幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

「……雄大、ここ――」

 呼ばれた気がした。返事をしようとした。
 なのに口が動かない。

 瞼が、重い。

 俺は意地で耐えようとした。期末だ。寝るな。落ちる。未来が終わる。そんなことを考えたはずなのに、次の瞬間、机に額が触れて、そのまま世界が静かに暗くなった。



 ……温かい。

 最初に戻ってきたのは、匂いだった。

 洗剤みたいな、柔らかい布みたいな、落ち着く匂い。喉の奥に刺さらない、懐かしい匂い。

 次に戻ってきたのは、重力。

 頭が、どこかに乗っている。柔らかくて、少し弾力があって、呼吸に合わせてわずかに上下する場所。

 そして、鼓動。

 近い。

 やけに近い心臓の音が、耳のすぐそばで鳴っている。

 俺はゆっくりと目を開けた。

 視界がぼんやりと明るい。部屋の灯りが柔らかい。間接照明の影が壁に揺れていて、世界が少しだけ夢の中みたいに滲んで見える。

 ……俺、寝てた?

 いや、それより――

 俺、今、何の上で寝てる?

 視線を上げると、そこには琉人の膝があった。

 膝枕。

 一瞬、脳が停止して、次に全身の血が顔に集まった。

「……っ!?」

 飛び起きようとした瞬間、琉人の手が、俺の頭の横にそっと添えられた。押さえるわけじゃない。止めるわけでもない。落ち着けと言うみたいに、ただ、そこにある。

「……起きた?」

 低い声。静かな声。近い声。

 俺は顔が熱すぎて、まともに見上げられなかった。

「……俺、寝てた! ごめん! 勉強中なのに!」
「……いいよ」

 いいよ、って。

 軽く言うな。

 俺は慌てて起き上がろうとする。

「良くない、俺、ほんとごめ――」
「……まだ、いいって……」

 琉人の声が、少しだけ甘い。柔らかい。逃げ道を塞ぐみたいに優しい。

 俺の動きが止まる。

 止まってしまう。

 俺は結局、膝枕のまま、琉人を見上げた。
 喉が鳴る。
 心臓が跳ねる。
 視界の端が揺れる。

 琉人は、俺を見下ろしていた。

 無表情に近い。けれど、冷たくない。どこか困ったみたいで、どこか決意みたいなものを隠している。

「……待ってた」

 その言葉が、静かに落ちた。

 待ってた。
 俺が起きるまで。
 琉人は、ずっと?

 俺は息を呑んだ。

「……起こしてくれればよかったのに」
「……起こせなかった」

 理由を言わないままの言い方が、ずるかった。

 起こせなかった。
 その言葉の余白が、俺の胸の奥をじわじわと締めつける。

 沈黙が落ちる。

 時計の音だけがする。遠い街の車の音が小さく混じる。俺の呼吸が浅い。

 琉人がふっと視線を逸らして、ぽつりと言った。

「……昔も、こうだった」

 昔。

 その単語に、俺の中の記憶がふわっと開く。

 小学生の頃。放課後。誰もいない公園のベンチ。
 走り回って疲れて、俺が琉人の膝に頭を乗せて、眠ったこと。琉人が「重い」って言いながら、結局そのままにしてくれたこと。夕方の光が斜めに落ちて、木の影が揺れていたこと。

 過ぎし日。

 それが今、違う形で戻ってきた。

 俺は小さく笑った。

「……覚えてるの?」
「……忘れるわけない」

 雨の日と同じ言葉。

 それを琉人がまた言うだけで、俺の胸の奥が熱くなる。さっきまで眠っていたはずなのに、目が覚めた瞬間に心臓が暴れているのが馬鹿みたいで、でも止めようがなくて、俺は唇を噛んだ。

「……俺さ」
「うん」
「なんか……最近の琉人、ずるい」

 言ってしまった。

 琉人の眉がほんの僅かに動く。

「……何が」
「優しいくせに、急に冷たくなるし。近いくせに、離れるし。分かんないんだよ」

 声が震えそうになるのを、俺は必死に抑えた。ここで泣いたら終わる。泣いたら、琉人に全部持っていかれる気がする。

 琉人は、少しだけ黙った。

 そして、俺の髪に、そっと指先が触れる。

 乱れた前髪を整えるみたいに、軽く。
 撫でるみたいに、優しく。

 触れられた場所が、じわっと熱を持って、胸がきゅっと苦しくなる。
 たったそれだけなのに。

「……ここ、はねてた」

 小さな声が落ちて、俺は返事もできずに固まった。

 琉人の声が、さっきよりも静かになった。

「……もう言うね」

 たったそれだけなのに、部屋の空気が変わった。

 間接照明の影が濃くなったわけじゃない。暖房が強くなったわけでもない。なのに、世界が一段、深くなる。

 琉人が、息を吸った。

「俺が冷たかったのは……雄大が嫌いだったからじゃない」

 俺は動けなかった。

 その言葉が、胸に刺さる。

 ずっと欲しかった言葉。
 欲しかったのに、怖かった言葉。

 琉人は続けた。

「……昔から、好きだった」

 真っ直ぐだった。

 ずるいくらい真っ直ぐに、琉人は言った。

 俺の胸が、ぎゅっと音を立てて縮む。

「小学生の頃から。……雄大が笑うの、ずっと好きだった。うるさいのも、勝手なところも、全部」

 うるさいのも、勝手なところも。

 俺の嫌いだと思っていた部分を、琉人は“好き”の中に入れてしまう。

 俺は泣きそうになった。

「……でも、言えなかった。好きだってバレたら、この関係が終わるって思ってた」

 終わる。

 琉人の口から出たその言葉が、俺の胸をきゅっと締めつける。琉人も、同じ怖さを抱えていたんだと気づいてしまうから。

「だから、冷たくした。嫌いみたいにした。……近づいたら、抑えられなくなるから」

 琉人の声が、わずかに震えた。

 その震えが、俺の涙腺を壊した。

「中学で海外に行ったときも、忘れられなかった。……忙しくても、しんどくても、ふとした瞬間に、雄大の顔が浮かんだ」

 海外でも。

 忘れられなかった。

 その言葉は、俺の胸の奥に沈んでいた“勘違い”を、一つずつほどいていく。

 琉人は少しだけ目を伏せた。

「高校で、また会ったとき……雄大、もっと可愛くなってて……」

 そこで琉人は一度、言葉を詰まらせた。

 まるでその単語を出すだけで、自分が壊れるみたいに。

「……一瞬で、奪われた。昔のままなのに、昔よりずっと、ずるいくらい可愛かった」

 ずるいのは、俺じゃない。
 ずるいのは、琉人の方だ。

 俺はもう、限界だった。

 涙が滲んで、視界が揺れる。
 口を開いたら嗚咽が漏れそうで、俺は唇を噛んだ。

 琉人が、俺の頬の近くに手を伸ばしかけて、止めた。
 触れたいのに、触れるのが怖いみたいに。

「……それで、また冷たくなった。好きがバレたくなかった。でも雄大に嫌われるのが怖かった」

 俺は首を振った。

 嫌うわけがない。

 そんなの、言えるわけがない。

 涙がこぼれそうで、俺は喉を鳴らすしかなかった。

 琉人が、最後に言った。

「雄大」

 名前。

 もう苗字じゃなくて、名前。

 それだけで、胸が壊れる。

「……俺は、雄大が好きだ。今も。ずっと」

 真っ直ぐだった。
 逃げ道がなかった。

 俺は、涙目のまま笑ってしまった。
 泣いてるのに笑うとか、情緒が終わってる。

 でも、言わないと壊れる。

 俺は声を震わせて言った。

「……バカ、じゃん……」

 琉人の目が少しだけ大きくなる。

「……何が」
「そんなの……そんなの、最初から言えばよかったのに……!」

 俺は涙を拭こうとして、でも拭けない。手が震える。胸が熱い。

「俺、ずっと……琉人、性格変わったんだって……嫌われたんだって……!」

 琉人の喉が動いた。

 苦しそうに、でも真っ直ぐに。

「……ごめんな」
「謝るな……っ、いや、謝ってほしいけど……!」

 自分でも何を言っているのか分からない。だけど、それが今の俺の全部だった。

 琉人が、ゆっくりと俺の頭を起こすように手を添えた。膝枕から、少しだけ距離ができる。できたはずなのに、距離はむしろ近づいた気がする。

 俺は琉人の顔を見上げた。

 整いすぎてる横顔じゃなくて、真正面の琉人。
 冷たい仮面じゃなくて、揺れている琉人。

 琉人の指が、俺の髪をもう一度整える。
 前髪をそっと避ける。
 触れ方が、優しすぎる。

「……泣かないで」

 琉人の声が甘い。
 甘くて、苦しい。

「泣くよ……バカ……」
「……俺も、泣きそうだよ」

 その言葉に、俺は息を止めた。

 琉人が泣きそう。

 そんなこと、想像したことなかった。

 琉人は、ゆっくりと近づいた。

 間接照明の影が、二人の輪郭をぼかす。世界が静かになる。時計の音さえ遠い。

 俺は逃げなかった。

 逃げたくなかった。

 琉人の指先が、俺の頬に触れる。
 涙の跡を、そっとなぞる。

「……好き……」

 もう一度。
 確認みたいに。

 俺は震える声で答えた。

「……うん。俺も」

 それだけで十分だった。

 琉人は、いきなり目の光を失わせて、近づけてきた。
 美しい顔に、俺はうっとりする。
 琉人の顔が近づくたび、世界が静かになっていく。

 息が触れる。
 いや、触れるどころじゃない。絡んで、混ざって、逃げ場をなくしていく。

 俺は無意識に唇を閉じた。
 怖いんじゃない。――ただ、どうしていいかわからないだけだ。

「力抜け……」

 低い声が、優しいのに逆らえない。
 琉人の指が俺の顎をすくって、視線ごと捕まえる。

 そして……唇が重なった。

 最初は軽い。
 確かめるみたいに、触れて、離れて、また触れる。
 その一回一回が、俺の呼吸を奪っていく。

 優しいのに、ずるい。
 琉人は余裕のある動きで、俺の反応を楽しむみたいに、ほんの少しだけ間を置く。

「……っ」

 息が漏れた瞬間、琉人の口元がわずかに緩んだ気がした。

 次のキスは、もう少し深い。

 唇の端がすれ、熱が滑って、溶ける。
 俺の鼓動が跳ねるたび、その振動まで伝わってしまいそうで、胸が苦しくなる。

 琉人の手が、顎だけじゃ足りないみたいに動く。

 頬に触れて、髪に指が潜って、うなじを撫でる。
 俺の制服のシャツのボタンをゆっくりと外していく。
 胸をゆっくりと撫でる。
 逃げる場所を探す俺の身体を、見透かしたみたいに――背中へ回って、ぐっと抱き寄せた。

「っ……近ぃ……」

 言い終わる前に、琉人の唇がまた重なる。

 今度は、逃がさない。
 呼吸の隙間まで塞がれて、俺は息を吸うのも忘れる。

 熱い。
 唇が熱を移し合って、何度も絡み、何度も奪って、俺の中の“冷静”を溶かしていく。

 琉人は焦らない。
 なのに、確実に深くしてくる。

 下唇を、ゆっくり引っかけて。
 少しだけ啄んで。
 離して、また重ねて――そのたび、俺の心臓が情けないくらい暴れる。

「ん……っ」

 声が漏れる。恥ずかしい。
 でも琉人は止まらない。

 むしろ、その声を合図にしたみたいに、角度を変えて、もっと深く――唇を押し当ててくる。

 唇が開きかける。
 そこへ、琉人の熱が流れ込む。

 触れられた瞬間、頭が白くなった。
 唇の内側まで、丁寧に、ゆっくり奪われる感覚。
 じわじわと溶けて、抵抗が形を失っていく。

 琉人の手が、俺の背中を撫でる。
 肩甲骨のあたりを掴むみたいに引き寄せて、胸と胸の距離をなくす。
 制服越しに伝わる体温が、逃げ道を塞いでくる。

 俺は息が足りなくて、苦しいのに。
 離れられない。

「……っ、る、……」

 名前を呼びたかったのに、音にならなくて。
 その代わり、俺は琉人の制服のシャツを掴んでしまった。

 指先が震える。
 余裕なんて、どこにもない。

 琉人はそれを見て、さらに落ち着いたまま――少しだけキスを緩めた。
 ほんの一瞬、息が通る。

 その“救い”が、逆にずるい。

 次の瞬間、また奪われる。
 さっきより深く。さっきより長く。

 呼吸が絡む。
 吐息が混ざる。
 熱が口の中に広がって、俺の喉が震える。

 琉人の指が首筋をなぞって、鎖骨のあたりに触れて、胸元の布を軽く押さえる。
 動けない。動いたら、もっと壊れそうで。

「……大丈夫……」

 囁きが唇のすぐ近くで落ちて、そのままキスが続く。
 ゆっくり、じっくり。
 奪って、絡めて、溶かして、また奪う。

 琉人の口づけは、容赦ないのに乱暴じゃない。
 俺の反応を確かめながら、丁寧に追い詰めてくる。

 唇が離れそうになるたび、胸がひゅっと冷える。
 なのに離れない。離してくれない。

 俺の腰のあたりを抱く腕が強くなって、背中を支える手が滑る。
 掴まれてる。捕まえられてる。
 逃げたいんじゃなくて――逃げられない自分が、怖いくらい嬉しい。

「……んっ……」

 息が震えて、声が甘く漏れた。

 その瞬間、琉人がほんの少しだけ笑った気配がして、
俺は恥ずかしさで死にそうになるのに、キスは終わらない。

 むしろ、さらに深くなる。

 唇の境目が消える。
 熱が溶け合って、どっちの呼吸かわからなくなって、俺の中の理性が静かに沈んでいく。

 雨の日の傘の下より、ずっと静かで。
 ずっと近くて。ずっと――危ないくらい熱い。

 やっと唇が離れたとき、空気が冷たくて、俺は息を吸うのも下手になっていた。

 はぁ、って情けない音が漏れる。
 胸が上下して、視界が揺れる。

 琉人は離れきらない。
 額が触れそうな距離で止まって、俺の顔を覗き込む。

 余裕のある目。
 俺だけが取り乱してるのが、全部バレてる。

「……そんな顔するんだ」

 低い声が、甘くて、ずるい。

「そんな顔、誰にも見せんなよ……」

 俺は何も言えなくて、ただ唇の熱を持て余しながら、もう一度目を閉じた。

 また奪われても、たぶん拒めない。
 そう思ってしまう自分が、いちばん胸を熱くした。

「……好きって、やっと言えた」
「……遅いよ」
「……ごめん」
「……許す」

 俺がそう言うと、琉人がほんの少しだけ笑った気配がした。
 間接照明の影の中で、過ぎし日の轍は、違う形に塗り替えられていく。

 俺たちはもう、勘違いのままには戻れない。

 それが怖いはずなのに、今はただ――

 胸がいっぱいで、幸せだった。