幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 修学旅行二日目は、昨日より空がずるかった。
 青い、眩しい、遠い。なのに、今だけは近い。――琉人が隣にいるから。

 班行動の列が進むたび、俺の心臓は「平然としてろ」って命令を受ける。でも、その命令を出してる理性は弱くて、琉人の横顔を盗み見た瞬間、あっさり反乱を起こす。
 黒髪のセンターパートが風に揺れて、睫毛の影が頬に落ちて、無表情のはずの表情が、俺の前だとほんの少し柔らかい。

 ……好き。

 口に出せない“好き”が、体温になって胸の奥に溜まっていく。

 前を歩く湊が振り返った。

「おーい! 次あっち! 真木先生、ナビ頼む!」
「先生じゃない」
「先生だろ、地理の!」

 真木が淡々と地図アプリを確認して言う。

「……右。集合時間までに寄り道できるのは五分が限界だ」

 五分。
 その数字が、急に“恋人の制限時間”みたいに聞こえてしまって、俺はこっそり息を呑んだ。

 そのとき――隣。

 琉人がほんの少しだけ俺を見る。目だけ。声は出さない。でも、視線は確かに言っていた。

 ――抜けよう。

 無理だろ、って思うのに。
 危ないだろ、って分かってるのに。

 胸の奥が、先に頷いてしまう。

 琉人が、俺の袖を軽く引いた。ほんの一センチ、世界がずれるくらいの力。でも、その一瞬に、昨日の夜のLINEと、廊下でこっそり重ねた唇の温度が全部戻ってくる。

「……雄大」

 柔らかい声。
 名前だけで、俺はだめになる。

「少し、こっち」

 俺は小さく頷いて、足を一歩だけずらした。

 人の流れから外れた瞬間、世界の音が遠くなる。観光地のざわめき、先生の笛、同級生の笑い声――それらが薄い膜の向こうへ押しやられて、代わりに耳に入ってくるのは、砂利を踏む音と、風が葉を揺らす音だけになる。

 角を曲がった先に、小さな神社があった。

 派手でも有名でもない。
 でも、静かで、涼しくて、まるで“隠し部屋”みたいな場所。

 琉人が立ち止まる。俺も止まる。
 そこでようやく、息ができる気がした。

 神社の裏手。人の気配が遠い。
 鳥居の向こう側だけ、時間がゆっくり流れているみたいだった。

 俺の手はまだ、琉人の手の中にある。
 指と指が絡まって、握られているというより――“捕まっている”。

 でも、不思議と怖くない。
 むしろ、その強さが心地いい。

 琉人は、俺を見下ろしていた。
 いつもの無表情に近い顔。だけど、目だけが甘い。
 そして何より、落ち着きすぎている。

 ……同い年なのに。
 同じ制服なのに。
 俺だけが必死で、琉人だけが余裕で。

 それが悔しいのに、たまらなく惹かれてしまう。

「……雄大」

 名前を呼ばれるだけで、胸の奥がきゅっと鳴る。

「顔、真っ赤」
「うるさい……!」

 俺が小声で睨むと、琉人は笑いそうな息を吐いた。
 それが、ずるいくらい大人っぽい。

「……かわいい」
「言うなってば……!」
「言う」

 即答。
 否定の余地なし。
 優しいのに、有無を言わせない。

 琉人は繋いだ手を軽く引いて、俺を一歩だけ近づけた。
 距離が詰まる。近い。息が触れそう。
 俺の心臓がうるさくなる。

「雄大、目、逸らさないで」
「……っ」

 低い声で、静かに命令される。
 怒ってるわけじゃない。怖いわけでもない。
 ただ――“従わせる”声。

 俺は反射みたいに琉人を見上げてしまった。

 琉人の瞳が、少しだけ細くなる。
 満足したみたいに。

「いい子」

 ――やばい。

 俺の背中がぞくっとする。
 何それ。何それ。
 同級生に言われる言葉じゃない。

 でも、胸の奥が甘く痺れて、否定できない。

「……琉人、そういう言い方やめろ……」
「やめない」
「なんで……」
「雄大が、そういう顔するから」

 俺のせいにするな。

 なのに、琉人の声は柔らかくて、余裕があって、俺はもう反論する気力が消えていく。
 消えていくどころか――もっと言ってほしくなるのが、最悪だ。

 琉人の指が、俺の手の甲をゆっくり撫でる。
 すごく丁寧に。
 急がない。焦らない。
 なのに、確実に俺を追い詰めてくる。

「……昨日さ、廊下でキスしただろ」
「……うん」
「足りなかった」
「……またそれ……」

 恥ずかしくて視線を落としそうになった瞬間、琉人の声が落ちた。

「雄大、下向かないで」

 また命令。
 でも、口調は甘い。
 叱るみたいじゃなくて、“導く”みたいに。

 俺は言われた通り、顔を上げた。
 悔しい。悔しいのに、心地よくて――従ってしまう。

 琉人は、俺の反応を見て小さく笑った。

「……素直」
「違う……」
「違わない」

 否定させない。
 余裕があるくせに、俺の逃げ道だけを全部塞いでくる。

 琉人の額が、俺の額に軽く触れた。
 唇じゃない。
 なのに、この距離はキスよりずっと危ない。

 俺は息が詰まって、震える声が漏れる。

「……琉人、近い」
「近いのが、いい」
「……ばか」
「うん」

 うん、って。
 否定しないのがずるい。

 琉人の指先が俺の顎に触れて、ほんの少しだけ持ち上げた。
 無理やりじゃない。
 でも、確実に俺の視線を固定する。

 その動きが、恋人を扱う手つきというより――“慣れてる大人”みたいで。

 俺の胸が、ぎゅっと締まった。

「……雄大、可愛いから」
「何が……」
「俺、我慢できなくなる」

 低い声で言われた瞬間、俺はもうだめだった。
 心臓が跳ねて、目の奥が熱くなる。
 ――我慢できなくなる、って何?
 そんなの想像しちゃうに決まってる。

 琉人は、俺の耳元に顔を寄せる。

「声、出したらダメ」
「……っ!?」

 囁きが、甘くて意地悪で、背筋がぞわっとする。
 同時に、どこか“守られてる”感じもするのが腹立つ。

 俺は必死に小声で返す。

「……そんなの、出ない……」
「出る」

 即答で断言されて、俺は言葉を失った。

 琉人は、俺が反論できないのを分かってるみたいに、ゆっくり唇を近づける。
 焦らない。
 “待たせる”余裕。

 俺はその余裕に、完全に飲まれる。

 ――追いかけたくなる。
 もっと近づいてほしくて、でも自分から動くのが悔しくて。

 琉人は、そんな俺を全部見抜いているみたいに。

 唇が触れる直前で、わざと止めた。

「……雄大」
「……なに」
「欲しい?」

 ……っ。

 何それ。
 言わせる気だ。
 俺に、言わせる気だ。

 俺は顔が熱すぎて、息がうまくできない。

「……っ、琉人、ずるい……」
「うん、ずるい」

 自覚あるんだ。
 認めるんだ。
 それがまた大人っぽくて、腹立つのに、胸がきゅんってする。

 琉人が、ようやく唇を重ねた。

 短く。
 軽く。
 でも、逃げられない。

 触れた瞬間、俺の体から力が抜ける。
 琉人の方が強くないのに、俺の方が勝手に崩れる。

 琉人が離れて、俺の頬を指で撫でた。

「……いい子」
「……それ、やめろって……」
「やめない」

 また。
 また言う。

 俺はもう、抵抗するのが馬鹿らしくなる。
 悔しいのに、嬉しくて。
 支配されてるみたいなのに、安心してしまう。

 そのとき――

「雄大ー!? 篠山ー!? どこ行った!?!?」

 湊の声が飛んできた。

 俺はビクッとして、琉人の胸を軽く押した。

「ほら! 湊! 探してる!」
「……うん」

 琉人は全然焦っていない。むしろ寂しそう。
 俺の手を離さない。

 ゆっくり、繋いだ指をほどいて――最後に、俺の指先を軽く握り直す。
 “逃がさない”合図みたいに。

 俺が小声で言う。

「……行かなきゃ」
「……うん」

 琉人は頷きながら、俺の耳元に囁いた。

「戻ったら、ちゃんと褒める」
「……は?」
「雄大、我慢できたら」

 ……っ!!!

 俺はその場で崩れそうになった。

 なにそれ。
 恋人を“ご褒美”で釣るな。
 なのに俺は――その言葉ひとつで、今日一日頑張れそうな自分がいる。

 琉人が最後に、俺の唇の端に軽く触れるだけのキスを落とした。

 ほんの一瞬。
 でも、心臓が全部持っていかれる。

「……行こう」
「……うん」

 俺はふらふらになりながら歩き出した。
 琉人は隣で平然としている。
 余裕で、甘くて、意地悪で、でもちゃんと俺を守るように周囲を見ている。

 その姿が――大人みたいで。

 俺は心の奥で、認めてしまった。

 ……もっと、リードしてほしい。
 もっと、琉人のペースに溺れてしまいたい。
 怖いのに、甘くて、抜けられない。

 角を曲がった瞬間、湊が飛びつく勢いで来た。

「やっと見つけた!! どこ行ってたんだよ二人とも!!」
「……トイレ」
「同時に!? 仲良すぎじゃん!?」
「偶然」
「絶対うそ!」

 真木が俺の顔を見て、ため息をつく。

「……顔が赤い」
「赤くない!!」
「赤い」
「赤くないってば!!」

 俺が必死に否定してる横で、琉人が小さく笑った。

 俺だけに聞こえるくらい小さく。
 でも、確実に“満足してる”笑い。

 琉人が、俺の袖をそっと引く。
 ほんの一センチ。

 その小さな合図に、俺の胸がまた甘く鳴った。
 支配されたい、なんて言葉にするのは怖い。

 でも、本当はただ……

 琉人の余裕に、甘さに、導かれるままに恋をしたいだけだった。