琉人の家を出た夜、冷たい空気に触れた瞬間、俺はやっと息を吸えた気がした。
……いや、違う。
息は吸えていた。ずっと。
ただ、琉人の家にいる間は、呼吸の仕方を忘れていたみたいだった。
帰り道、街灯の光が濡れたアスファルトに映って、細い道が淡く光る。
冬の匂いがして、頬が冷えるのに、胸の奥だけが妙に熱い。
ノートには琉人の綺麗な字で語呂が書かれていて、その文字を見るたびに、低い声が耳の奥で再生される。「雄大」「……聞いてる?」「俺も」――それらが雨粒のように落ちて、溶けずに残る。
家に着いて、玄関で靴を脱いで、部屋に入って、鞄を置いた。制服のネクタイをほどいた。
その動作の一つひとつが、やけにゆっくりになる。慌ただしいはずの期末前なのに、俺の時間だけが妙に遅い。思考だけが、過ぎし日の轍をなぞるみたいに、同じところをぐるぐる回っている。
――今日の琉人、優しかった。
優しい、なんて言葉でまとめたら、軽すぎる気がする。
でも他に、言い方がない。
だって琉人は、俺を名前で呼んでくれた。
苗字じゃなくて、雄大って。
冷たい声じゃなくて、角が少しだけ丸くて、甘い、みたいな。
それだけで、俺の心臓は簡単に壊れる。
「……俺、どうかしてる」
自分に言い聞かせて、机の上にノートを開いた。世界史の用語が並ぶページ。語呂。年号。事件。
ぜんぶ、琉人の指がなぞった場所。琉人の声が落ちた場所。俺の手が震えた場所。
勉強しなきゃ。
期末、落とせない。
偏差値七〇越えの進学校で、赤点なんて洒落にならない。
なのに、集中できない。
ページの文字が滑っていく。
頭の中に入ってこない。
代わりに入ってくるのは――琉人の匂い、琉人の声、琉人の距離。
距離近かった。
肩が触れそうだった。
耳元で低い声がして、俺の心臓が暴れた。
……俺、どうしよう。
そして、ふと思った。
真木に相談する?
湊に相談する?
どっちも嫌だ。
真木は淡々と正論で刺してくるし、湊は面白がって煽ってくる。
でも、今の俺には、誰かの“外側の視点”が必要な気がした。
琉人の優しさが、優しさに見えたままじゃ危ない。
意味を勝手につけたら、俺の心がまた折れる。
……でも、相談したら最後だ。
言葉にした瞬間、現実になる。
俺が琉人を意識してるって、誰かに認めさせてしまう。
それが、怖い。
俺はベッドの枕に顔をつけて、小さく呻いた。
「……わかんない」
翌日。
教室に入った瞬間、空気が少し冷たかった。
期末前の教室は、静かな戦場みたいになる。誰もが自分の点数のことしか考えていなくて、無駄な会話は減っていく。プリントの擦れる音、シャーペンの音、ページをめくる音だけが、均等に響く。
俺もその中に溶け込むはずだったのに。
……隣の席のせいで、無理だった。
琉人が席にいるだけで、心臓が一段うるさくなる。昨日の距離、昨日の声、昨日の家の匂いが、勝手に蘇ってくる。
俺は意地でも前だけを見た。
話しかけないって宣言したのは俺だ。
なのに、それはすぐに形骸化して昨日は琉人の家に行って。
世界史を教えてもらって。
名前で呼ばれて。
……何だそれ。
宣言、どこ行ったんだよ。
俺は自分に腹が立って、机の中からペンケースを出す動作を必要以上に丁寧にした。
すると。
「……崎枝」
琉人の声。
昨日より少しだけ低くて、静かで、でも呼び方は苗字に戻っていた。
俺は胸が、きゅっと縮んだ。
戻った。
距離が戻った。
俺が欲しかった“安全”が戻った。
なのに、俺は痛い。
「……何」
俺がそう返すと、琉人は俺のノートをちらっと見た。
「昨日のとこ、復習した?」
「……し、した」
「……嘘だ」
「……」
できるわけがない。
周りをちらっと見る。
恥ずかしい。
琉人は微かに目を細めた。
「……今日も、放課後」
「え」
俺の心臓が跳ねた。
今日も?
「……昨日で終わりじゃないの」
「お前、覚え悪いから」
淡々と言われて、妙に悔しい。
でも、昨日の続きをくれるみたいで、嬉しい。
嬉しくなるな。
期待するな。
俺は自分を叱って、眉を寄せた。
「……それ、悪口?」
「……事実」
事実って言いながら、琉人の視線が一瞬だけ俺の顔に落ちた。冷たいはずの目が、ほんの少しだけ柔らかく見える。
その瞬間。
胸が、痛いくらいに締めつけられた。
やめて。
そんな目で見ないで。
そんな目で見られたら、俺は勘違いする。
俺はノートに視線を落として、小さく言った。
「……今日、どうするの」
「……昨日と同じでいいか」
昨日と同じ。
琉人の家。机が近い。声が低い。距離が近い。
俺が集中できないやつ。
俺は喉が乾いて、唾を飲み込んだ。
「……分かった」
言ってしまった。
断れない。
断ったら、この時間が消える気がして。
昼休み。
俺は真木に声をかけるか、迷った。
机の向かいの真木は弁当を食べながら、淡々とプリントを見ている。
湊は友達に囲まれて笑っている。
俺は箸を動かしながら、言葉を何度も組み立てた。
“琉人が昨日、優しかった”
“家で勉強した”
“名前で呼ばれた”
“距離が近くて集中できなかった”
……何それ。全部恥ずかしい。
相談なんて、できるわけない。
でも、相談したい。
この気持ちが何なのか、誰かに言語化してほしい。
自分だけじゃ、答えが怖すぎる。
俺が迷っていると、湊がこっちに来て、にやっと笑った。
嫌な予感。
次の瞬間。
「雄大~、今日もデート?」
耳元で囁いた。
「デートじゃない」
俺は即座に否定した。
否定が早すぎて、自分で自分が怪しい。
真木が箸を止めて、俺を見た。
「……デートなのか」
「違う!! 勉強!!」
「へぇ」湊が楽しそうに頬杖をつく。「篠山んちで?」
「……」
湊は完全に確信してる顔で笑った。
「顔で分かるなー」
「俺、そんな顔に出てる?」
「出てる。めっちゃ出てる」
最悪だ。
真木は弁当を食べながら、淡々と言った。
「お前、相談するなら早くしろ。期末落ちるぞ」
「……相談って何」
「篠山のことだろ」
「……!」
図星。
俺は箸を止めて、喉が詰まった。
真木は続ける。
「別に聞かなくても分かる」
「分かんないのは俺なんだよ……」
俺が小声で言うと、湊がにやにやしながら身を乗り出してきた。
「な、雄大。篠山はお前のこと見てるって言ったよな?」
「確かに」
「だろ?」
「うるさい!」
俺の否定が必死すぎた。
湊は楽しそうに言った。
「雄大さ、もうさ、好きじゃん」
「これって好きなのか……な?」
好きじゃない?
好きじゃないって言い切らないと、俺の世界が壊れるかもしれない。
真木が小さく息を吐いた。
「まぁ、好きかどうかは置いといて」
「置いといて」
「篠山の態度が不自然なのは事実」
不自然。
その言葉に、俺は少しだけ救われた。
俺の勘違いじゃない。
俺が一人で暴走してるわけじゃない。
……かもしれない。
「不自然って……?」
「冷たいのに、優しい」
真木が言う。
湊が頷きながら続ける。
「そうそう。昨日も傘とかさ」
「……」
やめて。見られてたの?
胸が痛い。
その記憶、まだ熱い。
真木は淡々と結論を落とす。
「篠山、何か抱えてんじゃね?」
「抱えてるって……何を」
「知らん。それは崎枝にしか分からない」
お前にしか分からない。
その言葉が、重かった。
俺にしか分からない。
俺が見ないと分からない。
でも俺は怖くて、見たくない。
だって、もし。
もし本当に。
琉人が俺に――
そんな可能性があるなら、俺はどうすればいいのか分からない。
昼休みの終わりのチャイムが鳴って、会話はそこで途切れた。
湊は最後に、俺の肩を叩いて言った。
「雄大、逃げんなよ」
「逃げてないって……」
「逃げてる。めっちゃ逃げてる」
真木は何も言わない。
ただ、その沈黙が“分かってる”と言っている気がした。
放課後。
琉人の家。
昨日と同じテーブル。
昨日と同じ椅子。
昨日と同じ静けさ。
でも、空気は少し違った。
俺が昨日よりも、ずっと琉人を意識してしまっている。
玄関で「お邪魔します」と言った俺に、琉人は昨日より柔らかい声で返した。
「……うん。上がって」
“上がれ”じゃない。
“上がって”。
それだけで、胸が甘く疼く。
琉人はコップを出して、水を注いで、俺の前に置いた。
「……喉、乾いてるだろ」
「……うん」
俺は自分の心臓がうるさいのを誤魔化すように、水を飲んだ。冷たいはずなのに、喉が熱い。
机に向かう。
琉人が教科書を開いて、指でページを示す。
「今日はここ。……流れを繋げる」
「うん」
俺は頷きながら、目だけが琉人を追ってしまう。
指先。
ペン。
喉仏が動く瞬間。
ふと目を伏せる睫毛。
全部が、静かに綺麗で、苦しい。
琉人は教えてくれる。
淡々と、でも昨日より少しだけ丁寧に。
「ここ、難しいだろ。……大丈夫、ゆっくりでいいから」
ゆっくりでいい。
その言い方が、妙に優しい。
俺の胸がぎゅっとなる。
俺が問題を解いていると、琉人が身を乗り出す。
近い。
昨日と同じ距離。
でも今日は、昨日より近く感じる。
「……ここ、違う。ほら」
琉人の指が、俺のノートの端に触れる。
触れるか触れないかの境界。
その境界だけで、俺の心臓は跳ねる。
「……俺、集中できない」
「……集中しろ」
琉人は低く言う。
怒ってるわけじゃない。
むしろ、困ってるみたいな声。
俺は笑って誤魔化した。
「琉人の声が低いから……」
「……なにそれ……」
「……でも本当」
本当だ。
琉人はほんの少しだけ口元を緩めた。
その瞬間。
俺の中で、何かがほどけそうになる。
危ない。
俺は慌てて問題集に視線を落とした。
ペンを動かす。
文字を書く。
年号を書く。
なのに、琉人の気配が近いだけで、胸が締めつけられる。
そうして、しばらく経ったとき。
俺が顔を上げた瞬間、琉人の視線とぶつかった。
真横。
黒い瞳。
冷たいはずの目。
でも今は、冷たくない。
その目の中に、何かが沈んでいる気がした。
見てはいけないもの。
触れたら戻れないもの。
俺が息を止めた瞬間、琉人が、ふっと手を伸ばした。指が、俺の髪に触れる。
茶髪の、ゆるふわパーマの前髪。
目にかかりそうになっていた毛先を、そっと避ける。
優しい。
あまりにも優しい。
その動作が自然すぎて、胸が痛いくらい締まった。
「……っ」
声が出ない。
琉人の指が離れる。
空気が戻る。
俺はやっと息を吸って、震える声で言った。
「……な、何……?」
「前髪。邪魔だった」
琉人は平然と答える。
なのに、耳が少しだけ赤い気がした。
気のせい?
俺は心臓が速すぎて、視界が滲む。
琉人が、少しだけ目を伏せる。
そして、ぽつりと。
「……可愛……」
可愛――
言いかけた。
言いかけて、止めた。
空気が止まる。
雨の日の傘の下より、図書室より、もっと静かな沈黙。
俺の胸が、ぎゅっと音を立てて縮んだ。
可愛い?
今、琉人は、俺のことを――?
「……今、何て……」
「……何でもない」
琉人は視線を逸らして、ページをめくった。
紙の音がやけに大きく聞こえる。
俺は固まったまま、指先が冷えていくのを感じていた。
可愛い。
そんな言葉、琉人が俺に向けて言うはずがない。
言うわけがない。
でも、確かに聞こえた。
言いかけた。
止めた。
なぜ止める?
なぜ言いかける?
俺の胸が苦しくて、息ができなくなる。
琉人は何も言わない。
でも、さっきより空気が落ち着かない。
ペンを持つ指に、力が入っている。
ページをめくる手が速い。
呼吸の間が、少し乱れている。
……まるで。
俺がいることが、怖いみたいに。
俺は喉の奥が震えた。
真木が言った言葉が、頭をよぎる。
“冷たいのに、優しい”
湊が笑った顔が浮かぶ。
“篠山、雄大のこと見てる”
そして、琉人が雨の日に言った。
“忘れるわけない”
点が、線になる。
世界史みたいに。
ばらばらだった出来事が、ひとつの流れとして繋がっていく。
俺は怖くて、でも目を逸らせなくて。
胸の奥で、問いが生まれてしまった。
――俺、今……琉人に……?
その続きを、俺はまだ言えない。
言葉にしたら終わる。
終わるのが怖い。
でも、終わらせたくない。
俺は震える指でシャーペンを握り直し、無理に笑った。
「……勉強、続きやろ」
「……ああ」
琉人の返事は短い。
だけど、その声はどこか苦しそうで。
まるで、抑えきれないものを押し込めるみたいに、低く落ちた。
机の上の教科書は開かれたまま。
文字は並んでいるのに、俺の頭はもう、全然別のことに支配されている。
琉人の指先。
触れた前髪。
言いかけた“可愛い”。
その全部が、俺の胸を締めつけていく。
雨の日の温度より、もっと熱いものが、今ここにある。
俺はそれを、まだ名前で呼べないまま。
ただ、息をするのが精一杯だった。
……いや、違う。
息は吸えていた。ずっと。
ただ、琉人の家にいる間は、呼吸の仕方を忘れていたみたいだった。
帰り道、街灯の光が濡れたアスファルトに映って、細い道が淡く光る。
冬の匂いがして、頬が冷えるのに、胸の奥だけが妙に熱い。
ノートには琉人の綺麗な字で語呂が書かれていて、その文字を見るたびに、低い声が耳の奥で再生される。「雄大」「……聞いてる?」「俺も」――それらが雨粒のように落ちて、溶けずに残る。
家に着いて、玄関で靴を脱いで、部屋に入って、鞄を置いた。制服のネクタイをほどいた。
その動作の一つひとつが、やけにゆっくりになる。慌ただしいはずの期末前なのに、俺の時間だけが妙に遅い。思考だけが、過ぎし日の轍をなぞるみたいに、同じところをぐるぐる回っている。
――今日の琉人、優しかった。
優しい、なんて言葉でまとめたら、軽すぎる気がする。
でも他に、言い方がない。
だって琉人は、俺を名前で呼んでくれた。
苗字じゃなくて、雄大って。
冷たい声じゃなくて、角が少しだけ丸くて、甘い、みたいな。
それだけで、俺の心臓は簡単に壊れる。
「……俺、どうかしてる」
自分に言い聞かせて、机の上にノートを開いた。世界史の用語が並ぶページ。語呂。年号。事件。
ぜんぶ、琉人の指がなぞった場所。琉人の声が落ちた場所。俺の手が震えた場所。
勉強しなきゃ。
期末、落とせない。
偏差値七〇越えの進学校で、赤点なんて洒落にならない。
なのに、集中できない。
ページの文字が滑っていく。
頭の中に入ってこない。
代わりに入ってくるのは――琉人の匂い、琉人の声、琉人の距離。
距離近かった。
肩が触れそうだった。
耳元で低い声がして、俺の心臓が暴れた。
……俺、どうしよう。
そして、ふと思った。
真木に相談する?
湊に相談する?
どっちも嫌だ。
真木は淡々と正論で刺してくるし、湊は面白がって煽ってくる。
でも、今の俺には、誰かの“外側の視点”が必要な気がした。
琉人の優しさが、優しさに見えたままじゃ危ない。
意味を勝手につけたら、俺の心がまた折れる。
……でも、相談したら最後だ。
言葉にした瞬間、現実になる。
俺が琉人を意識してるって、誰かに認めさせてしまう。
それが、怖い。
俺はベッドの枕に顔をつけて、小さく呻いた。
「……わかんない」
翌日。
教室に入った瞬間、空気が少し冷たかった。
期末前の教室は、静かな戦場みたいになる。誰もが自分の点数のことしか考えていなくて、無駄な会話は減っていく。プリントの擦れる音、シャーペンの音、ページをめくる音だけが、均等に響く。
俺もその中に溶け込むはずだったのに。
……隣の席のせいで、無理だった。
琉人が席にいるだけで、心臓が一段うるさくなる。昨日の距離、昨日の声、昨日の家の匂いが、勝手に蘇ってくる。
俺は意地でも前だけを見た。
話しかけないって宣言したのは俺だ。
なのに、それはすぐに形骸化して昨日は琉人の家に行って。
世界史を教えてもらって。
名前で呼ばれて。
……何だそれ。
宣言、どこ行ったんだよ。
俺は自分に腹が立って、机の中からペンケースを出す動作を必要以上に丁寧にした。
すると。
「……崎枝」
琉人の声。
昨日より少しだけ低くて、静かで、でも呼び方は苗字に戻っていた。
俺は胸が、きゅっと縮んだ。
戻った。
距離が戻った。
俺が欲しかった“安全”が戻った。
なのに、俺は痛い。
「……何」
俺がそう返すと、琉人は俺のノートをちらっと見た。
「昨日のとこ、復習した?」
「……し、した」
「……嘘だ」
「……」
できるわけがない。
周りをちらっと見る。
恥ずかしい。
琉人は微かに目を細めた。
「……今日も、放課後」
「え」
俺の心臓が跳ねた。
今日も?
「……昨日で終わりじゃないの」
「お前、覚え悪いから」
淡々と言われて、妙に悔しい。
でも、昨日の続きをくれるみたいで、嬉しい。
嬉しくなるな。
期待するな。
俺は自分を叱って、眉を寄せた。
「……それ、悪口?」
「……事実」
事実って言いながら、琉人の視線が一瞬だけ俺の顔に落ちた。冷たいはずの目が、ほんの少しだけ柔らかく見える。
その瞬間。
胸が、痛いくらいに締めつけられた。
やめて。
そんな目で見ないで。
そんな目で見られたら、俺は勘違いする。
俺はノートに視線を落として、小さく言った。
「……今日、どうするの」
「……昨日と同じでいいか」
昨日と同じ。
琉人の家。机が近い。声が低い。距離が近い。
俺が集中できないやつ。
俺は喉が乾いて、唾を飲み込んだ。
「……分かった」
言ってしまった。
断れない。
断ったら、この時間が消える気がして。
昼休み。
俺は真木に声をかけるか、迷った。
机の向かいの真木は弁当を食べながら、淡々とプリントを見ている。
湊は友達に囲まれて笑っている。
俺は箸を動かしながら、言葉を何度も組み立てた。
“琉人が昨日、優しかった”
“家で勉強した”
“名前で呼ばれた”
“距離が近くて集中できなかった”
……何それ。全部恥ずかしい。
相談なんて、できるわけない。
でも、相談したい。
この気持ちが何なのか、誰かに言語化してほしい。
自分だけじゃ、答えが怖すぎる。
俺が迷っていると、湊がこっちに来て、にやっと笑った。
嫌な予感。
次の瞬間。
「雄大~、今日もデート?」
耳元で囁いた。
「デートじゃない」
俺は即座に否定した。
否定が早すぎて、自分で自分が怪しい。
真木が箸を止めて、俺を見た。
「……デートなのか」
「違う!! 勉強!!」
「へぇ」湊が楽しそうに頬杖をつく。「篠山んちで?」
「……」
湊は完全に確信してる顔で笑った。
「顔で分かるなー」
「俺、そんな顔に出てる?」
「出てる。めっちゃ出てる」
最悪だ。
真木は弁当を食べながら、淡々と言った。
「お前、相談するなら早くしろ。期末落ちるぞ」
「……相談って何」
「篠山のことだろ」
「……!」
図星。
俺は箸を止めて、喉が詰まった。
真木は続ける。
「別に聞かなくても分かる」
「分かんないのは俺なんだよ……」
俺が小声で言うと、湊がにやにやしながら身を乗り出してきた。
「な、雄大。篠山はお前のこと見てるって言ったよな?」
「確かに」
「だろ?」
「うるさい!」
俺の否定が必死すぎた。
湊は楽しそうに言った。
「雄大さ、もうさ、好きじゃん」
「これって好きなのか……な?」
好きじゃない?
好きじゃないって言い切らないと、俺の世界が壊れるかもしれない。
真木が小さく息を吐いた。
「まぁ、好きかどうかは置いといて」
「置いといて」
「篠山の態度が不自然なのは事実」
不自然。
その言葉に、俺は少しだけ救われた。
俺の勘違いじゃない。
俺が一人で暴走してるわけじゃない。
……かもしれない。
「不自然って……?」
「冷たいのに、優しい」
真木が言う。
湊が頷きながら続ける。
「そうそう。昨日も傘とかさ」
「……」
やめて。見られてたの?
胸が痛い。
その記憶、まだ熱い。
真木は淡々と結論を落とす。
「篠山、何か抱えてんじゃね?」
「抱えてるって……何を」
「知らん。それは崎枝にしか分からない」
お前にしか分からない。
その言葉が、重かった。
俺にしか分からない。
俺が見ないと分からない。
でも俺は怖くて、見たくない。
だって、もし。
もし本当に。
琉人が俺に――
そんな可能性があるなら、俺はどうすればいいのか分からない。
昼休みの終わりのチャイムが鳴って、会話はそこで途切れた。
湊は最後に、俺の肩を叩いて言った。
「雄大、逃げんなよ」
「逃げてないって……」
「逃げてる。めっちゃ逃げてる」
真木は何も言わない。
ただ、その沈黙が“分かってる”と言っている気がした。
放課後。
琉人の家。
昨日と同じテーブル。
昨日と同じ椅子。
昨日と同じ静けさ。
でも、空気は少し違った。
俺が昨日よりも、ずっと琉人を意識してしまっている。
玄関で「お邪魔します」と言った俺に、琉人は昨日より柔らかい声で返した。
「……うん。上がって」
“上がれ”じゃない。
“上がって”。
それだけで、胸が甘く疼く。
琉人はコップを出して、水を注いで、俺の前に置いた。
「……喉、乾いてるだろ」
「……うん」
俺は自分の心臓がうるさいのを誤魔化すように、水を飲んだ。冷たいはずなのに、喉が熱い。
机に向かう。
琉人が教科書を開いて、指でページを示す。
「今日はここ。……流れを繋げる」
「うん」
俺は頷きながら、目だけが琉人を追ってしまう。
指先。
ペン。
喉仏が動く瞬間。
ふと目を伏せる睫毛。
全部が、静かに綺麗で、苦しい。
琉人は教えてくれる。
淡々と、でも昨日より少しだけ丁寧に。
「ここ、難しいだろ。……大丈夫、ゆっくりでいいから」
ゆっくりでいい。
その言い方が、妙に優しい。
俺の胸がぎゅっとなる。
俺が問題を解いていると、琉人が身を乗り出す。
近い。
昨日と同じ距離。
でも今日は、昨日より近く感じる。
「……ここ、違う。ほら」
琉人の指が、俺のノートの端に触れる。
触れるか触れないかの境界。
その境界だけで、俺の心臓は跳ねる。
「……俺、集中できない」
「……集中しろ」
琉人は低く言う。
怒ってるわけじゃない。
むしろ、困ってるみたいな声。
俺は笑って誤魔化した。
「琉人の声が低いから……」
「……なにそれ……」
「……でも本当」
本当だ。
琉人はほんの少しだけ口元を緩めた。
その瞬間。
俺の中で、何かがほどけそうになる。
危ない。
俺は慌てて問題集に視線を落とした。
ペンを動かす。
文字を書く。
年号を書く。
なのに、琉人の気配が近いだけで、胸が締めつけられる。
そうして、しばらく経ったとき。
俺が顔を上げた瞬間、琉人の視線とぶつかった。
真横。
黒い瞳。
冷たいはずの目。
でも今は、冷たくない。
その目の中に、何かが沈んでいる気がした。
見てはいけないもの。
触れたら戻れないもの。
俺が息を止めた瞬間、琉人が、ふっと手を伸ばした。指が、俺の髪に触れる。
茶髪の、ゆるふわパーマの前髪。
目にかかりそうになっていた毛先を、そっと避ける。
優しい。
あまりにも優しい。
その動作が自然すぎて、胸が痛いくらい締まった。
「……っ」
声が出ない。
琉人の指が離れる。
空気が戻る。
俺はやっと息を吸って、震える声で言った。
「……な、何……?」
「前髪。邪魔だった」
琉人は平然と答える。
なのに、耳が少しだけ赤い気がした。
気のせい?
俺は心臓が速すぎて、視界が滲む。
琉人が、少しだけ目を伏せる。
そして、ぽつりと。
「……可愛……」
可愛――
言いかけた。
言いかけて、止めた。
空気が止まる。
雨の日の傘の下より、図書室より、もっと静かな沈黙。
俺の胸が、ぎゅっと音を立てて縮んだ。
可愛い?
今、琉人は、俺のことを――?
「……今、何て……」
「……何でもない」
琉人は視線を逸らして、ページをめくった。
紙の音がやけに大きく聞こえる。
俺は固まったまま、指先が冷えていくのを感じていた。
可愛い。
そんな言葉、琉人が俺に向けて言うはずがない。
言うわけがない。
でも、確かに聞こえた。
言いかけた。
止めた。
なぜ止める?
なぜ言いかける?
俺の胸が苦しくて、息ができなくなる。
琉人は何も言わない。
でも、さっきより空気が落ち着かない。
ペンを持つ指に、力が入っている。
ページをめくる手が速い。
呼吸の間が、少し乱れている。
……まるで。
俺がいることが、怖いみたいに。
俺は喉の奥が震えた。
真木が言った言葉が、頭をよぎる。
“冷たいのに、優しい”
湊が笑った顔が浮かぶ。
“篠山、雄大のこと見てる”
そして、琉人が雨の日に言った。
“忘れるわけない”
点が、線になる。
世界史みたいに。
ばらばらだった出来事が、ひとつの流れとして繋がっていく。
俺は怖くて、でも目を逸らせなくて。
胸の奥で、問いが生まれてしまった。
――俺、今……琉人に……?
その続きを、俺はまだ言えない。
言葉にしたら終わる。
終わるのが怖い。
でも、終わらせたくない。
俺は震える指でシャーペンを握り直し、無理に笑った。
「……勉強、続きやろ」
「……ああ」
琉人の返事は短い。
だけど、その声はどこか苦しそうで。
まるで、抑えきれないものを押し込めるみたいに、低く落ちた。
机の上の教科書は開かれたまま。
文字は並んでいるのに、俺の頭はもう、全然別のことに支配されている。
琉人の指先。
触れた前髪。
言いかけた“可愛い”。
その全部が、俺の胸を締めつけていく。
雨の日の温度より、もっと熱いものが、今ここにある。
俺はそれを、まだ名前で呼べないまま。
ただ、息をするのが精一杯だった。
