幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 「可愛――」と言いかけて止めた琉人の声が、俺の胸の奥でずっと鳴っていたせいで、帰り道の空はやけに白くて、冬の風が刺さるように冷たいくせに、俺の内側だけが変に熱い。

 頭のどこかで「勉強しろ、期末だぞ」と理性が叫んでいるのに、心の方はまるで聞く気がなく、過ぎし日の轍みたいに、同じところをぐるぐる回りながら、琉人の指先と、あの一瞬の間の温度だけを反芻してしまう。

 翌日、昼休みの教室は相変わらず“期末前の正気じゃない空気”で、みんながプリントの山と自分の未来を睨み合っているのに、俺だけが隣の席の存在を睨み合っているのが、もう完全に終わっていた。

 真木が冷静に弁当を食べながら「お前、今日はさらに変な顔してるぞ」と言い、湊が面白そうに「うわ、雄大、恋してる顔だ」と煽り、俺は「うるさい!!」と反射で否定して喉を痛めるという、何のための昼休みなんだという戦いを繰り広げた。

 放課後。今日も琉人の家で勉強。
 そう決まっているだけで、俺の心臓は朝からずっと、やたらと元気に騒音を出していた。

 ……ただ。

 今日は、いつもと違う“事件”が、琉人の家に着く前に起きた。


 下校時間、校門を出たところで、琉人がいつも通り淡々と「行くぞ」と言い、俺が「うん」と頷いた、その数分後のことだった。
 住宅街へ向かう道の途中で、琉人の前に、ふわっと甘い香りをまとった女子が立ちふさがったのだ。
 制服のブレザーはきちんと着ていて、髪もきれいに巻かれていて、目が合った瞬間に頬がうっすら赤くなるタイプの、進学校における“王道の告白モード”の女子。

「……篠山くん」

 その呼び方だけで、俺はもう嫌な予感しかしなかった。なぜなら琉人は、こういう時の空気の切り方が容赦なくて、見てるこっちが胃を痛めるからだ。

「……何」

 琉人が短く返す。声は冷たい。顔は無表情。立ち姿は完璧。女子は一瞬怯みかけたのに、意外と根性があって、息を吸って言った。

「あの……ずっと、かっこいいなって思ってて……! もしよかったら、連絡先――」

 そこで女子が震える指でスマホを持ち上げた瞬間、俺の脳内に「やめてくれ」という文字がでかでかと点滅した。いや、女子が悪いわけじゃない。
 告白は自由だ。
 健全だ。
 青春だ。
 だが、俺の心が健全ではない。

 琉人は視線だけを少し落として、女子のスマホを見た。ほんの一秒。吸い込まれるみたいな沈黙。雨の日の傘の下より静かだった。

「……悪い。無理」

 終わった。秒速で終わった。

 女子の顔が固まる。周りの空気が凍る。俺の心臓が「うわぁ……」という方向で跳ねる。琉人は追い打ちみたいに、淡々と正論を置く。

「……俺、誰とも付き合わないから」
「え……で、でも……」
「……ごめん」

 ごめんって言った。
 琉人が。
 低い声で。
 ちゃんと。
 そんなの、珍しすぎて、俺は逆に動揺した。女子は耐えきれなくなったのか、「そ、そうだよね、ごめんなさい……!」と小さく頭を下げて、足早に去っていった。

 残ったのは、冷たい風と、気まずい沈黙と――

 俺の胸の中で、静かに湧き上がってくる、説明不能の感情だった。

 ……落ち込む。そして、密かな喜び。

 なんでだよ。琉人は断ったのに。断ったんだぞ。何も起きてない。安心案件だ。なのに、俺の胸は妙に重い。胃の奥がきゅっと縮む。

 俺は自分の感情が意味不明すぎて、歩き出すタイミングを失った。

 琉人が先に歩き始める。俺は遅れてついていく。距離が空く。俺が勝手に空けた距離。

「……雄大」

 琉人が、歩きながら言った。今日は苗字じゃなく、雄大。喉が熱くなる。

「何?」
「……どうした」

 どうした、って。

 それは琉人のセリフじゃない。
 俺が答えられるわけない。
 俺が一番知りたい。

「別に」
「……別にじゃない顔」

 琉人は一歩だけ速度を落として、俺の横に並んだ。肩が近い。息が近い。俺は意地でも前を見る。

「……別にだって」
「……落ち込んでる」

 落ち込んでる。断定。容赦ない。

「落ち込んでない」
「……落ち込んでる」

 やめろ。認めたら終わる。終わるのに、胸が痛い。

「……別に、告白されて、すごいねって思っただけ」
「……すごい?」
「うん、すごい人気者」
「……」

 琉人が、黙った。その沈黙が、なぜか“笑いを堪えてる”みたいに聞こえて、俺は余計にムカついた。

 ……ムカついた?

 俺が?

 え?

 俺は歩きながら、自分の感情にビビった。
 ムカつくって何。
 俺は琉人の親でもないし恋人でもないし――いや、恋人じゃないし。なのに“俺の琉人”みたいな気持ちが、どこかで芽を出しているのが分かってしまって、恥ずかしさと痛さで頭がぐらついた。

 琉人の家に着く。
 鍵の音。
 扉が開く。
 暖房の匂い。
 靴を脱ぐ。
 廊下を歩く。
 リビングを通り、琉人の部屋へ。

 今日も、リビングの明かりは落としてあって、琉人の部屋だけが間接照明でぼんやりと照らされていた。天井の白い光じゃなくて、床に置かれた小さな暖色ライトが、壁に柔らかい影を作っている。
 薄暗い。
 静か。
 暖かい。
 なんか、やけに“近い空間”。

 ……勉強の雰囲気じゃない。

「今日、部屋でやるの?」
「……リビング寒い」

 嘘だ。暖房効いてた。絶対、嘘だ。なのに琉人は平然としている。その平然が、逆に怖い。

「へぇ……」
「……何?

 何? って。俺が何だよ。

 机は低めのローテーブルで、二人分の教材が置けるくらいの広さ。琉人が先に座り、俺も向かいに座る……はずだったのに、琉人が淡々と指を指した。

「……こっち」
「え」
「隣。来て」

 隣。

 隣って、隣?

 俺の脳が一瞬で停止して、言葉が出なくなる。昨日だって机が近くて死にかけたのに、今日は間接照明で、隣で、距離ゼロで、何をさせる気なの。

「ちょ、ちょっと待って、隣は……!」
「……嫌なの?」
「嫌じゃないけど!! いや、嫌じゃないけど!!」

 言い方が完全に負けていて、俺は自分で自分の首を絞めている気がした。
 琉人は、ほんの少しだけ目を細めた。笑ってるのか、笑ってないのか分からない、その曖昧な表情が、間接照明に溶けて、やけに危ない。

 俺は観念して、琉人の隣に座った。

 近い。

 近すぎる。

 肩が触れる。触れてないのに、触れてるみたいな熱。足元の距離が狭い。息のリズムが分かる。俺は世界史よりも、琉人の呼吸の方を覚えそうだった。

「……ここ」

 琉人が教科書を開いて、指で行をなぞる。指先が綺麗。俺はそれを見てしまう。見てしまうと、今日の告白が蘇る。

 ――琉人、人気者。女子に囲まれて。告白されて。

 胸が、ぎゅっとなる。

 琉人が書き込みをしている横顔は、薄暗い光のせいでやけに大人っぽく見えて、心臓が妙に落ち着かない。俺はペンを持ったまま、文字を書けなくなった。

「……雄大」

 琉人が俺の手元を見て言う。

「ペン、止まってるよ」
「止まってない」
「止まってるじゃん」

 くそ。バレてる。

 俺はムキになって、ノートに文字を書き始めた。ガリガリ。雑。字が死ぬ。琉人が小さく息を吐いた。

「……汚い」
「うるさい! 今、心が忙しいんだよ!」

 言った瞬間、自分で自分にツッコミたくなった。心が忙しいって何。だがもう止まらない。湧き上がってきた嫉妬みたいなものが、俺の舌を勝手に動かしてしまう。

 琉人が、少しだけ顔をこちらに向けた。

「……心?」
「そう! 心!」

 俺は勢いに任せて、琉人を指差した。

「琉人が悪い!」
「……俺?」
「そう! 俺の心を乱すな!」

 言いながら、俺は自分が何を言っているのか分からなかった。いや分かってる。分かってるのに言ってしまう。琉人の目が、ほんの僅かに大きくなる。

「……どういうこと?」
「何もない……」
「……なくないだろ」
「全部だよ全部!!」

 俺は両手で空気をわしゃわしゃと掴むみたいにして、意味の分からない主張を重ねた。

「急に優しくするし! 名前で呼ぶし! 髪触るし! 可愛いって言いかけるし! 女子に告白されるし!!」
「……最後、俺のせいじゃない」
「でも告白される琉人が悪い!!」

 最悪の理屈が爆誕した。俺は自分で自分の口を塞ぎたかった。だがもう遅い。琉人の沈黙が、淡色の部屋に落ちて、やけに重く響いた。

 俺は一拍遅れて、顔が熱くなる。

「……いや、今のは違う、そうじゃなくて」
「……違うなら何」

 琉人の声が、低い。昨日よりもさらに低い。距離が近い分、耳に直接触れてくる。俺は心臓が暴れて、言葉が詰まった。

 何って。

 何だよ。

 俺は、琉人を独占したいの?

 そんなの、言えるわけない。

 だから俺は、変な方向に逃げた。

「……琉人ってさ、モテる自覚ある?」
「……ある」
「あるんだ」
「……毎日言われる」
「え、毎日?」
「……毎日」

 淡々と認めるな。余計にムカつく。俺は頬を膨らませた。

「じゃあ、断るの慣れてるんだ」
「……慣れてる」
「……へぇ」

 へぇ、じゃない。俺は何をやってる。

 琉人が、少しだけ首を傾げた。

「……雄大は、何が嫌なの?」
「嫌じゃない」
「……嫌そう」
「嫌じゃないってば!」

 否定しながら、胸は痛い。言い訳が追いつかない。俺はノートを抱えるようにして、視線を逸らした。

 琉人が、俺の横で少しだけ動く。肩が擦れる。熱が走る。俺はびくっとした。

「……っ、な、何」
「……落ち着け」

 落ち着けって、無理。落ち着ける距離じゃない。落ち着ける光じゃない。落ち着ける匂いじゃない。

 俺は思わず、口を尖らせた。

「……だってさ、俺、今日の告白見て、変な気持ちになった」
「変な気持ち」
「そう。なんか……嫌だった」

 言ってしまった。

 嫌だった。

 その二文字が、部屋の空気を少しだけ変えた気がした。照明の影が、濃くなったみたいに。

 琉人が、ほんの僅かに息を止める。

「……何が」
「琉人が、取られそうで」

 取られそうで。

 言った瞬間、俺は死んだ。

 俺は今、何を言った?

 取られそうって何。俺の物じゃないのに。俺は琉人の何でもないのに。

 俺は顔を両手で覆った。

「……今のは違う!! 忘れて!!」
「……忘れない」

 琉人の返事が、低くて、短くて、やけに確かだった。

 俺は手の隙間から琉人を見た。琉人の顔は無表情に近いのに、目だけが少し熱を帯びている気がした。俺は怖くて、でも目が逸らせない。

「……え、何、怖いんだけど」
「……怖くない」
「怖いよ。なんか今、琉人、圧ある」
「……ない」

 圧ある。絶対ある。

 琉人が、少しだけ口元を緩めた。ほんの少し。照明の影が、そこだけ柔らかくなる。

 俺は胸がぎゅっと締まって、思わず、また余計なことを言ってしまう。

「……琉人さ、告白されたとき、俺のこと見た?」
「……見てない」
「……」
「……みてないよ」
「いや、絶対見た」

 俺は根拠ゼロで断言した。湊みたいなことを言っている。やめろ、俺。

 琉人は一拍置いて、ぽつりと言った。

「……見た」

 認めた。

 俺の心臓がドクン、と大きく鳴った。

「え」
「……雄大が変な顔してた」
「変な顔!?」
「……落ち込んだ顔」

 落ち込んだ顔。俺はそんな顔してたのか。してたんだろう。だって胸が痛かった。意味不明なくらい。

 琉人は、少しだけ視線を落として言った。

「……嬉しかった」

 嬉しかった。

 その言葉が、俺の胸の奥に落ちて、静かに響いた。
 いつかの雨音みたいに。溶けないまま。

 俺は、喉が詰まった。

「……なんで」
「……雄大が」

 琉人がそこで言葉を止めた。止めたくせに、距離だけは詰めてくる。肩が触れた。息が近い。間接照明の中で、琉人の横顔が、妙に大人っぽくて、眩しくて、怖い。

 俺は心臓が爆発しそうになって、逃げるようにノートを開き直した。

「……べ、勉強!! 勉強しよう!! 中間!!」
「……今さら」
「今さらじゃない!! 進学校なめんな!!」

 俺は叫んだ。小声で。意味不明。

 琉人が、低く笑った気配がした。笑ったのかどうか確信はない。けど空気が少しだけ軽くなったのは分かった。

「……雄大」
「な、何」
「……嫉妬してた?」

 その問いが、優しくて残酷だった。

 俺は固まった。

 嫉妬。

 その言葉は、俺の胸の奥の正体を、いきなり名前で呼んでしまう。

「……してない」
「……ほんと?」
「してないってば……!」
「……」

 琉人が淡々と言うせいで、俺の否定はどんどん弱くなる。俺は唇を噛んで、苦し紛れに言った。

「……だって、琉人、モテるじゃん」
「……関係ない」
「関係ある! めちゃある!」

 俺はもうヤケになっていた。だって胸が痛い。独占したいなんて気持ち、認めたくないのに、湧いてしまって止まらない。

 琉人は少しだけ黙って、それから、俺の髪に触れた。

 昨日と同じ、優しい動き。

 でも今日は、昨日よりゆっくりで、確かで、逃げ道がない。

「……うるさい」
「俺が?」
「……うん。可愛いから黙って……」

 可愛い。

 言った。今度は止めなかった。

 俺の頭が真っ白になった。

「は!? ちょ、待って、今、今可愛いって言った!?」
「……言った」
「言ったよね!? 聞こえた!? 俺、幻聴じゃない!?」
「……幻聴じゃない」

 琉人の声が低い。
 甘い。
 ずるい。
 俺の心臓がうるさすぎる。
 間接照明が、部屋の影を濃くして、二人の距離をさらに狭くしていくみたいだった。

 俺は唇を震わせて、どうにか言葉を絞り出した。

「……俺、今、どういう顔してる」
「……嫉妬してる顔」
「最悪だ」

 最悪だ。でも、胸は甘い。苦しいのに、甘い。俺はもう、逃げる方向を失っていた。

 琉人が、ほんの少しだけ俺の方へ傾く。俺も、逃げる代わりに、ほんの少しだけ傾いてしまう。ゆっくり。確実に。過ぎし日の轍を、今度は違う形で踏み直すみたいに。

 俺は小さく、もう一度だけ言った。

「……勉強、しよ」
「……うん」

 琉人の返事は短い。
 でも、声は優しいままだった。

 俺はノートに目を落としながら、胸の奥で思ってしまう。

 ――俺、もう、遅いのかもしれない。

 独占したいなんて思った時点で。
 嫉妬がこんなに痛い時点で。
 琉人の「可愛い」に、世界史の年号が全部吹き飛んだ時点で。

 隣で琉人がペンを持つ。指が動く。低い声が落ちる。俺は必死に文字を書いて、必死に呼吸をして、必死に平静を装った。

 でも、その努力の全部は、ただ一つの事実に負けていた。