放課後の空って、いつもはもっと軽いはずなのに。
今日は、やけに重かった。
窓の向こうが白く霞んでいて、校舎の端が溶けるみたいに見える。
遠くの街の輪郭が滲んで、空そのものが低く垂れ下がっている。
そして、雨音。
静かな進学校の廊下に、その音だけがずっと降っている。
ガラスを叩く細かい音が、一定のリズムで続くせいで、胸の奥のざわつきが余計に大きく聞こえた。
「……やば。ガチで降ってる」
俺は昇降口の手前で足を止めて、靴箱の前に立ったまま、外を見つめた。
傘。
持ってない。
朝は晴れてた。
天気予報なんて見てない。
だって俺は、そういうところ雑だから。
……今の俺には、その雑さが致命傷だった。
昇降口には、人がまばらに残っている。
部活の練習が終わったやつ、委員会帰りのやつ、放課後自習が終わったやつ。
みんな、当たり前みたいに傘を持っている。
透明のビニール傘。
折り畳み。
ちょっと高そうな黒い傘。
傘を開く音。
濡れた床を踏む音。
誰かの「またね」の声。
その中に俺だけが、取り残されてる。
俺は靴箱の前で、鞄を抱え直して、少しだけ呼吸を整えた。
帰れない。
それが、こんなに惨めだなんて思わなかった。
……いや。
本当は分かってる。
帰れないから苦しいんじゃない。
“帰れない時間が増える”から苦しい。
余計な時間ができると、俺は考えてしまう。
琉人のことを。
隣の席のやつ。
目が合いそうで合わない瞬間。
話しかけないって決めたのに、喉の奥が勝手に名前を呼びたがる感覚。
あれこれ全部が、雨みたいに胸の中に溜まっていく。
俺は小さく息を吐いて、靴箱を開けた。
上履きをしまって、ローファーに足を通す。
でも、立ち上がれない。
外は、容赦なく降っている。
「……どうしよ」
誰にも聞こえないように呟いた。
校門まで走る? いや無理だ。絶対びしょ濡れになる。
コンビニまで走って傘買う? その距離も地味に遠い。
しかも俺、財布の中身はスカスカだった気がする。
……ほんとに終わってる。
俺はその場で固まって、天井を見上げた。
進学校の昇降口の天井は高くて、白い蛍光灯が整然と並んでいる。
その光がやけに冷たくて、胸の中まで冷える気がした。
そのとき。
後ろから、靴音がした。
コツ、コツ。
近づいてくる音は静かで、一定で、妙に落ち着いていた。
俺は反射で振り向かないようにした。
今の俺は、誰にも顔を見られたくなかったから。
……でも。
その足音の“間”が。
なぜか、知っているものに聞こえた。
背中が勝手に緊張する。
心臓が、少しだけ速くなる。
靴音が、止まる。
俺のすぐ後ろ。
そして、空気が変わった。
冷たいみたいで、でも息が詰まるほど近い――
そういう、あの感じ。
俺はゆっくり振り返ってしまった。
そこにいたのは、やはり琉人だった。
黒髪。センターパート。
制服の襟元まできっちりしているのに、妙に色気がある。
背が高い。近い。視線が冷たい。
俺の呼吸が、一瞬止まる。
……なんで、ここに。
琉人は何も言わないまま、俺を見下ろしていた。
その顔は相変わらず無表情で、感情の輪郭が見えない。
でも、その無表情が、今日はいつもより“硬い”気がした。
俺は動揺を隠すために、先に言葉を出してしまう。
「……何」
自分でもびっくりするくらい素っ気ない声になった。
俺、もう話しかけないって言ったのに。
俺が話しかけてどうする。
でも琉人は、そんな俺の声を気にした様子もなく、ゆっくりと手を動かした。
手には――傘。
黒い傘だった。
たぶん折り畳みじゃなくて、普通の一本。
持ち手が少し細くて、無駄にかっこいい。
琉人は、それを俺の目の前に差し出した。
言葉なし。
ただ、差し出す。
俺は理解が遅れて、数秒固まった。
「……え」
俺の口から、情けない声が漏れる。
琉人は短く言った。
「……帰る」
それだけ。
帰るから、これを使え。
そういう意味にしか聞こえない。
俺は慌てて首を振った。
「いや、俺、傘ないけど……それ琉人のだろ」
「……いい」
「よくない」
即答。
だって、よくない。
琉人が濡れる。
俺は濡れてもいい。
いや、よくないけど。
でも琉人が濡れるのは、もっとよくない。
何その基準って自分でも思うけど、心がそう判断してしまった。
琉人は少しだけ眉を寄せた。
「……お前、帰れないだろ」
淡々とした指摘。
正しい。正しすぎて痛い。
「帰れないけど……コンビニで買えるし」
「傘、高いし……」
「……」
終わった。
俺は息を止めた。
琉人は、俺の沈黙を見て、ほんの少しだけ視線を落とした。
そして、また傘を差し出した。
俺は受け取れない。
受け取ったら、“特別”を受け取ってしまう気がした。
俺はもう期待しないって決めたのに。
でも、拒否できない。
傘を差し出されて拒否したら、それはそれで心が痛い。
雨みたいに、選択肢が全部冷たい。
俺が固まっていると、琉人が小さく息を吐いた。
「……相合い傘」
その単語が、静かな昇降口に落ちた。
相合い傘。
俺の脳が一瞬、停止する。
……え?
相合い傘って、あの相合い傘?
恋人がするやつ?
漫画の中でやるやつ?
帰り道に距離が近くて、肩が触れて、心臓が死ぬやつ?
俺は顔が熱くなって、言葉が追いつかなかった。
「……は?」
琉人は淡々と続ける。
「俺も帰る。方向、一緒だろ」
「……一緒だけど……」
一緒だけど。
だからって相合い傘って。
俺、昨日「もう話しかけない」って言ったのに。
なのに琉人は、何でもないみたいに、俺を連れて帰ろうとしている。
……意味が分からない。
分からないのに、胸だけが勝手に苦しくなる。
俺は小さく頷くしかなかった。
「……分かった」
その瞬間。
琉人が傘を開いた。
バサッ、と布が広がる音。
黒い傘の内側に、白い蛍光灯の光が吸い込まれる。
琉人が傘を俺の頭の上に寄せる。
「行くぞ」
「う、うん」
俺は鞄を抱えたまま、一歩踏み出した。
昇降口を出ると、雨の匂いが濃くなった。
濡れたアスファルト。
校庭の土の匂い。
遠くの木の葉の湿った匂い。
傘に当たる雨音が、妙に大きくて、耳の近くで跳ねる。
そして、傘の下が、狭い。
狭いというか、琉人が大きい。
背が高い。肩幅もある。
傘を持つ腕が長くて、当然みたいに俺の上に影を作る。
俺は自然と、琉人の内側に寄るしかなくなる。
……近い。
やばい。
肩が触れそう。
というか、触れてる気がする。
制服越しに、熱が伝わる気がする。
俺の心臓が、雨音よりうるさく鳴った。
ドキドキが耳まで上って、顔が熱い。
俺は必死に平静を装った。
平静って何だろう。
今の状況で平静なやつがいるか。
でも俺は、平静なふりをしないと死ぬ。
「……傘、ありがと」
俺が小声で言うと、琉人は前を見たまま短く返した。
「……別に」
またそれ。
“別に”って、本当に便利すぎる。
その言葉で終わらせるつもりなのに、終わらない。
俺の胸の中は、終わらない。
雨の中を、校門へ向かう道。
濡れた植え込みの葉が光って、街灯がぼんやりと滲んでいる。
冬の雨は冷たいはずなのに、傘の下だけが変に熱い。
俺は息を吸って、吐く。
吐くと、少しだけ落ち着く――気がする。
……無理だ。
落ち着けるわけない。
だって隣に琉人がいる。
ずっと好きだった彼が。
昨日まで“来んな”って言った人と、今、相合い傘してる。
矛盾がすぎる。
俺はその矛盾に心が追いつかなくて、変なことを言ってしまった。
「……琉人ってさ」
「何」
「ほんと急に、こういうことするよね」
言ってから、しまったと思った。
責めてるみたいじゃないか。
俺は責めたいわけじゃない。
ただ、分からないだけだ。
琉人は一瞬だけ黙った。
雨音が間を埋める。
俺の心臓が暴れる。
そして、琉人がぽつりと言った。
「……濡れるの嫌いだろ」
その言葉が。
あまりにも自然に、当たり前みたいに落ちた。
俺は、足が止まりそうになった。
濡れるの嫌い。
そうだ。
俺は昔から、濡れるのが嫌いだった。
小学生の頃。
雨の日に水たまりに足を突っ込んで、靴下がぐしょぐしょになっただけで泣きそうになってた。
体育の後に髪が濡れたままだと機嫌が悪かった。
プールの授業も、終わった後の冷えた感じが嫌で、いつも誰より早くタオルにくるまってた。
……そんなこと。
覚えてるやつなんて、今この世界に何人いる?
俺の親くらいだ。
なのに……
琉人が、それを言った。
何年ぶりだよ。
中学も離れてたのに。
海外に行ってたのに。
俺は喉が詰まって、震える声で言った。
「……覚えてたの?」
問いかけは、確認というより。
祈りだった。
覚えてた?
俺のこと、まだ。
覚えてた?
琉人は、少しだけ傘の持ち手を握り直した。
その手の動きが、やけに強く見えた。
「……忘れるわけない」
小さく、低い声。
雨音に紛れそうなのに、俺の胸の奥にはっきり届いた。
忘れるわけない?
その言葉だけで、心臓が痛いくらい跳ねた。
俺は笑ってしまいそうになって、でも笑えなかった。
だって、嬉しいのに、怖いから。
嬉しいと感じた瞬間、また期待してしまう自分が怖い。
また折れる未来が怖い。
俺は傘の下で、少しだけ視線を落とした。
琉人の制服の袖が近い。
腕が近い。
指先が近い。
良い匂いがする。
好きな匂いだ。
触れないように歩いているのに、距離は縮む。
俺は思わず、傘の端を指で掴んでしまった。
風で雨が入らないように、って理由を作って。
でも本当は、この距離が怖いから、何かに掴まりたかっただけだ。
琉人がその指先を見たのか、見てないのか分からない。
でも、傘の角度がほんの少しだけ俺側に傾いた。
雨が、俺に当たらないように。
それが優しすぎて、胸が苦しくなる。
「……琉人」
呼ぶだけで、喉が熱い。
琉人は短く返す。
「何……?」
今までの冷たい声とは違った。
なのに、内容は優しい。
俺は言いたいことが多すぎて、どれから言えばいいか分からなかった。
“来るな”って言ったこと。
図書室で“無理”って言ったこと。
俺が「もう話しかけない」って言ったこと。
全部、雨みたいに胸に溜まっている。
でも、今それを言ったら、傘の下の温度が壊れる気がした。
だから俺は、いちばん小さなことだけ言った。
「……ありがと。ほんとに」
琉人の返事は、短い。
「……別に」
でも今日は、その“別に”が少しだけ違って聞こえた。
突き放しじゃない。
照れ隠しみたいな、逃げ道みたいな。
俺はそんなふうに思ってしまって、また自分が怖くなる。
期待するな。
期待するな。
何度も言い聞かせるのに、胸の奥が勝手に甘くなる。
家にもうすぐというころには、雨が少し強くなっていた。
傘に当たる音が増える。
地面に落ちた雫が跳ねる。
俺たちは自然と、もっと近づいた。
肩が――触れた。
制服越しに、ほんの一瞬。
電気みたいに熱が走って、俺は思わず息を止める。
琉人は何も言わない。
でも、傘の持ち手を握る手に、わずかに力が入ったのが見えた。
……見えた気がした。
俺は自分の心臓を押さえたくて、鞄を抱き直した。
近い。
近い。
この距離は危険だ。
危険なのに、離れたくない。
俺は自分の矛盾に、泣きたくなる。
家が近づいてくる。
この傘の下の時間が終わる。
それが、怖い。
やっと心が少しだけ温かくなったのに、また冷えるのが怖い。
俺は足を遅くしたくなって、でもそんなことできないから、代わりに小さく言った。
「……琉人、家、ここ曲がるんだっけ」
「……そう」
短い会話。
でも、会話が続くこと自体が奇跡みたいだ。
俺は雨の匂いを吸って、言う。
「なんか、懐かしいな」
「……何が」
「雨の日。こうやって帰るの」
小学生の頃、俺たちは雨に降られて、同じ傘に入ったことがある。
そのときは、もっと小さな傘で、二人とも濡れて、帰ってから怒られた。
俺はその記憶を思い出して、少しだけ笑った。
琉人は、少しだけ黙ってから言う。
「……あのとき、お前泣きそうだったな」
「泣いてないし」
「泣きそうだったって」
「……あー……泣きそうだったかも」
負けた。
でも、その会話が、昔みたいで。
胸がぎゅっとなるくらい嬉しかった。
嬉しいのに、怖い。
俺はこの感情の名前を、まだ知らないふりをした。
住宅街の角を曲がると、俺の家まであと少しだ。
この時間が終わる。
俺は口を開きかけて、閉じた。
何を言えばいい?
「また明日」?
「ありがとう」?
「……ごめん」?
“もう話しかけない”って言った俺が、今さら何を言う?
俺は傘の下で、黙った。
琉人も黙って歩く。
雨音だけが続く。
でも沈黙が、図書室みたいに痛くなかった。
ただ、心臓が忙しいだけだった。
家の前に着いた。
俺は立ち止まって、傘から少しだけ外へ出る。
冷たい雨が、頬に当たった。
琉人が、傘を俺の方へ寄せる。
「……入れ」
「もうすぐだから平気」
「……濡れる」
淡々とした声。
でもその言葉は、さっきと同じ温度だった。
俺は胸が苦しくなって、傘の下に戻った。
「……ありがと」
言いながら、目が熱い。
泣きそうになるのを誤魔化すために、俺は無理に明るく言った。
「でもさ、ほんと覚えてたんだね。濡れるの嫌いって」
「……忘れるわけないじゃん……」
もう一度。
同じ言葉。
雨音の中で、俺の胸にだけ刺さる言葉。
俺は唇を噛んで、笑った。
「……そっか」
それだけしか言えなかった。
言えなかったけど。
胸の奥に溜まっていた雨が、少しだけ溶けた気がした。
琉人は傘を持ったまま、数秒だけ俺を見た。
冷たい目。
でも、今日は不思議と怖くない。
俺は小さく言った。
「……じゃあ、また明日」
その言葉は、約束じゃない。
ただの挨拶。
でも俺にとっては、勇気だった。
琉人は一瞬黙ってから、短く答えた。
「……ああ」
それだけ。
それだけなのに、胸が甘くなる。
俺は玄関へ走り込む前に、小さく振り返った。
琉人はまだそこにいた。
黒い傘を差したまま、雨の中で立っている。
そして、ほんの少しだけ、傘が揺れた。
手を振ったわけじゃない。
でも、何かの合図みたいに見えた。
俺は目を伏せて、家の中へ入った。
扉を閉める。
雨音が遠のく。
でも、胸の中にはまだ、傘の下の熱と彼の香りが残っていた。
今日は、やけに重かった。
窓の向こうが白く霞んでいて、校舎の端が溶けるみたいに見える。
遠くの街の輪郭が滲んで、空そのものが低く垂れ下がっている。
そして、雨音。
静かな進学校の廊下に、その音だけがずっと降っている。
ガラスを叩く細かい音が、一定のリズムで続くせいで、胸の奥のざわつきが余計に大きく聞こえた。
「……やば。ガチで降ってる」
俺は昇降口の手前で足を止めて、靴箱の前に立ったまま、外を見つめた。
傘。
持ってない。
朝は晴れてた。
天気予報なんて見てない。
だって俺は、そういうところ雑だから。
……今の俺には、その雑さが致命傷だった。
昇降口には、人がまばらに残っている。
部活の練習が終わったやつ、委員会帰りのやつ、放課後自習が終わったやつ。
みんな、当たり前みたいに傘を持っている。
透明のビニール傘。
折り畳み。
ちょっと高そうな黒い傘。
傘を開く音。
濡れた床を踏む音。
誰かの「またね」の声。
その中に俺だけが、取り残されてる。
俺は靴箱の前で、鞄を抱え直して、少しだけ呼吸を整えた。
帰れない。
それが、こんなに惨めだなんて思わなかった。
……いや。
本当は分かってる。
帰れないから苦しいんじゃない。
“帰れない時間が増える”から苦しい。
余計な時間ができると、俺は考えてしまう。
琉人のことを。
隣の席のやつ。
目が合いそうで合わない瞬間。
話しかけないって決めたのに、喉の奥が勝手に名前を呼びたがる感覚。
あれこれ全部が、雨みたいに胸の中に溜まっていく。
俺は小さく息を吐いて、靴箱を開けた。
上履きをしまって、ローファーに足を通す。
でも、立ち上がれない。
外は、容赦なく降っている。
「……どうしよ」
誰にも聞こえないように呟いた。
校門まで走る? いや無理だ。絶対びしょ濡れになる。
コンビニまで走って傘買う? その距離も地味に遠い。
しかも俺、財布の中身はスカスカだった気がする。
……ほんとに終わってる。
俺はその場で固まって、天井を見上げた。
進学校の昇降口の天井は高くて、白い蛍光灯が整然と並んでいる。
その光がやけに冷たくて、胸の中まで冷える気がした。
そのとき。
後ろから、靴音がした。
コツ、コツ。
近づいてくる音は静かで、一定で、妙に落ち着いていた。
俺は反射で振り向かないようにした。
今の俺は、誰にも顔を見られたくなかったから。
……でも。
その足音の“間”が。
なぜか、知っているものに聞こえた。
背中が勝手に緊張する。
心臓が、少しだけ速くなる。
靴音が、止まる。
俺のすぐ後ろ。
そして、空気が変わった。
冷たいみたいで、でも息が詰まるほど近い――
そういう、あの感じ。
俺はゆっくり振り返ってしまった。
そこにいたのは、やはり琉人だった。
黒髪。センターパート。
制服の襟元まできっちりしているのに、妙に色気がある。
背が高い。近い。視線が冷たい。
俺の呼吸が、一瞬止まる。
……なんで、ここに。
琉人は何も言わないまま、俺を見下ろしていた。
その顔は相変わらず無表情で、感情の輪郭が見えない。
でも、その無表情が、今日はいつもより“硬い”気がした。
俺は動揺を隠すために、先に言葉を出してしまう。
「……何」
自分でもびっくりするくらい素っ気ない声になった。
俺、もう話しかけないって言ったのに。
俺が話しかけてどうする。
でも琉人は、そんな俺の声を気にした様子もなく、ゆっくりと手を動かした。
手には――傘。
黒い傘だった。
たぶん折り畳みじゃなくて、普通の一本。
持ち手が少し細くて、無駄にかっこいい。
琉人は、それを俺の目の前に差し出した。
言葉なし。
ただ、差し出す。
俺は理解が遅れて、数秒固まった。
「……え」
俺の口から、情けない声が漏れる。
琉人は短く言った。
「……帰る」
それだけ。
帰るから、これを使え。
そういう意味にしか聞こえない。
俺は慌てて首を振った。
「いや、俺、傘ないけど……それ琉人のだろ」
「……いい」
「よくない」
即答。
だって、よくない。
琉人が濡れる。
俺は濡れてもいい。
いや、よくないけど。
でも琉人が濡れるのは、もっとよくない。
何その基準って自分でも思うけど、心がそう判断してしまった。
琉人は少しだけ眉を寄せた。
「……お前、帰れないだろ」
淡々とした指摘。
正しい。正しすぎて痛い。
「帰れないけど……コンビニで買えるし」
「傘、高いし……」
「……」
終わった。
俺は息を止めた。
琉人は、俺の沈黙を見て、ほんの少しだけ視線を落とした。
そして、また傘を差し出した。
俺は受け取れない。
受け取ったら、“特別”を受け取ってしまう気がした。
俺はもう期待しないって決めたのに。
でも、拒否できない。
傘を差し出されて拒否したら、それはそれで心が痛い。
雨みたいに、選択肢が全部冷たい。
俺が固まっていると、琉人が小さく息を吐いた。
「……相合い傘」
その単語が、静かな昇降口に落ちた。
相合い傘。
俺の脳が一瞬、停止する。
……え?
相合い傘って、あの相合い傘?
恋人がするやつ?
漫画の中でやるやつ?
帰り道に距離が近くて、肩が触れて、心臓が死ぬやつ?
俺は顔が熱くなって、言葉が追いつかなかった。
「……は?」
琉人は淡々と続ける。
「俺も帰る。方向、一緒だろ」
「……一緒だけど……」
一緒だけど。
だからって相合い傘って。
俺、昨日「もう話しかけない」って言ったのに。
なのに琉人は、何でもないみたいに、俺を連れて帰ろうとしている。
……意味が分からない。
分からないのに、胸だけが勝手に苦しくなる。
俺は小さく頷くしかなかった。
「……分かった」
その瞬間。
琉人が傘を開いた。
バサッ、と布が広がる音。
黒い傘の内側に、白い蛍光灯の光が吸い込まれる。
琉人が傘を俺の頭の上に寄せる。
「行くぞ」
「う、うん」
俺は鞄を抱えたまま、一歩踏み出した。
昇降口を出ると、雨の匂いが濃くなった。
濡れたアスファルト。
校庭の土の匂い。
遠くの木の葉の湿った匂い。
傘に当たる雨音が、妙に大きくて、耳の近くで跳ねる。
そして、傘の下が、狭い。
狭いというか、琉人が大きい。
背が高い。肩幅もある。
傘を持つ腕が長くて、当然みたいに俺の上に影を作る。
俺は自然と、琉人の内側に寄るしかなくなる。
……近い。
やばい。
肩が触れそう。
というか、触れてる気がする。
制服越しに、熱が伝わる気がする。
俺の心臓が、雨音よりうるさく鳴った。
ドキドキが耳まで上って、顔が熱い。
俺は必死に平静を装った。
平静って何だろう。
今の状況で平静なやつがいるか。
でも俺は、平静なふりをしないと死ぬ。
「……傘、ありがと」
俺が小声で言うと、琉人は前を見たまま短く返した。
「……別に」
またそれ。
“別に”って、本当に便利すぎる。
その言葉で終わらせるつもりなのに、終わらない。
俺の胸の中は、終わらない。
雨の中を、校門へ向かう道。
濡れた植え込みの葉が光って、街灯がぼんやりと滲んでいる。
冬の雨は冷たいはずなのに、傘の下だけが変に熱い。
俺は息を吸って、吐く。
吐くと、少しだけ落ち着く――気がする。
……無理だ。
落ち着けるわけない。
だって隣に琉人がいる。
ずっと好きだった彼が。
昨日まで“来んな”って言った人と、今、相合い傘してる。
矛盾がすぎる。
俺はその矛盾に心が追いつかなくて、変なことを言ってしまった。
「……琉人ってさ」
「何」
「ほんと急に、こういうことするよね」
言ってから、しまったと思った。
責めてるみたいじゃないか。
俺は責めたいわけじゃない。
ただ、分からないだけだ。
琉人は一瞬だけ黙った。
雨音が間を埋める。
俺の心臓が暴れる。
そして、琉人がぽつりと言った。
「……濡れるの嫌いだろ」
その言葉が。
あまりにも自然に、当たり前みたいに落ちた。
俺は、足が止まりそうになった。
濡れるの嫌い。
そうだ。
俺は昔から、濡れるのが嫌いだった。
小学生の頃。
雨の日に水たまりに足を突っ込んで、靴下がぐしょぐしょになっただけで泣きそうになってた。
体育の後に髪が濡れたままだと機嫌が悪かった。
プールの授業も、終わった後の冷えた感じが嫌で、いつも誰より早くタオルにくるまってた。
……そんなこと。
覚えてるやつなんて、今この世界に何人いる?
俺の親くらいだ。
なのに……
琉人が、それを言った。
何年ぶりだよ。
中学も離れてたのに。
海外に行ってたのに。
俺は喉が詰まって、震える声で言った。
「……覚えてたの?」
問いかけは、確認というより。
祈りだった。
覚えてた?
俺のこと、まだ。
覚えてた?
琉人は、少しだけ傘の持ち手を握り直した。
その手の動きが、やけに強く見えた。
「……忘れるわけない」
小さく、低い声。
雨音に紛れそうなのに、俺の胸の奥にはっきり届いた。
忘れるわけない?
その言葉だけで、心臓が痛いくらい跳ねた。
俺は笑ってしまいそうになって、でも笑えなかった。
だって、嬉しいのに、怖いから。
嬉しいと感じた瞬間、また期待してしまう自分が怖い。
また折れる未来が怖い。
俺は傘の下で、少しだけ視線を落とした。
琉人の制服の袖が近い。
腕が近い。
指先が近い。
良い匂いがする。
好きな匂いだ。
触れないように歩いているのに、距離は縮む。
俺は思わず、傘の端を指で掴んでしまった。
風で雨が入らないように、って理由を作って。
でも本当は、この距離が怖いから、何かに掴まりたかっただけだ。
琉人がその指先を見たのか、見てないのか分からない。
でも、傘の角度がほんの少しだけ俺側に傾いた。
雨が、俺に当たらないように。
それが優しすぎて、胸が苦しくなる。
「……琉人」
呼ぶだけで、喉が熱い。
琉人は短く返す。
「何……?」
今までの冷たい声とは違った。
なのに、内容は優しい。
俺は言いたいことが多すぎて、どれから言えばいいか分からなかった。
“来るな”って言ったこと。
図書室で“無理”って言ったこと。
俺が「もう話しかけない」って言ったこと。
全部、雨みたいに胸に溜まっている。
でも、今それを言ったら、傘の下の温度が壊れる気がした。
だから俺は、いちばん小さなことだけ言った。
「……ありがと。ほんとに」
琉人の返事は、短い。
「……別に」
でも今日は、その“別に”が少しだけ違って聞こえた。
突き放しじゃない。
照れ隠しみたいな、逃げ道みたいな。
俺はそんなふうに思ってしまって、また自分が怖くなる。
期待するな。
期待するな。
何度も言い聞かせるのに、胸の奥が勝手に甘くなる。
家にもうすぐというころには、雨が少し強くなっていた。
傘に当たる音が増える。
地面に落ちた雫が跳ねる。
俺たちは自然と、もっと近づいた。
肩が――触れた。
制服越しに、ほんの一瞬。
電気みたいに熱が走って、俺は思わず息を止める。
琉人は何も言わない。
でも、傘の持ち手を握る手に、わずかに力が入ったのが見えた。
……見えた気がした。
俺は自分の心臓を押さえたくて、鞄を抱き直した。
近い。
近い。
この距離は危険だ。
危険なのに、離れたくない。
俺は自分の矛盾に、泣きたくなる。
家が近づいてくる。
この傘の下の時間が終わる。
それが、怖い。
やっと心が少しだけ温かくなったのに、また冷えるのが怖い。
俺は足を遅くしたくなって、でもそんなことできないから、代わりに小さく言った。
「……琉人、家、ここ曲がるんだっけ」
「……そう」
短い会話。
でも、会話が続くこと自体が奇跡みたいだ。
俺は雨の匂いを吸って、言う。
「なんか、懐かしいな」
「……何が」
「雨の日。こうやって帰るの」
小学生の頃、俺たちは雨に降られて、同じ傘に入ったことがある。
そのときは、もっと小さな傘で、二人とも濡れて、帰ってから怒られた。
俺はその記憶を思い出して、少しだけ笑った。
琉人は、少しだけ黙ってから言う。
「……あのとき、お前泣きそうだったな」
「泣いてないし」
「泣きそうだったって」
「……あー……泣きそうだったかも」
負けた。
でも、その会話が、昔みたいで。
胸がぎゅっとなるくらい嬉しかった。
嬉しいのに、怖い。
俺はこの感情の名前を、まだ知らないふりをした。
住宅街の角を曲がると、俺の家まであと少しだ。
この時間が終わる。
俺は口を開きかけて、閉じた。
何を言えばいい?
「また明日」?
「ありがとう」?
「……ごめん」?
“もう話しかけない”って言った俺が、今さら何を言う?
俺は傘の下で、黙った。
琉人も黙って歩く。
雨音だけが続く。
でも沈黙が、図書室みたいに痛くなかった。
ただ、心臓が忙しいだけだった。
家の前に着いた。
俺は立ち止まって、傘から少しだけ外へ出る。
冷たい雨が、頬に当たった。
琉人が、傘を俺の方へ寄せる。
「……入れ」
「もうすぐだから平気」
「……濡れる」
淡々とした声。
でもその言葉は、さっきと同じ温度だった。
俺は胸が苦しくなって、傘の下に戻った。
「……ありがと」
言いながら、目が熱い。
泣きそうになるのを誤魔化すために、俺は無理に明るく言った。
「でもさ、ほんと覚えてたんだね。濡れるの嫌いって」
「……忘れるわけないじゃん……」
もう一度。
同じ言葉。
雨音の中で、俺の胸にだけ刺さる言葉。
俺は唇を噛んで、笑った。
「……そっか」
それだけしか言えなかった。
言えなかったけど。
胸の奥に溜まっていた雨が、少しだけ溶けた気がした。
琉人は傘を持ったまま、数秒だけ俺を見た。
冷たい目。
でも、今日は不思議と怖くない。
俺は小さく言った。
「……じゃあ、また明日」
その言葉は、約束じゃない。
ただの挨拶。
でも俺にとっては、勇気だった。
琉人は一瞬黙ってから、短く答えた。
「……ああ」
それだけ。
それだけなのに、胸が甘くなる。
俺は玄関へ走り込む前に、小さく振り返った。
琉人はまだそこにいた。
黒い傘を差したまま、雨の中で立っている。
そして、ほんの少しだけ、傘が揺れた。
手を振ったわけじゃない。
でも、何かの合図みたいに見えた。
俺は目を伏せて、家の中へ入った。
扉を閉める。
雨音が遠のく。
でも、胸の中にはまだ、傘の下の熱と彼の香りが残っていた。
