幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 翌朝。
 目が覚めた瞬間、俺は思い出した。
 明日、昼。少しだけなら。

「…………っ!」

 ベッドの上で、変な声が出た。

 昨日、琉人が髪を直してきた指先。
 背中越しに落ちてきた“明日”の約束。

 全部が現実だったことに気づいて、胸がぎゅっと締まる。

 ……やばい。
 今日、ちゃんと話せるかもしれない。

 しかも“昼”。

 昼休みって、教室の目が一番ある時間じゃん……!
 俺は慌てて布団から飛び起きて、鏡を見た。

 茶髪のゆるふわパーマ。
 いつも通りのはずなのに、今日は妙に整えたくなる。

「ちょ、待って……前髪……」

 寝癖を直す手が本気になっていく。
 この感じ、完全に――好きな人に会う朝のそれだ。
 いや、違う。違うって。
 幼馴染だし。久しぶりだし。話したいだけだし。

 そうやって言い訳を頭の中に並べながら、俺は登校した。


 青霞学院の朝は、やっぱり静かだった。

 教室に入ると、空気が少しだけざわつく。
 でも昨日よりも、ざわつきの角が丸い。
 理由は一つ。

 みんながもう転校生に慣れ始めたのと、
 もう一つ――

 琉人の席が、すでに埋まっていたからだ。

 俺の隣。
 黒髪センターパートの、背の高い横顔。

 朝からいる。
 それだけで心臓が落ち着かないの、どうにかしてほしい。

「おはよ、雄大」

 真木が後ろから声をかけてきた。

「おは……っていうか、俺、今日変じゃない?」
「変だな」
「即答!?」

 真木は眼鏡越しに俺を見て、淡々と続ける。

「目がうるさい」
「目がうるさいって何」
「なんかキラキラしてる」

 やめろ。言語化するな。
 俺は慌てて視線を逸らして、隣をちらっと見る。

 琉人はノートを開いて、静かにペンを動かしていた。
 俺が入ってきたことにも、特別反応はない。

 ……ない、はず。

 俺はそっと席に座り、鞄を机にかける。
 そして、声をかけたい気持ちを飲み込む。

 だって、昨日の朝みたいに突っ込んだら――
 また何か言われるかもしれない。

 でも、今日は違う。
 今日は、“昼に話せる”っていう約束がある。
 その約束が、俺を落ち着かなくさせる。

 授業中。
 俺は黒板を見ているふりをして、何度も時計を見た。
 時間が進むたびに心臓が早くなる。

 国語の先生の声が遠い。
 数学の式が目に入らない。
 英語のリスニングなんて、何一つ聞こえない。

 ……俺、終わってる。


 そして昼休み。
 チャイムが鳴った瞬間、俺は反射で隣を向いた。

「琉人――」

 呼びかけると同時に、琉人も顔を上げた。
 目が合う。
 近い。
 今日は昨日よりも、目が逸れない。

「……昼」

 琉人が言った。

「え、うん!」

 俺の返事が無駄に明るい。
 自分で自分が恥ずかしくて、でも止められない。
 琉人は立ち上がって、鞄を持った。

「ついて来て」

「……え?」

 命令みたいな言葉なのに、なぜか胸が甘くなる。
 俺は慌てて弁当を掴み、後ろを振り向く。

「真木! 俺、ちょっと……!」

「行ってこい。顔が幸せだ」

「ありがと!」

 背中に刺さる真木の視線を振り切って、俺は琉人の後を追った。


 琉人が向かったのは、校舎の端――人の少ない渡り廊下だった。
 昼休みの校内は基本どこも人がいる。
 食堂、教室、廊下、階段。
 でもここは違う。

 静かで、風が通る。
 窓から見える冬空が高くて、遠い。
 琉人は無言で歩き続け、階段を上がる。
 俺もついていく。

「……どこ行くの?」

「人が少ないところ」

 短い答え。

 その言葉だけで、胸が勝手に熱くなる。

 人が少ないところ。
 つまり――二人きり。

 俺は心臓の音が聞こえそうで怖かった。

 階段を上がり切った先。
 琉人が扉を押す。
 ギ、と小さな音がして――

 そこは、まるで何年も使われていないような空き教室だった。
 窓が大きくて、光が入る。

 まるで、秘密の待ち合わせ場所みたいだ。

「……ここ、こんなのあったんだ」
「使うやついないらしい」
「よく知ってるな。まだ二日目だろ」
「学校の校舎の案内で聞いた」


 琉人は淡々と言って、椅子の端に座った。
 校舎の案内なんて、そんなことあったな。
 もう忘れてしまった。
 俺も、その隣に――座ろうとして、少しだけ迷った。

 近い。
 肩が触れる距離だ。
 でも、ここで離れて座ったら。
 俺がビビってるってバレる。

 俺は覚悟を決めて、隣に座った。

 ……近い!!!!

 琉人の体温は感じないくらいなのに、存在感だけが熱い。
 黒髪の香りがほんの少しだけする気がする。
 香水じゃない。石鹸みたいな、清潔な匂い。

 俺は弁当箱を開ける手が震えそうで、深呼吸した。

「……昨日、ありがとな。家まで」

 まずは無難な話題。
 琉人は視線を窓に向けたまま、

「別に」

 って言った。

 別に。

 その言葉、便利すぎない?
 琉人の会話の半分それで成り立ってない?

 俺は苦笑する。

「ほんと、変わんないね。そういうとこ」

「変わったって言っただろ」

「……言ったけどさ」

 俺は箸で卵焼きをつまみながら、言葉を探した。

 話したいことはいっぱいある。
 でも、どれも地雷っぽい。

 海外のこと。
 中学で行った時のこと。
 連絡が途切れた理由。
 帰ってきた理由。

 どれも聞きたい。
 でも聞いたら、琉人の壁に触れそうで怖い。

 だから、俺は一番簡単なものを選ぶ。

「……突然だったよな。転校」

 琉人は少し間を置いて、

「決まったのが急だった」

 とだけ言った。

 やっぱり短い。
 でも、昨日までの“拒絶”よりはずっと会話が続く。

 俺の胸が、ほっとする。

「そっか。てかさ、同じクラスってすごくない? 運命じゃん」

 言った瞬間、俺は自分の軽さに後悔した。

 運命って。
 女子が言うやつじゃん。

 なのに琉人は、否定もしないで。

「……偶然だろ」

 と、冷静に返した。

 その冷静さに、なぜか救われた。

「だよな。はは」

 俺は笑って、米を口に運ぶ。

 食べてるのに味がしない。
 心臓がうるさすぎて、舌が仕事をしてない。

 琉人もパンを出して、静かに食べ始めた。
 袋を開ける音すら丁寧。

 俺はその横顔を盗み見て、思ってしまう。

 かっこよすぎる。
 ほんとに同じ高校生?
 これ、海外帰り補正っていうより、成長の暴力。

 ……俺、こんな顔を隣で見て平気でいられる自信ない。

 沈黙が落ちる。

 風の音が窓を叩く。

 俺は耐えきれず、核心に近い言葉を押し出した。

「……琉人さ。俺、ずっと思ってたんだ」

 琉人の視線が、少しだけ俺に寄る。

「何」

 俺は唇を噛んでから、言った。

「……なんで、俺にだけ冷たいのかなって」

 言った瞬間、世界が止まった気がした。

 俺、言っちゃった。
 言っちゃったよ。

 琉人の表情は変わらない。

 けど、その沈黙が長くて、俺は怖くなった。

 言いすぎた?
 やっぱり嫌われてる?
 また「無理」って言われる?

 俺の心が勝手に崩れそうになった、その時。
 琉人が、低い声で言った。

「……お前は、変わった」

 ――え。

 質問の答えじゃない。
 でも、予想してなかった言葉。

「……俺が?」

「そう」

 たった二文字の肯定なのに、胸が熱くなる。

 変わった?
 それって、どこが?
 俺を、ちゃんと見てたってこと?

 俺は息を吸って、少し笑う。

「そりゃそうだよ。俺は俺だし」

 強がりみたいな笑いになった。

「……でもさ、琉人も変わったよ」

 琉人の目が細くなる。

「……何が」

「全部。身長とか、顔とか、声とか……雰囲気とか」

 言いながら、俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。
 褒めてるみたいになってる。

 でも、事実だ。

 琉人は何も言わずにパンを一口食べて、視線を窓へ戻した。

 その沈黙が、“肯定”なのか“拒否”なのか分からなくて、俺は落ち着かない。

 だから、俺は少しだけ踏み込む。

「……かっこよくなった」

 小さな声で言った。
 聞こえたかどうか分からないくらい。
 琉人は、顔を向けないまま、
「……そうか」って言った。

 それだけ。

 それだけなのに――

 俺の胸は、何かを受け取った気がしてしまう。

 甘い。
 苦い。
 両方。

 俺は箸を置いて、膝の上で手を握る。

「琉人。俺、さ」

 琉人が視線を寄越す。

 俺は続けた。

「……昔の琉人に戻ってほしいって、ずっと思ってた」

 言った瞬間、喉が痛くなる。

「俺、なんか……昨日からずっと寂しくて。隣にいるのに、知らない人みたいで」

 真剣な空気が落ちる。

 冬の光が、床に白く伸びる。
 その白さが、俺の心の痛いところを照らすみたいで、目を逸らしたくなる。

 琉人は、沈黙した。

 長い。

 俺は心臓が壊れそうで、息を止めた。

 そして。

「……俺は、俺だ」

 琉人が言った。

 低い声。
 硬い言葉。

 それは拒絶にも聞こえるし、決意にも聞こえる。

 俺の胸がぎゅっとなる。

「……そっか」

 俺は笑おうとした。
 笑って誤魔化そうとした。

 でも、笑えなかった。

 目の奥が熱い。
 泣くつもりなんてないのに。

 その瞬間。

 琉人が、ほんの少しだけ息を吐いた。

「……崎枝」
「……なに」

 琉人の声は相変わらず淡々としていた。
 でも、呼ばれただけで心臓が跳ねる。

「……お前、泣くな」

 ――え。

 俺は自分の頬を触って、初めて気づいた。

 泣いてない。
 泣いてないのに。

 泣きそうな顔をしてたらしい。
 最悪だ。

「泣かねーし」

 俺は強がって言った。
 でも声が震えて、説得力ゼロ。

 琉人は少しだけ眉を寄せた。

「……ほんとに、変わった」

 またそれだ。

 変わってない。

 俺はその言葉が胸に刺さって、逆に苦しくなった。

 だって、それって――
 俺だけが昔のまま、追いかけてるってことみたいで。

 その時だった。

 階段の方から、足音と声がした。

「え、ここ開くんだ」
「屋上じゃないよな?」

 ――やばい。

 誰か来る。

 俺の背中が冷たくなる。
 この場所、二人きりだったのに。

 琉人は顔色一つ変えず、立ち上がった。

「行く」
「え、もう?」
「……見つかる」

 見つかる。

 その言葉に、俺の胸がきゅっと締まった。

 見つかったら何が起きる?
 ただ幼馴染が話してるだけなのに。
 でも――今の俺たちの距離は、“ただ”で済まされない空気がある。

 琉人が先に扉を押す。
 俺も慌てて弁当を片付けて、ついていく。

 廊下へ出る直前、背後の声が近づく。

「え、誰かいた?」
「今出てった」

 視線が刺さるのを感じた。

 そして、その中の一つが、やけに鋭い。

 女子だ。
 多分、琉人を狙ってる子。
 俺たちの“二人きり”を見て、空気が変わったのが分かる。

 嫌な予感。

 琉人は何も気づいていないみたいに歩き続ける。
 俺はその背中を追いかけながら、胸の奥がひりついた。


 教室に戻ると、昼休みの残り時間はほとんどなかった。
 でも、空気は確実に変わっていた。

 視線。
 ひそひそ声。
 抑えた笑い。

 やばい。
 これは、広まる。

 真木が俺を見て、すべてを察した顔をする。

「お、戻ってきたな」
「……うん」
「顔が赤いぞ」
「寒かったから」
「説得力ゼロ」

 俺は机に突っ伏した。

 隣を見る。

 琉人は何もなかったみたいに座って、ノートを開いている。

 俺だけが勝手に世界の中心みたいにドキドキして、勝手に苦しくなって。

 でも――

 さっき琉人は言った。

 お前、泣くな。

 そんなこと言うなんて、昔の琉人みたいだった。

 冷たいのに。
 近いのに。
 遠いのに。

 俺の心は、その矛盾に振り回される。

 午後の授業が始まった。
 先生の声が教室に響く。
 俺はノートを開いたまま、ペン先を動かせずにいた。

 だって。

 俺の胸の中には、さっきの言葉がまだ残っている。
 お前は、変わった。
 それは、嬉しい言葉なの?
 どうしてこんなに切ないんだろう。

 隣の席から、紙が擦れる小さな音がした。
 琉人がプリントをそっと俺の方へ寄せてくる。
 配られたばかりの小テスト範囲表。

 ……え。

 俺は視線を上げる。
 琉人は前を向いたまま、低い声で言った。

「……今日の提出、忘れるな」

 提出。

 俺が小学生の頃、よく忘れていたやつ。
 たったそれだけの言葉なのに。
 俺の胸が、また甘くなった。

「……ありがと」

 俺が小さく返すと、琉人は何も言わなかった。
 でも、プリントはそのまま俺の側に置かれている。
 俺は思う。
 完全に拒絶されてるわけじゃない。
 嫌われてるわけじゃない。

 なのに。

 近づこうとすると、離れていく。
 触れそうで触れない距離に、ずっと置かれる。

 ――それが、いちばん苦しい。

 窓の外は冬の空で、雲が薄く流れていく。
 その速度みたいに、俺の心もどこか落ち着かないまま、時間だけが進んでいく。

 だけど。

 今日、確かに“前に進んだ”感覚があった。

 短い会話。
 二人きりの場所。
 泣くなと言われたこと。
 提出を気にしてくれたこと。

 全部、小さくて――でも確かなもの。

 俺は、隣の横顔を見ないようにして、心の中だけで呟いた。

 ……琉人。

 明日も、少しでいいから。

 俺のことを、昔のまま見てくれたらいい。

 それだけで、俺はきっと――また息ができる。