幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 琉人の家を出た夜、冷たい空気に触れた瞬間、俺はやっと息を吸えた気がした。

 ……いや、違う。

 息は吸えていた。ずっと。
 ただ、琉人の家にいる間は、呼吸の仕方を忘れていたみたいだった。

 帰り道、街灯の光が濡れたアスファルトに映って、細い道が淡く光る。
 冬の匂いがして、頬が冷えるのに、胸の奥だけが妙に熱い。
 ノートには琉人の綺麗な字で語呂が書かれていて、その文字を見るたびに、低い声が耳の奥で再生される。「雄大」「……聞いてる?」「俺も」――それらが雨粒のように落ちて、溶けずに残る。

 家に着いて、玄関で靴を脱いで、部屋に入って、鞄を置いた。制服のネクタイをほどいた。
 その動作の一つひとつが、やけにゆっくりになる。慌ただしいはずの期末前なのに、俺の時間だけが妙に遅い。思考だけが、過ぎし日の轍をなぞるみたいに、同じところをぐるぐる回っている。

 ――今日の琉人、優しかった。

 優しい、なんて言葉でまとめたら、軽すぎる気がする。
 でも他に、言い方がない。

 だって琉人は、俺を名前で呼んでくれた。
 苗字じゃなくて、雄大って。
 冷たい声じゃなくて、角が少しだけ丸くて、甘い、みたいな。

 それだけで、俺の心臓は簡単に壊れる。

「……俺、どうかしてる」

 自分に言い聞かせて、机の上にノートを開いた。世界史の用語が並ぶページ。語呂。年号。事件。

 ぜんぶ、琉人の指がなぞった場所。琉人の声が落ちた場所。俺の手が震えた場所。

 勉強しなきゃ。
 期末、落とせない。
 偏差値七〇越えの進学校で、赤点なんて洒落にならない。

 なのに、集中できない。

 ページの文字が滑っていく。
 頭の中に入ってこない。
 代わりに入ってくるのは――琉人の匂い、琉人の声、琉人の距離。

 距離近かった。
 肩が触れそうだった。
 耳元で低い声がして、俺の心臓が暴れた。

 ……俺、どうしよう。

 そして、ふと思った。

 真木に相談する?
 湊に相談する?

 どっちも嫌だ。

 真木は淡々と正論で刺してくるし、湊は面白がって煽ってくる。
 でも、今の俺には、誰かの“外側の視点”が必要な気がした。

 琉人の優しさが、優しさに見えたままじゃ危ない。
 意味を勝手につけたら、俺の心がまた折れる。

 ……でも、相談したら最後だ。

 言葉にした瞬間、現実になる。
 俺が琉人を意識してるって、誰かに認めさせてしまう。

 それが、怖い。

 俺はベッドの枕に顔をつけて、小さく呻いた。

「……わかんない」




 翌日。

 教室に入った瞬間、空気が少し冷たかった。

 期末前の教室は、静かな戦場みたいになる。誰もが自分の点数のことしか考えていなくて、無駄な会話は減っていく。プリントの擦れる音、シャーペンの音、ページをめくる音だけが、均等に響く。

 俺もその中に溶け込むはずだったのに。

 ……隣の席のせいで、無理だった。

 琉人が席にいるだけで、心臓が一段うるさくなる。昨日の距離、昨日の声、昨日の家の匂いが、勝手に蘇ってくる。

 俺は意地でも前だけを見た。

 話しかけないって宣言したのは俺だ。
 なのに、それはすぐに形骸化して昨日は琉人の家に行って。
 世界史を教えてもらって。
 名前で呼ばれて。

 ……何だそれ。

 宣言、どこ行ったんだよ。

 俺は自分に腹が立って、机の中からペンケースを出す動作を必要以上に丁寧にした。

 すると。

「……崎枝」

 琉人の声。

 昨日より少しだけ低くて、静かで、でも呼び方は苗字に戻っていた。

 俺は胸が、きゅっと縮んだ。

 戻った。
 距離が戻った。
 俺が欲しかった“安全”が戻った。

 なのに、俺は痛い。

「……何」

 俺がそう返すと、琉人は俺のノートをちらっと見た。

「昨日のとこ、復習した?」
「……し、した」
「……嘘だ」
「……」

できるわけがない。

 周りをちらっと見る。
 恥ずかしい。
 琉人は微かに目を細めた。

「……今日も、放課後」
「え」

 俺の心臓が跳ねた。

 今日も?

「……昨日で終わりじゃないの」
「お前、覚え悪いから」

 淡々と言われて、妙に悔しい。
 でも、昨日の続きをくれるみたいで、嬉しい。

 嬉しくなるな。
 期待するな。

 俺は自分を叱って、眉を寄せた。

「……それ、悪口?」
「……事実」

 事実って言いながら、琉人の視線が一瞬だけ俺の顔に落ちた。冷たいはずの目が、ほんの少しだけ柔らかく見える。

 その瞬間。

 胸が、痛いくらいに締めつけられた。

 やめて。
 そんな目で見ないで。
 そんな目で見られたら、俺は勘違いする。
 俺はノートに視線を落として、小さく言った。

「……今日、どうするの」
「……昨日と同じでいいか」

 昨日と同じ。

 琉人の家。机が近い。声が低い。距離が近い。
 俺が集中できないやつ。

 俺は喉が乾いて、唾を飲み込んだ。

「……分かった」

 言ってしまった。
 断れない。

 断ったら、この時間が消える気がして。



 昼休み。
 俺は真木に声をかけるか、迷った。
 机の向かいの真木は弁当を食べながら、淡々とプリントを見ている。
 湊は友達に囲まれて笑っている。

 俺は箸を動かしながら、言葉を何度も組み立てた。

 “琉人が昨日、優しかった”
 “家で勉強した”
 “名前で呼ばれた”
 “距離が近くて集中できなかった”

 ……何それ。全部恥ずかしい。
 相談なんて、できるわけない。
 でも、相談したい。
 この気持ちが何なのか、誰かに言語化してほしい。
 自分だけじゃ、答えが怖すぎる。

 俺が迷っていると、湊がこっちに来て、にやっと笑った。

 嫌な予感。
 次の瞬間。
「雄大~、今日もデート?」
 耳元で囁いた。

「デートじゃない」

 俺は即座に否定した。
 否定が早すぎて、自分で自分が怪しい。

 真木が箸を止めて、俺を見た。

「……デートなのか」
「違う!! 勉強!!」
「へぇ」湊が楽しそうに頬杖をつく。「篠山んちで?」
「……」

 湊は完全に確信してる顔で笑った。

「顔で分かるなー」
「俺、そんな顔に出てる?」
「出てる。めっちゃ出てる」

 最悪だ。

 真木は弁当を食べながら、淡々と言った。

「お前、相談するなら早くしろ。期末落ちるぞ」
「……相談って何」
「篠山のことだろ」
「……!」

 図星。
 俺は箸を止めて、喉が詰まった。
 真木は続ける。

「別に聞かなくても分かる」
「分かんないのは俺なんだよ……」

 俺が小声で言うと、湊がにやにやしながら身を乗り出してきた。

「な、雄大。篠山はお前のこと見てるって言ったよな?」
「確かに」
「だろ?」
「うるさい!」

 俺の否定が必死すぎた。
 湊は楽しそうに言った。

「雄大さ、もうさ、好きじゃん」
「これって好きなのか……な?」

 好きじゃない?
 好きじゃないって言い切らないと、俺の世界が壊れるかもしれない。

 真木が小さく息を吐いた。

「まぁ、好きかどうかは置いといて」
「置いといて」
「篠山の態度が不自然なのは事実」

 不自然。

 その言葉に、俺は少しだけ救われた。

 俺の勘違いじゃない。
 俺が一人で暴走してるわけじゃない。

 ……かもしれない。

「不自然って……?」
「冷たいのに、優しい」

 真木が言う。
 湊が頷きながら続ける。

「そうそう。昨日も傘とかさ」
「……」

 やめて。見られてたの?
 胸が痛い。
 その記憶、まだ熱い。

 真木は淡々と結論を落とす。

「篠山、何か抱えてんじゃね?」
「抱えてるって……何を」
「知らん。それは崎枝にしか分からない」

 お前にしか分からない。

 その言葉が、重かった。

 俺にしか分からない。
 俺が見ないと分からない。

 でも俺は怖くて、見たくない。

 だって、もし。
 もし本当に。
 琉人が俺に――
 そんな可能性があるなら、俺はどうすればいいのか分からない。

 昼休みの終わりのチャイムが鳴って、会話はそこで途切れた。
 湊は最後に、俺の肩を叩いて言った。

「雄大、逃げんなよ」
「逃げてないって……」
「逃げてる。めっちゃ逃げてる」

 真木は何も言わない。
 ただ、その沈黙が“分かってる”と言っている気がした。


 放課後。
 琉人の家。
 昨日と同じテーブル。
 昨日と同じ椅子。
 昨日と同じ静けさ。
 でも、空気は少し違った。
 俺が昨日よりも、ずっと琉人を意識してしまっている。

 玄関で「お邪魔します」と言った俺に、琉人は昨日より柔らかい声で返した。

「……うん。上がって」

 “上がれ”じゃない。
 “上がって”。

 それだけで、胸が甘く疼く。
 琉人はコップを出して、水を注いで、俺の前に置いた。

「……喉、乾いてるだろ」
「……うん」

 俺は自分の心臓がうるさいのを誤魔化すように、水を飲んだ。冷たいはずなのに、喉が熱い。
 机に向かう。
 琉人が教科書を開いて、指でページを示す。

「今日はここ。……流れを繋げる」
「うん」

 俺は頷きながら、目だけが琉人を追ってしまう。

 指先。
 ペン。
 喉仏が動く瞬間。
 ふと目を伏せる睫毛。

 全部が、静かに綺麗で、苦しい。
 琉人は教えてくれる。
 淡々と、でも昨日より少しだけ丁寧に。

「ここ、難しいだろ。……大丈夫、ゆっくりでいいから」

 ゆっくりでいい。
 その言い方が、妙に優しい。
 俺の胸がぎゅっとなる。

 俺が問題を解いていると、琉人が身を乗り出す。

 近い。
 昨日と同じ距離。
 でも今日は、昨日より近く感じる。

「……ここ、違う。ほら」

 琉人の指が、俺のノートの端に触れる。
 触れるか触れないかの境界。
 その境界だけで、俺の心臓は跳ねる。

「……俺、集中できない」
「……集中しろ」

 琉人は低く言う。
 怒ってるわけじゃない。
 むしろ、困ってるみたいな声。

 俺は笑って誤魔化した。

「琉人の声が低いから……」
「……なにそれ……」
「……でも本当」

 本当だ。
 琉人はほんの少しだけ口元を緩めた。
 その瞬間。
 俺の中で、何かがほどけそうになる。
 危ない。
 俺は慌てて問題集に視線を落とした。

 ペンを動かす。
 文字を書く。
 年号を書く。

 なのに、琉人の気配が近いだけで、胸が締めつけられる。
 そうして、しばらく経ったとき。
 俺が顔を上げた瞬間、琉人の視線とぶつかった。

 真横。
 黒い瞳。
 冷たいはずの目。
 でも今は、冷たくない。
 その目の中に、何かが沈んでいる気がした。
 見てはいけないもの。
 触れたら戻れないもの。

 俺が息を止めた瞬間、琉人が、ふっと手を伸ばした。指が、俺の髪に触れる。
 茶髪の、ゆるふわパーマの前髪。
 目にかかりそうになっていた毛先を、そっと避ける。

 優しい。
 あまりにも優しい。
 その動作が自然すぎて、胸が痛いくらい締まった。

「……っ」

 声が出ない。
 琉人の指が離れる。
 空気が戻る。
 俺はやっと息を吸って、震える声で言った。

「……な、何……?」
「前髪。邪魔だった」

 琉人は平然と答える。
 なのに、耳が少しだけ赤い気がした。
 気のせい?
 俺は心臓が速すぎて、視界が滲む。
 琉人が、少しだけ目を伏せる。

 そして、ぽつりと。

「……可愛……」

 可愛――

 言いかけた。

 言いかけて、止めた。

 空気が止まる。

 雨の日の傘の下より、図書室より、もっと静かな沈黙。
 俺の胸が、ぎゅっと音を立てて縮んだ。
 可愛い?
 今、琉人は、俺のことを――?

「……今、何て……」
「……何でもない」

 琉人は視線を逸らして、ページをめくった。
 紙の音がやけに大きく聞こえる。

 俺は固まったまま、指先が冷えていくのを感じていた。

 可愛い。

 そんな言葉、琉人が俺に向けて言うはずがない。
 言うわけがない。

 でも、確かに聞こえた。

 言いかけた。
 止めた。

 なぜ止める?

 なぜ言いかける?

 俺の胸が苦しくて、息ができなくなる。

 琉人は何も言わない。
 でも、さっきより空気が落ち着かない。

 ペンを持つ指に、力が入っている。
 ページをめくる手が速い。
 呼吸の間が、少し乱れている。

 ……まるで。

 俺がいることが、怖いみたいに。

 俺は喉の奥が震えた。
 真木が言った言葉が、頭をよぎる。

 “冷たいのに、優しい”

 湊が笑った顔が浮かぶ。

 “篠山、雄大のこと見てる”

 そして、琉人が雨の日に言った。

 “忘れるわけない”

 点が、線になる。

 世界史みたいに。
 ばらばらだった出来事が、ひとつの流れとして繋がっていく。
 俺は怖くて、でも目を逸らせなくて。
 胸の奥で、問いが生まれてしまった。

 ――俺、今……琉人に……?

 その続きを、俺はまだ言えない。
 言葉にしたら終わる。
 終わるのが怖い。
 でも、終わらせたくない。

 俺は震える指でシャーペンを握り直し、無理に笑った。

「……勉強、続きやろ」
「……ああ」

 琉人の返事は短い。
 だけど、その声はどこか苦しそうで。
 まるで、抑えきれないものを押し込めるみたいに、低く落ちた。

 机の上の教科書は開かれたまま。
 文字は並んでいるのに、俺の頭はもう、全然別のことに支配されている。

 琉人の指先。
 触れた前髪。
 言いかけた“可愛い”。

 その全部が、俺の胸を締めつけていく。
 雨の日の温度より、もっと熱いものが、今ここにある。
 俺はそれを、まだ名前で呼べないまま。

 ただ、息をするのが精一杯だった。