幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 放課後の空って、いつもはもっと軽いはずなのに。
 今日は、やけに重かった。

 窓の向こうが白く霞んでいて、校舎の端が溶けるみたいに見える。
 遠くの街の輪郭が滲んで、空そのものが低く垂れ下がっている。

 そして、雨音。

 静かな進学校の廊下に、その音だけがずっと降っている。
 ガラスを叩く細かい音が、一定のリズムで続くせいで、胸の奥のざわつきが余計に大きく聞こえた。

「……やば。ガチで降ってる」

 俺は昇降口の手前で足を止めて、靴箱の前に立ったまま、外を見つめた。
 傘。
 持ってない。
 朝は晴れてた。
 天気予報なんて見てない。
 だって俺は、そういうところ雑だから。

 ……今の俺には、その雑さが致命傷だった。

 昇降口には、人がまばらに残っている。
 部活の練習が終わったやつ、委員会帰りのやつ、放課後自習が終わったやつ。
 みんな、当たり前みたいに傘を持っている。
 透明のビニール傘。
 折り畳み。
 ちょっと高そうな黒い傘。
 傘を開く音。
 濡れた床を踏む音。
 誰かの「またね」の声。

 その中に俺だけが、取り残されてる。

 俺は靴箱の前で、鞄を抱え直して、少しだけ呼吸を整えた。
 帰れない。
 それが、こんなに惨めだなんて思わなかった。

 ……いや。

 本当は分かってる。
 帰れないから苦しいんじゃない。
 “帰れない時間が増える”から苦しい。
 余計な時間ができると、俺は考えてしまう。
 琉人のことを。
 隣の席のやつ。
 目が合いそうで合わない瞬間。
 話しかけないって決めたのに、喉の奥が勝手に名前を呼びたがる感覚。

 あれこれ全部が、雨みたいに胸の中に溜まっていく。
 俺は小さく息を吐いて、靴箱を開けた。
 上履きをしまって、ローファーに足を通す。
 でも、立ち上がれない。
 外は、容赦なく降っている。

「……どうしよ」

 誰にも聞こえないように呟いた。

 校門まで走る? いや無理だ。絶対びしょ濡れになる。
 コンビニまで走って傘買う? その距離も地味に遠い。
 しかも俺、財布の中身はスカスカだった気がする。

 ……ほんとに終わってる。

 俺はその場で固まって、天井を見上げた。
 進学校の昇降口の天井は高くて、白い蛍光灯が整然と並んでいる。
 その光がやけに冷たくて、胸の中まで冷える気がした。

 そのとき。
 後ろから、靴音がした。
 コツ、コツ。

 近づいてくる音は静かで、一定で、妙に落ち着いていた。

 俺は反射で振り向かないようにした。
 今の俺は、誰にも顔を見られたくなかったから。

 ……でも。

 その足音の“間”が。
 なぜか、知っているものに聞こえた。
 背中が勝手に緊張する。
 心臓が、少しだけ速くなる。
 靴音が、止まる。
 俺のすぐ後ろ。
 そして、空気が変わった。

 冷たいみたいで、でも息が詰まるほど近い――
 そういう、あの感じ。

 俺はゆっくり振り返ってしまった。
 そこにいたのは、やはり琉人だった。

 黒髪。センターパート。
 制服の襟元まできっちりしているのに、妙に色気がある。
 背が高い。近い。視線が冷たい。
 俺の呼吸が、一瞬止まる。

 ……なんで、ここに。

 琉人は何も言わないまま、俺を見下ろしていた。
 その顔は相変わらず無表情で、感情の輪郭が見えない。
 でも、その無表情が、今日はいつもより“硬い”気がした。
 俺は動揺を隠すために、先に言葉を出してしまう。

「……何」

 自分でもびっくりするくらい素っ気ない声になった。
 俺、もう話しかけないって言ったのに。
 俺が話しかけてどうする。
 でも琉人は、そんな俺の声を気にした様子もなく、ゆっくりと手を動かした。

 手には――傘。
 黒い傘だった。
 たぶん折り畳みじゃなくて、普通の一本。
 持ち手が少し細くて、無駄にかっこいい。

 琉人は、それを俺の目の前に差し出した。
 言葉なし。
 ただ、差し出す。
 俺は理解が遅れて、数秒固まった。

「……え」

 俺の口から、情けない声が漏れる。
 琉人は短く言った。

「……帰る」

 それだけ。
 帰るから、これを使え。
 そういう意味にしか聞こえない。
 俺は慌てて首を振った。

「いや、俺、傘ないけど……それ琉人のだろ」
「……いい」
「よくない」

 即答。

 だって、よくない。
 琉人が濡れる。
 俺は濡れてもいい。
 いや、よくないけど。
 でも琉人が濡れるのは、もっとよくない。
 何その基準って自分でも思うけど、心がそう判断してしまった。

 琉人は少しだけ眉を寄せた。

「……お前、帰れないだろ」

 淡々とした指摘。
 正しい。正しすぎて痛い。

「帰れないけど……コンビニで買えるし」
「傘、高いし……」
「……」

 終わった。

 俺は息を止めた。

 琉人は、俺の沈黙を見て、ほんの少しだけ視線を落とした。
 そして、また傘を差し出した。
 俺は受け取れない。
 受け取ったら、“特別”を受け取ってしまう気がした。
 俺はもう期待しないって決めたのに。
 でも、拒否できない。
 傘を差し出されて拒否したら、それはそれで心が痛い。
 雨みたいに、選択肢が全部冷たい。
 俺が固まっていると、琉人が小さく息を吐いた。

「……相合い傘」

 その単語が、静かな昇降口に落ちた。
 相合い傘。
 俺の脳が一瞬、停止する。
 ……え?
 相合い傘って、あの相合い傘?
 恋人がするやつ?
 漫画の中でやるやつ?
 帰り道に距離が近くて、肩が触れて、心臓が死ぬやつ?
 俺は顔が熱くなって、言葉が追いつかなかった。

「……は?」

 琉人は淡々と続ける。

「俺も帰る。方向、一緒だろ」
「……一緒だけど……」

 一緒だけど。
 だからって相合い傘って。
 俺、昨日「もう話しかけない」って言ったのに。
 なのに琉人は、何でもないみたいに、俺を連れて帰ろうとしている。
 ……意味が分からない。
 分からないのに、胸だけが勝手に苦しくなる。
 俺は小さく頷くしかなかった。

「……分かった」

 その瞬間。
 琉人が傘を開いた。
 バサッ、と布が広がる音。
 黒い傘の内側に、白い蛍光灯の光が吸い込まれる。
 琉人が傘を俺の頭の上に寄せる。

「行くぞ」
「う、うん」

 俺は鞄を抱えたまま、一歩踏み出した。



 昇降口を出ると、雨の匂いが濃くなった。
 濡れたアスファルト。
 校庭の土の匂い。
 遠くの木の葉の湿った匂い。
 傘に当たる雨音が、妙に大きくて、耳の近くで跳ねる。
 そして、傘の下が、狭い。
 狭いというか、琉人が大きい。
 背が高い。肩幅もある。
 傘を持つ腕が長くて、当然みたいに俺の上に影を作る。
 俺は自然と、琉人の内側に寄るしかなくなる。
 ……近い。
 やばい。
 肩が触れそう。
 というか、触れてる気がする。
 制服越しに、熱が伝わる気がする。
 俺の心臓が、雨音よりうるさく鳴った。
 ドキドキが耳まで上って、顔が熱い。
 俺は必死に平静を装った。
 平静って何だろう。
 今の状況で平静なやつがいるか。
 でも俺は、平静なふりをしないと死ぬ。

「……傘、ありがと」

 俺が小声で言うと、琉人は前を見たまま短く返した。

「……別に」

 またそれ。
 “別に”って、本当に便利すぎる。
 その言葉で終わらせるつもりなのに、終わらない。
 俺の胸の中は、終わらない。
 雨の中を、校門へ向かう道。
 濡れた植え込みの葉が光って、街灯がぼんやりと滲んでいる。
 冬の雨は冷たいはずなのに、傘の下だけが変に熱い。
 俺は息を吸って、吐く。
 吐くと、少しだけ落ち着く――気がする。
 ……無理だ。
 落ち着けるわけない。
 だって隣に琉人がいる。
 ずっと好きだった彼が。
 昨日まで“来んな”って言った人と、今、相合い傘してる。
 矛盾がすぎる。
 俺はその矛盾に心が追いつかなくて、変なことを言ってしまった。

「……琉人ってさ」
「何」
「ほんと急に、こういうことするよね」

 言ってから、しまったと思った。
 責めてるみたいじゃないか。
 俺は責めたいわけじゃない。
 ただ、分からないだけだ。
 琉人は一瞬だけ黙った。
 雨音が間を埋める。
 俺の心臓が暴れる。
 そして、琉人がぽつりと言った。

「……濡れるの嫌いだろ」

 その言葉が。
 あまりにも自然に、当たり前みたいに落ちた。
 俺は、足が止まりそうになった。
 濡れるの嫌い。
 そうだ。
 俺は昔から、濡れるのが嫌いだった。

 小学生の頃。
 雨の日に水たまりに足を突っ込んで、靴下がぐしょぐしょになっただけで泣きそうになってた。
 体育の後に髪が濡れたままだと機嫌が悪かった。
 プールの授業も、終わった後の冷えた感じが嫌で、いつも誰より早くタオルにくるまってた。

 ……そんなこと。

 覚えてるやつなんて、今この世界に何人いる?
 俺の親くらいだ。
 なのに……
 琉人が、それを言った。

 何年ぶりだよ。
 中学も離れてたのに。
 海外に行ってたのに。
 俺は喉が詰まって、震える声で言った。

「……覚えてたの?」

 問いかけは、確認というより。
 祈りだった。
 覚えてた?
 俺のこと、まだ。
 覚えてた?

 琉人は、少しだけ傘の持ち手を握り直した。
 その手の動きが、やけに強く見えた。

「……忘れるわけない」

 小さく、低い声。
 雨音に紛れそうなのに、俺の胸の奥にはっきり届いた。
 忘れるわけない?
 その言葉だけで、心臓が痛いくらい跳ねた。
 俺は笑ってしまいそうになって、でも笑えなかった。
 だって、嬉しいのに、怖いから。

 嬉しいと感じた瞬間、また期待してしまう自分が怖い。
 また折れる未来が怖い。
 俺は傘の下で、少しだけ視線を落とした。
 琉人の制服の袖が近い。
 腕が近い。
 指先が近い。
 良い匂いがする。
 好きな匂いだ。

 触れないように歩いているのに、距離は縮む。
 俺は思わず、傘の端を指で掴んでしまった。
 風で雨が入らないように、って理由を作って。
 でも本当は、この距離が怖いから、何かに掴まりたかっただけだ。

 琉人がその指先を見たのか、見てないのか分からない。 
 でも、傘の角度がほんの少しだけ俺側に傾いた。
 雨が、俺に当たらないように。
 それが優しすぎて、胸が苦しくなる。

「……琉人」

 呼ぶだけで、喉が熱い。
 琉人は短く返す。

「何……?」

 今までの冷たい声とは違った。
 なのに、内容は優しい。

 俺は言いたいことが多すぎて、どれから言えばいいか分からなかった。

 “来るな”って言ったこと。
 図書室で“無理”って言ったこと。
 俺が「もう話しかけない」って言ったこと。

 全部、雨みたいに胸に溜まっている。
 でも、今それを言ったら、傘の下の温度が壊れる気がした。
 だから俺は、いちばん小さなことだけ言った。

「……ありがと。ほんとに」

 琉人の返事は、短い。

「……別に」

 でも今日は、その“別に”が少しだけ違って聞こえた。
 突き放しじゃない。
 照れ隠しみたいな、逃げ道みたいな。
 俺はそんなふうに思ってしまって、また自分が怖くなる。

 期待するな。
 期待するな。

 何度も言い聞かせるのに、胸の奥が勝手に甘くなる。



 家にもうすぐというころには、雨が少し強くなっていた。
 傘に当たる音が増える。
 地面に落ちた雫が跳ねる。
 俺たちは自然と、もっと近づいた。
 肩が――触れた。
 制服越しに、ほんの一瞬。
 電気みたいに熱が走って、俺は思わず息を止める。
 琉人は何も言わない。
 でも、傘の持ち手を握る手に、わずかに力が入ったのが見えた。
 ……見えた気がした。
 俺は自分の心臓を押さえたくて、鞄を抱き直した。

 近い。
 近い。

 この距離は危険だ。
 危険なのに、離れたくない。
 俺は自分の矛盾に、泣きたくなる。
 家が近づいてくる。
 この傘の下の時間が終わる。
 それが、怖い。
 やっと心が少しだけ温かくなったのに、また冷えるのが怖い。
 俺は足を遅くしたくなって、でもそんなことできないから、代わりに小さく言った。

「……琉人、家、ここ曲がるんだっけ」
「……そう」

 短い会話。
 でも、会話が続くこと自体が奇跡みたいだ。
 俺は雨の匂いを吸って、言う。

「なんか、懐かしいな」
「……何が」
「雨の日。こうやって帰るの」

 小学生の頃、俺たちは雨に降られて、同じ傘に入ったことがある。
 そのときは、もっと小さな傘で、二人とも濡れて、帰ってから怒られた。
 俺はその記憶を思い出して、少しだけ笑った。
 琉人は、少しだけ黙ってから言う。

「……あのとき、お前泣きそうだったな」
「泣いてないし」
「泣きそうだったって」
「……あー……泣きそうだったかも」

 負けた。
 でも、その会話が、昔みたいで。
 胸がぎゅっとなるくらい嬉しかった。
 嬉しいのに、怖い。
 俺はこの感情の名前を、まだ知らないふりをした。
 住宅街の角を曲がると、俺の家まであと少しだ。
 この時間が終わる。
 俺は口を開きかけて、閉じた。
 何を言えばいい?
 「また明日」?
 「ありがとう」?
 「……ごめん」?

 “もう話しかけない”って言った俺が、今さら何を言う?
 俺は傘の下で、黙った。
 琉人も黙って歩く。
 雨音だけが続く。
 でも沈黙が、図書室みたいに痛くなかった。
 ただ、心臓が忙しいだけだった。
 家の前に着いた。
 俺は立ち止まって、傘から少しだけ外へ出る。
 冷たい雨が、頬に当たった。
 琉人が、傘を俺の方へ寄せる。

「……入れ」
「もうすぐだから平気」
「……濡れる」

 淡々とした声。
 でもその言葉は、さっきと同じ温度だった。
 俺は胸が苦しくなって、傘の下に戻った。

「……ありがと」

 言いながら、目が熱い。
 泣きそうになるのを誤魔化すために、俺は無理に明るく言った。

「でもさ、ほんと覚えてたんだね。濡れるの嫌いって」
「……忘れるわけないじゃん……」

 もう一度。
 同じ言葉。
 雨音の中で、俺の胸にだけ刺さる言葉。
 俺は唇を噛んで、笑った。

「……そっか」

 それだけしか言えなかった。
 言えなかったけど。
 胸の奥に溜まっていた雨が、少しだけ溶けた気がした。
 琉人は傘を持ったまま、数秒だけ俺を見た。

 冷たい目。
 でも、今日は不思議と怖くない。
 俺は小さく言った。

「……じゃあ、また明日」

 その言葉は、約束じゃない。
 ただの挨拶。
 でも俺にとっては、勇気だった。
 琉人は一瞬黙ってから、短く答えた。

「……ああ」

 それだけ。
 それだけなのに、胸が甘くなる。
 俺は玄関へ走り込む前に、小さく振り返った。
 琉人はまだそこにいた。
 黒い傘を差したまま、雨の中で立っている。
 そして、ほんの少しだけ、傘が揺れた。
 手を振ったわけじゃない。
 でも、何かの合図みたいに見えた。

 俺は目を伏せて、家の中へ入った。
 扉を閉める。
 雨音が遠のく。
 でも、胸の中にはまだ、傘の下の熱と彼の香りが残っていた。