近頃、生徒同士の交際が増えてきた。いや、増えたという表現はおかしいか。――増えたというより、可視化された、と言ったほうが正確だろう。
以前から芽吹いてはいたのだ。休み時間の廊下で交わされる視線や、放課後の校門前でのぎこちない会話。だがそれらは、あくまで噂話や想像の域を出なかった。ところが最近は違う。スマートフォンの画面に残るやり取りや、SNSに上がる何気ない写真が、彼らの関係を雄弁に語ってしまう。隠す努力より、共有する衝動のほうが勝っているのかもしれない。
教師としてそれをどう受け止めるべきか、正直なところ判断に迷う。恋愛は成長の一部だと理解している一方で、未熟さゆえの衝突や、学業への影響を思うと、手放しで見守る気にもなれない。結局のところ、私は今日も職員室の窓から校庭を眺めながら、線を引くべき場所を探しているのだ。彼らの世界に踏み込みすぎず、しかし目を逸らしすぎない、その曖昧な境界線を。
その境界線は、日によって位置を変える。
朝礼で二人並んで立つ姿を見たときは、少し近すぎると思う。だが、昼休みに別々の友人と笑っているのを見れば、案外うまくやっているのかもしれないと安心もする。私の基準など、結局は感情に左右された曖昧なものだ。
校則という名の定規は一応ある。だが、それを振りかざすたびに、誰かの気持ちを切り落としてしまう気がして、躊躇が生まれる。禁止すれば収まるほど、感情は単純ではない。むしろ、締め付けた分だけ、水は別の場所から溢れ出す。

「高橋先生は、いつもお暇なんですか?」

能面のよう顔で凛々しく立ち、氷河ような言葉を容易く投げ付ける彼女は保健室にいて欲しい教師ランキングに毎月の如く殿堂入りしている諏訪京子だ。

「暇に見えるなら、観察眼が鋭いのか、私の威厳が足りないのかですね」

そう返すと、諏訪は眉一つ動かさなかった。まるで、その程度の皮肉は気温変化としても感知しないと言わんばかりだ。白衣の裾を揺らすこともなく、廊下の中央に立つ姿は、まさに“氷河”の形容がよく似合う。

「無駄口を叩く時間があるなら、生徒指導の方針を共有していただきたいのですが」

淡々とした声。責めているわけでも、怒っているわけでもない。ただ事実だけを並べる、その話し方が一番私には堪える。

「最近、三組でも問題が増えています。交際そのものではありません。そこから派生する体調不良、欠席、保健室利用の増加。感情は健康に直結しますから」

さすが保健の教師だ。恋愛を“症状”として捉える視点は、私にはなかった。

「規制すべきだと言いたいわけではありません」と諏訪は言った。「ただ、放置もまた一つの介入です。何もしないという選択が、必ずしも中立ではない」

その言葉に、少しだけ胸が詰まる。私がこれまで取ってきた距離感――近づきすぎず、離れすぎず、という自己満足の均衡が、彼女の前では脆く見える。

「……では、諏訪先生はどうするおつもりで?」

そう問うと、彼女は一瞬だけ視線を外し、窓の外に目をやった。夕方の光が、能面のような表情にかすかな陰影を落とす。

「私は、具合の悪い生徒を休ませます。話したい生徒の話を聞きます。それだけです」

そして、彼女はこちらをまっすぐに見据えた。

「高橋先生は、“担任として”何をなさいますか?」

逃げ場のない問いだった。廊下の冷気が、少しだけ強まった気がした。

ここ、私立女子高等学校には、暗黙の了解がいくつも存在する。
校則に明文化されていないが、確かに共有されている空気。恋愛は「あるもの」として扱われながら、「ないもの」のように振る舞うことが求められる。問題にならなければ黙認され、問題になった瞬間にだけ、急に“指導”という言葉が現れる。その曖昧さが、この学校を長年、無難に保ってきたのだろう。
私はその流れに、疑問を抱きながらも乗ってきた一人だった。

「担任として、ですか」

そう呟いてから、少し間を置く。即答できない沈黙は、肯定よりも雄弁だ。
諏訪は急かさない。彼女はいつもそうだ。生徒の脈を測るときのように、相手が言葉を選び終えるまで待つ。

「まずは、話を聞きます」

ようやく絞り出した答えは、ひどく凡庸だった。

「問題が起きてから叱るより、その前に何が起きているのかを知りたい。…理想論だとは思いますが」
「理想論は嫌いではありません」

諏訪は即座に切り捨てなかった。ただし、肯定とも違う。

「ただ、この学校では“誰が聞くか”が重要です。生徒は、大人を選びますから」

その通りだった。優しい教師、厳しい教師、何も言わない教師。生徒たちは驚くほど正確に、大人を分類する。そして、自分の都合のいい場所にだけ、真実を落としていく。

「高橋先生は、聞かれやすい」

彼女は事実を述べる口調で言った。

「それは長所でもあり、危うさでもある」

能面のような顔に、初めてわずかな“個人的感情”の影が差した気がした。忠告だ。冷たいが、善意を含んだ。
チャイムが鳴り、廊下の空気が揺れる。部活動へ向かう生徒たちの足音が、遠くから近づいてくる。 
「……逃げませんよ」

私は自分でも驚くほど、静かな声でそう言った。

「少なくとも、見ないふりはしない」

諏訪は一度だけ、ほんの僅かに頷いた。それは承認というより、観測結果の更新のようだった。

「では、いずれ保健室で会いましょう」

そう言い残し、彼女は踵を返す。
残された廊下に、冷気はもうなかった。ただ、責任という名の、じわりとした重みだけが、床に沈んでいた。

放課後、相談があると言って訪ねてきた生徒がいた。内容は勉強のことだったが、言葉の端々に別の誰かの影が滲んでいる。私はあえて踏み込まなかった。ただ、「自分で選んだことなら、最後まで考えなさい」とだけ伝えた。その一言が正しかったのかは、今もわからない。彼女は暗い表情のまま、何か言いたげな眼差しだけを残して教務室を後にした。
教室の灯りが一つ、また一つと消えていく。若さの熱が残る廊下を歩きながら、私は思う。彼らの恋は、やがて終わるかもしれないし、形を変えて続くかもしれない。どちらにせよ、その時間は彼らのものだ。私にできるのは、転びそうなときに、少しだけ近くに立っていること――それだけなのだろう。

自宅の風呂が壊れたのはそれから数日のことだった。正確に言えば、壊れたというより、沈黙した。スイッチを入れても反応はなく、給湯器はまるで私の生活に興味を失ったかのように無言を貫いた。点検ランプすら点かない。潔いほどの拒絶だった。
馴染みの銭湯に行くといつものように番台に座る変態婆の姿があった。相変わらず男の着替えをのぞいている。元気そうで何よりだ。

「今日は遅いじゃないか」

声だけはこちらに投げてくるが、視線は男湯側に固定されたままだ。もはや職人芸の域である。

「家の風呂が機嫌を損ねまして」

そう答えながら、下足箱に靴を押し込む。鍵の感触が、ここに来たという実感をくれる。

「モノも人も、急に黙るときがあるからねぇ」

婆はしたり顔で言う。覗きの合間に人生訓を差し込んでくるあたり、油断ならない。
脱衣所はいつも通りで、少し湿った木の匂いと、誰かの使った石鹸の残り香が漂っている。ぐるぐると首を回す扇風機はもう直ぐ還暦を迎えそうな勢いの風力しかなかった。
制服を脱ぐと、肩に乗っていた一日の重さが、布と一緒に床に落ちた気がした。
湯船に身を沈める。熱が、思考の角を丸めていく。学校では常に“正しい距離”を測っているのに、ここでは誰とも距離を測らなくていい。ただ同じ湯に浸かって、同じ天井を見上げるだけだ。
隣に入ってきた常連が、天気の話をする。私は相槌を打つ。内容はどうでもいい。ただ、名前も立場も問われない会話が、妙に心地いい。
上がる頃には、身体だけでなく、頭の中のざわつきも少し静まっていた。番台で代金を払うと、婆がまた一言。

「覗かれる側より、覗いてる側のほうが案外孤独なんだよ」

意味を測りかねているうちに、婆はもう男湯のほうを見ている。私は苦笑し、暖簾をくぐった。
夜風が火照った首筋を冷やす。問題は何一つ解決していない。それでも、沈黙した給湯器よりは、こうして余計なことを言う誰かがいる場所のほうが、ずっと人間的だと思えた。

「高橋先生は、恋人いますか?」

そう聞いてきたのは、いつぞや勉強を教えてほしいと教務室を訪れた生徒だった。問題集を抱え、必要なことだけを過不足なく尋ねてきた、記憶に残りやすいタイプの生徒だ。彼女の名前は西村咲と言う。
クラスでは紫と呼ばれていた。理由は単純で、彼女の名前の「村咲」をひらがなにすると「紫」が残る、という誰かの言葉遊びが定着したからだ。本人はその呼び名を特別好んでも嫌ってもいないようで、呼ばれれば振り向くし、呼ばれなくても気にしない。そういう距離感の生徒だった。

「最近、諏訪先生と仲良さそうだったから」

その一言で、私の思考は一瞬停止した。まさか、あの氷河のような諏訪が、生徒の観察対象になっているとは思わなかったからである。学校では、諏訪は距離を測る完璧な大人であり、恋愛対象とは縁遠い存在だと、私は無意識に思い込んでいた。

「そう、ですか……」

私は言葉を選びながら答える。否定するのも肯定するのも、どちらも余計な気を回すことになる。紫こと西村咲は、鋭く私を見つめ、わずかに首を傾げる。

「だって最近、楽しそうに話してるじゃないですか」

彼女の声には、非難でも羨望でもなく、純粋な観察眼が混じっていた。学校で私たちの間にある“教師同士の距離感”も、彼女には一目で見抜かれる。
私は肩をすくめ、苦笑を浮かべる。

「楽しそうに見えるだけで、実際は仕事の話ばかりですよ」
「そうかなあ……」

紫は首を傾げたまま、少し考える素振りを見せる。隙間風が彼女の黒髪を揺らし、西陽が頬をに陰がさす。

「でも、先生、恋人いないんですよね?」

再び本題に戻る。問い方は、さっきよりも素直になっている。

「ええ、いません」

私は短く、事実だけを置く。言葉の奥に余計な情緒を混ぜると、線を越えてしまう気がした。
紫は小さく頷き、納得したのか、それとも諦めたのか分からない表情を浮かべた。

「ふーん……変なこと聞いちゃいましたね」
「変ではありません。ただ、話す場所と時間は選びましょう」

背中を見送りながら、私は考える。
観察される側であっても、教師としての線を引かなくてはならない。恋愛の有無は些細なことだが、その距離感をどう保つかは、案外難しい。

翌日、赴いた保健室には薬品の匂いが濃く漂っていた。消毒用アルコールと、どこか甘さの残るシロップ薬が混じった、諏訪の領域特有の空気だ。鼻の奥に触れた瞬間、背筋が自然と伸びる。
カーテンは半分だけ閉じられ、朝の光が白い床に帯を落としている。ベッドはきちんと整えられ、体温計は所定の位置に並んでいた。ここでは曖昧さが許されない。恋も、感情も、症状として整理される。

「おはようございます」

私が声をかけると、諏訪はカルテから目を離さずに応じた。

「おはようございます。珍しいですね、朝から」

その声色に、含みはない。ただ事実だけがある。

「少し、相談を」

そう言った自分の声が、思ったよりも低かった。
諏訪はようやくこちらを見る。能面のような表情は変わらないが、視線の焦点が合う。

「生徒のことですか。それとも、高橋先生ご自身のことですか」

逃げ場のない問いは、ここにもあった。
私は一瞬、迷ってから答える。

「両方です」

諏訪は小さく息を吸い、椅子を引いた。錆びついた丸椅子がギィーと嫌な音を鳴らす。

「では、座ってください。保健室は、具合の悪い人のための場所ですから」

具合が悪い、という言葉が、やけに広い意味を持って聞こえた。

「生徒は、大人をよく見ています」

諏訪は、昨日と同じことを、少しだけ違う調子
薬品の匂いは、相変わらず強い。だが不思議と、息はしやすかった。
この部屋では、感情もまた、処置の対象になるのだろう。

「見られる覚悟がないなら、距離を取りすぎるしかない。でも——」
「……高橋先生、生徒との間に、何かあったのですか?」
「実は昨日――」

そう前置きしてから、私は廊下で西村咲と会ったこと、恋人がいるかと問われたこと、その理由として諏訪の名前が挙がったことを、できるだけ感情を削いで説明した。事実だけを並べるように。保健室という場所が、そうさせるようだった。
話し終えると、諏訪はすぐには何も言わなかった。カルテに視線を落とし、一本の線を引いてから、ようやく口を開く。

「恐らく、その西村咲さんは、高橋先生に恋をしていますよ」

一瞬、言葉の意味が身体に届かなかった。心臓が遅れて脈を打ち、保健室の時計の音だけがやけに大きく聞こえる。

「……それは」

否定しようとして、言葉が途切れる。否定できるほどの材料も、確信もない。
諏訪は淡々と続けた。

「珍しいことではありません。優しく、一定の距離を保ち、話を聞く大人。思春期の生徒にとっては、感情を投影しやすい条件が揃っています」

私は視線を落とす。カルテでも床でもなく、自分の手元に。

「私は、何も――」
「ええ。何もしていません」

即座に言い切る。

「だからこそ、です」

その言葉が、重く、しかし正確に胸に落ちた。

「西村さんのそれは」

諏訪は慎重に言葉を選ぶ。

「成熟した恋愛感情ではありません。安心、尊敬、依存、その混合物です。名前を与えるなら“恋”になる、というだけ」
「……それでも」
「教師としては、危険な領域ですね」
「はい」

短い肯定。

「ですから、今が一番重要です」

諏訪は椅子に腰掛け、正面からこちらを見る。

「高橋先生が戸惑ったり、過剰に距離を取ったりすると、彼女は“何かあった”と解釈します。逆に、今まで通りを意識的に続けることが、最も安全です」
「今まで通り……」
「教師として、です」

言い切りだった。

「個別対応は必要最低限に。可能なら、他の教員の目がある場所で。会話は学業と学校生活に限定する。私的な質問には、答えないか、一般論に逃がす」

まるで処置手順だ。なんとも保健室の先生らしい。

「そして」

諏訪は少しだけ間を置いた。

「決して、彼女の感情を“特別扱い”しないこと」

その言葉に、背筋が冷える。無自覚な特別扱いこそが、一番の誤りだ。

「生徒の恋は、大人が完成させてはいけません」

諏訪は静かに言った。

「未完成のまま、別の形に変わる余地を残す。それが、私たちの役目です」

私はゆっくりと息を吐いた。

「……そう、ですよね。わかりました」
「不安そうですね」
「ええ」

正直に答える。

「傷つけたくない」

諏訪は首を横に振った。

「高橋先生。傷つかない恋はありません。でも、壊さずに終わらせることは、できます」

保健室の薬品の匂いが、少しだけ薄く感じられた。

「担任として、教師として」

諏訪は立ち上がる。

「今の高橋先生なら、大丈夫です」

励ましにしては、あまりに事務的だった。だが、その事務性が、今はありがたい。
私は椅子から立ち、深く一礼した。

「ありがとうございます」

廊下に出ると、いつもの学校の音が戻ってくる。笑い声、足音、チャイムの残響。
恋は、そこかしこに落ちている。
問題は、それを拾うか、踏み越えるか、そっと避けるか――。




「いいえ。全く違いますね」

いつもとは違い、今回の勉強会は教室で開かれた。
教師になったはずなのに、生徒用の小さな椅子に腰を下ろしている自分が滑稽だった。机の高さは微妙に合わず、ノートを置く手元が少し窮屈で、それでも、窓から見える夕焼けと静かな教室に二人だけと言う状況がそんなロマンチックな空間だったからこそ、私は西村咲に思い切って尋ねる選択をとってみた。その返答がまさかの全否定。顔から火が出るとはよく言ったものだ。耳の奥まで熱くなり、視線の置き場に一瞬困る。教師としての冷静さを装うには、少しだけ時間が必要だった。

「……そう、ですか」

ようやく出た声は、我ながら無難すぎた。
西村咲――紫は、申し訳なさそうでも、からかう様子でもなく、ただ事実を訂正したという顔で頷いた。

「はい。先生が心配してるようなことは、何もないです」

その言い方が、逆に胸に刺さる。心配していること自体が、すでに一段階踏み込みすぎていたのだと、遅れて理解する。浮かれていた自分が、なんとも情けない。

「じゃあ、あの質問は?」

逃げ道を探すように、私は確認する。

「興味があったんです。恋ってどんな感情なんだろうなと。まわりの同級生たちはみんな幸せになれると、しか教えてくれませんでした。変な薬かはたまた変な宗教にでもてをだしたのかと不安になったものです」

そう言って、西村はほんの少しだけ口角を上げた。冗談めかしているが、目は笑っていない。観察者の目だ。

「幸せになる、だけじゃ説明にならないですから……数学なら、途中式を省いたら減点されるのに」

妙に納得のいく比喩だった。

「それで」

西村は私を見る。

「先生なら、どう説明するのかなって」

逃げ道を探していたはずなのに、気づけば正面から立たされている。教師という立場が、また別の顔を要求してくる。

「恋は…」

私は少し考えてから言った。

「幸福になるための感情じゃありません。結果としてそう見えることはありますが、もっと単純に言えば、自分の思考の優先順位が、勝手に書き換えられる状態です」
「……バグみたいですね」

即座に返ってきた。

「ええ。確かに似てますね」

思わず苦笑する。

「厄介で、非効率で、放っておくと誤作動も起こす」
「それで、みんなあんな顔になるんだ」

西村は納得したように頷く。

「幸せそう、というより、処理落ちしてる感じ?」

彼女の例えが的確すぎて、笑いそうになるのを堪えた。

「ただ、その状態でしか見えない景色もあります。だから、人はわざわざそのバグを経験する」

西村は少し黙り、机の上の問題集に視線を落とした。

「……なるほど。じゃあ、別に急いで感染する必要はないですね」
「ありません。必要になったら、勝手に、もちろん西村さんにも起きますよ」
その言い方が気に入ったのか、彼女は小さく笑った。

「先生、案外ロマンチストですね」
「職業病です」
「それなら、先生は経験したことあるんですか?その”バグ”に」

その問いは、好奇心から投げられたものだった。軽い調子で、けれど無邪気すぎない距離感で。
だからこそ、私は即答しなかった。

「ありますよ」

少し間を置いて、そう答える。

「でも、それは“先生になる前”の話です」

西村は「へえ」とだけ言って、続きを促すように首を傾げた。

「経験したから分かることもあります。優先順位が狂う感じとか、冷静な判断ができなくなる怖さとか。あと――」
「あと?」
「終わったあとに、案外ちゃんと日常に戻れる、ということも」

その言葉に、西村は少し意外そうな顔をした。

「もっと、引きずるものかと思ってました」
「引きずる人もいます。でも、大抵は“そのときの自分”を理解する材料になります。成功でも失敗でも」
「ふうん……」

彼女はペンを指で回しながら考え込む。

「じゃあ、無駄じゃないんですね」
「無駄な感情は、あまりありません」

私はそう言ってから、付け加える。

「ただし、扱い方を間違えると、怪我をします」

その一言で、彼女は私の言いたい距離を察したらしい。少しだけ姿勢を正す。

「先生」
「はい」

「…今日はいい話聞きました」
「それなら良かったです」