翌朝。
目が覚めた瞬間、俺は思い出した。
明日、昼。少しだけなら。
「…………っ!」
ベッドの上で、変な声が出た。
昨日、琉人が髪を直してきた指先。
背中越しに落ちてきた“明日”の約束。
全部が現実だったことに気づいて、胸がぎゅっと締まる。
……やばい。
今日、ちゃんと話せるかもしれない。
しかも“昼”。
昼休みって、教室の目が一番ある時間じゃん……!
俺は慌てて布団から飛び起きて、鏡を見た。
茶髪のゆるふわパーマ。
いつも通りのはずなのに、今日は妙に整えたくなる。
「ちょ、待って……前髪……」
寝癖を直す手が本気になっていく。
この感じ、完全に――好きな人に会う朝のそれだ。
いや、違う。違うって。
幼馴染だし。久しぶりだし。話したいだけだし。
そうやって言い訳を頭の中に並べながら、俺は登校した。
青霞学院の朝は、やっぱり静かだった。
教室に入ると、空気が少しだけざわつく。
でも昨日よりも、ざわつきの角が丸い。
理由は一つ。
みんながもう転校生に慣れ始めたのと、
もう一つ――
琉人の席が、すでに埋まっていたからだ。
俺の隣。
黒髪センターパートの、背の高い横顔。
朝からいる。
それだけで心臓が落ち着かないの、どうにかしてほしい。
「おはよ、雄大」
真木が後ろから声をかけてきた。
「おは……っていうか、俺、今日変じゃない?」
「変だな」
「即答!?」
真木は眼鏡越しに俺を見て、淡々と続ける。
「目がうるさい」
「目がうるさいって何」
「なんかキラキラしてる」
やめろ。言語化するな。
俺は慌てて視線を逸らして、隣をちらっと見る。
琉人はノートを開いて、静かにペンを動かしていた。
俺が入ってきたことにも、特別反応はない。
……ない、はず。
俺はそっと席に座り、鞄を机にかける。
そして、声をかけたい気持ちを飲み込む。
だって、昨日の朝みたいに突っ込んだら――
また何か言われるかもしれない。
でも、今日は違う。
今日は、“昼に話せる”っていう約束がある。
その約束が、俺を落ち着かなくさせる。
授業中。
俺は黒板を見ているふりをして、何度も時計を見た。
時間が進むたびに心臓が早くなる。
国語の先生の声が遠い。
数学の式が目に入らない。
英語のリスニングなんて、何一つ聞こえない。
……俺、終わってる。
そして昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、俺は反射で隣を向いた。
「琉人――」
呼びかけると同時に、琉人も顔を上げた。
目が合う。
近い。
今日は昨日よりも、目が逸れない。
「……昼」
琉人が言った。
「え、うん!」
俺の返事が無駄に明るい。
自分で自分が恥ずかしくて、でも止められない。
琉人は立ち上がって、鞄を持った。
「ついて来て」
「……え?」
命令みたいな言葉なのに、なぜか胸が甘くなる。
俺は慌てて弁当を掴み、後ろを振り向く。
「真木! 俺、ちょっと……!」
「行ってこい。顔が幸せだ」
「ありがと!」
背中に刺さる真木の視線を振り切って、俺は琉人の後を追った。
琉人が向かったのは、校舎の端――人の少ない渡り廊下だった。
昼休みの校内は基本どこも人がいる。
食堂、教室、廊下、階段。
でもここは違う。
静かで、風が通る。
窓から見える冬空が高くて、遠い。
琉人は無言で歩き続け、階段を上がる。
俺もついていく。
「……どこ行くの?」
「人が少ないところ」
短い答え。
その言葉だけで、胸が勝手に熱くなる。
人が少ないところ。
つまり――二人きり。
俺は心臓の音が聞こえそうで怖かった。
階段を上がり切った先。
琉人が扉を押す。
ギ、と小さな音がして――
そこは、まるで何年も使われていないような空き教室だった。
窓が大きくて、光が入る。
まるで、秘密の待ち合わせ場所みたいだ。
「……ここ、こんなのあったんだ」
「使うやついないらしい」
「よく知ってるな。まだ二日目だろ」
「学校の校舎の案内で聞いた」
琉人は淡々と言って、椅子の端に座った。
校舎の案内なんて、そんなことあったな。
もう忘れてしまった。
俺も、その隣に――座ろうとして、少しだけ迷った。
近い。
肩が触れる距離だ。
でも、ここで離れて座ったら。
俺がビビってるってバレる。
俺は覚悟を決めて、隣に座った。
……近い!!!!
琉人の体温は感じないくらいなのに、存在感だけが熱い。
黒髪の香りがほんの少しだけする気がする。
香水じゃない。石鹸みたいな、清潔な匂い。
俺は弁当箱を開ける手が震えそうで、深呼吸した。
「……昨日、ありがとな。家まで」
まずは無難な話題。
琉人は視線を窓に向けたまま、
「別に」
って言った。
別に。
その言葉、便利すぎない?
琉人の会話の半分それで成り立ってない?
俺は苦笑する。
「ほんと、変わんないね。そういうとこ」
「変わったって言っただろ」
「……言ったけどさ」
俺は箸で卵焼きをつまみながら、言葉を探した。
話したいことはいっぱいある。
でも、どれも地雷っぽい。
海外のこと。
中学で行った時のこと。
連絡が途切れた理由。
帰ってきた理由。
どれも聞きたい。
でも聞いたら、琉人の壁に触れそうで怖い。
だから、俺は一番簡単なものを選ぶ。
「……突然だったよな。転校」
琉人は少し間を置いて、
「決まったのが急だった」
とだけ言った。
やっぱり短い。
でも、昨日までの“拒絶”よりはずっと会話が続く。
俺の胸が、ほっとする。
「そっか。てかさ、同じクラスってすごくない? 運命じゃん」
言った瞬間、俺は自分の軽さに後悔した。
運命って。
女子が言うやつじゃん。
なのに琉人は、否定もしないで。
「……偶然だろ」
と、冷静に返した。
その冷静さに、なぜか救われた。
「だよな。はは」
俺は笑って、米を口に運ぶ。
食べてるのに味がしない。
心臓がうるさすぎて、舌が仕事をしてない。
琉人もパンを出して、静かに食べ始めた。
袋を開ける音すら丁寧。
俺はその横顔を盗み見て、思ってしまう。
かっこよすぎる。
ほんとに同じ高校生?
これ、海外帰り補正っていうより、成長の暴力。
……俺、こんな顔を隣で見て平気でいられる自信ない。
沈黙が落ちる。
風の音が窓を叩く。
俺は耐えきれず、核心に近い言葉を押し出した。
「……琉人さ。俺、ずっと思ってたんだ」
琉人の視線が、少しだけ俺に寄る。
「何」
俺は唇を噛んでから、言った。
「……なんで、俺にだけ冷たいのかなって」
言った瞬間、世界が止まった気がした。
俺、言っちゃった。
言っちゃったよ。
琉人の表情は変わらない。
けど、その沈黙が長くて、俺は怖くなった。
言いすぎた?
やっぱり嫌われてる?
また「無理」って言われる?
俺の心が勝手に崩れそうになった、その時。
琉人が、低い声で言った。
「……お前は、変わった」
――え。
質問の答えじゃない。
でも、予想してなかった言葉。
「……俺が?」
「そう」
たった二文字の肯定なのに、胸が熱くなる。
変わった?
それって、どこが?
俺を、ちゃんと見てたってこと?
俺は息を吸って、少し笑う。
「そりゃそうだよ。俺は俺だし」
強がりみたいな笑いになった。
「……でもさ、琉人も変わったよ」
琉人の目が細くなる。
「……何が」
「全部。身長とか、顔とか、声とか……雰囲気とか」
言いながら、俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。
褒めてるみたいになってる。
でも、事実だ。
琉人は何も言わずにパンを一口食べて、視線を窓へ戻した。
その沈黙が、“肯定”なのか“拒否”なのか分からなくて、俺は落ち着かない。
だから、俺は少しだけ踏み込む。
「……かっこよくなった」
小さな声で言った。
聞こえたかどうか分からないくらい。
琉人は、顔を向けないまま、
「……そうか」って言った。
それだけ。
それだけなのに――
俺の胸は、何かを受け取った気がしてしまう。
甘い。
苦い。
両方。
俺は箸を置いて、膝の上で手を握る。
「琉人。俺、さ」
琉人が視線を寄越す。
俺は続けた。
「……昔の琉人に戻ってほしいって、ずっと思ってた」
言った瞬間、喉が痛くなる。
「俺、なんか……昨日からずっと寂しくて。隣にいるのに、知らない人みたいで」
真剣な空気が落ちる。
冬の光が、床に白く伸びる。
その白さが、俺の心の痛いところを照らすみたいで、目を逸らしたくなる。
琉人は、沈黙した。
長い。
俺は心臓が壊れそうで、息を止めた。
そして。
「……俺は、俺だ」
琉人が言った。
低い声。
硬い言葉。
それは拒絶にも聞こえるし、決意にも聞こえる。
俺の胸がぎゅっとなる。
「……そっか」
俺は笑おうとした。
笑って誤魔化そうとした。
でも、笑えなかった。
目の奥が熱い。
泣くつもりなんてないのに。
その瞬間。
琉人が、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……崎枝」
「……なに」
琉人の声は相変わらず淡々としていた。
でも、呼ばれただけで心臓が跳ねる。
「……お前、泣くな」
――え。
俺は自分の頬を触って、初めて気づいた。
泣いてない。
泣いてないのに。
泣きそうな顔をしてたらしい。
最悪だ。
「泣かねーし」
俺は強がって言った。
でも声が震えて、説得力ゼロ。
琉人は少しだけ眉を寄せた。
「……ほんとに、変わった」
またそれだ。
変わってない。
俺はその言葉が胸に刺さって、逆に苦しくなった。
だって、それって――
俺だけが昔のまま、追いかけてるってことみたいで。
その時だった。
階段の方から、足音と声がした。
「え、ここ開くんだ」
「屋上じゃないよな?」
――やばい。
誰か来る。
俺の背中が冷たくなる。
この場所、二人きりだったのに。
琉人は顔色一つ変えず、立ち上がった。
「行く」
「え、もう?」
「……見つかる」
見つかる。
その言葉に、俺の胸がきゅっと締まった。
見つかったら何が起きる?
ただ幼馴染が話してるだけなのに。
でも――今の俺たちの距離は、“ただ”で済まされない空気がある。
琉人が先に扉を押す。
俺も慌てて弁当を片付けて、ついていく。
廊下へ出る直前、背後の声が近づく。
「え、誰かいた?」
「今出てった」
視線が刺さるのを感じた。
そして、その中の一つが、やけに鋭い。
女子だ。
多分、琉人を狙ってる子。
俺たちの“二人きり”を見て、空気が変わったのが分かる。
嫌な予感。
琉人は何も気づいていないみたいに歩き続ける。
俺はその背中を追いかけながら、胸の奥がひりついた。
教室に戻ると、昼休みの残り時間はほとんどなかった。
でも、空気は確実に変わっていた。
視線。
ひそひそ声。
抑えた笑い。
やばい。
これは、広まる。
真木が俺を見て、すべてを察した顔をする。
「お、戻ってきたな」
「……うん」
「顔が赤いぞ」
「寒かったから」
「説得力ゼロ」
俺は机に突っ伏した。
隣を見る。
琉人は何もなかったみたいに座って、ノートを開いている。
俺だけが勝手に世界の中心みたいにドキドキして、勝手に苦しくなって。
でも――
さっき琉人は言った。
お前、泣くな。
そんなこと言うなんて、昔の琉人みたいだった。
冷たいのに。
近いのに。
遠いのに。
俺の心は、その矛盾に振り回される。
午後の授業が始まった。
先生の声が教室に響く。
俺はノートを開いたまま、ペン先を動かせずにいた。
だって。
俺の胸の中には、さっきの言葉がまだ残っている。
お前は、変わった。
それは、嬉しい言葉なの?
どうしてこんなに切ないんだろう。
隣の席から、紙が擦れる小さな音がした。
琉人がプリントをそっと俺の方へ寄せてくる。
配られたばかりの小テスト範囲表。
……え。
俺は視線を上げる。
琉人は前を向いたまま、低い声で言った。
「……今日の提出、忘れるな」
提出。
俺が小学生の頃、よく忘れていたやつ。
たったそれだけの言葉なのに。
俺の胸が、また甘くなった。
「……ありがと」
俺が小さく返すと、琉人は何も言わなかった。
でも、プリントはそのまま俺の側に置かれている。
俺は思う。
完全に拒絶されてるわけじゃない。
嫌われてるわけじゃない。
なのに。
近づこうとすると、離れていく。
触れそうで触れない距離に、ずっと置かれる。
――それが、いちばん苦しい。
窓の外は冬の空で、雲が薄く流れていく。
その速度みたいに、俺の心もどこか落ち着かないまま、時間だけが進んでいく。
だけど。
今日、確かに“前に進んだ”感覚があった。
短い会話。
二人きりの場所。
泣くなと言われたこと。
提出を気にしてくれたこと。
全部、小さくて――でも確かなもの。
俺は、隣の横顔を見ないようにして、心の中だけで呟いた。
……琉人。
明日も、少しでいいから。
俺のことを、昔のまま見てくれたらいい。
それだけで、俺はきっと――また息ができる。
目が覚めた瞬間、俺は思い出した。
明日、昼。少しだけなら。
「…………っ!」
ベッドの上で、変な声が出た。
昨日、琉人が髪を直してきた指先。
背中越しに落ちてきた“明日”の約束。
全部が現実だったことに気づいて、胸がぎゅっと締まる。
……やばい。
今日、ちゃんと話せるかもしれない。
しかも“昼”。
昼休みって、教室の目が一番ある時間じゃん……!
俺は慌てて布団から飛び起きて、鏡を見た。
茶髪のゆるふわパーマ。
いつも通りのはずなのに、今日は妙に整えたくなる。
「ちょ、待って……前髪……」
寝癖を直す手が本気になっていく。
この感じ、完全に――好きな人に会う朝のそれだ。
いや、違う。違うって。
幼馴染だし。久しぶりだし。話したいだけだし。
そうやって言い訳を頭の中に並べながら、俺は登校した。
青霞学院の朝は、やっぱり静かだった。
教室に入ると、空気が少しだけざわつく。
でも昨日よりも、ざわつきの角が丸い。
理由は一つ。
みんながもう転校生に慣れ始めたのと、
もう一つ――
琉人の席が、すでに埋まっていたからだ。
俺の隣。
黒髪センターパートの、背の高い横顔。
朝からいる。
それだけで心臓が落ち着かないの、どうにかしてほしい。
「おはよ、雄大」
真木が後ろから声をかけてきた。
「おは……っていうか、俺、今日変じゃない?」
「変だな」
「即答!?」
真木は眼鏡越しに俺を見て、淡々と続ける。
「目がうるさい」
「目がうるさいって何」
「なんかキラキラしてる」
やめろ。言語化するな。
俺は慌てて視線を逸らして、隣をちらっと見る。
琉人はノートを開いて、静かにペンを動かしていた。
俺が入ってきたことにも、特別反応はない。
……ない、はず。
俺はそっと席に座り、鞄を机にかける。
そして、声をかけたい気持ちを飲み込む。
だって、昨日の朝みたいに突っ込んだら――
また何か言われるかもしれない。
でも、今日は違う。
今日は、“昼に話せる”っていう約束がある。
その約束が、俺を落ち着かなくさせる。
授業中。
俺は黒板を見ているふりをして、何度も時計を見た。
時間が進むたびに心臓が早くなる。
国語の先生の声が遠い。
数学の式が目に入らない。
英語のリスニングなんて、何一つ聞こえない。
……俺、終わってる。
そして昼休み。
チャイムが鳴った瞬間、俺は反射で隣を向いた。
「琉人――」
呼びかけると同時に、琉人も顔を上げた。
目が合う。
近い。
今日は昨日よりも、目が逸れない。
「……昼」
琉人が言った。
「え、うん!」
俺の返事が無駄に明るい。
自分で自分が恥ずかしくて、でも止められない。
琉人は立ち上がって、鞄を持った。
「ついて来て」
「……え?」
命令みたいな言葉なのに、なぜか胸が甘くなる。
俺は慌てて弁当を掴み、後ろを振り向く。
「真木! 俺、ちょっと……!」
「行ってこい。顔が幸せだ」
「ありがと!」
背中に刺さる真木の視線を振り切って、俺は琉人の後を追った。
琉人が向かったのは、校舎の端――人の少ない渡り廊下だった。
昼休みの校内は基本どこも人がいる。
食堂、教室、廊下、階段。
でもここは違う。
静かで、風が通る。
窓から見える冬空が高くて、遠い。
琉人は無言で歩き続け、階段を上がる。
俺もついていく。
「……どこ行くの?」
「人が少ないところ」
短い答え。
その言葉だけで、胸が勝手に熱くなる。
人が少ないところ。
つまり――二人きり。
俺は心臓の音が聞こえそうで怖かった。
階段を上がり切った先。
琉人が扉を押す。
ギ、と小さな音がして――
そこは、まるで何年も使われていないような空き教室だった。
窓が大きくて、光が入る。
まるで、秘密の待ち合わせ場所みたいだ。
「……ここ、こんなのあったんだ」
「使うやついないらしい」
「よく知ってるな。まだ二日目だろ」
「学校の校舎の案内で聞いた」
琉人は淡々と言って、椅子の端に座った。
校舎の案内なんて、そんなことあったな。
もう忘れてしまった。
俺も、その隣に――座ろうとして、少しだけ迷った。
近い。
肩が触れる距離だ。
でも、ここで離れて座ったら。
俺がビビってるってバレる。
俺は覚悟を決めて、隣に座った。
……近い!!!!
琉人の体温は感じないくらいなのに、存在感だけが熱い。
黒髪の香りがほんの少しだけする気がする。
香水じゃない。石鹸みたいな、清潔な匂い。
俺は弁当箱を開ける手が震えそうで、深呼吸した。
「……昨日、ありがとな。家まで」
まずは無難な話題。
琉人は視線を窓に向けたまま、
「別に」
って言った。
別に。
その言葉、便利すぎない?
琉人の会話の半分それで成り立ってない?
俺は苦笑する。
「ほんと、変わんないね。そういうとこ」
「変わったって言っただろ」
「……言ったけどさ」
俺は箸で卵焼きをつまみながら、言葉を探した。
話したいことはいっぱいある。
でも、どれも地雷っぽい。
海外のこと。
中学で行った時のこと。
連絡が途切れた理由。
帰ってきた理由。
どれも聞きたい。
でも聞いたら、琉人の壁に触れそうで怖い。
だから、俺は一番簡単なものを選ぶ。
「……突然だったよな。転校」
琉人は少し間を置いて、
「決まったのが急だった」
とだけ言った。
やっぱり短い。
でも、昨日までの“拒絶”よりはずっと会話が続く。
俺の胸が、ほっとする。
「そっか。てかさ、同じクラスってすごくない? 運命じゃん」
言った瞬間、俺は自分の軽さに後悔した。
運命って。
女子が言うやつじゃん。
なのに琉人は、否定もしないで。
「……偶然だろ」
と、冷静に返した。
その冷静さに、なぜか救われた。
「だよな。はは」
俺は笑って、米を口に運ぶ。
食べてるのに味がしない。
心臓がうるさすぎて、舌が仕事をしてない。
琉人もパンを出して、静かに食べ始めた。
袋を開ける音すら丁寧。
俺はその横顔を盗み見て、思ってしまう。
かっこよすぎる。
ほんとに同じ高校生?
これ、海外帰り補正っていうより、成長の暴力。
……俺、こんな顔を隣で見て平気でいられる自信ない。
沈黙が落ちる。
風の音が窓を叩く。
俺は耐えきれず、核心に近い言葉を押し出した。
「……琉人さ。俺、ずっと思ってたんだ」
琉人の視線が、少しだけ俺に寄る。
「何」
俺は唇を噛んでから、言った。
「……なんで、俺にだけ冷たいのかなって」
言った瞬間、世界が止まった気がした。
俺、言っちゃった。
言っちゃったよ。
琉人の表情は変わらない。
けど、その沈黙が長くて、俺は怖くなった。
言いすぎた?
やっぱり嫌われてる?
また「無理」って言われる?
俺の心が勝手に崩れそうになった、その時。
琉人が、低い声で言った。
「……お前は、変わった」
――え。
質問の答えじゃない。
でも、予想してなかった言葉。
「……俺が?」
「そう」
たった二文字の肯定なのに、胸が熱くなる。
変わった?
それって、どこが?
俺を、ちゃんと見てたってこと?
俺は息を吸って、少し笑う。
「そりゃそうだよ。俺は俺だし」
強がりみたいな笑いになった。
「……でもさ、琉人も変わったよ」
琉人の目が細くなる。
「……何が」
「全部。身長とか、顔とか、声とか……雰囲気とか」
言いながら、俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。
褒めてるみたいになってる。
でも、事実だ。
琉人は何も言わずにパンを一口食べて、視線を窓へ戻した。
その沈黙が、“肯定”なのか“拒否”なのか分からなくて、俺は落ち着かない。
だから、俺は少しだけ踏み込む。
「……かっこよくなった」
小さな声で言った。
聞こえたかどうか分からないくらい。
琉人は、顔を向けないまま、
「……そうか」って言った。
それだけ。
それだけなのに――
俺の胸は、何かを受け取った気がしてしまう。
甘い。
苦い。
両方。
俺は箸を置いて、膝の上で手を握る。
「琉人。俺、さ」
琉人が視線を寄越す。
俺は続けた。
「……昔の琉人に戻ってほしいって、ずっと思ってた」
言った瞬間、喉が痛くなる。
「俺、なんか……昨日からずっと寂しくて。隣にいるのに、知らない人みたいで」
真剣な空気が落ちる。
冬の光が、床に白く伸びる。
その白さが、俺の心の痛いところを照らすみたいで、目を逸らしたくなる。
琉人は、沈黙した。
長い。
俺は心臓が壊れそうで、息を止めた。
そして。
「……俺は、俺だ」
琉人が言った。
低い声。
硬い言葉。
それは拒絶にも聞こえるし、決意にも聞こえる。
俺の胸がぎゅっとなる。
「……そっか」
俺は笑おうとした。
笑って誤魔化そうとした。
でも、笑えなかった。
目の奥が熱い。
泣くつもりなんてないのに。
その瞬間。
琉人が、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……崎枝」
「……なに」
琉人の声は相変わらず淡々としていた。
でも、呼ばれただけで心臓が跳ねる。
「……お前、泣くな」
――え。
俺は自分の頬を触って、初めて気づいた。
泣いてない。
泣いてないのに。
泣きそうな顔をしてたらしい。
最悪だ。
「泣かねーし」
俺は強がって言った。
でも声が震えて、説得力ゼロ。
琉人は少しだけ眉を寄せた。
「……ほんとに、変わった」
またそれだ。
変わってない。
俺はその言葉が胸に刺さって、逆に苦しくなった。
だって、それって――
俺だけが昔のまま、追いかけてるってことみたいで。
その時だった。
階段の方から、足音と声がした。
「え、ここ開くんだ」
「屋上じゃないよな?」
――やばい。
誰か来る。
俺の背中が冷たくなる。
この場所、二人きりだったのに。
琉人は顔色一つ変えず、立ち上がった。
「行く」
「え、もう?」
「……見つかる」
見つかる。
その言葉に、俺の胸がきゅっと締まった。
見つかったら何が起きる?
ただ幼馴染が話してるだけなのに。
でも――今の俺たちの距離は、“ただ”で済まされない空気がある。
琉人が先に扉を押す。
俺も慌てて弁当を片付けて、ついていく。
廊下へ出る直前、背後の声が近づく。
「え、誰かいた?」
「今出てった」
視線が刺さるのを感じた。
そして、その中の一つが、やけに鋭い。
女子だ。
多分、琉人を狙ってる子。
俺たちの“二人きり”を見て、空気が変わったのが分かる。
嫌な予感。
琉人は何も気づいていないみたいに歩き続ける。
俺はその背中を追いかけながら、胸の奥がひりついた。
教室に戻ると、昼休みの残り時間はほとんどなかった。
でも、空気は確実に変わっていた。
視線。
ひそひそ声。
抑えた笑い。
やばい。
これは、広まる。
真木が俺を見て、すべてを察した顔をする。
「お、戻ってきたな」
「……うん」
「顔が赤いぞ」
「寒かったから」
「説得力ゼロ」
俺は机に突っ伏した。
隣を見る。
琉人は何もなかったみたいに座って、ノートを開いている。
俺だけが勝手に世界の中心みたいにドキドキして、勝手に苦しくなって。
でも――
さっき琉人は言った。
お前、泣くな。
そんなこと言うなんて、昔の琉人みたいだった。
冷たいのに。
近いのに。
遠いのに。
俺の心は、その矛盾に振り回される。
午後の授業が始まった。
先生の声が教室に響く。
俺はノートを開いたまま、ペン先を動かせずにいた。
だって。
俺の胸の中には、さっきの言葉がまだ残っている。
お前は、変わった。
それは、嬉しい言葉なの?
どうしてこんなに切ないんだろう。
隣の席から、紙が擦れる小さな音がした。
琉人がプリントをそっと俺の方へ寄せてくる。
配られたばかりの小テスト範囲表。
……え。
俺は視線を上げる。
琉人は前を向いたまま、低い声で言った。
「……今日の提出、忘れるな」
提出。
俺が小学生の頃、よく忘れていたやつ。
たったそれだけの言葉なのに。
俺の胸が、また甘くなった。
「……ありがと」
俺が小さく返すと、琉人は何も言わなかった。
でも、プリントはそのまま俺の側に置かれている。
俺は思う。
完全に拒絶されてるわけじゃない。
嫌われてるわけじゃない。
なのに。
近づこうとすると、離れていく。
触れそうで触れない距離に、ずっと置かれる。
――それが、いちばん苦しい。
窓の外は冬の空で、雲が薄く流れていく。
その速度みたいに、俺の心もどこか落ち着かないまま、時間だけが進んでいく。
だけど。
今日、確かに“前に進んだ”感覚があった。
短い会話。
二人きりの場所。
泣くなと言われたこと。
提出を気にしてくれたこと。
全部、小さくて――でも確かなもの。
俺は、隣の横顔を見ないようにして、心の中だけで呟いた。
……琉人。
明日も、少しでいいから。
俺のことを、昔のまま見てくれたらいい。
それだけで、俺はきっと――また息ができる。
