幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 黒板を見て、ノートを取って、先生の声に頷いているふりをして。
 ほんとは文字なんて全然入ってこないのに、ペンだけは止めずに動かして、下手な字のまま行を埋めていく。

 隣の席。

 篠山琉人が、いる。

 空気が冷たいみたいに静かで、顔が整いすぎて、近づくと心拍が壊れるやつ。

 俺はもう、話しかけない。
 話しかけないって決めた。
 決めたはずだ。

 なのに、勝手に気になる。

 視線を向けたら負けだと思って、俺は意地でも前を向いたまま、耳だけで隣を感じようとした。

 シャーペンの音。
 ページをめくる音。
 息の気配。

 それだけで、胸が苦しくなる自分が情けない。

 ……幼馴染なのに。

 幼馴染だったのに。

 俺が昔みたいに笑いかけても、“無理”って言うし。
 俺が助けようとしたら、“来んな”って言うし。
 俺が傷つかないように距離を取ったら、なんか一瞬だけ表情が崩れるし。

 いや、崩れたように見えただけだ。
 俺の脳みそが都合よく見た幻だ。

 そういうことにしておかないと、俺の心が持たない。


 授業が終わって、休み時間。

 クラスの空気が少しだけ軽くなる。

 真木は相変わらず淡々としていて、俺の机の横を通りながら小声で言う。

「顔、まだ終わってるぞ」
「うるさい」
「もう忘れなよ」

 やめろ、俺の顔のHPはもうゼロだ。

 俺はため息を飲み込んで、ペンケースを閉じた。

 そこへ。

「おーい、雄大」

 明るくて、やたら通る声が飛んできた。

 顔を上げると、そこには、久我湊がいた。
 同じクラスの男子で、真木とはまた別のタイプの友達。

 身長は俺よりちょい高いくらいで、いつも無造作に前髪を上げていて、制服はちゃんと着てるのに妙に“陽”のオーラがある。
 テスト前でも「なんとかなるっしょ」と笑うくせに、地味に点数は取る。
 つまり、“進学校で生き残る要領のいい陽キャ”みたいなやつだ。

 しかもこいつ、無駄に目がいい。

 ……人の心を覗くタイプの。

「雄大、今ヒマ?」
「うん、まぁ」
「よし。購買行こ。パン買い占めようぜ」
「買い占めんなって」

 俺が立ち上がると、湊は俺の肩に腕を回してくる。

 距離が近い。
 こいつは距離感バグってる。
 俺は笑って肘で軽く押し返した。

「暑い暑い」
「冷たっ。雄大、冷たくね?」
「……は? ちょっと押しただけじゃん」

 その一言に、胸がきゅっとなる。
 冷たい。
 冷たくしたくてしてるんじゃない。

 でも、湊はそんな俺の胸の内なんて知らないまま、ニヤニヤする。

「ねえ、雄大さ」
「なに」

 湊が、ひょいっと顎で隣の席を指した。

 俺は反射で見ないようにする。

 ……見たら負け。

「篠山、雄大のことめっちゃ見てたよ」

 ――は?

 脳が止まった。

 湊の声は軽いのに、破壊力は重い。

「はぁ?
「声でっか」
「でかくないだろ」

 図書室かよ。いやここ教室だけど。
 湊は肩を揺らして笑う。

「いや、マジでさ。最近ずっと思ってたんだけど」
「思ってたんだ……」
「うん。篠山って無表情のくせに、目だけ動くじゃん」
「……知らない」

 知らない。
 そんなの知らない。

 俺は視線を前に固定したまま、湊だけを睨む。

「そんなわけない」
「いや、あるって」

 湊は俺の机に肘をついて、楽しそうに言った。

「雄大がペン落としたときもさ、篠山、反射で拾ってたし」
「それは……たまたま」
「あと昼休み。お前、最近いっつも教室から消えるじゃん」
「……購買」
「購買じゃねえって」
「うるさい」

 やめろ、俺の顔が全部バレてる。

 俺は胸が苦しくなって、笑って誤魔化そうとした。

「あいつは誰にでもそうなんだよ」
「へー、誰にでも雄大だけ拾ってあげるんだ?」
「……」
「はは」

 軽く笑った湊が指を立てて、さらに続ける。

「でさ、極めつけ」

 極めつけ?
 やめろ。聞きたくない。

 俺の心は今、薄いガラスでできてる。

 湊は、悪魔みたいに笑った。

「昨日の放課後。篠山、女子に囲まれてたじゃん」
「……見てたの?」
「見てた。てか結構見てた」

 ……最悪。

 結構って言うな。
 全校規模で俺の心が死んだみたいじゃん。

 湊は面白がるみたいに言う。

「で、雄大が近づこうとした瞬間。篠山、めっちゃ早く目で追った」
「……追ってないよ。きっと」
「追ってたって。目の動きだけ鋭いんだよ、あいつ」

 目の動きだけ鋭い。
 何それ、かっこいいのに性格が悪い分析で笑う。

 でも、俺の胸は笑えなかった。

 だって。

 昨日の“来るな”を思い出してしまうから。

 俺の心臓は、まだそこから血が出てる。

「それでさ」

 湊が声を少しだけ落とした。

「雄大が引いたあと、篠山、めっちゃ……なんか」
「なんか?」
「……ムカついてたっぽくない?」

 ムカついてた。

 その言葉に、俺の胸が一瞬だけ跳ねた。

 ムカついてた?
 琉人が?
 俺に?

 いや、違う。
 女子に?

 俺はすぐに結論を置いて、自分を守る。

「ムカついてたのは女子じゃない?」
「それもあるだろうけどさ」

 湊はニヤッと笑った。

「雄大が離れたときの方が、顔、やばかった」
「……篠山、顔変わらないでしょ」
「変わるんだって。ほんの一瞬だけ」

 ほんの一瞬。

 ……あの時。

 俺が「もう話しかけない」って言ったとき。
 琉人の表情が、僅かに崩れた。
 それを、俺は見た。

 俺は胸が詰まった。

「……そんなわけない」

 もう一度言う。
 何度でも言う。

 そうじゃないって言わないと、俺が立っていられない。

 湊は笑って肩をすくめる。

「ま、雄大がそう思いたいならそうなんじゃね?」

 思いたい。

 その言葉が刺さる。

 俺は思いたくない。
 琉人が俺を見てるなんて、思いたくない。
 思ったらまた期待する。
 期待したらまた折れる。

 だから俺は、強く言った。

「琉人は、俺に興味ない。……絶対」
「はいはい」
「……」

 湊は俺の頭をぽん、と軽く叩いた。

「でもさ、雄大。俺はこういう時の勘、当たるんだわ」
「当たんなくていい」

 俺は小さく呟いた。

 当たんなくていい。
 当たったら怖い。
 当たったら、俺の世界がまた揺れる。

 湊は俺の肩を引っ張って、廊下へ連れ出そうとする。

「ほら、購買行こ。甘いパン買ってテンション上げろ」
「俺、甘いパン好きだけど今は上がらない」
「上げろって。顔死んでる」
「死んでない」
「死んでるぜ」

 言い合いながら廊下を歩く。

 その瞬間。

 教室から、ほんの少しだけ気配が動いた。

 俺は反射で振り向きたくなる。
 でも、振り向かない。

 振り向いたら、負けだ。

 俺は足を止めずに歩く。
 湊に引っ張られながら。

 なのに――

 背中に、視線を感じた。

 刺すみたいな視線じゃない。
 追うみたいな視線。

 俺は背中が熱くなった。

 そんなわけない。
 そんなわけないって、何度でも言う。

 でも、湊が振り返って、ニヤッと笑ったのが見えた。

「ほら。今も見てる」
「……」
「篠山、お前のこと好きなんじゃね?」

 湊が小声で言う。

「雄大、可愛い顔してるからさ。そりゃ見ちゃうんじゃん?」
「なわけねぇだろ」
「いや、俺も見るもん」
「一回黙ろ」

 俺は顔が熱くなって、湊の腕を叩いた。

 冗談にしては心臓に悪すぎる。
 俺の中の何かが、甘くて痛い音を立てて崩れそうになる。

 購買へ向かう廊下。
 窓の外は冬の光。

 その光の中で、湊が楽しそうに笑った。
 そして俺は、胸の奥で小さく思った。

 ――もし、もしも。

 湊の言う通り、琉人が俺を見ていたとしたら。
 それは、何の意味なんだろう。

 答えは分からない。
 分からないまま、甘いパンの匂いだけが近づいてくる。

 だけど、分からないことほど。

 胸の奥を、甘く苦しくさせる。