廊下に出た瞬間、冬の冷たい空気が肺の奥まで刺さった。
放課後の青霞学院は、昼間よりずっと静かだ。
部活の音が遠くで鳴っているはずなのに、この棟はまるで図書館みたいに無音で――俺の足音だけがやけに響く。
コツ、コツ、コツ。
階段を下りるたび、心臓が早くなる。
胸が苦しい。寒いせいだけじゃない。
手の中にある封筒――担任に渡された書類の束が、妙に重い。
これはただの紙だ。
ただのプリント。
ただの事務連絡。
なのに俺にとっては――琉人に追いつくための理由だった。
追いかけていい理由。
声をかけても不自然じゃない口実。
……情けない。
幼馴染なのに。
小学生の頃は、勝手に家に上がってプリンを食べてたくせに。
「鍵かけろよ」って言いながら、玄関の前で待ってたくせに。
なのに今は、俺が追いかけるのに“理由”が必要だなんて。
「……っ」
昇降口に近づくにつれて、足が少し震えた。
下駄箱の方は暗くなり始めていて、夕方の光が斜めに落ちている。
もし、もう帰ってたら。
もし、追いつけなかったら。
その想像だけで喉が詰まり、息が苦しくなる。
俺は角を曲がって、靴箱の前へ――
「……琉人!」
声が出た。
願いみたいな声だった。
いた!
靴箱の前に、琉人がいた。
ブレザーの襟を整えながら、靴を履き替えている。
後ろ姿だけでも背が高いのが分かる。
ひとつひとつの動きが静かで、無駄がなくて、美術品のように整ってる。
俺は息を整える前に、距離を詰めた。
「待って……!」
琉人の肩が、わずかに動いた。
振り向く。
黒い瞳が俺を見た。
――あ。
近い。
昼休みや授業中よりも、距離が近い。
視線の圧が直に来る。
「……何」
またそれだ。
何、って。
俺は胸の痛みを隠すように笑って、封筒を差し出した。
「これ! 先生が、渡し忘れたって……明日提出の書類らしい」
琉人は封筒を見て、それから俺を見る。
「……ありがとう」
淡々とした声。
でも、それはさっきの“無理”よりは、ずっと柔らかい気がした。
……気がしただけかもしれないけど。
俺は封筒を渡す。
指先が触れそうで、咄嗟に手を引っ込めた。
心臓が、どくんと鳴る。
琉人は封筒を受け取り、カバンに入れた。
それで終わり。
終わってしまう。
琉人はそのまま帰る。
俺はここで立ち尽くす。
そんな未来が見えて、俺は慌てて言葉を探した。
「……あのさ」
琉人が、視線だけ寄越す。
俺は、喉の奥を何度も通してから、やっと言った。
「今日さ……放課後、少しだけ話したかったんだ。五分でもいいって言ったの、ほんと」
言ってから、自分が情けなくなる。
五分でもいいって何。
幼馴染に言う言葉じゃない。
琉人は無表情のまま、靴紐を結び直すようにしゃがんだ。
「……無理だって言った」
低い声。
突き放すみたいな音。
俺の胸がぎゅっと縮む。
「分かってる。でも……」
でも、で言葉が詰まる。
何を言えばいい?
“寂しい”なんて、重すぎる。
「昔みたいに」なんて、押しつけになる。
俺は唇を噛んで、別の言葉に変えた。
「……俺、嬉しかったんだ。琉人が帰ってきたの。ほんとに」
それだけは嘘じゃない。
嘘にできない。
琉人は立ち上がった。
夕日のオレンジが、黒髪の端に薄く触れる。
顔は相変わらず整いすぎていて、近くで見るほど現実感がない。
「……そう」
短い返事。
それだけで終わるはずなのに、俺はその“そう”に救われそうになる。
だって、否定されなかった。
「知らない」とも「どうでもいい」とも言われなかった。
……たったそれだけで、俺は甘くなる。
馬鹿だ。
俺は一歩、踏み出した。
琉人が一歩引いたら、終わる。
でも、引かなかった。
それが、余計に苦しい。
「琉人さ……俺のこと、苗字で呼ぶんだな」
口から出たのは、そんなことだった。
言うつもりなんてなかった。
でも、ずっと刺さってたんだ。
琉人の目が一瞬だけ細くなる。
「……それが何」
「いや、別に責めてない。責めてないけど……昔は、“ゆう”って呼んでくれたじゃん」
言った瞬間、胸が熱くなる。
“ゆう”。
その呼び方は、小学生の頃の俺たちの距離そのものだった。
短くて、軽くて、当たり前で。
琉人は黙った。
沈黙が長い。
冬の空気が、靴箱の隙間からひゅうっと吹き込んできて、耳が冷たくなる。
でも俺の頬は熱い。
琉人が言う。
「……今は、そういうの、やめた」
やめた。
まるで、何かを決めたみたいな言い方だった。
「誰に対しても?」
「……そういうのは、どうでもいいだろ」
どうでもいい。
また、心が痛い。
でも、琉人の声はただ冷たいだけじゃなくて、どこか――急いでるみたいだった。
話を終わらせたい。
切り上げたい。
その必死さみたいなものが、逆に不自然で。
俺は、思わず言ってしまった。
「……俺、嫌なことした……?」
言った瞬間、空気が止まった。
自分でも驚いた。
こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
琉人の視線が、まっすぐ俺を刺す。
心臓が縮む。
“うん”って言われたら、俺はどうするんだろう。
笑って誤魔化せる?
無理だ。たぶん、俺は泣く。
琉人は、少しだけ眉を寄せた。
「……違う」
――え。
違う。
今、違うって言った?
俺は息を止めたまま、琉人を見上げる。
「じゃあ、なんで……」
なんで冷たいの。
なんで距離を取るの。
なんで、昔の俺たちを、なかったみたいにするの。
言いたい言葉が喉の奥で渋滞して、出てこない。
琉人はそのまま視線を逸らした。
「……色々」
色々。
それは、説明じゃない。
でも、嘘でもない気がした。
俺は封筒を渡し終わってるのに、まだここに立っている。
帰れない。終われない。
琉人が、ふっと小さく息を吐いた。
「……崎枝。もう帰れ」
帰れ。
その言葉が、冷たいのに――
どこか、優しいみたいに聞こえてしまって。
俺はそれが怖かった。
「琉人……俺、帰れない」
言ってから、何言ってんだ俺、ってなる。
重すぎるだろ。
でも本当に、帰れなかった。
琉人は少し黙って、それから――
「……送る」
そう言った。
「え?」
俺は間抜けな声を出した。
「送るって……家、あの時と同じなの?」
「……」
同じ。
過ぎし日の家。
たったそれだけの距離。
でも、あの頃は、とても楽しくて楽しくて。
でも俺にとっては、世界がひっくり返るくらいの言葉だった。
「い、いいの?」
「……勝手にしろ」
相変わらず口は冷たい。
でも、琉人は先に歩き出した。
俺は慌てて後を追う。
靴箱を出て、薄暗い校門の方へ向かう道。
夕方の風は鋭くて、頬が痛い。
俺はマフラーをしていないことを後悔する。
「寒いな」
「……そうだな」
会話が、成立してる。
それだけで胸が甘くなるの、やばい。
俺、単純すぎる。
校門を出る。
空はもう青くて、街灯がぽつぽつ灯り始めている。
並んで歩いているのに、琉人との距離は微妙に遠い。
肩が触れない位置。
それが、琉人の“線引き”みたいに見える。
でも、それでも。
同じ歩幅で歩いている。
昔は琉人の方が小さかった。
俺がちょっとだけ早歩きすると、「待て」って腕を掴まれた。
今は――
琉人の方が大きい。
俺が早歩きしないと追いつけない。
その事実が、なんだか切ない。
「琉人さ」
俺が呼ぶと、琉人は目だけ向ける。
横顔が、夜の色に溶けそうなくらい静かだ。
「海外、どうだったの?」
聞いていいのか分からなかった。
でも、聞きたかった。
琉人は少しだけ沈黙して、答える。
「……普通だよ」
普通。
それはきっと、嘘じゃない。
でも、全部じゃない。
「そっか……」
俺はそれ以上、踏み込めなかった。
踏み込んだら、また“無理”って言われそうで怖い。
駅が近づく。
人の気配が増えて、現実が戻ってくる。
琉人の横顔が、街の明かりに照らされる。
やっぱり、かっこいい。
悔しいくらい。
眩しいくらい。
そして、俺は思ってしまう。
こんな琉人の隣に、俺がいていいのか。
俺は、昔のままなのに。
駅前の横断歩道。
信号が赤で、俺たちは止まった。
無言。
沈黙が寒い。
俺が何か言おうとした、そのとき――
風が強く吹いた。
「わっ」
俺の髪がふわっと舞って、視界を遮る。
思わず目を細めた瞬間。
琉人が、俺の目の前に手を伸ばした。
指先が、俺の前髪に触れる。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬なのに。
電気が走ったみたいに体が固まった。
琉人は何も言わない。
ただ、乱れた髪をそっと直して、手を引っ込める。
それだけ。
それだけなのに、俺の心臓が壊れそうになる。
「……ありがと」
声が震えた。
琉人は、視線を逸らしたまま、短く言う。
「……整えた」
そういうことにしたいんだろう。
俺は、笑ってしまった。
だって、琉人。
今の行動、昔のままだ。
俺が髪をぐちゃぐちゃにして泣きそうになったとき、
黙って頭を撫でて「うるさい」って言った、あの時と同じ。
胸が熱い。
信号が青になる。
俺たちは歩き出した。
そこで、琉人が足を止めた。
「……寒いな」
もう四月なのに。
「送ってくれて、ありがとう」
俺は笑う。
笑うしかない。
嬉しすぎて、涙が出そうだから。
琉人は別れ際、少しだけ黙ってから言った。
「……明日」
「え?」
俺が顔を上げると、琉人はもう視線を逸らしている。
「……明日、昼。少しだけなら」
少しだけ。
俺の世界は、いま確かに明るくなった。
「……ほんと!?」
声が大きくなって、俺は慌てて口を押さえる。
周りの人がちらっと見る。
琉人は、相変わらずの無表情で。
「……うるさい」
そう言って、背を向けた。
でも、その背中は。
今朝見た背中より、ほんの少しだけ――近かった気がした。
家に向かう琉人を見送りながら、俺は胸の奥で何度も思う。
明日。
昼。
少しだけ。
たったそれだけでも。
俺は、ちゃんと生き返る。
冷たいままでもいい。
クールなままでもいい。
――でも、お願いだから。
俺の隣にいる琉人が、
“知らない人”にはならないでほしい。
そう思いながら、俺は夕陽の下で小さく息を吐いた。
冬の夜に混ざる白い吐息が、消える。
でも、その消え方が――なぜか少しだけ甘かった。
放課後の青霞学院は、昼間よりずっと静かだ。
部活の音が遠くで鳴っているはずなのに、この棟はまるで図書館みたいに無音で――俺の足音だけがやけに響く。
コツ、コツ、コツ。
階段を下りるたび、心臓が早くなる。
胸が苦しい。寒いせいだけじゃない。
手の中にある封筒――担任に渡された書類の束が、妙に重い。
これはただの紙だ。
ただのプリント。
ただの事務連絡。
なのに俺にとっては――琉人に追いつくための理由だった。
追いかけていい理由。
声をかけても不自然じゃない口実。
……情けない。
幼馴染なのに。
小学生の頃は、勝手に家に上がってプリンを食べてたくせに。
「鍵かけろよ」って言いながら、玄関の前で待ってたくせに。
なのに今は、俺が追いかけるのに“理由”が必要だなんて。
「……っ」
昇降口に近づくにつれて、足が少し震えた。
下駄箱の方は暗くなり始めていて、夕方の光が斜めに落ちている。
もし、もう帰ってたら。
もし、追いつけなかったら。
その想像だけで喉が詰まり、息が苦しくなる。
俺は角を曲がって、靴箱の前へ――
「……琉人!」
声が出た。
願いみたいな声だった。
いた!
靴箱の前に、琉人がいた。
ブレザーの襟を整えながら、靴を履き替えている。
後ろ姿だけでも背が高いのが分かる。
ひとつひとつの動きが静かで、無駄がなくて、美術品のように整ってる。
俺は息を整える前に、距離を詰めた。
「待って……!」
琉人の肩が、わずかに動いた。
振り向く。
黒い瞳が俺を見た。
――あ。
近い。
昼休みや授業中よりも、距離が近い。
視線の圧が直に来る。
「……何」
またそれだ。
何、って。
俺は胸の痛みを隠すように笑って、封筒を差し出した。
「これ! 先生が、渡し忘れたって……明日提出の書類らしい」
琉人は封筒を見て、それから俺を見る。
「……ありがとう」
淡々とした声。
でも、それはさっきの“無理”よりは、ずっと柔らかい気がした。
……気がしただけかもしれないけど。
俺は封筒を渡す。
指先が触れそうで、咄嗟に手を引っ込めた。
心臓が、どくんと鳴る。
琉人は封筒を受け取り、カバンに入れた。
それで終わり。
終わってしまう。
琉人はそのまま帰る。
俺はここで立ち尽くす。
そんな未来が見えて、俺は慌てて言葉を探した。
「……あのさ」
琉人が、視線だけ寄越す。
俺は、喉の奥を何度も通してから、やっと言った。
「今日さ……放課後、少しだけ話したかったんだ。五分でもいいって言ったの、ほんと」
言ってから、自分が情けなくなる。
五分でもいいって何。
幼馴染に言う言葉じゃない。
琉人は無表情のまま、靴紐を結び直すようにしゃがんだ。
「……無理だって言った」
低い声。
突き放すみたいな音。
俺の胸がぎゅっと縮む。
「分かってる。でも……」
でも、で言葉が詰まる。
何を言えばいい?
“寂しい”なんて、重すぎる。
「昔みたいに」なんて、押しつけになる。
俺は唇を噛んで、別の言葉に変えた。
「……俺、嬉しかったんだ。琉人が帰ってきたの。ほんとに」
それだけは嘘じゃない。
嘘にできない。
琉人は立ち上がった。
夕日のオレンジが、黒髪の端に薄く触れる。
顔は相変わらず整いすぎていて、近くで見るほど現実感がない。
「……そう」
短い返事。
それだけで終わるはずなのに、俺はその“そう”に救われそうになる。
だって、否定されなかった。
「知らない」とも「どうでもいい」とも言われなかった。
……たったそれだけで、俺は甘くなる。
馬鹿だ。
俺は一歩、踏み出した。
琉人が一歩引いたら、終わる。
でも、引かなかった。
それが、余計に苦しい。
「琉人さ……俺のこと、苗字で呼ぶんだな」
口から出たのは、そんなことだった。
言うつもりなんてなかった。
でも、ずっと刺さってたんだ。
琉人の目が一瞬だけ細くなる。
「……それが何」
「いや、別に責めてない。責めてないけど……昔は、“ゆう”って呼んでくれたじゃん」
言った瞬間、胸が熱くなる。
“ゆう”。
その呼び方は、小学生の頃の俺たちの距離そのものだった。
短くて、軽くて、当たり前で。
琉人は黙った。
沈黙が長い。
冬の空気が、靴箱の隙間からひゅうっと吹き込んできて、耳が冷たくなる。
でも俺の頬は熱い。
琉人が言う。
「……今は、そういうの、やめた」
やめた。
まるで、何かを決めたみたいな言い方だった。
「誰に対しても?」
「……そういうのは、どうでもいいだろ」
どうでもいい。
また、心が痛い。
でも、琉人の声はただ冷たいだけじゃなくて、どこか――急いでるみたいだった。
話を終わらせたい。
切り上げたい。
その必死さみたいなものが、逆に不自然で。
俺は、思わず言ってしまった。
「……俺、嫌なことした……?」
言った瞬間、空気が止まった。
自分でも驚いた。
こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
琉人の視線が、まっすぐ俺を刺す。
心臓が縮む。
“うん”って言われたら、俺はどうするんだろう。
笑って誤魔化せる?
無理だ。たぶん、俺は泣く。
琉人は、少しだけ眉を寄せた。
「……違う」
――え。
違う。
今、違うって言った?
俺は息を止めたまま、琉人を見上げる。
「じゃあ、なんで……」
なんで冷たいの。
なんで距離を取るの。
なんで、昔の俺たちを、なかったみたいにするの。
言いたい言葉が喉の奥で渋滞して、出てこない。
琉人はそのまま視線を逸らした。
「……色々」
色々。
それは、説明じゃない。
でも、嘘でもない気がした。
俺は封筒を渡し終わってるのに、まだここに立っている。
帰れない。終われない。
琉人が、ふっと小さく息を吐いた。
「……崎枝。もう帰れ」
帰れ。
その言葉が、冷たいのに――
どこか、優しいみたいに聞こえてしまって。
俺はそれが怖かった。
「琉人……俺、帰れない」
言ってから、何言ってんだ俺、ってなる。
重すぎるだろ。
でも本当に、帰れなかった。
琉人は少し黙って、それから――
「……送る」
そう言った。
「え?」
俺は間抜けな声を出した。
「送るって……家、あの時と同じなの?」
「……」
同じ。
過ぎし日の家。
たったそれだけの距離。
でも、あの頃は、とても楽しくて楽しくて。
でも俺にとっては、世界がひっくり返るくらいの言葉だった。
「い、いいの?」
「……勝手にしろ」
相変わらず口は冷たい。
でも、琉人は先に歩き出した。
俺は慌てて後を追う。
靴箱を出て、薄暗い校門の方へ向かう道。
夕方の風は鋭くて、頬が痛い。
俺はマフラーをしていないことを後悔する。
「寒いな」
「……そうだな」
会話が、成立してる。
それだけで胸が甘くなるの、やばい。
俺、単純すぎる。
校門を出る。
空はもう青くて、街灯がぽつぽつ灯り始めている。
並んで歩いているのに、琉人との距離は微妙に遠い。
肩が触れない位置。
それが、琉人の“線引き”みたいに見える。
でも、それでも。
同じ歩幅で歩いている。
昔は琉人の方が小さかった。
俺がちょっとだけ早歩きすると、「待て」って腕を掴まれた。
今は――
琉人の方が大きい。
俺が早歩きしないと追いつけない。
その事実が、なんだか切ない。
「琉人さ」
俺が呼ぶと、琉人は目だけ向ける。
横顔が、夜の色に溶けそうなくらい静かだ。
「海外、どうだったの?」
聞いていいのか分からなかった。
でも、聞きたかった。
琉人は少しだけ沈黙して、答える。
「……普通だよ」
普通。
それはきっと、嘘じゃない。
でも、全部じゃない。
「そっか……」
俺はそれ以上、踏み込めなかった。
踏み込んだら、また“無理”って言われそうで怖い。
駅が近づく。
人の気配が増えて、現実が戻ってくる。
琉人の横顔が、街の明かりに照らされる。
やっぱり、かっこいい。
悔しいくらい。
眩しいくらい。
そして、俺は思ってしまう。
こんな琉人の隣に、俺がいていいのか。
俺は、昔のままなのに。
駅前の横断歩道。
信号が赤で、俺たちは止まった。
無言。
沈黙が寒い。
俺が何か言おうとした、そのとき――
風が強く吹いた。
「わっ」
俺の髪がふわっと舞って、視界を遮る。
思わず目を細めた瞬間。
琉人が、俺の目の前に手を伸ばした。
指先が、俺の前髪に触れる。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬なのに。
電気が走ったみたいに体が固まった。
琉人は何も言わない。
ただ、乱れた髪をそっと直して、手を引っ込める。
それだけ。
それだけなのに、俺の心臓が壊れそうになる。
「……ありがと」
声が震えた。
琉人は、視線を逸らしたまま、短く言う。
「……整えた」
そういうことにしたいんだろう。
俺は、笑ってしまった。
だって、琉人。
今の行動、昔のままだ。
俺が髪をぐちゃぐちゃにして泣きそうになったとき、
黙って頭を撫でて「うるさい」って言った、あの時と同じ。
胸が熱い。
信号が青になる。
俺たちは歩き出した。
そこで、琉人が足を止めた。
「……寒いな」
もう四月なのに。
「送ってくれて、ありがとう」
俺は笑う。
笑うしかない。
嬉しすぎて、涙が出そうだから。
琉人は別れ際、少しだけ黙ってから言った。
「……明日」
「え?」
俺が顔を上げると、琉人はもう視線を逸らしている。
「……明日、昼。少しだけなら」
少しだけ。
俺の世界は、いま確かに明るくなった。
「……ほんと!?」
声が大きくなって、俺は慌てて口を押さえる。
周りの人がちらっと見る。
琉人は、相変わらずの無表情で。
「……うるさい」
そう言って、背を向けた。
でも、その背中は。
今朝見た背中より、ほんの少しだけ――近かった気がした。
家に向かう琉人を見送りながら、俺は胸の奥で何度も思う。
明日。
昼。
少しだけ。
たったそれだけでも。
俺は、ちゃんと生き返る。
冷たいままでもいい。
クールなままでもいい。
――でも、お願いだから。
俺の隣にいる琉人が、
“知らない人”にはならないでほしい。
そう思いながら、俺は夕陽の下で小さく息を吐いた。
冬の夜に混ざる白い吐息が、消える。
でも、その消え方が――なぜか少しだけ甘かった。
