幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 ──最悪だ。
 俺は、隣の席に座りながら、そんなことを考えていた。

 最悪、というのは雄大のことじゃない。
 ……いや、正確には、雄大のせいだ。

 俺の中がぐちゃぐちゃになっている原因は、全部、崎枝雄大のせいだ。
 黒板の文字を追っているふりをして、視線だけを前に固定する。
 ノートを取る手は止めない。
 姿勢も崩さない。

 完璧に“平静”。

 ……そんなもの、演技に決まってる。
 この教室にいる間、俺の意識はずっと隣へ引っ張られている。
 たった一席隣。
 俺の呼吸が邪魔にならない距離。

 そこで雄大は、何も知らない顔をして座っている。
 茶髪。ゆるふわパーマ。
 声がでかくて、落ち着きがなくて。
 でも、こいつは昔からそうだった。

 変わってない。
 変わってないのに。
 久しぶりに見た瞬間、俺は――
 頭が真っ白になった。

 転校初日。
 担任に紹介されて、教室の前に立ったとき。
 視線は痛いほど集まった。
 進学校の目は鋭い。空気は静かで、好奇心は隠さない。

 俺は慣れてる。
 海外で“よそ者”として生きる時間は長かった。
「篠山琉人です。よろしくお願いします」

 それだけ言って、余計な愛想はつけない。
 クラスのざわつきが少し増える。
 俺は空いた席に案内されて、座った。
 その席が――雄大の隣だった。

 いや、隣だって事実は後から頭に入った。
 最初の瞬間は、それどころじゃない。
 座る直前、視線の端に“茶色い髪”が見えて。
 次の瞬間、俺の脳が止まった。

 ……雄大?

 まさか。
 そんなはずない。
 中学の途中から、俺は海外に行った。
 連絡なんて、続けられるはずがなくて。
 自分のことで精一杯で、余裕なんてなかった。

 だから、もう会わないと思ってた。
 会ったとしても――もっと先、ずっと大人になってからだと思ってた。

 なのに。
 目の前にいた。

 そして。

 雄大は俺を見た瞬間、息を吸って、目を輝かせて――
 世界で一番嬉しそうな顔をした。

 その顔が、あまりにも……あまりにも。

 可愛すぎた。

 小学生の頃のままの表情。
 懐かしさが詰まった笑い方。
 嬉しいって感情が隠せない、不器用な顔。

 そのくせ、背は伸びてる。
 声は少し低くなってる。
 目元は昔より大人っぽいのに、表情だけは子どもみたいに真っ直ぐで。

 俺は、その一瞬で奪われた。
 息をすることも忘れて、視界が一回、白くなった。

 ……馬鹿みたいだ。

 海外でそれなりに色々経験してきた。
 人に好かれるとか、興味を持たれるとか、距離の詰め方とか。
 そういうのは散々見てきたはずなのに。

 雄大の笑顔一発で、全部吹き飛んだ。
 俺の心は、弱すぎる。
 だから俺は、反射で“守った”。
 守ったのは、雄大じゃない。
 俺自身だ。

 雄大の方を見ない。
 言葉を増やさない。
 距離を取る。
 冷たくする。

 俺は昔から、“好き”に弱い。
 弱すぎて、好きだと分かった瞬間、全部壊しそうになる。

 だから、壊す前に。
 自分から引く。

 ――最悪な癖だ。


 小学生の頃から、俺は雄大が好きだった。

 理由なんて、分からない。
 気づいたら、雄大の声を探していた。
 気づいたら、雄大の笑い方を覚えていた。
 気づいたら、雄大の隣が一番落ち着いた。

 雄大はいつも俺にまとわりつくみたいに近くて。
 勝手に俺の机の引き出しを開けて、勝手に鉛筆を借りて。
 勝手に笑って、勝手に怒って、勝手に仲直りして。

 めちゃくちゃだった。
 でも、あれが俺の日常だった。

 周りの奴らは雄大を「可愛い」って言った。
 女子も男子も、雄大には甘かった。

 俺だけが、雄大に甘くしたくなくて。
 自分の中に芽生えた“好き”が、怖かった。
 好きだと分かれば分かるほど、こいつが俺から離れていく気がして。

 だから俺は、反対のことをした。

 冷たくする。
 そっけなくする。
 近づかないふりをする。

 ……最低だ。

 でも、小学生の俺はそれしか知らなかった。

 中学になって、俺が海外に行くことが決まったとき。
 雄大は泣きそうな顔をした。
 今にも泣き出しそうで、我慢してる顔。
 その顔を見た瞬間、俺は胸がぐちゃぐちゃになった。

 本当は言いたかった。

 「離れたくない」
 「ずっと一緒にいたい」
 「お前のこと、好きだ」

 言ったら終わる。
 そう思った。

 雄大はきっと、困る。
 戸惑う。
 そして、笑って“友達”として誤魔化す。
 その笑顔に耐えられない気がした。

 だから俺は、最後まで言えなかった。
 ただ、そっけなく言っただけだ。

「またな」

 雄大が笑って頷く。
 泣きそうな目をしながら。

 俺はその顔を、ずっと覚えていた。



 海外の生活は、想像より厳しかった。
 言葉。文化。距離感。
 全部違う。全部分からない。

 笑ってるのに本音が見えない。
 仲良くしてるのに、次の日には切り捨てられる。

 そういう場所で生きていると、人に期待しなくなる。
 期待すると痛い。
 信じると痛い。
 好きになると痛い。

 だから俺は、静かに、さらに冷たくなった。

 いや、冷たくなったんじゃない。
 冷たく“見えるように”した。
 そうすれば自分が守れる。
 そうすれば、変な傷を増やさない。

 ……その癖が、帰国しても抜けなかった。

 そして今。

 目の前にいる雄大を見た瞬間、俺は悟った。
 ああ、終わった。
 俺はまた、好きになる。
 いや、もう好きだった。

 ずっと好きだった。

 その“好き”が、帰国と同時に息を吹き返して暴れ出した。

 だから俺はまた、同じことをした。

 冷たくする。

 ――本当に、最低だ。
 

 雄大は話しかけてきた。

「琉人!」

 昔と同じ呼び方。
 昔と同じ明るさ。

 そのたび俺の心臓が跳ねて、喉が詰まった。
 だから短く返す。

「……何」
「……別に」
「……無理」

 言葉を削れば削るほど、雄大の表情が曇っていく。
 それが分かっているのに、止められない。
 止めたら、俺の“好き”が漏れる。
 漏れたら終わる。

 ……何が終わる?

 自分でも分からない。
 でも俺の中のどこかが、ずっと叫んでいる。
 バレたら終わる。

 好きだって知られたら、俺は壊れる。
 雄大も壊れる。
 二人の関係が変わる。

 その“変わる”が怖い。

 だから、俺は一番安全な距離を保つ。

 冷たい幼馴染。
 よそよそしい隣人。

 雄大はそれを「性格が変わった」と勘違いした。

 ……違う。

 変わったんじゃない。
 元からこうだった。

 好きだから、冷たくなる。
 好きだから、近づけない。

 矛盾してるって分かってる。

 でも、俺はこのやり方しか知らない。



 あの昼休み。

 雄大が箸を落とした。

 拾ったのは俺だ。

 体が勝手に動いた。
 雄大が困る前に、反射で。

 箸を差し出した。
 雄大が手を伸ばした。

 ――触れる。

 その瞬間、俺の時間が止まった。

 触れてしまったら。
 触れたら、終わる気がした。

 意味が分からないだろう?
 でも、俺は本気でそう思った。

 触れたら、雄大が俺の中に入ってくる。
 入ってきたら、もう隠せなくなる。

 だから。

 俺はほんの少しだけ手を引いた。

 雄大が小さく呟いた。

「……今の、何?」

 ……聞くな。

 そんな顔で聞くな。

 俺は平静を保つために、嘘をついた。

「止まってない」

 最悪だ。
 嘘のつき方まで最悪。

 でも、そのときの雄大の目。

 困ったように揺れた目。
 寂しそうな目。

 俺は、胸が痛くて息ができなかった。

 好きなのに。
 守りたいのに。
 俺のせいで傷ついてる。

 ……何してるんだろう、俺は。


 図書室で雄大が言った。

「昔みたいに、話したい」

 その言葉は、俺の胸の中心に突き刺さった。

 昔みたいに。
 話したい。

 俺だってそうだ。
 そう思った瞬間、喉が震えた。
 言いたかった。

 「俺も」って。
 「ずっと思ってた」って。

 でも、言ったら終わる。

 だから俺は、反射で言った。

「……無理」

 馬鹿すぎる。

 自分に向かって罵った。

 無理なわけがない。
 話したい。
 触れたい。
 笑わせたい。

 全部、俺の本音だ。

 なのに。

 雄大の顔が曇っていくのを見ると、
 “これでいい”と思ってしまう自分もいる。

 傷つけたくないのに、離れた方が安全だと思ってしまう。

 好きなのに。
 大切なのに。

 好きだからこそ、手放す方が正しい気がしてしまう。

 俺は拳を握った。

 机の下で。
 誰にも見えない場所で。

 震える拳を押さえるみたいに、強く。

 ……落ち着け。

 落ち着け。

 雄大が泣きそうな顔で席を立って、図書室を出ていった。

 その背中を見ながら、俺は一度も呼び止められなかった。

 呼び止めたら、終わる。
 そう思ってしまった。
 自分でも訳が分からない。



 廊下で女子に囲まれたのは、ただただ面倒だった。

 興味がない。
 誰でもいいわけじゃない。

 興味があるのは、ひとりだけ。
 でも、ひとりだけに興味があるなんて言えるわけがない。

 女子たちは言う。

「篠山くん、ちょっとだけ!」
「話したいだけ!」

 俺は断る。

「……無理」
「……興味ない」

 それでも引かない。

 そして、誰かが言った。

「崎枝くんとは話してるのに?」

 その瞬間、俺の中の何かが凍った。

 雄大の名前を出すな。
 巻き込むな。

 あいつは、俺の――

 いや、違う。
 俺の、なんでもない。
 でも、俺は雄大を守りたかった。
 だから、咄嗟に言った。

「崎枝は関係ない」

 女子に向けた言葉。
 巻き込むな、という意味。

 ……なのに。

 その言葉はたぶん、雄大の胸を刺した。
 見えてしまったからだ。
 雄大が近づいてくるのが。

 助けようとしている顔。
 昔と同じ、真っ直ぐな顔。

 可愛すぎて、愛おしすぎて胸が潰れそうになった。

 ――来るな。

 来るな、なんて言いたくなかった。

 でも、言わないと。
 女子たちの前で雄大が近づいたら、
 噂がもっと悪い方向に広がる。

 雄大が傷つく。

 だから俺は、冷たく言った。

「……来んな」

 雄大の顔が、一瞬で折れる。
 その瞬間、俺の内側が引き裂かれた。

 痛い。
 痛いのに、声は冷たいまま。

 俺はもう一度、言った。

「……もう来んな」

 ――止めろ。

 止めろ、俺。

 でも止められなかった。

 守るために。
 遠ざけるために。

 俺は雄大を、自分の手で突き放した。
 崖から落とした。
 助けずに、見捨てた。殺したんだ。


 そして、昨日。

 雄大が言った。

「もう、話しかけないから」

 その瞬間、世界が少しだけ揺れた。

 俺の中の呼吸が止まった。

 ……やめろ。

 それだけは、やめてくれ。

 口から出そうになった。
 「待て」って。
 「違う」って。
 「俺は」って。

 でも、言えなかった。

 俺は、終わりを選び続けている。

 自分で自分を守るために。
 雄大を守るために。

 でも、守ってるつもりで傷つけている。

 雄大は今、隣の席で前だけを見ている。
 俺を見ない。
 俺が話しかけても、短く返すだけ。
 それが宣言通りだと分かって、胸が痛い。

 授業中、雄大がペンを落とした。
 拾いたくて手が動きかけて、止めた。

 拾ったら、また触れそうになる。

 触れたら、終わる気がする。

 ……本当に馬鹿だ。

 終わるのが怖いのに、
 終わらせる行動ばかりしている。

 俺はノートの端を強く押さえた。
 紙が少しだけ皺になる。息を吐く。
 冷たい顔をしたまま。
 心の中だけが、うるさい。

 雄大……
 分かってくれ……

 冷たいのは、嫌いだからじゃない。

 好きだからだ。

 好きすぎて、可愛すぎて、眩しすぎて。
 俺の世界の中心に戻ってきてしまったから。

 俺は、また壊れるのが怖い。

 でも――

 雄大が離れていくのは、もっと怖い。
 俺は初めて、自分の中の結論に気づいた。
 このままじゃ、本当に終わる。

 終わらせたくない。
 なら、俺が変わるしかない。
 俺が、言うしかない。

 言ったら終わると思ってた。
 でも、言わなければ終わる。

 ……結局、どっちにしても終わるなら。

 俺は終わらせない方を選びたい。

 好きだ。
 ずっと好きだった。
 今も、好きだ。

 雄大が前だけを見ている横顔を、俺は見ないふりをした。

 見たら、崩れる。

 でも――

 崩れてもいい。

 そう思えるくらい、俺はもう追い詰められている。

 次のチャイムが鳴る。
 教室の空気が動く。

 その中で俺だけが、静かに決意していた。

 もう、“冷たいふり”はやめる。

 少しずつでいい。
 少しずつでいいから。

 雄大の隣にいる理由を、
 今度は――自分の言葉で作る。

 そうしないと、俺はまた逃げる。

 好きだから逃げる。

 そんな矛盾を、終わらせるために。