

 ……昨日と同じ方向。

 俺は追いかけた。

 でも、今日は昨日みたいに堂々と追う理由がない。

 だから、少しだけ距離を空けて。
 気づかれないように。
 ばれないように。

 ――バカみたいだ。

 幼馴染に、こそこそ尾行。
 でも、心が勝手に動く。

 琉人は屋上の踊り場の扉を開け、また中に入った。
 昨日と同じ場所。

 そして、扉が閉まる。

 俺は階段の踊り場で立ち尽くした。

 入る?
 入らない?

 入ったら、昨日の噂がさらに確定する。
 でも入らなかったら、琉人は“また遠く”なる。

 俺は扉を見つめたまま、拳を握った。

 ――俺は、昔の琉人に戻ってほしい。

 でも。

 戻ってほしいって思えば思うほど、
 今の琉人を否定してるみたいで怖い。
 息が詰まる。
 そのとき、扉の向こうから声がした。

「……入りなよ」

 低い声。
 はっきり、俺に向けられた言葉。

 心臓が跳ねた。

 ばれてた。
 気づかれてた。

 俺は顔が熱くなるのを感じながら、扉に手を伸ばした。

 ギ、と小さな音。

 扉の向こうに、琉人が立っていた。

「……何してんの」

 琉人の声は相変わらず冷たい。
 でも昨日の“無理”ほど拒絶じゃない。

 俺は視線を逸らしながら、苦し紛れに言う。

「いや……別に……」

「……嘘」

 即答。

 俺は黙るしかない。

 琉人は少しだけ眉を寄せて、ベンチに座った。
 昨日と同じ場所。
 同じ光の入り方。

 俺は隣に座るか迷って、結局少しだけ距離を空けて座った。

 近づくのが怖かった。
 でも離れるのも怖かった。

「……さっきの」

 琉人が言った。

「桐生」

 桐生。
 桐生さんのこと。

 俺の胸がぎゅっとなる。

「……うん」

「……断った」

「見てた。聞こえてた」

 琉人は少しだけ沈黙してから、続けた。

「……ああいうの、面倒だよな」

 面倒。

 その言葉は冷たいのに、琉人らしい気がしてしまった。

 俺は小さく笑う。

「モテすぎて大変だな」
「……別に」

 またそれ。
 “別に”は便利すぎる。

 でも、琉人は本当に興味なさそうだ。
 その事実に、胸の奥が少しだけ楽になる。

 ……俺、最低だ。

 琉人が女子に誘われて断っただけで安心してる。
 でも安心してしまう。
 自分でも止められない。

 俺は弁当箱の端を指で撫でながら、言った。

「……俺さ」

 琉人の視線がこっちに来る。
 それだけで心臓が跳ねる。

「昨日、噂になってる。俺たち」

 琉人の眉が、ほんの少しだけ動いた。

「……知ってる」

 知ってるのか。

 じゃあ、気にしてないわけじゃない。
 でも、気にしてる様子もない。
 俺は勇気を出して聞いた。

「……嫌じゃないの? 俺と一緒にいるって思われるの」

 言った瞬間、喉が痛い。

 嫌だって言われたら、終わる。
 ほんとに終わる。
 琉人は少しだけ視線を落として、答えた。

「……別に嫌じゃない」

 ――え。

 別に、嫌じゃない。

 その言葉が、俺の胸を一気に軽くした。
 心臓が、わけがわからないくらい跳ねる。
 俺は言葉が出なくなって、ただ琉人を見てしまう。
 琉人は俺を見ずに、窓の外の空を見ている。

 でも。

 その横顔が、昨日より少しだけ柔らかい気がした。
 俺は、うまく笑えないまま呟く。

「……そっか」

 それだけで胸がいっぱいになる。
 琉人は短く言う。

「お前、気にしすぎ」

「気にするよ。琉人、目立つし」
「……お前も目立つ」

「え、俺?」

 俺が?
 この進学校で?

 琉人は淡々と続ける。

「声がでかい」
「またそれ?」

 俺が言うと、琉人はほんの少しだけ目を細めた。

 笑ったようには見えない。
 でも、“空気が緩んだ”のは分かった。

 その瞬間、俺は胸が熱くなった。

 ――今の、昔みたいだ。

 懐かしい。
 苦しい。
 嬉しい。

 全部混ざって、泣きそうになる。

 俺が顔を伏せると、琉人が低い声で言った。

「……泣くな」

 また、それ。

 昨日も言われた。

 俺は顔を上げて、目を見開く。

「……泣かない」

「顔が泣く」

「顔が泣くって何……」

 俺は笑いながら、でも喉が痛い。

 琉人は少しだけ黙って、それから――

「……崎枝」

 名前。

 苗字なのに、呼ばれただけで胸が熱くなる。

「……俺、昼はここにいる」

 ――え。

 俺は息を止めた。

「ここ、静かだから」

 琉人はそう付け足した。

 静かだから。
 人が少ないから。
 噂が嫌だから。

 理由は全部そっちだろう。

 でも。

 それでも。

 俺の胸の奥は、甘くなる。

 だってそれって――

 “昼休みはここにいる”っていう情報を、俺にだけ教えたってことだから。

 俺は小さく息を吸って、言った。

「……じゃあさ」

 琉人の視線が俺に来る。

「俺も、ここ来てもいい?」

 聞きながら、手が震えた。

 “来るな”って言われるのが怖い。
 昨日の“無理”が、まだ胸に刺さってる。

 琉人は数秒沈黙して、それから短く言った。

「……勝手にしな」

 勝手に。

 拒絶じゃない。

 許可、じゃないけど。
 拒否でもない。

 俺は笑った。

 心臓が苦しいくらい嬉しい。

「……うん。勝手にする」

 その言葉を言えた自分が、ちょっとだけ誇らしい。

 琉人は立ち上がって、扉へ向かった。

「戻る」
「うん」

 俺も慌てて立ち上がる。

 並んで廊下を歩く。
 昨日よりも距離は遠いまま。

 でも。

 昨日よりも、確実に――心は近い気がした。


 教室に戻ると、周囲の視線がまた刺さる。

 でも今度は、昨日ほど苦しくない。
 だって俺は知ってる。
 琉人が言った。
 別に嫌じゃない。
 その言葉だけで、俺は今日一日を生きられる。

 真木が俺を見る。
「お前、戻ってきた瞬間から顔が違うじゃん」
「うるさい」
「幸せそう」
「マジでうるさい!」

 俺は机に座って、そっと隣を見る。

 琉人は何もなかったみたいに座って、ノートを開いている。

 でも。

 今日の俺は、昨日より少しだけ息ができる。

 ――明日も、昼。

 きっと俺は、勝手にあそこへ行く。

 その“勝手”が許されるくらいの距離に、
 俺たちはほんの少しだけ、近づいたはず。