雨の日の相合い傘が、夢みたいに胸の奥へ沈んだまま、翌日も、その次の日も、世界は何事もなかったように動いていった。
黒板はいつも通り文字で埋まり、廊下はいつも通り足音で満ち、青霞学院の空気は、静かに、正しく、賢く、淡々と流れていく。
けれど俺だけが、あの傘の下の温度を抱えたまま、どこか落ち着かない。
琉人が「忘れるわけない」と言った声が、雨粒みたいに、ふいに胸に落ちては溶け、また形を変えて残っていく。
期待するな、と何度言い聞かせても、気づけば心は、過ぎし日の方へ勝手に歩いていく。
小学生の頃の、雨に濡れた靴下の冷たさ。傘の端から落ちた雫の光。
琉人の横顔。
その轍を、今の俺は、同じように辿っているのかもしれない。
ところで……期末テストが近い。
それだけで、進学校の空気は一段階、張り詰める。昼休みの雑談は短くなり、放課後の廊下は「自習室」と「図書室」へ吸い込まれる生徒で流れができる。先生の声にも余白がなくなって、プリントの束だけが増えていく。そんな中で、俺は、終わっていた。
「……やばい。世界史、終わった」
昼休み、俺は机に突っ伏した。頬が机の木目に押されて、変な形に潰れているのが分かる。それでも起き上がる元気がない。背中に感じる視線の温度だけが、やけに敏感に伝わってくる。
「崎枝」
真木の声が、相変わらず余計な温度を持たないまま降ってくる。
「終わってるのは顔だけじゃないだろー?」
「……うるさい。今、人生の分岐点」
「分岐してる暇あるならノート開いたら?」
「世界史のノート開いたら死ぬ。ボニファティウス? 誰だよそれ」
そう言った瞬間、前の席から椅子が回転して、湊が振り向いてきた。こいつはほんと、空気の流れに逆らって泳げる才能がある。目が合っただけで、こっちのHPを削りにくるタイプだ。
「雄大、世界史詰んでんの?」
「詰んでる」
「篠山に聞けよ。あいつ、やばいだろ」
その名前が出ただけで、俺の心臓がひゅっと縮む。
琉人。隣
の席。
雨の日の相合い傘。
低い声。
距離。
忘れるわけない。思い出さないようにしているものほど、こういうときに呼び起こされる。
「無理。話しかけないって言ったし……」
「え、まだそれ続けてんの?」真木が目を丸くしてから、面白そうに笑った。
「雄大、素直じゃなさすぎて可愛いな」と湊。
「可愛くねぇし」
否定したのに、湊はむしろ肯定みたいな顔をする。真木は机の端を軽く叩いて、会話を切り上げるみたいに言った。
「篠山に聞け。別に告白するわけじゃないしー?」
「告白とか言うな……」
その単語だけで、頭が変に熱くなる。俺はむすっとしたまま、隣の席へ視線を向け――そうになって、慌てて前を向き直した。見たら負けだ。期待するな。期待したら、また折れる。
でも、そのときだった。
隣の席から、ペン先の音が止まった。
ほんの一瞬。
空気が揺れて。
「……崎枝」
琉人の声が、机の上を滑るように落ちてきた。低くて、静かで、余計な飾りのない声。なのに、耳の奥に残る。俺は反射で肩を震わせた。
「……何」
昨日までの俺だったら、ここで素っ気なく返して終わっていたかもしれない。でも、期末テストという名の恐怖が、俺の意地を少しだけ溶かした。琉人はノートを閉じたまま、淡々と言う。
「世界史、詰んでるの?」
「……聞いてたの?」
「聞こえる」
そりゃ聞こえるか。俺、今、教室で「人生の分岐点」とか言ってたし。恥ずかしい。琉人は続けて、ほんの少しだけ声を落とした。
「……教えてあげる……」
「え」
驚きすぎて、声が間抜けになった。湊が前の席でニヤニヤしている気配がする。真木は、何も言わないが「ほらな」みたいな沈黙をしている。
俺は喉を鳴らして、言葉を探した。
「……でも、琉人、忙しいだろ」
「別に」
別に。便利な言葉。なのに今日は、その別にが、冷たさではなく、何か別の柔らかさを含んでいる気がして、俺は余計に落ち着かなくなる。
「放課後、少しだけ」
「……放課後」
放課後、は危険だ。
女子に囲まれる琉人。
来るな。
折れた心。
もう話しかけない。
全部が胸の中で絡まって、ひとつの塊になる。
俺はそれを崩すのが怖い。
それでも、世界史の赤点はもっと怖い。
俺は小さく頷いた。
「……分かった。少しだけ」
真木と湊は、二人でアイコンタクトを取っていた。
腹立つ……けど……
琉人は頷くでもなく、目を伏せたままペンを持ち直した。ただ、隣の空気だけが、ほんの少し変わった気がした。
放課後。
俺は教室で、教科書とノートを鞄に詰めながら、落ち着かない気持ちを誤魔化していた。真木は先に帰り支度を終えて、「先行くわー」と短く言って教室を出ていく。湊は肩に鞄を引っ掛けながら、振り返って口元だけで笑った。
「雄大、頑張れ。距離近いと死ぬからな」
「うるさいっ」
「ハハハ」
「黙れ……」
俺が小声で言い返すと、湊は満足そうに手を振って去っていった。ほんと余計なことしか言わない。残った教室には、窓際の自習組が数人。プリントを閉じる音、シャーペンの音。そこに、琉人が立ち上がる椅子の音が重なる。
「行こ」
琉人がそう言った。俺は思わず背筋を伸ばしてしまう。教える、という言葉だけで、こんなに体が言うことを聞かなくなるのはずるい。
「う、うん」
俺は鞄を抱えて立ち上がる。教室を出て廊下を歩く。夕方の光が窓から差して、床に薄い金色の筋を作っている。冬の気配はまだ残っていて、空気が少し冷たい。なのに、隣を歩く琉人の存在だけが、変に熱い。距離が近い。歩幅が違う。俺は少し早足になったり遅くなったりして、結局、隣にいるのに一定の距離を保てない。
「……どこでやるの」
俺が聞くと、琉人は前を見たまま答えた。
「図書室は混む。自習室も」
「じゃあ……どこ」
「俺の家」
あまりにも自然に言われて、俺は足を止めそうになった。
「は……?」
声が裏返りかけて、慌てて口を押さえた。廊下にいる人たちがこちらを見る。琉人は平然としている。
「家、近いだろ」
「近いけど……そういう問題じゃなくない?」
「何が」
何が、って。全部だよ。家。男子の家。二人きり。いや、勉強だ。勉強だから大丈夫。そう言い聞かせても心臓がうるさい。
琉人が立ち止まって、俺を見下ろした。その目は冷たいはずなのに、今日だけ少しだけ柔らかく見える。気のせいだ。気のせいでいい。そうしないと危ない。
「……嫌ならやめるけど……」
その言葉が、意外だった。琉人から「やめる」という選択肢が出ること自体が、俺の中のどこかを震わせる。俺は慌てて首を振った。
「嫌じゃない!……じゃなくて、嫌じゃないけど、びっくりしただけ」
言い訳が下手すぎて、俺は自分で情けなくなる。琉人はほんの少しだけ目を細めた。
「……じゃあ、来い」
その声が、昨日までとは違う響きで落ちた。命令じゃないのに、俺の足は勝手に動く。
琉人の家は、俺の家から歩いて五分もかからない住宅街にあった。整った道、静かな家並み。雨の日に一緒に歩いた道の一部と重なって、俺は胸が勝手に過ぎし日へ引っ張られる。あの傘の下の温度は、まだ消えていない。
玄関の前で、琉人が鍵を開ける。カチャ、と乾いた音がして、扉が開く。中から暖房の匂いがふわりと漏れた。
「……上がれ」
琉人の声が低い。家の中というだけで、その低さがやけに近く感じるのは、たぶん俺の心が勝手に過敏になっているせいだ。
「お邪魔します」
俺は靴を揃えて、恐る恐る足を踏み入れた。廊下は綺麗で、余計な物が少ない。
生活感が少ないのに、冷たくはない。海外帰りの家って、もっと無機質なイメージがあったけど、ここはちゃんと“家”の匂いがする。過剰に整えられた香りじゃなくて、洗剤と木と、ほんの少しの温度。
しかし、あの頃の家とは全く違っていた。
琉人は俺の鞄を見て、「そっち」と短く言いながらリビングへ案内した。テーブルは大きくなくて、二人分には十分すぎる広さ。椅子を引く音が静かに響いた。
「座れ」
琉人が言う。俺は従う。従ってしまう自分が悔しいのに、琉人には従いたくなる。
琉人が冷蔵庫を開けて、コップを二つ出す。水の音。氷の音。そういう生活の音が、彼の“遠さ”を少しだけ近づける気がして、俺は落ち着かないまま嬉しくなる。
「……飲む?」
「うん、ありがとう」
琉人がコップを俺の前に置いた。指先が近い。触れないのに、触れそうで、心臓が変に跳ねる。俺は慌ててコップを掴んだ。
冷たい水が喉を通る。少しだけ落ち着く。少しだけ。
「で、どこが分かんないの?」
琉人が椅子に腰を下ろして、俺の教科書を指で軽く叩いた。視線が近い。声が低い。机の距離が近い。近すぎる。
「えっと……ここ、年代がごちゃごちゃになって……」
俺がページを開くと、琉人は締めていたネクタイを緩めて、身を乗り出した。
肩が近い。髪の匂いがする距離。
俺の脳が、勉強を拒否して、もっと思春期男子の欲を満たせと命令する。
琉人は淡々と説明を始めた。年代、出来事、因果。言葉が整っていて、無駄がない。進学校の中でも上澄みの頭の良さは、こういうときに容赦なく発揮される。
「ここは、流れで覚えろ。点じゃなくて線」
「線……」
「そう。まずこの年の前に何が起きた」
琉人の指が、教科書の行をなぞる。指先が綺麗で、無駄な動きがない。俺はその指先を見てしまって、内容が入らない。琉人が俺の顔を覗き込むようにして言った。
「……聞いてる?」
「聞いてる……」
「……顔、赤い」
その一言で、俺の脳が完全に白くなる。
「え!? 赤くない! 暖房だよ!」
「……暖房、そんな強くないけど」
琉人の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。いつもの冷たさじゃない。家の中だからか、距離が近いからか、それとも――別の理由か。
俺は誤魔化すために、必死に教科書へ視線を落とした。
「えっと、ここが……えっと……」
琉人が小さく息を吐く。呆れたように、でも笑っている気配がある。
「雄大」
名前を呼ばれた。
苗字じゃない。
雄大。
俺の指先が痺れる。
耳が遠くなった気がする。
久しぶりに、好きな人から名前を呼ばれた。
「……ここは、こう。覚え方がある」
琉人の声が、いつもより甘い。甘いって言うとおかしいけど、角がない。まるで過ぎし日の、まだ何も壊れていなかった頃みたいに、自然に落ちてくる。
俺は息を止めたまま、頷いた。
「う、うん……」
琉人は俺のノートを引き寄せ、ペンを取った。紙に文字を書く音。彼の字は整っていて、線が美しい。俺の字と並ぶと、違いすぎて泣きたくなる。
「これ、語呂。……ほら、こういうふうに」
琉人が書いた語呂を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「なにそれ、ダサい」
「覚えられればいいじゃん」
「琉人が言うと説得力ある……」
「……褒めてんの?」
低い声。ほんの少しだけ笑いが混じる。
俺はその笑いの気配が嬉しくて、でも嬉しいと思った瞬間に怖くなって、胸の奥を押さえたくなる。
勉強しに来たはずなのに。
俺は今、琉人の声に溺れそうになっている。
琉人も、集中できていないのが分かった。説明は冷静なのに、たまに言葉が途切れる。俺がノートを覗き込むたびに、視線が一瞬だけ揺れる。指先が触れそうになるたびに、空気が硬くなる。
俺は気づかないふりをした。
気づいたら、また壊れそうだから。
「……雄大」
琉人がまた俺の名前を呼ぶ。
「ここの問題、解ける?」
「え、無理」
「無理じゃない。今教えた」
その言い方が、少しだけ優しい。優しいのに、逃がさない。
俺は震える手でシャーペンを握った。解く。解かないと。テストは待ってくれない。だけど、琉人の家の空気は、俺の集中を奪っていく。机が近い。肩が近い。声が近い。
俺が問題を解いていると、琉人が顔を近づけた。
「……そこ、違う」
耳元で低い声が落ちる。息がかかりそうな距離。俺はペンを落としそうになった。
「ち、近い……!」
「……近くないと見えない」
淡々と言うくせに、言葉だけがずるい。
俺は顔が熱くて、俯いた。
「……俺、集中できない」
「……俺も」
琉人が、ぽつりと言った。
小さすぎて、聞き間違いかと思うくらい。
でも確かに、そう聞こえた。
俺は顔を上げそうになって、やめた。見たら、きっと何かが終わる。終わるのが怖い。終わらせたくない。矛盾したまま、俺は黙って問題集に向かった。
時間が、ゆっくり流れる。
雨の日の傘の下みたいに、二人の距離だけが、静かに近いまま。
琉人が教えて、俺が書いて、たまに笑って、たまに黙る。沈黙は痛くない。図書室の沈黙とは違う。ここには、言葉にできない温度がある。
それが怖いのに、嬉しい。
俺は気づけば、世界史の年号を覚えながら、琉人の呼吸の間まで覚えそうになっていた。
過ぎし日の轍を、辿っていくように。
夜が近づく。窓の外が暗くなる。部屋の灯りが少しだけ暖かくなる。俺の心臓は、相変わらず落ち着かないまま、それでもどこか、救われていた。
この時間が、続けばいいのに。
そんなことを、口には出さずに。
俺はノートの最後の行を埋めて、そっとペンを置いた。
黒板はいつも通り文字で埋まり、廊下はいつも通り足音で満ち、青霞学院の空気は、静かに、正しく、賢く、淡々と流れていく。
けれど俺だけが、あの傘の下の温度を抱えたまま、どこか落ち着かない。
琉人が「忘れるわけない」と言った声が、雨粒みたいに、ふいに胸に落ちては溶け、また形を変えて残っていく。
期待するな、と何度言い聞かせても、気づけば心は、過ぎし日の方へ勝手に歩いていく。
小学生の頃の、雨に濡れた靴下の冷たさ。傘の端から落ちた雫の光。
琉人の横顔。
その轍を、今の俺は、同じように辿っているのかもしれない。
ところで……期末テストが近い。
それだけで、進学校の空気は一段階、張り詰める。昼休みの雑談は短くなり、放課後の廊下は「自習室」と「図書室」へ吸い込まれる生徒で流れができる。先生の声にも余白がなくなって、プリントの束だけが増えていく。そんな中で、俺は、終わっていた。
「……やばい。世界史、終わった」
昼休み、俺は机に突っ伏した。頬が机の木目に押されて、変な形に潰れているのが分かる。それでも起き上がる元気がない。背中に感じる視線の温度だけが、やけに敏感に伝わってくる。
「崎枝」
真木の声が、相変わらず余計な温度を持たないまま降ってくる。
「終わってるのは顔だけじゃないだろー?」
「……うるさい。今、人生の分岐点」
「分岐してる暇あるならノート開いたら?」
「世界史のノート開いたら死ぬ。ボニファティウス? 誰だよそれ」
そう言った瞬間、前の席から椅子が回転して、湊が振り向いてきた。こいつはほんと、空気の流れに逆らって泳げる才能がある。目が合っただけで、こっちのHPを削りにくるタイプだ。
「雄大、世界史詰んでんの?」
「詰んでる」
「篠山に聞けよ。あいつ、やばいだろ」
その名前が出ただけで、俺の心臓がひゅっと縮む。
琉人。隣
の席。
雨の日の相合い傘。
低い声。
距離。
忘れるわけない。思い出さないようにしているものほど、こういうときに呼び起こされる。
「無理。話しかけないって言ったし……」
「え、まだそれ続けてんの?」真木が目を丸くしてから、面白そうに笑った。
「雄大、素直じゃなさすぎて可愛いな」と湊。
「可愛くねぇし」
否定したのに、湊はむしろ肯定みたいな顔をする。真木は机の端を軽く叩いて、会話を切り上げるみたいに言った。
「篠山に聞け。別に告白するわけじゃないしー?」
「告白とか言うな……」
その単語だけで、頭が変に熱くなる。俺はむすっとしたまま、隣の席へ視線を向け――そうになって、慌てて前を向き直した。見たら負けだ。期待するな。期待したら、また折れる。
でも、そのときだった。
隣の席から、ペン先の音が止まった。
ほんの一瞬。
空気が揺れて。
「……崎枝」
琉人の声が、机の上を滑るように落ちてきた。低くて、静かで、余計な飾りのない声。なのに、耳の奥に残る。俺は反射で肩を震わせた。
「……何」
昨日までの俺だったら、ここで素っ気なく返して終わっていたかもしれない。でも、期末テストという名の恐怖が、俺の意地を少しだけ溶かした。琉人はノートを閉じたまま、淡々と言う。
「世界史、詰んでるの?」
「……聞いてたの?」
「聞こえる」
そりゃ聞こえるか。俺、今、教室で「人生の分岐点」とか言ってたし。恥ずかしい。琉人は続けて、ほんの少しだけ声を落とした。
「……教えてあげる……」
「え」
驚きすぎて、声が間抜けになった。湊が前の席でニヤニヤしている気配がする。真木は、何も言わないが「ほらな」みたいな沈黙をしている。
俺は喉を鳴らして、言葉を探した。
「……でも、琉人、忙しいだろ」
「別に」
別に。便利な言葉。なのに今日は、その別にが、冷たさではなく、何か別の柔らかさを含んでいる気がして、俺は余計に落ち着かなくなる。
「放課後、少しだけ」
「……放課後」
放課後、は危険だ。
女子に囲まれる琉人。
来るな。
折れた心。
もう話しかけない。
全部が胸の中で絡まって、ひとつの塊になる。
俺はそれを崩すのが怖い。
それでも、世界史の赤点はもっと怖い。
俺は小さく頷いた。
「……分かった。少しだけ」
真木と湊は、二人でアイコンタクトを取っていた。
腹立つ……けど……
琉人は頷くでもなく、目を伏せたままペンを持ち直した。ただ、隣の空気だけが、ほんの少し変わった気がした。
放課後。
俺は教室で、教科書とノートを鞄に詰めながら、落ち着かない気持ちを誤魔化していた。真木は先に帰り支度を終えて、「先行くわー」と短く言って教室を出ていく。湊は肩に鞄を引っ掛けながら、振り返って口元だけで笑った。
「雄大、頑張れ。距離近いと死ぬからな」
「うるさいっ」
「ハハハ」
「黙れ……」
俺が小声で言い返すと、湊は満足そうに手を振って去っていった。ほんと余計なことしか言わない。残った教室には、窓際の自習組が数人。プリントを閉じる音、シャーペンの音。そこに、琉人が立ち上がる椅子の音が重なる。
「行こ」
琉人がそう言った。俺は思わず背筋を伸ばしてしまう。教える、という言葉だけで、こんなに体が言うことを聞かなくなるのはずるい。
「う、うん」
俺は鞄を抱えて立ち上がる。教室を出て廊下を歩く。夕方の光が窓から差して、床に薄い金色の筋を作っている。冬の気配はまだ残っていて、空気が少し冷たい。なのに、隣を歩く琉人の存在だけが、変に熱い。距離が近い。歩幅が違う。俺は少し早足になったり遅くなったりして、結局、隣にいるのに一定の距離を保てない。
「……どこでやるの」
俺が聞くと、琉人は前を見たまま答えた。
「図書室は混む。自習室も」
「じゃあ……どこ」
「俺の家」
あまりにも自然に言われて、俺は足を止めそうになった。
「は……?」
声が裏返りかけて、慌てて口を押さえた。廊下にいる人たちがこちらを見る。琉人は平然としている。
「家、近いだろ」
「近いけど……そういう問題じゃなくない?」
「何が」
何が、って。全部だよ。家。男子の家。二人きり。いや、勉強だ。勉強だから大丈夫。そう言い聞かせても心臓がうるさい。
琉人が立ち止まって、俺を見下ろした。その目は冷たいはずなのに、今日だけ少しだけ柔らかく見える。気のせいだ。気のせいでいい。そうしないと危ない。
「……嫌ならやめるけど……」
その言葉が、意外だった。琉人から「やめる」という選択肢が出ること自体が、俺の中のどこかを震わせる。俺は慌てて首を振った。
「嫌じゃない!……じゃなくて、嫌じゃないけど、びっくりしただけ」
言い訳が下手すぎて、俺は自分で情けなくなる。琉人はほんの少しだけ目を細めた。
「……じゃあ、来い」
その声が、昨日までとは違う響きで落ちた。命令じゃないのに、俺の足は勝手に動く。
琉人の家は、俺の家から歩いて五分もかからない住宅街にあった。整った道、静かな家並み。雨の日に一緒に歩いた道の一部と重なって、俺は胸が勝手に過ぎし日へ引っ張られる。あの傘の下の温度は、まだ消えていない。
玄関の前で、琉人が鍵を開ける。カチャ、と乾いた音がして、扉が開く。中から暖房の匂いがふわりと漏れた。
「……上がれ」
琉人の声が低い。家の中というだけで、その低さがやけに近く感じるのは、たぶん俺の心が勝手に過敏になっているせいだ。
「お邪魔します」
俺は靴を揃えて、恐る恐る足を踏み入れた。廊下は綺麗で、余計な物が少ない。
生活感が少ないのに、冷たくはない。海外帰りの家って、もっと無機質なイメージがあったけど、ここはちゃんと“家”の匂いがする。過剰に整えられた香りじゃなくて、洗剤と木と、ほんの少しの温度。
しかし、あの頃の家とは全く違っていた。
琉人は俺の鞄を見て、「そっち」と短く言いながらリビングへ案内した。テーブルは大きくなくて、二人分には十分すぎる広さ。椅子を引く音が静かに響いた。
「座れ」
琉人が言う。俺は従う。従ってしまう自分が悔しいのに、琉人には従いたくなる。
琉人が冷蔵庫を開けて、コップを二つ出す。水の音。氷の音。そういう生活の音が、彼の“遠さ”を少しだけ近づける気がして、俺は落ち着かないまま嬉しくなる。
「……飲む?」
「うん、ありがとう」
琉人がコップを俺の前に置いた。指先が近い。触れないのに、触れそうで、心臓が変に跳ねる。俺は慌ててコップを掴んだ。
冷たい水が喉を通る。少しだけ落ち着く。少しだけ。
「で、どこが分かんないの?」
琉人が椅子に腰を下ろして、俺の教科書を指で軽く叩いた。視線が近い。声が低い。机の距離が近い。近すぎる。
「えっと……ここ、年代がごちゃごちゃになって……」
俺がページを開くと、琉人は締めていたネクタイを緩めて、身を乗り出した。
肩が近い。髪の匂いがする距離。
俺の脳が、勉強を拒否して、もっと思春期男子の欲を満たせと命令する。
琉人は淡々と説明を始めた。年代、出来事、因果。言葉が整っていて、無駄がない。進学校の中でも上澄みの頭の良さは、こういうときに容赦なく発揮される。
「ここは、流れで覚えろ。点じゃなくて線」
「線……」
「そう。まずこの年の前に何が起きた」
琉人の指が、教科書の行をなぞる。指先が綺麗で、無駄な動きがない。俺はその指先を見てしまって、内容が入らない。琉人が俺の顔を覗き込むようにして言った。
「……聞いてる?」
「聞いてる……」
「……顔、赤い」
その一言で、俺の脳が完全に白くなる。
「え!? 赤くない! 暖房だよ!」
「……暖房、そんな強くないけど」
琉人の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。いつもの冷たさじゃない。家の中だからか、距離が近いからか、それとも――別の理由か。
俺は誤魔化すために、必死に教科書へ視線を落とした。
「えっと、ここが……えっと……」
琉人が小さく息を吐く。呆れたように、でも笑っている気配がある。
「雄大」
名前を呼ばれた。
苗字じゃない。
雄大。
俺の指先が痺れる。
耳が遠くなった気がする。
久しぶりに、好きな人から名前を呼ばれた。
「……ここは、こう。覚え方がある」
琉人の声が、いつもより甘い。甘いって言うとおかしいけど、角がない。まるで過ぎし日の、まだ何も壊れていなかった頃みたいに、自然に落ちてくる。
俺は息を止めたまま、頷いた。
「う、うん……」
琉人は俺のノートを引き寄せ、ペンを取った。紙に文字を書く音。彼の字は整っていて、線が美しい。俺の字と並ぶと、違いすぎて泣きたくなる。
「これ、語呂。……ほら、こういうふうに」
琉人が書いた語呂を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「なにそれ、ダサい」
「覚えられればいいじゃん」
「琉人が言うと説得力ある……」
「……褒めてんの?」
低い声。ほんの少しだけ笑いが混じる。
俺はその笑いの気配が嬉しくて、でも嬉しいと思った瞬間に怖くなって、胸の奥を押さえたくなる。
勉強しに来たはずなのに。
俺は今、琉人の声に溺れそうになっている。
琉人も、集中できていないのが分かった。説明は冷静なのに、たまに言葉が途切れる。俺がノートを覗き込むたびに、視線が一瞬だけ揺れる。指先が触れそうになるたびに、空気が硬くなる。
俺は気づかないふりをした。
気づいたら、また壊れそうだから。
「……雄大」
琉人がまた俺の名前を呼ぶ。
「ここの問題、解ける?」
「え、無理」
「無理じゃない。今教えた」
その言い方が、少しだけ優しい。優しいのに、逃がさない。
俺は震える手でシャーペンを握った。解く。解かないと。テストは待ってくれない。だけど、琉人の家の空気は、俺の集中を奪っていく。机が近い。肩が近い。声が近い。
俺が問題を解いていると、琉人が顔を近づけた。
「……そこ、違う」
耳元で低い声が落ちる。息がかかりそうな距離。俺はペンを落としそうになった。
「ち、近い……!」
「……近くないと見えない」
淡々と言うくせに、言葉だけがずるい。
俺は顔が熱くて、俯いた。
「……俺、集中できない」
「……俺も」
琉人が、ぽつりと言った。
小さすぎて、聞き間違いかと思うくらい。
でも確かに、そう聞こえた。
俺は顔を上げそうになって、やめた。見たら、きっと何かが終わる。終わるのが怖い。終わらせたくない。矛盾したまま、俺は黙って問題集に向かった。
時間が、ゆっくり流れる。
雨の日の傘の下みたいに、二人の距離だけが、静かに近いまま。
琉人が教えて、俺が書いて、たまに笑って、たまに黙る。沈黙は痛くない。図書室の沈黙とは違う。ここには、言葉にできない温度がある。
それが怖いのに、嬉しい。
俺は気づけば、世界史の年号を覚えながら、琉人の呼吸の間まで覚えそうになっていた。
過ぎし日の轍を、辿っていくように。
夜が近づく。窓の外が暗くなる。部屋の灯りが少しだけ暖かくなる。俺の心臓は、相変わらず落ち着かないまま、それでもどこか、救われていた。
この時間が、続けばいいのに。
そんなことを、口には出さずに。
俺はノートの最後の行を埋めて、そっとペンを置いた。
