──最悪だ。
俺は、隣の席に座りながら、そんなことを考えていた。
最悪、というのは雄大のことじゃない。
……いや、正確には、雄大のせいだ。
俺の中がぐちゃぐちゃになっている原因は、全部、崎枝雄大のせいだ。
黒板の文字を追っているふりをして、視線だけを前に固定する。
ノートを取る手は止めない。
姿勢も崩さない。
完璧に“平静”。
……そんなもの、演技に決まってる。
この教室にいる間、俺の意識はずっと隣へ引っ張られている。
たった一席隣。
俺の呼吸が邪魔にならない距離。
そこで雄大は、何も知らない顔をして座っている。
茶髪。ゆるふわパーマ。
声がでかくて、落ち着きがなくて。
でも、こいつは昔からそうだった。
変わってない。
変わってないのに。
久しぶりに見た瞬間、俺は――
頭が真っ白になった。
転校初日。
担任に紹介されて、教室の前に立ったとき。
視線は痛いほど集まった。
進学校の目は鋭い。空気は静かで、好奇心は隠さない。
俺は慣れてる。
海外で“よそ者”として生きる時間は長かった。
「篠山琉人です。よろしくお願いします」
それだけ言って、余計な愛想はつけない。
クラスのざわつきが少し増える。
俺は空いた席に案内されて、座った。
その席が――雄大の隣だった。
いや、隣だって事実は後から頭に入った。
最初の瞬間は、それどころじゃない。
座る直前、視線の端に“茶色い髪”が見えて。
次の瞬間、俺の脳が止まった。
……雄大?
まさか。
そんなはずない。
中学の途中から、俺は海外に行った。
連絡なんて、続けられるはずがなくて。
自分のことで精一杯で、余裕なんてなかった。
だから、もう会わないと思ってた。
会ったとしても――もっと先、ずっと大人になってからだと思ってた。
なのに。
目の前にいた。
そして。
雄大は俺を見た瞬間、息を吸って、目を輝かせて――
世界で一番嬉しそうな顔をした。
その顔が、あまりにも……あまりにも。
可愛すぎた。
小学生の頃のままの表情。
懐かしさが詰まった笑い方。
嬉しいって感情が隠せない、不器用な顔。
そのくせ、背は伸びてる。
声は少し低くなってる。
目元は昔より大人っぽいのに、表情だけは子どもみたいに真っ直ぐで。
俺は、その一瞬で奪われた。
息をすることも忘れて、視界が一回、白くなった。
……馬鹿みたいだ。
海外でそれなりに色々経験してきた。
人に好かれるとか、興味を持たれるとか、距離の詰め方とか。
そういうのは散々見てきたはずなのに。
雄大の笑顔一発で、全部吹き飛んだ。
俺の心は、弱すぎる。
だから俺は、反射で“守った”。
守ったのは、雄大じゃない。
俺自身だ。
雄大の方を見ない。
言葉を増やさない。
距離を取る。
冷たくする。
俺は昔から、“好き”に弱い。
弱すぎて、好きだと分かった瞬間、全部壊しそうになる。
だから、壊す前に。
自分から引く。
――最悪な癖だ。
小学生の頃から、俺は雄大が好きだった。
理由なんて、分からない。
気づいたら、雄大の声を探していた。
気づいたら、雄大の笑い方を覚えていた。
気づいたら、雄大の隣が一番落ち着いた。
雄大はいつも俺にまとわりつくみたいに近くて。
勝手に俺の机の引き出しを開けて、勝手に鉛筆を借りて。
勝手に笑って、勝手に怒って、勝手に仲直りして。
めちゃくちゃだった。
でも、あれが俺の日常だった。
周りの奴らは雄大を「可愛い」って言った。
女子も男子も、雄大には甘かった。
俺だけが、雄大に甘くしたくなくて。
自分の中に芽生えた“好き”が、怖かった。
好きだと分かれば分かるほど、こいつが俺から離れていく気がして。
だから俺は、反対のことをした。
冷たくする。
そっけなくする。
近づかないふりをする。
……最低だ。
でも、小学生の俺はそれしか知らなかった。
中学になって、俺が海外に行くことが決まったとき。
雄大は泣きそうな顔をした。
今にも泣き出しそうで、我慢してる顔。
その顔を見た瞬間、俺は胸がぐちゃぐちゃになった。
本当は言いたかった。
「離れたくない」
「ずっと一緒にいたい」
「お前のこと、好きだ」
言ったら終わる。
そう思った。
雄大はきっと、困る。
戸惑う。
そして、笑って“友達”として誤魔化す。
その笑顔に耐えられない気がした。
だから俺は、最後まで言えなかった。
ただ、そっけなく言っただけだ。
「またな」
雄大が笑って頷く。
泣きそうな目をしながら。
俺はその顔を、ずっと覚えていた。
海外の生活は、想像より厳しかった。
言葉。文化。距離感。
全部違う。全部分からない。
笑ってるのに本音が見えない。
仲良くしてるのに、次の日には切り捨てられる。
そういう場所で生きていると、人に期待しなくなる。
期待すると痛い。
信じると痛い。
好きになると痛い。
だから俺は、静かに、さらに冷たくなった。
いや、冷たくなったんじゃない。
冷たく“見えるように”した。
そうすれば自分が守れる。
そうすれば、変な傷を増やさない。
……その癖が、帰国しても抜けなかった。
そして今。
目の前にいる雄大を見た瞬間、俺は悟った。
ああ、終わった。
俺はまた、好きになる。
いや、もう好きだった。
ずっと好きだった。
その“好き”が、帰国と同時に息を吹き返して暴れ出した。
だから俺はまた、同じことをした。
冷たくする。
――本当に、最低だ。
雄大は話しかけてきた。
「琉人!」
昔と同じ呼び方。
昔と同じ明るさ。
そのたび俺の心臓が跳ねて、喉が詰まった。
だから短く返す。
「……何」
「……別に」
「……無理」
言葉を削れば削るほど、雄大の表情が曇っていく。
それが分かっているのに、止められない。
止めたら、俺の“好き”が漏れる。
漏れたら終わる。
……何が終わる?
自分でも分からない。
でも俺の中のどこかが、ずっと叫んでいる。
バレたら終わる。
好きだって知られたら、俺は壊れる。
雄大も壊れる。
二人の関係が変わる。
その“変わる”が怖い。
だから、俺は一番安全な距離を保つ。
冷たい幼馴染。
よそよそしい隣人。
雄大はそれを「性格が変わった」と勘違いした。
……違う。
変わったんじゃない。
元からこうだった。
好きだから、冷たくなる。
好きだから、近づけない。
矛盾してるって分かってる。
でも、俺はこのやり方しか知らない。
あの昼休み。
雄大が箸を落とした。
拾ったのは俺だ。
体が勝手に動いた。
雄大が困る前に、反射で。
箸を差し出した。
雄大が手を伸ばした。
――触れる。
その瞬間、俺の時間が止まった。
触れてしまったら。
触れたら、終わる気がした。
意味が分からないだろう?
でも、俺は本気でそう思った。
触れたら、雄大が俺の中に入ってくる。
入ってきたら、もう隠せなくなる。
だから。
俺はほんの少しだけ手を引いた。
雄大が小さく呟いた。
「……今の、何?」
……聞くな。
そんな顔で聞くな。
俺は平静を保つために、嘘をついた。
「止まってない」
最悪だ。
嘘のつき方まで最悪。
でも、そのときの雄大の目。
困ったように揺れた目。
寂しそうな目。
俺は、胸が痛くて息ができなかった。
好きなのに。
守りたいのに。
俺のせいで傷ついてる。
……何してるんだろう、俺は。
図書室で雄大が言った。
「昔みたいに、話したい」
その言葉は、俺の胸の中心に突き刺さった。
昔みたいに。
話したい。
俺だってそうだ。
そう思った瞬間、喉が震えた。
言いたかった。
「俺も」って。
「ずっと思ってた」って。
でも、言ったら終わる。
だから俺は、反射で言った。
「……無理」
馬鹿すぎる。
自分に向かって罵った。
無理なわけがない。
話したい。
触れたい。
笑わせたい。
全部、俺の本音だ。
なのに。
雄大の顔が曇っていくのを見ると、
“これでいい”と思ってしまう自分もいる。
傷つけたくないのに、離れた方が安全だと思ってしまう。
好きなのに。
大切なのに。
好きだからこそ、手放す方が正しい気がしてしまう。
俺は拳を握った。
机の下で。
誰にも見えない場所で。
震える拳を押さえるみたいに、強く。
……落ち着け。
落ち着け。
雄大が泣きそうな顔で席を立って、図書室を出ていった。
その背中を見ながら、俺は一度も呼び止められなかった。
呼び止めたら、終わる。
そう思ってしまった。
自分でも訳が分からない。
廊下で女子に囲まれたのは、ただただ面倒だった。
興味がない。
誰でもいいわけじゃない。
興味があるのは、ひとりだけ。
でも、ひとりだけに興味があるなんて言えるわけがない。
女子たちは言う。
「篠山くん、ちょっとだけ!」
「話したいだけ!」
俺は断る。
「……無理」
「……興味ない」
それでも引かない。
そして、誰かが言った。
「崎枝くんとは話してるのに?」
その瞬間、俺の中の何かが凍った。
雄大の名前を出すな。
巻き込むな。
あいつは、俺の――
いや、違う。
俺の、なんでもない。
でも、俺は雄大を守りたかった。
だから、咄嗟に言った。
「崎枝は関係ない」
女子に向けた言葉。
巻き込むな、という意味。
……なのに。
その言葉はたぶん、雄大の胸を刺した。
見えてしまったからだ。
雄大が近づいてくるのが。
助けようとしている顔。
昔と同じ、真っ直ぐな顔。
可愛すぎて、愛おしすぎて胸が潰れそうになった。
――来るな。
来るな、なんて言いたくなかった。
でも、言わないと。
女子たちの前で雄大が近づいたら、
噂がもっと悪い方向に広がる。
雄大が傷つく。
だから俺は、冷たく言った。
「……来んな」
雄大の顔が、一瞬で折れる。
その瞬間、俺の内側が引き裂かれた。
痛い。
痛いのに、声は冷たいまま。
俺はもう一度、言った。
「……もう来んな」
――止めろ。
止めろ、俺。
でも止められなかった。
守るために。
遠ざけるために。
俺は雄大を、自分の手で突き放した。
崖から落とした。
助けずに、見捨てた。殺したんだ。
そして、昨日。
雄大が言った。
「もう、話しかけないから」
その瞬間、世界が少しだけ揺れた。
俺の中の呼吸が止まった。
……やめろ。
それだけは、やめてくれ。
口から出そうになった。
「待て」って。
「違う」って。
「俺は」って。
でも、言えなかった。
俺は、終わりを選び続けている。
自分で自分を守るために。
雄大を守るために。
でも、守ってるつもりで傷つけている。
雄大は今、隣の席で前だけを見ている。
俺を見ない。
俺が話しかけても、短く返すだけ。
それが宣言通りだと分かって、胸が痛い。
授業中、雄大がペンを落とした。
拾いたくて手が動きかけて、止めた。
拾ったら、また触れそうになる。
触れたら、終わる気がする。
……本当に馬鹿だ。
終わるのが怖いのに、
終わらせる行動ばかりしている。
俺はノートの端を強く押さえた。
紙が少しだけ皺になる。息を吐く。
冷たい顔をしたまま。
心の中だけが、うるさい。
雄大……
分かってくれ……
冷たいのは、嫌いだからじゃない。
好きだからだ。
好きすぎて、可愛すぎて、眩しすぎて。
俺の世界の中心に戻ってきてしまったから。
俺は、また壊れるのが怖い。
でも――
雄大が離れていくのは、もっと怖い。
俺は初めて、自分の中の結論に気づいた。
このままじゃ、本当に終わる。
終わらせたくない。
なら、俺が変わるしかない。
俺が、言うしかない。
言ったら終わると思ってた。
でも、言わなければ終わる。
……結局、どっちにしても終わるなら。
俺は終わらせない方を選びたい。
好きだ。
ずっと好きだった。
今も、好きだ。
雄大が前だけを見ている横顔を、俺は見ないふりをした。
見たら、崩れる。
でも――
崩れてもいい。
そう思えるくらい、俺はもう追い詰められている。
次のチャイムが鳴る。
教室の空気が動く。
その中で俺だけが、静かに決意していた。
もう、“冷たいふり”はやめる。
少しずつでいい。
少しずつでいいから。
雄大の隣にいる理由を、
今度は――自分の言葉で作る。
そうしないと、俺はまた逃げる。
好きだから逃げる。
そんな矛盾を、終わらせるために。
俺は、隣の席に座りながら、そんなことを考えていた。
最悪、というのは雄大のことじゃない。
……いや、正確には、雄大のせいだ。
俺の中がぐちゃぐちゃになっている原因は、全部、崎枝雄大のせいだ。
黒板の文字を追っているふりをして、視線だけを前に固定する。
ノートを取る手は止めない。
姿勢も崩さない。
完璧に“平静”。
……そんなもの、演技に決まってる。
この教室にいる間、俺の意識はずっと隣へ引っ張られている。
たった一席隣。
俺の呼吸が邪魔にならない距離。
そこで雄大は、何も知らない顔をして座っている。
茶髪。ゆるふわパーマ。
声がでかくて、落ち着きがなくて。
でも、こいつは昔からそうだった。
変わってない。
変わってないのに。
久しぶりに見た瞬間、俺は――
頭が真っ白になった。
転校初日。
担任に紹介されて、教室の前に立ったとき。
視線は痛いほど集まった。
進学校の目は鋭い。空気は静かで、好奇心は隠さない。
俺は慣れてる。
海外で“よそ者”として生きる時間は長かった。
「篠山琉人です。よろしくお願いします」
それだけ言って、余計な愛想はつけない。
クラスのざわつきが少し増える。
俺は空いた席に案内されて、座った。
その席が――雄大の隣だった。
いや、隣だって事実は後から頭に入った。
最初の瞬間は、それどころじゃない。
座る直前、視線の端に“茶色い髪”が見えて。
次の瞬間、俺の脳が止まった。
……雄大?
まさか。
そんなはずない。
中学の途中から、俺は海外に行った。
連絡なんて、続けられるはずがなくて。
自分のことで精一杯で、余裕なんてなかった。
だから、もう会わないと思ってた。
会ったとしても――もっと先、ずっと大人になってからだと思ってた。
なのに。
目の前にいた。
そして。
雄大は俺を見た瞬間、息を吸って、目を輝かせて――
世界で一番嬉しそうな顔をした。
その顔が、あまりにも……あまりにも。
可愛すぎた。
小学生の頃のままの表情。
懐かしさが詰まった笑い方。
嬉しいって感情が隠せない、不器用な顔。
そのくせ、背は伸びてる。
声は少し低くなってる。
目元は昔より大人っぽいのに、表情だけは子どもみたいに真っ直ぐで。
俺は、その一瞬で奪われた。
息をすることも忘れて、視界が一回、白くなった。
……馬鹿みたいだ。
海外でそれなりに色々経験してきた。
人に好かれるとか、興味を持たれるとか、距離の詰め方とか。
そういうのは散々見てきたはずなのに。
雄大の笑顔一発で、全部吹き飛んだ。
俺の心は、弱すぎる。
だから俺は、反射で“守った”。
守ったのは、雄大じゃない。
俺自身だ。
雄大の方を見ない。
言葉を増やさない。
距離を取る。
冷たくする。
俺は昔から、“好き”に弱い。
弱すぎて、好きだと分かった瞬間、全部壊しそうになる。
だから、壊す前に。
自分から引く。
――最悪な癖だ。
小学生の頃から、俺は雄大が好きだった。
理由なんて、分からない。
気づいたら、雄大の声を探していた。
気づいたら、雄大の笑い方を覚えていた。
気づいたら、雄大の隣が一番落ち着いた。
雄大はいつも俺にまとわりつくみたいに近くて。
勝手に俺の机の引き出しを開けて、勝手に鉛筆を借りて。
勝手に笑って、勝手に怒って、勝手に仲直りして。
めちゃくちゃだった。
でも、あれが俺の日常だった。
周りの奴らは雄大を「可愛い」って言った。
女子も男子も、雄大には甘かった。
俺だけが、雄大に甘くしたくなくて。
自分の中に芽生えた“好き”が、怖かった。
好きだと分かれば分かるほど、こいつが俺から離れていく気がして。
だから俺は、反対のことをした。
冷たくする。
そっけなくする。
近づかないふりをする。
……最低だ。
でも、小学生の俺はそれしか知らなかった。
中学になって、俺が海外に行くことが決まったとき。
雄大は泣きそうな顔をした。
今にも泣き出しそうで、我慢してる顔。
その顔を見た瞬間、俺は胸がぐちゃぐちゃになった。
本当は言いたかった。
「離れたくない」
「ずっと一緒にいたい」
「お前のこと、好きだ」
言ったら終わる。
そう思った。
雄大はきっと、困る。
戸惑う。
そして、笑って“友達”として誤魔化す。
その笑顔に耐えられない気がした。
だから俺は、最後まで言えなかった。
ただ、そっけなく言っただけだ。
「またな」
雄大が笑って頷く。
泣きそうな目をしながら。
俺はその顔を、ずっと覚えていた。
海外の生活は、想像より厳しかった。
言葉。文化。距離感。
全部違う。全部分からない。
笑ってるのに本音が見えない。
仲良くしてるのに、次の日には切り捨てられる。
そういう場所で生きていると、人に期待しなくなる。
期待すると痛い。
信じると痛い。
好きになると痛い。
だから俺は、静かに、さらに冷たくなった。
いや、冷たくなったんじゃない。
冷たく“見えるように”した。
そうすれば自分が守れる。
そうすれば、変な傷を増やさない。
……その癖が、帰国しても抜けなかった。
そして今。
目の前にいる雄大を見た瞬間、俺は悟った。
ああ、終わった。
俺はまた、好きになる。
いや、もう好きだった。
ずっと好きだった。
その“好き”が、帰国と同時に息を吹き返して暴れ出した。
だから俺はまた、同じことをした。
冷たくする。
――本当に、最低だ。
雄大は話しかけてきた。
「琉人!」
昔と同じ呼び方。
昔と同じ明るさ。
そのたび俺の心臓が跳ねて、喉が詰まった。
だから短く返す。
「……何」
「……別に」
「……無理」
言葉を削れば削るほど、雄大の表情が曇っていく。
それが分かっているのに、止められない。
止めたら、俺の“好き”が漏れる。
漏れたら終わる。
……何が終わる?
自分でも分からない。
でも俺の中のどこかが、ずっと叫んでいる。
バレたら終わる。
好きだって知られたら、俺は壊れる。
雄大も壊れる。
二人の関係が変わる。
その“変わる”が怖い。
だから、俺は一番安全な距離を保つ。
冷たい幼馴染。
よそよそしい隣人。
雄大はそれを「性格が変わった」と勘違いした。
……違う。
変わったんじゃない。
元からこうだった。
好きだから、冷たくなる。
好きだから、近づけない。
矛盾してるって分かってる。
でも、俺はこのやり方しか知らない。
あの昼休み。
雄大が箸を落とした。
拾ったのは俺だ。
体が勝手に動いた。
雄大が困る前に、反射で。
箸を差し出した。
雄大が手を伸ばした。
――触れる。
その瞬間、俺の時間が止まった。
触れてしまったら。
触れたら、終わる気がした。
意味が分からないだろう?
でも、俺は本気でそう思った。
触れたら、雄大が俺の中に入ってくる。
入ってきたら、もう隠せなくなる。
だから。
俺はほんの少しだけ手を引いた。
雄大が小さく呟いた。
「……今の、何?」
……聞くな。
そんな顔で聞くな。
俺は平静を保つために、嘘をついた。
「止まってない」
最悪だ。
嘘のつき方まで最悪。
でも、そのときの雄大の目。
困ったように揺れた目。
寂しそうな目。
俺は、胸が痛くて息ができなかった。
好きなのに。
守りたいのに。
俺のせいで傷ついてる。
……何してるんだろう、俺は。
図書室で雄大が言った。
「昔みたいに、話したい」
その言葉は、俺の胸の中心に突き刺さった。
昔みたいに。
話したい。
俺だってそうだ。
そう思った瞬間、喉が震えた。
言いたかった。
「俺も」って。
「ずっと思ってた」って。
でも、言ったら終わる。
だから俺は、反射で言った。
「……無理」
馬鹿すぎる。
自分に向かって罵った。
無理なわけがない。
話したい。
触れたい。
笑わせたい。
全部、俺の本音だ。
なのに。
雄大の顔が曇っていくのを見ると、
“これでいい”と思ってしまう自分もいる。
傷つけたくないのに、離れた方が安全だと思ってしまう。
好きなのに。
大切なのに。
好きだからこそ、手放す方が正しい気がしてしまう。
俺は拳を握った。
机の下で。
誰にも見えない場所で。
震える拳を押さえるみたいに、強く。
……落ち着け。
落ち着け。
雄大が泣きそうな顔で席を立って、図書室を出ていった。
その背中を見ながら、俺は一度も呼び止められなかった。
呼び止めたら、終わる。
そう思ってしまった。
自分でも訳が分からない。
廊下で女子に囲まれたのは、ただただ面倒だった。
興味がない。
誰でもいいわけじゃない。
興味があるのは、ひとりだけ。
でも、ひとりだけに興味があるなんて言えるわけがない。
女子たちは言う。
「篠山くん、ちょっとだけ!」
「話したいだけ!」
俺は断る。
「……無理」
「……興味ない」
それでも引かない。
そして、誰かが言った。
「崎枝くんとは話してるのに?」
その瞬間、俺の中の何かが凍った。
雄大の名前を出すな。
巻き込むな。
あいつは、俺の――
いや、違う。
俺の、なんでもない。
でも、俺は雄大を守りたかった。
だから、咄嗟に言った。
「崎枝は関係ない」
女子に向けた言葉。
巻き込むな、という意味。
……なのに。
その言葉はたぶん、雄大の胸を刺した。
見えてしまったからだ。
雄大が近づいてくるのが。
助けようとしている顔。
昔と同じ、真っ直ぐな顔。
可愛すぎて、愛おしすぎて胸が潰れそうになった。
――来るな。
来るな、なんて言いたくなかった。
でも、言わないと。
女子たちの前で雄大が近づいたら、
噂がもっと悪い方向に広がる。
雄大が傷つく。
だから俺は、冷たく言った。
「……来んな」
雄大の顔が、一瞬で折れる。
その瞬間、俺の内側が引き裂かれた。
痛い。
痛いのに、声は冷たいまま。
俺はもう一度、言った。
「……もう来んな」
――止めろ。
止めろ、俺。
でも止められなかった。
守るために。
遠ざけるために。
俺は雄大を、自分の手で突き放した。
崖から落とした。
助けずに、見捨てた。殺したんだ。
そして、昨日。
雄大が言った。
「もう、話しかけないから」
その瞬間、世界が少しだけ揺れた。
俺の中の呼吸が止まった。
……やめろ。
それだけは、やめてくれ。
口から出そうになった。
「待て」って。
「違う」って。
「俺は」って。
でも、言えなかった。
俺は、終わりを選び続けている。
自分で自分を守るために。
雄大を守るために。
でも、守ってるつもりで傷つけている。
雄大は今、隣の席で前だけを見ている。
俺を見ない。
俺が話しかけても、短く返すだけ。
それが宣言通りだと分かって、胸が痛い。
授業中、雄大がペンを落とした。
拾いたくて手が動きかけて、止めた。
拾ったら、また触れそうになる。
触れたら、終わる気がする。
……本当に馬鹿だ。
終わるのが怖いのに、
終わらせる行動ばかりしている。
俺はノートの端を強く押さえた。
紙が少しだけ皺になる。息を吐く。
冷たい顔をしたまま。
心の中だけが、うるさい。
雄大……
分かってくれ……
冷たいのは、嫌いだからじゃない。
好きだからだ。
好きすぎて、可愛すぎて、眩しすぎて。
俺の世界の中心に戻ってきてしまったから。
俺は、また壊れるのが怖い。
でも――
雄大が離れていくのは、もっと怖い。
俺は初めて、自分の中の結論に気づいた。
このままじゃ、本当に終わる。
終わらせたくない。
なら、俺が変わるしかない。
俺が、言うしかない。
言ったら終わると思ってた。
でも、言わなければ終わる。
……結局、どっちにしても終わるなら。
俺は終わらせない方を選びたい。
好きだ。
ずっと好きだった。
今も、好きだ。
雄大が前だけを見ている横顔を、俺は見ないふりをした。
見たら、崩れる。
でも――
崩れてもいい。
そう思えるくらい、俺はもう追い詰められている。
次のチャイムが鳴る。
教室の空気が動く。
その中で俺だけが、静かに決意していた。
もう、“冷たいふり”はやめる。
少しずつでいい。
少しずつでいいから。
雄大の隣にいる理由を、
今度は――自分の言葉で作る。
そうしないと、俺はまた逃げる。
好きだから逃げる。
そんな矛盾を、終わらせるために。
