「……雄大、ここ――」
呼ばれた気がした。返事をしようとした。
なのに口が動かない。
瞼が、重い。
俺は意地で耐えようとした。期末だ。寝るな。落ちる。未来が終わる。そんなことを考えたはずなのに、次の瞬間、机に額が触れて、そのまま世界が静かに暗くなった。
……温かい。
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
洗剤みたいな、柔らかい布みたいな、落ち着く匂い。喉の奥に刺さらない、懐かしい匂い。
次に戻ってきたのは、重力。
頭が、どこかに乗っている。柔らかくて、少し弾力があって、呼吸に合わせてわずかに上下する場所。
そして、鼓動。
近い。
やけに近い心臓の音が、耳のすぐそばで鳴っている。
俺はゆっくりと目を開けた。
視界がぼんやりと明るい。部屋の灯りが柔らかい。間接照明の影が壁に揺れていて、世界が少しだけ夢の中みたいに滲んで見える。
……俺、寝てた?
いや、それより――
俺、今、何の上で寝てる?
視線を上げると、そこには琉人の膝があった。
膝枕。
一瞬、脳が停止して、次に全身の血が顔に集まった。
「……っ!?」
飛び起きようとした瞬間、琉人の手が、俺の頭の横にそっと添えられた。押さえるわけじゃない。止めるわけでもない。落ち着けと言うみたいに、ただ、そこにある。
「……起きた?」
低い声。静かな声。近い声。
俺は顔が熱すぎて、まともに見上げられなかった。
「……俺、寝てた! ごめん! 勉強中なのに!」
「……いいよ」
いいよ、って。
軽く言うな。
俺は慌てて起き上がろうとする。
「良くない、俺、ほんとごめ――」
「……まだ、いいって……」
琉人の声が、少しだけ甘い。柔らかい。逃げ道を塞ぐみたいに優しい。
俺の動きが止まる。
止まってしまう。
俺は結局、膝枕のまま、琉人を見上げた。
喉が鳴る。
心臓が跳ねる。
視界の端が揺れる。
琉人は、俺を見下ろしていた。
無表情に近い。けれど、冷たくない。どこか困ったみたいで、どこか決意みたいなものを隠している。
「……待ってた」
その言葉が、静かに落ちた。
待ってた。
俺が起きるまで。
琉人は、ずっと?
俺は息を呑んだ。
「……起こしてくれればよかったのに」
「……起こせなかった」
理由を言わないままの言い方が、ずるかった。
起こせなかった。
その言葉の余白が、俺の胸の奥をじわじわと締めつける。
沈黙が落ちる。
時計の音だけがする。遠い街の車の音が小さく混じる。俺の呼吸が浅い。
琉人がふっと視線を逸らして、ぽつりと言った。
「……昔も、こうだった」
昔。
その単語に、俺の中の記憶がふわっと開く。
小学生の頃。放課後。誰もいない公園のベンチ。
走り回って疲れて、俺が琉人の膝に頭を乗せて、眠ったこと。琉人が「重い」って言いながら、結局そのままにしてくれたこと。夕方の光が斜めに落ちて、木の影が揺れていたこと。
過ぎし日。
それが今、違う形で戻ってきた。
俺は小さく笑った。
「……覚えてるの?」
「……忘れるわけない」
雨の日と同じ言葉。
それを琉人がまた言うだけで、俺の胸の奥が熱くなる。さっきまで眠っていたはずなのに、目が覚めた瞬間に心臓が暴れているのが馬鹿みたいで、でも止めようがなくて、俺は唇を噛んだ。
「……俺さ」
「うん」
「なんか……最近の琉人、ずるい」
言ってしまった。
琉人の眉がほんの僅かに動く。
「……何が」
「優しいくせに、急に冷たくなるし。近いくせに、離れるし。分かんないんだよ」
声が震えそうになるのを、俺は必死に抑えた。ここで泣いたら終わる。泣いたら、琉人に全部持っていかれる気がする。
琉人は、少しだけ黙った。
そして、俺の髪に、そっと指先が触れる。
乱れた前髪を整えるみたいに、軽く。
撫でるみたいに、優しく。
触れられた場所が、じわっと熱を持って、胸がきゅっと苦しくなる。
たったそれだけなのに。
「……ここ、はねてた」
小さな声が落ちて、俺は返事もできずに固まった。
琉人の声が、さっきよりも静かになった。
「……もう言うね」
たったそれだけなのに、部屋の空気が変わった。
間接照明の影が濃くなったわけじゃない。暖房が強くなったわけでもない。なのに、世界が一段、深くなる。
琉人が、息を吸った。
「俺が冷たかったのは……雄大が嫌いだったからじゃない」
俺は動けなかった。
その言葉が、胸に刺さる。
ずっと欲しかった言葉。
欲しかったのに、怖かった言葉。
琉人は続けた。
「……昔から、好きだった」
真っ直ぐだった。
ずるいくらい真っ直ぐに、琉人は言った。
俺の胸が、ぎゅっと音を立てて縮む。
「小学生の頃から。……雄大が笑うの、ずっと好きだった。うるさいのも、勝手なところも、全部」
うるさいのも、勝手なところも。
俺の嫌いだと思っていた部分を、琉人は“好き”の中に入れてしまう。
俺は泣きそうになった。
「……でも、言えなかった。好きだってバレたら、この関係が終わるって思ってた」
終わる。
琉人の口から出たその言葉が、俺の胸をきゅっと締めつける。琉人も、同じ怖さを抱えていたんだと気づいてしまうから。
「だから、冷たくした。嫌いみたいにした。……近づいたら、抑えられなくなるから」
琉人の声が、わずかに震えた。
その震えが、俺の涙腺を壊した。
「中学で海外に行ったときも、忘れられなかった。……忙しくても、しんどくても、ふとした瞬間に、雄大の顔が浮かんだ」
海外でも。
忘れられなかった。
その言葉は、俺の胸の奥に沈んでいた“勘違い”を、一つずつほどいていく。
琉人は少しだけ目を伏せた。
「高校で、また会ったとき……雄大、もっと可愛くなってて……」
そこで琉人は一度、言葉を詰まらせた。
まるでその単語を出すだけで、自分が壊れるみたいに。
「……一瞬で、奪われた。昔のままなのに、昔よりずっと、ずるいくらい可愛かった」
ずるいのは、俺じゃない。
ずるいのは、琉人の方だ。
俺はもう、限界だった。
涙が滲んで、視界が揺れる。
口を開いたら嗚咽が漏れそうで、俺は唇を噛んだ。
琉人が、俺の頬の近くに手を伸ばしかけて、止めた。
触れたいのに、触れるのが怖いみたいに。
「……それで、また冷たくなった。好きがバレたくなかった。でも雄大に嫌われるのが怖かった」
俺は首を振った。
嫌うわけがない。
そんなの、言えるわけがない。
涙がこぼれそうで、俺は喉を鳴らすしかなかった。
琉人が、最後に言った。
「雄大」
名前。
もう苗字じゃなくて、名前。
それだけで、胸が壊れる。
「……俺は、雄大が好きだ。今も。ずっと」
真っ直ぐだった。
逃げ道がなかった。
俺は、涙目のまま笑ってしまった。
泣いてるのに笑うとか、情緒が終わってる。
でも、言わないと壊れる。
俺は声を震わせて言った。
「……バカ、じゃん……」
琉人の目が少しだけ大きくなる。
「……何が」
「そんなの……そんなの、最初から言えばよかったのに……!」
俺は涙を拭こうとして、でも拭けない。手が震える。胸が熱い。
「俺、ずっと……琉人、性格変わったんだって……嫌われたんだって……!」
琉人の喉が動いた。
苦しそうに、でも真っ直ぐに。
「……ごめんな」
「謝るな……っ、いや、謝ってほしいけど……!」
自分でも何を言っているのか分からない。だけど、それが今の俺の全部だった。
琉人が、ゆっくりと俺の頭を起こすように手を添えた。膝枕から、少しだけ距離ができる。できたはずなのに、距離はむしろ近づいた気がする。
俺は琉人の顔を見上げた。
整いすぎてる横顔じゃなくて、真正面の琉人。
冷たい仮面じゃなくて、揺れている琉人。
琉人の指が、俺の髪をもう一度整える。
前髪をそっと避ける。
触れ方が、優しすぎる。
「……泣かないで」
琉人の声が甘い。
甘くて、苦しい。
「泣くよ……バカ……」
「……俺も、泣きそうだよ」
その言葉に、俺は息を止めた。
琉人が泣きそう。
そんなこと、想像したことなかった。
琉人は、ゆっくりと近づいた。
間接照明の影が、二人の輪郭をぼかす。世界が静かになる。時計の音さえ遠い。
俺は逃げなかった。
逃げたくなかった。
琉人の指先が、俺の頬に触れる。
涙の跡を、そっとなぞる。
「……好き……」
もう一度。
確認みたいに。
俺は震える声で答えた。
「……うん。俺も」
それだけで十分だった。
琉人は、いきなり目の光を失わせて、近づけてきた。
美しい顔に、俺はうっとりする。
琉人の顔が近づくたび、世界が静かになっていく。
息が触れる。
いや、触れるどころじゃない。絡んで、混ざって、逃げ場をなくしていく。
俺は無意識に唇を閉じた。
怖いんじゃない。――ただ、どうしていいかわからないだけだ。
「力抜け……」
低い声が、優しいのに逆らえない。
琉人の指が俺の顎をすくって、視線ごと捕まえる。
そして……唇が重なった。
最初は軽い。
確かめるみたいに、触れて、離れて、また触れる。
その一回一回が、俺の呼吸を奪っていく。
優しいのに、ずるい。
琉人は余裕のある動きで、俺の反応を楽しむみたいに、ほんの少しだけ間を置く。
「……っ」
息が漏れた瞬間、琉人の口元がわずかに緩んだ気がした。
次のキスは、もう少し深い。
唇の端がすれ、熱が滑って、溶ける。
俺の鼓動が跳ねるたび、その振動まで伝わってしまいそうで、胸が苦しくなる。
琉人の手が、顎だけじゃ足りないみたいに動く。
頬に触れて、髪に指が潜って、うなじを撫でる。
俺の制服のシャツのボタンをゆっくりと外していく。
胸をゆっくりと撫でる。
逃げる場所を探す俺の身体を、見透かしたみたいに――背中へ回って、ぐっと抱き寄せた。
「っ……近ぃ……」
言い終わる前に、琉人の唇がまた重なる。
今度は、逃がさない。
呼吸の隙間まで塞がれて、俺は息を吸うのも忘れる。
熱い。
唇が熱を移し合って、何度も絡み、何度も奪って、俺の中の“冷静”を溶かしていく。
琉人は焦らない。
なのに、確実に深くしてくる。
下唇を、ゆっくり引っかけて。
少しだけ啄んで。
離して、また重ねて――そのたび、俺の心臓が情けないくらい暴れる。
「ん……っ」
声が漏れる。恥ずかしい。
でも琉人は止まらない。
むしろ、その声を合図にしたみたいに、角度を変えて、もっと深く――唇を押し当ててくる。
唇が開きかける。
そこへ、琉人の熱が流れ込む。
触れられた瞬間、頭が白くなった。
唇の内側まで、丁寧に、ゆっくり奪われる感覚。
じわじわと溶けて、抵抗が形を失っていく。
琉人の手が、俺の背中を撫でる。
肩甲骨のあたりを掴むみたいに引き寄せて、胸と胸の距離をなくす。
制服越しに伝わる体温が、逃げ道を塞いでくる。
俺は息が足りなくて、苦しいのに。
離れられない。
「……っ、る、……」
名前を呼びたかったのに、音にならなくて。
その代わり、俺は琉人の制服のシャツを掴んでしまった。
指先が震える。
余裕なんて、どこにもない。
琉人はそれを見て、さらに落ち着いたまま――少しだけキスを緩めた。
ほんの一瞬、息が通る。
その“救い”が、逆にずるい。
次の瞬間、また奪われる。
さっきより深く。さっきより長く。
呼吸が絡む。
吐息が混ざる。
熱が口の中に広がって、俺の喉が震える。
琉人の指が首筋をなぞって、鎖骨のあたりに触れて、胸元の布を軽く押さえる。
動けない。動いたら、もっと壊れそうで。
「……大丈夫……」
囁きが唇のすぐ近くで落ちて、そのままキスが続く。
ゆっくり、じっくり。
奪って、絡めて、溶かして、また奪う。
琉人の口づけは、容赦ないのに乱暴じゃない。
俺の反応を確かめながら、丁寧に追い詰めてくる。
唇が離れそうになるたび、胸がひゅっと冷える。
なのに離れない。離してくれない。
俺の腰のあたりを抱く腕が強くなって、背中を支える手が滑る。
掴まれてる。捕まえられてる。
逃げたいんじゃなくて――逃げられない自分が、怖いくらい嬉しい。
「……んっ……」
息が震えて、声が甘く漏れた。
その瞬間、琉人がほんの少しだけ笑った気配がして、
俺は恥ずかしさで死にそうになるのに、キスは終わらない。
むしろ、さらに深くなる。
唇の境目が消える。
熱が溶け合って、どっちの呼吸かわからなくなって、俺の中の理性が静かに沈んでいく。
雨の日の傘の下より、ずっと静かで。
ずっと近くて。ずっと――危ないくらい熱い。
やっと唇が離れたとき、空気が冷たくて、俺は息を吸うのも下手になっていた。
はぁ、って情けない音が漏れる。
胸が上下して、視界が揺れる。
琉人は離れきらない。
額が触れそうな距離で止まって、俺の顔を覗き込む。
余裕のある目。
俺だけが取り乱してるのが、全部バレてる。
「……そんな顔するんだ」
低い声が、甘くて、ずるい。
「そんな顔、誰にも見せんなよ……」
俺は何も言えなくて、ただ唇の熱を持て余しながら、もう一度目を閉じた。
また奪われても、たぶん拒めない。
そう思ってしまう自分が、いちばん胸を熱くした。
「……好きって、やっと言えた」
「……遅いよ」
「……ごめん」
「……許す」
俺がそう言うと、琉人がほんの少しだけ笑った気配がした。
間接照明の影の中で、過ぎし日の轍は、違う形に塗り替えられていく。
俺たちはもう、勘違いのままには戻れない。
それが怖いはずなのに、今はただ――
胸がいっぱいで、幸せだった。
呼ばれた気がした。返事をしようとした。
なのに口が動かない。
瞼が、重い。
俺は意地で耐えようとした。期末だ。寝るな。落ちる。未来が終わる。そんなことを考えたはずなのに、次の瞬間、机に額が触れて、そのまま世界が静かに暗くなった。
……温かい。
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
洗剤みたいな、柔らかい布みたいな、落ち着く匂い。喉の奥に刺さらない、懐かしい匂い。
次に戻ってきたのは、重力。
頭が、どこかに乗っている。柔らかくて、少し弾力があって、呼吸に合わせてわずかに上下する場所。
そして、鼓動。
近い。
やけに近い心臓の音が、耳のすぐそばで鳴っている。
俺はゆっくりと目を開けた。
視界がぼんやりと明るい。部屋の灯りが柔らかい。間接照明の影が壁に揺れていて、世界が少しだけ夢の中みたいに滲んで見える。
……俺、寝てた?
いや、それより――
俺、今、何の上で寝てる?
視線を上げると、そこには琉人の膝があった。
膝枕。
一瞬、脳が停止して、次に全身の血が顔に集まった。
「……っ!?」
飛び起きようとした瞬間、琉人の手が、俺の頭の横にそっと添えられた。押さえるわけじゃない。止めるわけでもない。落ち着けと言うみたいに、ただ、そこにある。
「……起きた?」
低い声。静かな声。近い声。
俺は顔が熱すぎて、まともに見上げられなかった。
「……俺、寝てた! ごめん! 勉強中なのに!」
「……いいよ」
いいよ、って。
軽く言うな。
俺は慌てて起き上がろうとする。
「良くない、俺、ほんとごめ――」
「……まだ、いいって……」
琉人の声が、少しだけ甘い。柔らかい。逃げ道を塞ぐみたいに優しい。
俺の動きが止まる。
止まってしまう。
俺は結局、膝枕のまま、琉人を見上げた。
喉が鳴る。
心臓が跳ねる。
視界の端が揺れる。
琉人は、俺を見下ろしていた。
無表情に近い。けれど、冷たくない。どこか困ったみたいで、どこか決意みたいなものを隠している。
「……待ってた」
その言葉が、静かに落ちた。
待ってた。
俺が起きるまで。
琉人は、ずっと?
俺は息を呑んだ。
「……起こしてくれればよかったのに」
「……起こせなかった」
理由を言わないままの言い方が、ずるかった。
起こせなかった。
その言葉の余白が、俺の胸の奥をじわじわと締めつける。
沈黙が落ちる。
時計の音だけがする。遠い街の車の音が小さく混じる。俺の呼吸が浅い。
琉人がふっと視線を逸らして、ぽつりと言った。
「……昔も、こうだった」
昔。
その単語に、俺の中の記憶がふわっと開く。
小学生の頃。放課後。誰もいない公園のベンチ。
走り回って疲れて、俺が琉人の膝に頭を乗せて、眠ったこと。琉人が「重い」って言いながら、結局そのままにしてくれたこと。夕方の光が斜めに落ちて、木の影が揺れていたこと。
過ぎし日。
それが今、違う形で戻ってきた。
俺は小さく笑った。
「……覚えてるの?」
「……忘れるわけない」
雨の日と同じ言葉。
それを琉人がまた言うだけで、俺の胸の奥が熱くなる。さっきまで眠っていたはずなのに、目が覚めた瞬間に心臓が暴れているのが馬鹿みたいで、でも止めようがなくて、俺は唇を噛んだ。
「……俺さ」
「うん」
「なんか……最近の琉人、ずるい」
言ってしまった。
琉人の眉がほんの僅かに動く。
「……何が」
「優しいくせに、急に冷たくなるし。近いくせに、離れるし。分かんないんだよ」
声が震えそうになるのを、俺は必死に抑えた。ここで泣いたら終わる。泣いたら、琉人に全部持っていかれる気がする。
琉人は、少しだけ黙った。
そして、俺の髪に、そっと指先が触れる。
乱れた前髪を整えるみたいに、軽く。
撫でるみたいに、優しく。
触れられた場所が、じわっと熱を持って、胸がきゅっと苦しくなる。
たったそれだけなのに。
「……ここ、はねてた」
小さな声が落ちて、俺は返事もできずに固まった。
琉人の声が、さっきよりも静かになった。
「……もう言うね」
たったそれだけなのに、部屋の空気が変わった。
間接照明の影が濃くなったわけじゃない。暖房が強くなったわけでもない。なのに、世界が一段、深くなる。
琉人が、息を吸った。
「俺が冷たかったのは……雄大が嫌いだったからじゃない」
俺は動けなかった。
その言葉が、胸に刺さる。
ずっと欲しかった言葉。
欲しかったのに、怖かった言葉。
琉人は続けた。
「……昔から、好きだった」
真っ直ぐだった。
ずるいくらい真っ直ぐに、琉人は言った。
俺の胸が、ぎゅっと音を立てて縮む。
「小学生の頃から。……雄大が笑うの、ずっと好きだった。うるさいのも、勝手なところも、全部」
うるさいのも、勝手なところも。
俺の嫌いだと思っていた部分を、琉人は“好き”の中に入れてしまう。
俺は泣きそうになった。
「……でも、言えなかった。好きだってバレたら、この関係が終わるって思ってた」
終わる。
琉人の口から出たその言葉が、俺の胸をきゅっと締めつける。琉人も、同じ怖さを抱えていたんだと気づいてしまうから。
「だから、冷たくした。嫌いみたいにした。……近づいたら、抑えられなくなるから」
琉人の声が、わずかに震えた。
その震えが、俺の涙腺を壊した。
「中学で海外に行ったときも、忘れられなかった。……忙しくても、しんどくても、ふとした瞬間に、雄大の顔が浮かんだ」
海外でも。
忘れられなかった。
その言葉は、俺の胸の奥に沈んでいた“勘違い”を、一つずつほどいていく。
琉人は少しだけ目を伏せた。
「高校で、また会ったとき……雄大、もっと可愛くなってて……」
そこで琉人は一度、言葉を詰まらせた。
まるでその単語を出すだけで、自分が壊れるみたいに。
「……一瞬で、奪われた。昔のままなのに、昔よりずっと、ずるいくらい可愛かった」
ずるいのは、俺じゃない。
ずるいのは、琉人の方だ。
俺はもう、限界だった。
涙が滲んで、視界が揺れる。
口を開いたら嗚咽が漏れそうで、俺は唇を噛んだ。
琉人が、俺の頬の近くに手を伸ばしかけて、止めた。
触れたいのに、触れるのが怖いみたいに。
「……それで、また冷たくなった。好きがバレたくなかった。でも雄大に嫌われるのが怖かった」
俺は首を振った。
嫌うわけがない。
そんなの、言えるわけがない。
涙がこぼれそうで、俺は喉を鳴らすしかなかった。
琉人が、最後に言った。
「雄大」
名前。
もう苗字じゃなくて、名前。
それだけで、胸が壊れる。
「……俺は、雄大が好きだ。今も。ずっと」
真っ直ぐだった。
逃げ道がなかった。
俺は、涙目のまま笑ってしまった。
泣いてるのに笑うとか、情緒が終わってる。
でも、言わないと壊れる。
俺は声を震わせて言った。
「……バカ、じゃん……」
琉人の目が少しだけ大きくなる。
「……何が」
「そんなの……そんなの、最初から言えばよかったのに……!」
俺は涙を拭こうとして、でも拭けない。手が震える。胸が熱い。
「俺、ずっと……琉人、性格変わったんだって……嫌われたんだって……!」
琉人の喉が動いた。
苦しそうに、でも真っ直ぐに。
「……ごめんな」
「謝るな……っ、いや、謝ってほしいけど……!」
自分でも何を言っているのか分からない。だけど、それが今の俺の全部だった。
琉人が、ゆっくりと俺の頭を起こすように手を添えた。膝枕から、少しだけ距離ができる。できたはずなのに、距離はむしろ近づいた気がする。
俺は琉人の顔を見上げた。
整いすぎてる横顔じゃなくて、真正面の琉人。
冷たい仮面じゃなくて、揺れている琉人。
琉人の指が、俺の髪をもう一度整える。
前髪をそっと避ける。
触れ方が、優しすぎる。
「……泣かないで」
琉人の声が甘い。
甘くて、苦しい。
「泣くよ……バカ……」
「……俺も、泣きそうだよ」
その言葉に、俺は息を止めた。
琉人が泣きそう。
そんなこと、想像したことなかった。
琉人は、ゆっくりと近づいた。
間接照明の影が、二人の輪郭をぼかす。世界が静かになる。時計の音さえ遠い。
俺は逃げなかった。
逃げたくなかった。
琉人の指先が、俺の頬に触れる。
涙の跡を、そっとなぞる。
「……好き……」
もう一度。
確認みたいに。
俺は震える声で答えた。
「……うん。俺も」
それだけで十分だった。
琉人は、いきなり目の光を失わせて、近づけてきた。
美しい顔に、俺はうっとりする。
琉人の顔が近づくたび、世界が静かになっていく。
息が触れる。
いや、触れるどころじゃない。絡んで、混ざって、逃げ場をなくしていく。
俺は無意識に唇を閉じた。
怖いんじゃない。――ただ、どうしていいかわからないだけだ。
「力抜け……」
低い声が、優しいのに逆らえない。
琉人の指が俺の顎をすくって、視線ごと捕まえる。
そして……唇が重なった。
最初は軽い。
確かめるみたいに、触れて、離れて、また触れる。
その一回一回が、俺の呼吸を奪っていく。
優しいのに、ずるい。
琉人は余裕のある動きで、俺の反応を楽しむみたいに、ほんの少しだけ間を置く。
「……っ」
息が漏れた瞬間、琉人の口元がわずかに緩んだ気がした。
次のキスは、もう少し深い。
唇の端がすれ、熱が滑って、溶ける。
俺の鼓動が跳ねるたび、その振動まで伝わってしまいそうで、胸が苦しくなる。
琉人の手が、顎だけじゃ足りないみたいに動く。
頬に触れて、髪に指が潜って、うなじを撫でる。
俺の制服のシャツのボタンをゆっくりと外していく。
胸をゆっくりと撫でる。
逃げる場所を探す俺の身体を、見透かしたみたいに――背中へ回って、ぐっと抱き寄せた。
「っ……近ぃ……」
言い終わる前に、琉人の唇がまた重なる。
今度は、逃がさない。
呼吸の隙間まで塞がれて、俺は息を吸うのも忘れる。
熱い。
唇が熱を移し合って、何度も絡み、何度も奪って、俺の中の“冷静”を溶かしていく。
琉人は焦らない。
なのに、確実に深くしてくる。
下唇を、ゆっくり引っかけて。
少しだけ啄んで。
離して、また重ねて――そのたび、俺の心臓が情けないくらい暴れる。
「ん……っ」
声が漏れる。恥ずかしい。
でも琉人は止まらない。
むしろ、その声を合図にしたみたいに、角度を変えて、もっと深く――唇を押し当ててくる。
唇が開きかける。
そこへ、琉人の熱が流れ込む。
触れられた瞬間、頭が白くなった。
唇の内側まで、丁寧に、ゆっくり奪われる感覚。
じわじわと溶けて、抵抗が形を失っていく。
琉人の手が、俺の背中を撫でる。
肩甲骨のあたりを掴むみたいに引き寄せて、胸と胸の距離をなくす。
制服越しに伝わる体温が、逃げ道を塞いでくる。
俺は息が足りなくて、苦しいのに。
離れられない。
「……っ、る、……」
名前を呼びたかったのに、音にならなくて。
その代わり、俺は琉人の制服のシャツを掴んでしまった。
指先が震える。
余裕なんて、どこにもない。
琉人はそれを見て、さらに落ち着いたまま――少しだけキスを緩めた。
ほんの一瞬、息が通る。
その“救い”が、逆にずるい。
次の瞬間、また奪われる。
さっきより深く。さっきより長く。
呼吸が絡む。
吐息が混ざる。
熱が口の中に広がって、俺の喉が震える。
琉人の指が首筋をなぞって、鎖骨のあたりに触れて、胸元の布を軽く押さえる。
動けない。動いたら、もっと壊れそうで。
「……大丈夫……」
囁きが唇のすぐ近くで落ちて、そのままキスが続く。
ゆっくり、じっくり。
奪って、絡めて、溶かして、また奪う。
琉人の口づけは、容赦ないのに乱暴じゃない。
俺の反応を確かめながら、丁寧に追い詰めてくる。
唇が離れそうになるたび、胸がひゅっと冷える。
なのに離れない。離してくれない。
俺の腰のあたりを抱く腕が強くなって、背中を支える手が滑る。
掴まれてる。捕まえられてる。
逃げたいんじゃなくて――逃げられない自分が、怖いくらい嬉しい。
「……んっ……」
息が震えて、声が甘く漏れた。
その瞬間、琉人がほんの少しだけ笑った気配がして、
俺は恥ずかしさで死にそうになるのに、キスは終わらない。
むしろ、さらに深くなる。
唇の境目が消える。
熱が溶け合って、どっちの呼吸かわからなくなって、俺の中の理性が静かに沈んでいく。
雨の日の傘の下より、ずっと静かで。
ずっと近くて。ずっと――危ないくらい熱い。
やっと唇が離れたとき、空気が冷たくて、俺は息を吸うのも下手になっていた。
はぁ、って情けない音が漏れる。
胸が上下して、視界が揺れる。
琉人は離れきらない。
額が触れそうな距離で止まって、俺の顔を覗き込む。
余裕のある目。
俺だけが取り乱してるのが、全部バレてる。
「……そんな顔するんだ」
低い声が、甘くて、ずるい。
「そんな顔、誰にも見せんなよ……」
俺は何も言えなくて、ただ唇の熱を持て余しながら、もう一度目を閉じた。
また奪われても、たぶん拒めない。
そう思ってしまう自分が、いちばん胸を熱くした。
「……好きって、やっと言えた」
「……遅いよ」
「……ごめん」
「……許す」
俺がそう言うと、琉人がほんの少しだけ笑った気配がした。
間接照明の影の中で、過ぎし日の轍は、違う形に塗り替えられていく。
俺たちはもう、勘違いのままには戻れない。
それが怖いはずなのに、今はただ――
胸がいっぱいで、幸せだった。
