幼馴染が帰ってきた。最強にかっこよくなって。

 偏差値七十超え――なんて言葉は、だいたい“人の顔が硬くなる場所”の代名詞だ。

 都内でも有名な進学校、青霞(せいか)学院。
 校門をくぐるだけで、空気が一段、薄くなる気がする。

 朝のホームルームまでの時間。
 廊下に漂うのは、香水じゃなくてシャーペンの芯と消しゴムの匂い。
 誰もがそれぞれの“戦う顔”をしていて、無駄な会話は少ない。

 ……のはずなんだけど。

「おっはよー! 眠い! てか今日寒くない!?」

 その空気を、遠慮なく破壊しながら歩くのが――

 崎枝雄大(さきえだ ゆうだい)。
 俺だ。

 自分で言うのもなんだけど、俺はこの学校の中ではちょっと浮いている。
 もちろん勉強は頑張ってる。頑張ってるけど、顔までカチカチにしたら息が詰まるじゃん? っていうタイプ。

 髪は明るめの茶色。
 先生に怒られないギリギリのトーンで、柔らかくセットしてある。いや、セットってほどじゃない。もともと毛がふわっとしてるし、ゆるふわパーマがかかってるから、朝の寝癖すら“それっぽく”見えるのが救いだ。

 身長は171センチ。
 この学校、やたら背の高い奴が多い気がするから、平均くらいなのにたまに埋もれる。
 制服のブレザーは、真面目すぎないように少しだけ着崩して――ネクタイは緩め。シャツのボタンは第二まで。ここも担任の目を見て調整する。

 自分では普通にしてるつもりなんだけど。

「雄大ってさ、やっぱ目立つよね」
「え、俺? どこが?」

 後ろから言ってきたのは、同じクラスの友達――真木(まき)。
 眼鏡の奥の目がいつも冷静で、ノートが綺麗すぎる男。

「髪。あと声。あとテンション」
「最後、俺の人格否定じゃん」

 適当に笑って教室に入ると、いつもの席に向かう――その途中で、空気が変わったのに気づいた。

 ざわ、とした音。
 教室の“静かなざわつき”って、独特だ。

 大声を出してるわけじゃないのに、全員の視線が同じ方向へ吸い寄せられている感じ。
 進学校特有の、抑えた熱。

「……なに? テスト範囲の変更?」
「いや、違う。あれ見て」

 真木が顎で示した先。
 教室の前方――窓際の列に、見慣れない男子が立っていた。

 担任の先生と話している。
 肩のラインがすっと真っ直ぐで、背が高い。
 立ってるだけで、教室の景色がそこだけ変わる。

 ――次の瞬間。

 俺は、自分の呼吸が止まるのを感じた。

 黒髪。
 光を吸うみたいに深い色で、センターパートに分けられている。
 前髪は長すぎず短すぎず、さらっと頬に落ちそうなギリギリのところで整っていて……ああ、こういうの、“計算されてる”って言うんだろうな、って思う。

 眉は濃すぎず、形が綺麗。
 目は切れ長で、まつ毛が意外と長い。
 目元は冷たそうなのに、瞳の色が優しい黒で――そのギャップが、やたら刺さる。

 鼻筋が通ってる。
 顎のラインもシャープで、横顔が反則級に綺麗。
 なのに、作り物っぽくない。どこか“本物”の空気がする。

 身長は――見上げるくらい。
 たぶん、俺より十五センチくらいは高い。

 いや、違う。
 高いとか、かっこいいとか、そういう話の前に。

 知ってる。

 俺、この人を――知ってる。

 先生が黒板に向き直って、チョークで名前を書く。

 その白い字を見た瞬間、心臓が変な音を立てた。

 篠山 琉人(ささやま りゅうと)

「……っ」

 口の中が一気に乾いて、声が出ない。

 篠山、琉人。
 そんなの、間違えようがない。

 だって、その名前は。

 俺の小学生時代を、ほぼ全部占めてると言ってもいい――幼馴染の名前だから。

 教室の空気が一段、熱を持つ。

「海外帰りだって」
「顔やばくない?」
「スタイル良すぎ」
「え、モデル?」

 女子の声は小さくて、でも確実に浮き立っている。
 男子も気にしてないふりしながら、視線がそっちに行ってる。

 その中心で、琉人は――表情ひとつ変えずに立っていた。

 昔の琉人は、こんなじゃなかった。
 もっと、子どもっぽくて。すぐ笑って。すぐ怒って。
 俺と一緒に、泥だらけで走り回ってた。

 なのに、今目の前にいるのは。

 “整いすぎた大人”みたいな琉人だった。

 先生が咳払いをして、教室に静けさを戻す。

「えー、今日からこのクラスに転入してくる篠山くんだ。海外にいたから、日本の授業についていけるように、みんなサポートしてやってくれ」

 そう言って、先生が琉人に視線を送る。

「じゃあ、自己紹介を」

 琉人は一歩前に出た。
 その動きが無駄なくて、綺麗で――たったそれだけで“場”が引き締まる。

「篠山琉人です。……よろしくお願いします」

 声が、低い。
 落ち着いていて、余計な抑揚がないのに――耳に残る。

 ……え。
 琉人、こんな声だったっけ?

 俺の記憶の中の琉人は、もっと高くて、もっとガキっぽくて、もっと――近かった。

 先生が席を指示する。

「席は……そうだな、空いてるのが……崎枝の隣が空いてるな。篠山、そこ座れ」

 ――。

 俺の脳が、今言われた言葉を処理できない。

 俺の隣。
 空いてる。
 そこに琉人が来る?

 教室の視線が、琉人から俺に移動するのがわかった。
 空気が一気に“面白がる”方向へ傾く。

「え、崎枝の隣!?」
「やば、幼馴染とかじゃないの?」
「まじで?」

 勝手に話が進むな!
 ……いや、幼馴染ではあるんだけど!

 琉人が歩いてくる。
 足音が静かで、逆に目立つ。

 近づけば近づくほど、現実味が増して、頭が真っ白になっていく。
 俺、今から何を言えばいい?
 「久しぶり!」?
 「帰ってきたの!?」?
 「めっちゃかっこよくなってるじゃん!」?

 いや、最後は軽すぎるか。
 でも、言いたい。言いたいに決まってる。

 だって――

 俺はずっと、琉人がいなくなった日から。
 心のどこかで、“戻ってきてほしい”と思ってたから。

 琉人が、俺の隣の席に荷物を置く。
 机の脚が床に触れて小さく鳴った音が、なぜか妙にリアルだった。

 そして、目が合う。

 黒い瞳が俺を捉えた瞬間。

 俺の中の時間だけ、数秒遅れた。

 ――懐かしい。
 ――怖いくらいかっこいい。
 ――嬉しい。
 ――でも、なんか、遠い。

 全部が一気に来て、胸の奥が熱くなる。

 俺は、息を吸って――笑った。

「……りゅ、琉人?」

 声が震えた。
 自分でも情けないくらい、嬉しさが滲んでしまった。

 琉人は。

 一瞬だけ、目を細めた。

 ほんの一瞬。
 昔みたいに、柔らかくなる気配が――あった。

 なのに次の瞬間。

 琉人は、何事もなかったみたいに視線を逸らし、淡々と答える。

「……久しぶり、崎枝」

 ――さきえだ。

 名前。
 苗字呼び。

 俺の胸が、ずるっと落ちた。

「え、あ、うん……久しぶり! 帰ってきたんだな! いつから日本に――」

「あとで」

 短い。
 乾いた、切り捨てるみたいな声。

 俺の言葉が、喉の途中で止まる。

 ……あとで?

 琉人は机に向かって、教科書を取り出し始めた。
 その指先が長くて、綺麗で……いや、そんなの見てる場合じゃない。

 俺は、思わず口を開いた。

「……琉人、俺――」

「おーい静かに」と、先生が放ったので、会話は途切れた。

 目も合わせない。
 声だけが、冷たい。

 教室の空気が、またざわ、とする。
 誰かがひそひそ笑ったのが耳に刺さった。

 俺の顔が熱くなる。
 恥ずかしいのか、ショックなのか、わからない。

 ……嘘だろ。

 俺が知ってる琉人は、こんな言い方しない。
 俺に、こんな距離の取り方、しない。

 海外に行っただけで。
 たった数年、会ってなかっただけで。

 人って、こんなに変わるのか?

 ホームルームが始まる。
 先生の声が教室に響く。

 俺はノートを開きながら、隣の琉人をちらっと見た。

 黒髪の影が、頬に落ちている。
 横顔は完璧で、呼吸すら静かで、世界から切り離されたみたいに落ち着いている。

 ……なのに。

 俺の視線に気づいたのか、琉人のまつ毛がわずかに揺れた。

 そして、机の下――誰にも見えない場所で。

 琉人の手が、ぎゅっと握られるのが見えた。

 強く。
 爪が食い込みそうなくらい。

 ――え。

 なんで?

 冷たいのは、俺が嫌いだから?

 じゃあ、今のその手は――。

 俺の頭は追いつかないまま、胸だけがざわついた。

 嬉しいのに。
 懐かしいのに。
 隣にいるのに、遠い。

 俺は、ノートの端に小さく書く。

『りゅうと 冷たい』

 書いた瞬間、なんだか涙が出そうになって、慌てて消しゴムで擦った。
 白い紙に、薄く跡だけが残る。

 ――俺は、思った。

 絶対に。
 絶対に、昔の琉人に戻ってもらう。

 あの頃みたいに笑って、くだらないことで喧嘩して。
 俺の名前を、下の名前で呼んで。

 そうしないと――

 このままじゃ、俺の心が、追いつかない。

 教室の窓から冬の光が差し込む。
 その光が、琉人の黒髪の端を少しだけ銀色に染めた。

 綺麗だ。
 綺麗すぎて、怖い。

 そしてこの再会は、俺にとって“偶然”じゃない。
 ずっと待ってたことに、限りなく近いから。

 窓から冬の光が差して、机の上を白く照らす。
 その光の中で、琉人の横顔だけがやけに綺麗で、現実味がなかった。

 そこにいないはずだった幼馴染が。
 いま、俺の隣にいる。

 なのに、俺は。

 その幼馴染が、何を考えているのか、一つも分からない。