幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 秘密交際って、結局“派手なこと”が何一つできない。

 手を繋いで校門を出るのも無理。
 腕を組んで歩くなんて論外。
 「今日も会いたい」なんて言おうものなら、その瞬間の声色の甘さで周囲にバレる。

 だから俺たちは、毎日がこっそりだ。

 教室では“幼馴染の再会”を演じて、廊下では目を合わせすぎないようにして、放課後は時間差で校門を出て、誰にも見られていない場所でだけ、ほんの少しだけ恋人になる。

 それなのに――。

 それなのに、俺の心は毎日、やたらと満たされていくのが悔しい。

 琉人が、机の下で指先を一瞬だけ触れてくるだけで。
 俺の消しゴムを拾って、手のひらにそっと置いてくれるだけで。
 誰もいない踊り場で「好き」って小さく言ってくれるだけで。

 ……もう、終わってる。俺の理性。

 そんなある日。

 放課後のHRが終わって、ざわつく教室の空気の中で、琉人がノートを閉じながら、まるで天気の話みたいな顔で言った。

「雄大」

 ――名前。

 呼ばれるだけで、胸が跳ねる。

「な、なに?」
「今日、少し寄れる?」
「寄れるって……どこに?」

 琉人は一瞬だけ視線を泳がせた。
 いや、泳がせたというより、“照れた”みたいに見えた。

 それが珍しすぎて、俺は思わず固まる。

「……喫茶店」
「喫茶店!?」

 声が大きくなりかけて、俺は慌てて口を押さえた。
 周りの視線が集まりそうになって、真木が前の席から「声量」と目で注意してくる。
 湊が後ろで「デート!? またデート!?」って顔してる。やめろ。

 俺は小声で、でも震えるテンションのまま言った。

「え、ちょ、待って……喫茶店って……デ、デート!?」
「……うん。初めて、ちゃんと」

 ちゃんと、って言葉が甘すぎて、俺は脳内で一回死んだ。

 琉人はいつもみたいな無表情のままなのに、耳だけがほんのり赤い。
 ああ、やっぱり琉人も緊張してるんだ、って分かって、俺の胸がむず痒くなる。

「……行く?」
「い、行くに決まってる!」

 答えるのが早すぎて、俺は自分で自分が恥ずかしい。
 琉人は小さく息を吐いて、視線を落とした。

「……良かった」

 それだけで、俺の今日が優勝した。



 待ち合わせは“いつも通り”を装うために、時間差だった。

 先に俺が校門を出て、少し先のコンビニ前で立っているふりをして、琉人が数分後に出てくる。
 近づくタイミングも自然に。
 会話も、あくまで“幼馴染”。

 ……そのはずなのに。

 琉人が歩いてくる姿が見えた瞬間、俺の胸は勝手に浮ついた。

 黒髪が夕方の光に透けて、制服の着崩し方が完璧で、歩き方まで静かで綺麗で――本当に、隣の席にいるのが奇跡みたいな人が、今、俺のところへ来ている。

 俺は思わず、にやけそうになって、慌てて口元を引き締めた。

 秘密。秘密。ここは進学校。噂は命取り。

 琉人が俺の横に並ぶ。

「待たせた?」
「ううん、全然」

 声がいつもより柔らかい。
 それだけで、俺はもうだめ。

「……寒くない?」
「寒くない」
「ほんと?」
「ほんと!」

 心配されると、甘くなる。
 甘くなって、顔が熱くなる。

 琉人は小さく頷いて、歩き出した。

「行こう」
「うん」

 たったそれだけの会話なのに、心臓がうるさい。
 俺たちは並んで歩く。
 肩が触れそうで触れない距離。
 手も、触れたいのに触れられない距離。

 その“ちょっと足りない”が、逆に甘い。

 道の角を曲がって、住宅街の中を少し抜けると、小さな喫茶店があった。
 看板は控えめで、ガラス越しに暖色の灯りが見えて、外の冷たい空気と切り離されたみたいに、そこだけ優しい時間が流れている。

「ここ……?」
「うん。前、通った時に……入ってみたくて」

 琉人がそう言って、ドアを押す。
 ベルの音が、小さく鳴った。

 俺はその音だけで、胸がきゅっとなる。
 “初デート”って、こういう些細な音すら特別にするんだな、と思った。



 店内は静かだった。

 木のテーブル、落ち着いた照明、カップの音、コーヒーの匂い。
 派手なBGMもない。
 華やかな映えもない。

 でも、だからこそ――尊い。

 俺たちは角の他からはあまり見えない二人席に座った。
 向かい合わせ。
 ……じゃなくて、琉人が少し迷ってから、隣に座った。

「え」

 俺が声を漏らすと、琉人がゆっくりと笑う。

「……こっちの方が、落ち着く」
「落ち着くって……近いよ?」
「……うん。近いのがいい」

 やめて。

 柔らかい口調でそんなこと言わないで。
 俺の心臓が壊れる。

 メニューを開く。
 頼む。
 俺はカフェオレ、琉人はブラック。

 その選択だけで、なんか“らしい”。

 飲み物が来るまでの間、俺はメニューの端を指でなぞりながら、そわそわしていた。
 隣に琉人がいる。
 喫茶店で二人。
 これだけで、世界が柔らかい。

「……雄大」

 琉人が小さく呼ぶ。

「なに?」
「……笑ってる」
「え、笑ってない!」
「……笑ってるよ」

 琉人の声が、少し嬉しそうで。

 俺は言い訳できなくなって、観念したみたいに息を吐いた。

「……だって、嬉しい」
「……うん」
「初デートとか……普通に嬉しいに決まってるじゃん」
「……俺も」

 “俺も”が甘すぎて、俺は目を逸らした。
 恥ずかしい。
 でも嬉しい。

 そのとき、飲み物が運ばれてきた。

 カップが置かれる音。
 湯気。
 コーヒーの匂いがさらに濃くなる。

 俺は一口飲んで、息を吐いた。

「……おいしい」
「……良かった」

 琉人が言う。
 それだけで、俺の胸がまたむず痒い。

 そして。

 俺たちは、進学校らしく(?)教科書を開いた。

 ……いや、初デートで教科書ってどうなの。
 俺も思う。
 思うけど、これが俺たちの“普通”だ。

「中間、範囲広いし」
「……うん。雄大、苦手なところある?」
「全部」
「全部は嘘」

 琉人が柔らかく笑う。
 笑う琉人が、尊い。
 俺は「今の琉人、クールじゃないじゃん」って言いたくなって、でも先に、別のことが起きた。

 教科書の影。

 俺がページをめくろうとして伸ばした指と、琉人が同じタイミングで指を伸ばして――

 指先が、触れた。

 一瞬。

 ぴり、っと電気みたいに熱が走る。

 俺は息を止めた。

 琉人も止めた。

 動けないまま、教科書の影で、指先だけが触れている。
 ほんの数センチの距離が、世界の中心みたいに思える。

 俺がそっと琉人を見ると――

 琉人、耳まで赤い。

 赤い。
 ほんとに。
 嘘みたいに。

 いつも冷たくて完璧な顔なのに、今はもう、隠しきれてない。

「……っ」

 俺は耐えきれず、小さく笑ってしまった。

「な、何……?」
「琉人、耳、赤い!」
「……赤くない」
「赤いって! めっちゃ赤い! 可愛い……!」
「……雄大」

 琉人が俺の名前を呼ぶ。
 口調が柔らかい。
 少し困ってる。
 そして――照れてる。

 俺はニヤニヤを止められなかった。

「クールじゃないじゃん! あれ? 篠山琉人さん? 氷の王子じゃなかった?」
「……それ、誰が言ったの」
「女子たち」
「……知らない」

 琉人が小さく息を吐く。
 その息が、甘い。

「でもさ」

 俺がわざと近づくみたいに顔を傾けた。
 指先はまだ触れている。

「琉人、今、めちゃめちゃ顔が“恋人”なんだけど」
「……やめて」
「やめない」

 俺は調子に乗った。

 だって、琉人が耳まで赤いんだ。
 こんなの、反則だ。

「ねえ琉人、今までの“冷たい琉人”どこ行った?」
「……どこにも行ってない」
「行ってるよ、ここにいるの、柔らかい琉人」
「……雄大のせい」

 その言い方が、あまりにも優しくて、胸がきゅっとなる。

「俺のせい?」
「……うん。雄大の前だと、隠せない」

 隠せない。

 その言葉に、俺の喉が詰まった。
 嬉しくて、苦しくて、甘くて。

 俺は小さく笑って、でも声が震えないように気をつけながら言った。

「……ほんと、クールじゃないじゃん」
「……うん」

 琉人が、指先を少しだけ強く触れ直す。

 教科書の影で、誰にも見えない場所で、恋人の合図みたいに。

 そして琉人は、柔らかい声で言った。

「雄大の前だけ」

 ……ずるい。

 ずるすぎる。

 俺の胸が、ぎゅっと音を立てて締まる。
 甘酸っぱさが、喉の奥までいっぱいになる。

 俺は目を逸らせなくなって、琉人の横顔を見つめた。

「……それ、嬉しい」
「……うん」
「琉人ってさ、たまに真っ直ぐすぎて危ない」
「……危ない?」
「心臓に悪い!」

 俺が小声で言うと、琉人が小さく笑った。
 ほんとに、笑った。
 低い声で、息を漏らすみたいに。

 俺はその笑い声で、今日の授業の範囲が全部飛んだ。

「……雄大、勉強」
「無理」
「無理じゃない」
「琉人がいるから無理!」

 俺が真顔で言い切ると、琉人は少しだけ困った顔をした。
 その顔がまた可愛くて、俺はさらに笑ってしまう。

「……じゃあ、休憩」
「休憩って、何するの」
「……話す」

 話す。
 たったそれだけが、こんなに嬉しい。

 俺たちはカップを持って、少しずつ飲みながら、学校のこと、期末のこと、授業のこと、湊の煽りがうるさいこと、真木が正論すぎること、どうでもいい話をした。

 なのに全部が特別だった。

 琉人が「雄大」って呼ぶたびに。
 俺が笑うたびに。
 教科書の影で指が触れるたびに。

 地味で、尊くて、甘酸っぱくて。

 初デートって、こんなにも静かなのに、心臓が一番うるさいんだと知った。

 帰り際、琉人が会計を済ませて、店の外に出ると、夜の空気がひんやりと頬を撫でた。
 俺はマフラーを握りしめながら、隣を歩く琉人を見上げた。

「ねえ琉人」
「なに?」
「今日、すごい良かった」
「……うん。俺も」

 琉人が柔らかく言って、ほんの少しだけ俺の方に寄った。

 肩が触れる。

 その触れ方が、さっきの指先より大胆で、俺は息を止めた。

 でも、誰もいない道だったから。

 琉人は小さく囁いた。

「また、行こうね」
「……うん!」

 感嘆符が勝手についたくらい、俺は嬉しかった。
 秘密の恋は不便で、進学校の壁は高い。

 それでも。

 俺たちはちゃんと恋人になれる。