昼休みのチャイムが鳴った瞬間。
青霞学院の教室は、静かな緊張から一気に“解放”へ切り替わる――はずだった。
いつもなら、ね。
でも今日は違う。
俺の隣の席にいる男――篠山琉人が、空気を全部持っていってる。
正確に言うと、琉人そのものが目立ってるというより、琉人がいることで、周りの反応が変わってる。
女子は表向きは騒がない。
進学校らしく、声のボリュームは常識の範囲内。
それでも、視線が落ち着かない。
何度も、俺の隣へ。
ひそひそと、しずしずと。
「……篠山くんって、やっぱ海外いたから英語とかすごいのかな」
「でもさ、顔が強すぎない? あれ、反則」
「ね、崎枝くんと知り合いなんでしょ?」
「幼馴染らしいよ」
聞こえてる。
めちゃくちゃ聞こえてる。
やめてくれ、心臓が落ち着かない。
俺は、ノートの端に無意味な丸を描きながら、隣をちらっと見た。
琉人は、昼休みになっても変わらず落ち着いていた。
背筋が伸びていて、制服の着方も乱れがない。
黒髪のセンターパートは、昼の光でも崩れない。
ノートも教科書も、必要なものだけ机に出している。
……なんだそれ。
俺の知ってる琉人は、こんな“完璧な大人”じゃなかった。
今や弁当箱を開ける音も、俺のほうが圧倒的にうるさい。
箸を割る音も、俺のほうが雑。
そんな自分が急に恥ずかしくなるから、やめてほしい。
「雄大」
前の席から声がした。
振り向くと真木が、いつもの無表情で俺を見ている。
「周囲の視線、浴びすぎ」
「俺が望んで浴びてるわけじゃないんだって……」
真木は俺の隣――琉人をちらっと見て、すぐ視線を戻す。
「……篠山、すごいな。来た初日でクラスの重力を変えた」
「人を天体みたいに言うな」
でも、分かる。
琉人は“そういう存在”になってしまっていた。
俺の心臓はさっきから落ち着かないし、教室の空気も妙にざわつく。
しかも、その原因が幼馴染っていうのが一番ややこしい。
俺は深呼吸した。
昼休み。
今なら話せるはずだ。
朝のホームルームは無理だった。
授業中も無理。
でも昼休みなら、普通に――
普通に、「久しぶり」の続きをできる。
俺は弁当箱を閉じ、隣を向く。
「琉人」
名前を呼んだ瞬間、琉人の視線が俺に向いた。
まっすぐ。
冷静。
表情が読めない。
「何」
短い。
俺は笑顔を崩さないようにした。
崩したら、心が折れそうだから。
「……昼、食べた?」
「今から」
「そ、そっか! じゃあさ、食堂行かない? この学校、食堂のカレーうまいんだよ。前はメニュー少なかったけど、最近増えて――」
言いながら、俺は気づく。
俺、めっちゃ必死だ。
話し続けないと、この空気に呑まれる。
琉人は一瞬、言葉を探すみたいに沈黙して。
「……今日はいい」
それだけ言った。
「え……」
俺の声が間抜けに漏れる。
「いや、別に無理にとは言わないけど! あ、じゃあ、ここで食べる感じ? 弁当? 購買?」
「一人でいい」
――その言い方。
“拒絶”だとしか受け取れない音だった。
教室の雑音が遠のく。
俺の心臓だけが、変に大きく響く。
一人でいい。
つまり、俺は――いらないってこと?
「……そっか」
俺はなんとか笑った。
でも、笑顔が顔に貼りついてるのが自分でもわかる。
「じゃあ、俺は……真木と食べるわ」
真木が「勝手に巻き込むな」って顔をしたけど、助け舟だと思ってほしい。
俺は弁当箱を持って、席を立った。
……ダメだ。
近くにいるのに、壁がある。
透明な壁。
触れそうで触れない距離。
教室の後ろのほうで真木と向かい合って座る。
「断られた?」
「うん……」
俺は弁当を開けながら、妙に丁寧に箸を揃えた。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
「篠山、海外で何かあったんじゃない?」
「だよなぁ……」
真木は淡々と、唐揚げを一口。
「雄大は、昔の篠山を知ってるから辛いんだろ」
「……辛いっていうか、寂しい、かも」
口に出すと、余計に胸が痛くなる。
俺は思い出してしまう。
小学生の頃の琉人は、俺の家に勝手に上がり込んできて。
冷蔵庫のプリンを勝手に食べて。
母さんに怒られて。
俺が笑って。
俺たちは、悪ガキだった。
「雄大、早くしろ」
そう言いながらも、手を引っ張って一緒に走ってくれた。
それが琉人だった。
なのに今は。
同じ教室にいるのに、
同じ景色を見てるのに、
俺だけが、過去に置き去りみたいだ。
視線が勝手に隣へ向く。
琉人は教室の隅の席で、一人で購買のパンを食べていた。
背中がまっすぐで、周りのざわつきが全部届いてないみたいに落ち着いている。
でも――
そんな琉人を、女子たちが放っておくはずがない。
数人の女子が、恐る恐る近づく。
声を抑えて、礼儀正しく。
「篠山くん、転校初日だし……よかったら一緒に食べない?」
進学校の女子は、攻め方まで丁寧だ。
……俺なら、秒でOKする。
いや、女子と食べたいわけじゃなくて、普通に“誰かと食べる”って当たり前のことだから。
琉人はパンの袋を折りたたんだまま、顔を上げる。
「ごめんね。今日は遠慮する」
「そ、そっか……ありがとう! ごめんね!」
女子が退く。
教室の空気が、ほんの少しだけ揺れる。
断られた女子たちは気まずそうに笑って、戻っていく。
……え。
今の、断ったの?
女子にも?
じゃあ、俺が断られたのは……俺が嫌だからじゃなくて?
いや、そんな希望みたいな考え方、やめろ。
俺の心が勝手に期待する。
でも、胸の奥の痛みがほんの少しだけ形を変えた。
“俺だから”じゃない。
“誰でも”かもしれない。
そう思うだけで、少しだけ呼吸がしやすくなるなんて――俺、単純すぎる。
「ゆうだーい」
真木が弁当を食べながら、俺の視線を追って言う。
「今の見て、安心した顔してるなー」
「え、してない」
「してるんだよなー」
「……してないって!」
真木の観察力、恋愛方面で発揮しないでほしい。
昼休みが終わり、チャイムが鳴る。
俺は席に戻る。
戻る途中、廊下側の窓から冬の光が差して、床が白く光っていた。
そして、自分の席に着こうとして――また心臓が跳ねた。
琉人が、俺の隣にいる。
当たり前のことなのに、当たり前じゃない。
俺は少し迷ってから、声をかける。
「……さっき、食堂誘ってごめん。急すぎたよな」
今度は、もう少し落ち着いた声で。
琉人は、すぐには答えなかった。
ペンを持ったまま、ノートに何かを書き続けている。
俺は、待つ。
返事がないと、心臓が落ち着かないから。
しばらくして、琉人が口を開いた。
「別に」
それだけ。
別に。
それって、何が別に?
謝らなくていいってこと?
誘われたのが迷惑じゃないってこと?
それとも、俺に興味がないってこと?
言葉が足りなすぎて、何も分からない。
俺は笑ってごまかした。
「そっか……じゃあ、よかった」
よくない。
全然よくない。
でも、これ以上聞いたら、また拒絶されそうで怖い。
俺は昔から、琉人に対してだけは妙に臆病になる。
授業が始まる。
数学。
古文。
英語。
どの時間も、俺の意識は半分くらい隣に吸われていた。
琉人は真面目に板書を取ってる。
ノートが綺麗すぎて、プリントを貼る位置まで完璧だ。
……これが海外の荒波の成果?
いや、荒波っていうより、規律の海?
放課後のチャイムが鳴る。
俺は帰り支度をしながら、チラッと隣を見る。
琉人はすでにカバンを持って、立ち上がっていた。
「琉人」
俺は反射で呼んだ。
琉人が一度だけ振り向く。
表情は相変わらず読めない。
「……何」
また“何”。
俺は、言葉を選んで、喉の奥を何度も通してから言った。
「……今日、放課後、少しだけ話せない? 五分でもいい」
願いみたいな言葉だった。
お願い、に近い。
琉人は俺を見て、少しだけ沈黙した。
そして。
「無理」
その二文字で終わった。
淡々としていて、冷たくて、余白のない拒否。
俺の背中が、ひゅっと冷える。
「……そっか」
それしか言えない。
琉人はそれ以上何も言わず、教室を出ていった。
廊下に足音が遠ざかる。
俺は机に座ったまま、動けなかった。
……無理って。
俺と話すの、そんなに無理?
心臓がじわじわ痛い。
胸の奥が、かすかに熱い。
でも、痛いだけじゃない。
俺は、琉人の背中を見た瞬間。
昔と同じ癖を思い出してしまった。
琉人は、“嫌なこと”を断るときほど、無駄に淡々とする。
そのまま逃げるみたいに、早く歩く。
小学生の頃、俺が泣いて怒ったときもそうだった。
あの頃は、俺が追いかけて、腕を掴んで。
『逃げんな!』って怒鳴って、
『うるさい』って返されて、
結局、二人で笑った。
……今は、追いかけたらダメだろうか。
俺は立ち上がりかけて、足が止まった。
教室には、もうほとんど人がいない。
窓の外は薄い青色に染まって、冬の夕方が近い。
そして、そのとき。
「崎枝」
背後から声がした。
振り向くと、担任の先生が教卓のあたりで手招きしている。
「篠山くんの件なんだが、転校手続きでプリントが多くてな。明日提出の書類を篠山に渡し忘れた。これ、渡しておいてくれ。家、近いんだろ?」
先生が、封筒みたいな書類セットを差し出す。
俺は思わず固まった。
「……俺が、ですか?」
「隣の席だし、幼馴染なんだろ? 頼む」
頼む、って軽く言うけど――
でも、俺にとっては、かなり重い“チャンス”だった。
琉人に、用事ができる。
渡さないといけないものができる。
それは、話す理由になる。
俺は書類を受け取った。
「……分かりました」
先生が教室を出ていった。
静かになった教室で、俺は封筒を見つめたまま、息を吸った。
追いかける理由。
話す理由。
今、手の中にある。
琉人が「無理」って言ったのは、
“俺と話したくない”からなのか、
それとも、本当にただ“無理”な事情があるのか。
分からない。
でも、分からないまま終わらせたくない。
俺はカバンを掴んで、教室を飛び出した。
廊下に冷たい空気が流れ込む。
靴音が響く。
――琉人。
待って!
たった五分でいい。
久しぶりの“続き”を、俺にくれ。
そう願いながら、俺は階段へ向かって走った。
青霞学院の教室は、静かな緊張から一気に“解放”へ切り替わる――はずだった。
いつもなら、ね。
でも今日は違う。
俺の隣の席にいる男――篠山琉人が、空気を全部持っていってる。
正確に言うと、琉人そのものが目立ってるというより、琉人がいることで、周りの反応が変わってる。
女子は表向きは騒がない。
進学校らしく、声のボリュームは常識の範囲内。
それでも、視線が落ち着かない。
何度も、俺の隣へ。
ひそひそと、しずしずと。
「……篠山くんって、やっぱ海外いたから英語とかすごいのかな」
「でもさ、顔が強すぎない? あれ、反則」
「ね、崎枝くんと知り合いなんでしょ?」
「幼馴染らしいよ」
聞こえてる。
めちゃくちゃ聞こえてる。
やめてくれ、心臓が落ち着かない。
俺は、ノートの端に無意味な丸を描きながら、隣をちらっと見た。
琉人は、昼休みになっても変わらず落ち着いていた。
背筋が伸びていて、制服の着方も乱れがない。
黒髪のセンターパートは、昼の光でも崩れない。
ノートも教科書も、必要なものだけ机に出している。
……なんだそれ。
俺の知ってる琉人は、こんな“完璧な大人”じゃなかった。
今や弁当箱を開ける音も、俺のほうが圧倒的にうるさい。
箸を割る音も、俺のほうが雑。
そんな自分が急に恥ずかしくなるから、やめてほしい。
「雄大」
前の席から声がした。
振り向くと真木が、いつもの無表情で俺を見ている。
「周囲の視線、浴びすぎ」
「俺が望んで浴びてるわけじゃないんだって……」
真木は俺の隣――琉人をちらっと見て、すぐ視線を戻す。
「……篠山、すごいな。来た初日でクラスの重力を変えた」
「人を天体みたいに言うな」
でも、分かる。
琉人は“そういう存在”になってしまっていた。
俺の心臓はさっきから落ち着かないし、教室の空気も妙にざわつく。
しかも、その原因が幼馴染っていうのが一番ややこしい。
俺は深呼吸した。
昼休み。
今なら話せるはずだ。
朝のホームルームは無理だった。
授業中も無理。
でも昼休みなら、普通に――
普通に、「久しぶり」の続きをできる。
俺は弁当箱を閉じ、隣を向く。
「琉人」
名前を呼んだ瞬間、琉人の視線が俺に向いた。
まっすぐ。
冷静。
表情が読めない。
「何」
短い。
俺は笑顔を崩さないようにした。
崩したら、心が折れそうだから。
「……昼、食べた?」
「今から」
「そ、そっか! じゃあさ、食堂行かない? この学校、食堂のカレーうまいんだよ。前はメニュー少なかったけど、最近増えて――」
言いながら、俺は気づく。
俺、めっちゃ必死だ。
話し続けないと、この空気に呑まれる。
琉人は一瞬、言葉を探すみたいに沈黙して。
「……今日はいい」
それだけ言った。
「え……」
俺の声が間抜けに漏れる。
「いや、別に無理にとは言わないけど! あ、じゃあ、ここで食べる感じ? 弁当? 購買?」
「一人でいい」
――その言い方。
“拒絶”だとしか受け取れない音だった。
教室の雑音が遠のく。
俺の心臓だけが、変に大きく響く。
一人でいい。
つまり、俺は――いらないってこと?
「……そっか」
俺はなんとか笑った。
でも、笑顔が顔に貼りついてるのが自分でもわかる。
「じゃあ、俺は……真木と食べるわ」
真木が「勝手に巻き込むな」って顔をしたけど、助け舟だと思ってほしい。
俺は弁当箱を持って、席を立った。
……ダメだ。
近くにいるのに、壁がある。
透明な壁。
触れそうで触れない距離。
教室の後ろのほうで真木と向かい合って座る。
「断られた?」
「うん……」
俺は弁当を開けながら、妙に丁寧に箸を揃えた。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
「篠山、海外で何かあったんじゃない?」
「だよなぁ……」
真木は淡々と、唐揚げを一口。
「雄大は、昔の篠山を知ってるから辛いんだろ」
「……辛いっていうか、寂しい、かも」
口に出すと、余計に胸が痛くなる。
俺は思い出してしまう。
小学生の頃の琉人は、俺の家に勝手に上がり込んできて。
冷蔵庫のプリンを勝手に食べて。
母さんに怒られて。
俺が笑って。
俺たちは、悪ガキだった。
「雄大、早くしろ」
そう言いながらも、手を引っ張って一緒に走ってくれた。
それが琉人だった。
なのに今は。
同じ教室にいるのに、
同じ景色を見てるのに、
俺だけが、過去に置き去りみたいだ。
視線が勝手に隣へ向く。
琉人は教室の隅の席で、一人で購買のパンを食べていた。
背中がまっすぐで、周りのざわつきが全部届いてないみたいに落ち着いている。
でも――
そんな琉人を、女子たちが放っておくはずがない。
数人の女子が、恐る恐る近づく。
声を抑えて、礼儀正しく。
「篠山くん、転校初日だし……よかったら一緒に食べない?」
進学校の女子は、攻め方まで丁寧だ。
……俺なら、秒でOKする。
いや、女子と食べたいわけじゃなくて、普通に“誰かと食べる”って当たり前のことだから。
琉人はパンの袋を折りたたんだまま、顔を上げる。
「ごめんね。今日は遠慮する」
「そ、そっか……ありがとう! ごめんね!」
女子が退く。
教室の空気が、ほんの少しだけ揺れる。
断られた女子たちは気まずそうに笑って、戻っていく。
……え。
今の、断ったの?
女子にも?
じゃあ、俺が断られたのは……俺が嫌だからじゃなくて?
いや、そんな希望みたいな考え方、やめろ。
俺の心が勝手に期待する。
でも、胸の奥の痛みがほんの少しだけ形を変えた。
“俺だから”じゃない。
“誰でも”かもしれない。
そう思うだけで、少しだけ呼吸がしやすくなるなんて――俺、単純すぎる。
「ゆうだーい」
真木が弁当を食べながら、俺の視線を追って言う。
「今の見て、安心した顔してるなー」
「え、してない」
「してるんだよなー」
「……してないって!」
真木の観察力、恋愛方面で発揮しないでほしい。
昼休みが終わり、チャイムが鳴る。
俺は席に戻る。
戻る途中、廊下側の窓から冬の光が差して、床が白く光っていた。
そして、自分の席に着こうとして――また心臓が跳ねた。
琉人が、俺の隣にいる。
当たり前のことなのに、当たり前じゃない。
俺は少し迷ってから、声をかける。
「……さっき、食堂誘ってごめん。急すぎたよな」
今度は、もう少し落ち着いた声で。
琉人は、すぐには答えなかった。
ペンを持ったまま、ノートに何かを書き続けている。
俺は、待つ。
返事がないと、心臓が落ち着かないから。
しばらくして、琉人が口を開いた。
「別に」
それだけ。
別に。
それって、何が別に?
謝らなくていいってこと?
誘われたのが迷惑じゃないってこと?
それとも、俺に興味がないってこと?
言葉が足りなすぎて、何も分からない。
俺は笑ってごまかした。
「そっか……じゃあ、よかった」
よくない。
全然よくない。
でも、これ以上聞いたら、また拒絶されそうで怖い。
俺は昔から、琉人に対してだけは妙に臆病になる。
授業が始まる。
数学。
古文。
英語。
どの時間も、俺の意識は半分くらい隣に吸われていた。
琉人は真面目に板書を取ってる。
ノートが綺麗すぎて、プリントを貼る位置まで完璧だ。
……これが海外の荒波の成果?
いや、荒波っていうより、規律の海?
放課後のチャイムが鳴る。
俺は帰り支度をしながら、チラッと隣を見る。
琉人はすでにカバンを持って、立ち上がっていた。
「琉人」
俺は反射で呼んだ。
琉人が一度だけ振り向く。
表情は相変わらず読めない。
「……何」
また“何”。
俺は、言葉を選んで、喉の奥を何度も通してから言った。
「……今日、放課後、少しだけ話せない? 五分でもいい」
願いみたいな言葉だった。
お願い、に近い。
琉人は俺を見て、少しだけ沈黙した。
そして。
「無理」
その二文字で終わった。
淡々としていて、冷たくて、余白のない拒否。
俺の背中が、ひゅっと冷える。
「……そっか」
それしか言えない。
琉人はそれ以上何も言わず、教室を出ていった。
廊下に足音が遠ざかる。
俺は机に座ったまま、動けなかった。
……無理って。
俺と話すの、そんなに無理?
心臓がじわじわ痛い。
胸の奥が、かすかに熱い。
でも、痛いだけじゃない。
俺は、琉人の背中を見た瞬間。
昔と同じ癖を思い出してしまった。
琉人は、“嫌なこと”を断るときほど、無駄に淡々とする。
そのまま逃げるみたいに、早く歩く。
小学生の頃、俺が泣いて怒ったときもそうだった。
あの頃は、俺が追いかけて、腕を掴んで。
『逃げんな!』って怒鳴って、
『うるさい』って返されて、
結局、二人で笑った。
……今は、追いかけたらダメだろうか。
俺は立ち上がりかけて、足が止まった。
教室には、もうほとんど人がいない。
窓の外は薄い青色に染まって、冬の夕方が近い。
そして、そのとき。
「崎枝」
背後から声がした。
振り向くと、担任の先生が教卓のあたりで手招きしている。
「篠山くんの件なんだが、転校手続きでプリントが多くてな。明日提出の書類を篠山に渡し忘れた。これ、渡しておいてくれ。家、近いんだろ?」
先生が、封筒みたいな書類セットを差し出す。
俺は思わず固まった。
「……俺が、ですか?」
「隣の席だし、幼馴染なんだろ? 頼む」
頼む、って軽く言うけど――
でも、俺にとっては、かなり重い“チャンス”だった。
琉人に、用事ができる。
渡さないといけないものができる。
それは、話す理由になる。
俺は書類を受け取った。
「……分かりました」
先生が教室を出ていった。
静かになった教室で、俺は封筒を見つめたまま、息を吸った。
追いかける理由。
話す理由。
今、手の中にある。
琉人が「無理」って言ったのは、
“俺と話したくない”からなのか、
それとも、本当にただ“無理”な事情があるのか。
分からない。
でも、分からないまま終わらせたくない。
俺はカバンを掴んで、教室を飛び出した。
廊下に冷たい空気が流れ込む。
靴音が響く。
――琉人。
待って!
たった五分でいい。
久しぶりの“続き”を、俺にくれ。
そう願いながら、俺は階段へ向かって走った。
