「あはは、それでねーあいつがさ!」
「うんうん……」
授業の合間の休憩時間。
私、朝凪幸は仲の良い女友達の恋愛話に口角を上げながら相槌を打つ。
ギシッとぼろい音を立てながら、机に堂々と腰を掛けて大きな声で話す彼女に抱いたのは、憧れなんかじゃなく軽蔑だった。
ふと、スクールカーストなんていつから気になってしまったのだろうと考えた。
小学生? いや中学か。スクールカーストなんて、気づかないうちに私たちの体に染みついていたと思う。周りにいっぱい人がいないと、生きづらい。楽しくない。
そう不思議と植え付けられていたような気がする。
どうして私たちはこうも群れたがるんだろう。
一人でいることは「可哀想」なことで、誰かに選ばれないことは「価値がない」こと。 そんな無言のルールが、この教室、いやこの社会の空気には埃のように混じっている。
その埃を吸い込むたびに、肺の奥が薄汚れていくような気がして、私は浅い呼吸しかできなくなっていた。
*
放課後、誘われるままに駅前のカラオケボックスに流れ込んだ。
マイクを握って今流行りのアップテンポな曲を歌う。タンバリンを叩いて、友達と目を合わせて笑った。
その瞬間だけは、確かに「楽しい」ような気がしていた。お腹の底から声を出し、リズムに身を任せている間は、自分が抱えているドロドロとした何かを忘れられているような錯覚に陥る。
けれど、三時間のコースを終えて、駅の改札で「じゃあね!」と手を振り合った瞬間。
「はぁぁぁ……」
背中を向けた途端に、それはやってくる。
さっきまで体中に漲っていたはずの熱が、指先から急速に逃げていき、代わりに流れ込んでくるのは、鉛のように重たい倦怠感だ。
笑いすぎたせいで強張った頬の筋肉が、情けなくぴくぴくと震えている。
疲れた。なんでか、楽しいとは思えるんだけどなぜか終わった途端疲れるんだよな。なんなんだろう、これ。
「帰りたくないな……」
私は帰り道の真ん中で立ち止まって呟いた。
なんとなく、まっすぐ家に帰るのが嫌だった。
理由なんてない。でも、このまま寝て、明日また同じような一日が始まると思うと少しだけうんざりした。
私は気が付くと、近くの浜辺まで来ていた。まさかこんな時間に海に来るとは思わなかったけれど、足は吸い寄せられるように砂浜へと踏み出していた。
海水が必死に砂浜を掻き分けていく音が、私にはひどく孤独に思えた。夕方をもう過ぎているからか、人なんかいないこの場所に一人で立っている私を強調するように、ただ淡々と機械的なリズムで波打っていた。
私は砂がスカートにできるだけ付かないように、慎重に体育座りをして海を眺める。
理由なんてない。私はただ、死にたい。
私の胸に開いた穴を埋めてくれるというわけではなかった。
そして数分、いや数十分が経った頃だろうか。流石に帰らなきゃ心配かけちゃうと思い立ち上がる。スカートに着いた砂を叩いて払い、少しだけザクザクと音を立てながら砂浜を歩いた。
そしてふと、足を止めて空を見上げる。
別に、特別な星空じゃない。明日もきっと今日と同じ、平凡で退屈な日が続く。そんなことを考えていた、その時だった――。
――カッ、と空が爆発したような光が降り注ぐ。
大きく、空に太陽が降り注いだような眩しさ。
思わず目を手で覆い、恐る恐る手を外した。すると、暗い星空の向こうから巨大な「何か」がゆっくりと降りてくる。
「……え、なに、あれ」
――それは、夜の底をかき乱すように、巨大な海月が空を泳いでいた。
半透明の傘が脈打つたびに、星の光がキラキラと弾ける。
現実感のない。けれど圧倒的に衝撃的なその光景に、私は瞬きすることさえ忘れていた。スマホの画面に逃げることすら許さないその光景に、私はただ、射抜かれたように立ち尽くしていた。
逃げなきゃ。
私の体はぶるぶると震えていて、私は走って階段を駆け上った。
宇宙人? なにあれ。
私はおぼつかない足をできるだけ早く動かし、家まで走り切った。
*
「ただいま……!」
ガチャッと家の扉を開け、リビングに入ろうとすると、ベランダから空を見上げていたお母さんがこっちを向く。
「あ、お帰り! ねえ、空の海月見た?」
「見たよ、なにあれ!?」
バサッとソファーに鞄を投げ捨てて、コップに水を灌ぐ。リビングのテレビには、海月の出現を知らせるアナウンサーの声が響いている。
だけど、カメラでは観測できていないようで、綺麗な星空だけが映し出されていた。
変なの。
「なんか、現実味がないわよね……綺麗なんだけどちょっと心配……」
「……本当にね」
乾ききった喉にゴクっとコップの水を流し込んで、心拍数がようやく落ち着いてきたタイミングで改めてお母さんと空を見上げた。
だけどなんか違和感を感じる。
私の目に映っている海月は、綺麗な青色や綺麗な輝きを見せているわけでもない。
出てきた時の海月とはまるで打って変わって、ぷかぷかと浮かんでいる海月は、なぜか灰色でドブネズミのような色をしていて、私にはかなり不快感があった。
別に見て楽しいものでもない。
すると、ニュースのアナウンサーが急遽横から紙を受け取って、早口で話し始めた。
「えっと、速報です。海月は見える人と見えない人がいることと、人によって色が変わっていることが分かったそうです」
その瞬間、私はもう一度お母さんと目を合わせた。
「幸、あんた何色?」
「私は灰色」
「そう、私は青色だわ……」
だけど、なんとなく。私が見ている”灰色”がよくないことは、直感で感じていた。
「なんか騒がしいね」
「あ、お姉ちゃん……」
「あんたも見なさいよこれ」
「ん?」
お母さんが庭の窓を開けて、月を指さした。するとお姉ちゃんはびくっと体を震わせて、じっと見つめた。
「なに、これ」
「ほんと、現実じゃないみたいよね」
そんなことをぼそっと呟いて、お母さんは顔を顰めながら海月を見上げた。そしてお姉ちゃんもその現実味のない状況を飲み込めていないようだった。
「あ、お姉ちゃん何色に見える? なんか人によって違うらしいんだけど」
私はスマホで検索しながら言うと、興味深い考察が出てきた。
赤は危険信号、か……。
お母さんも私も赤じゃないから大丈夫――。
「――色? あー、私は多分赤だね」
「赤……」
ネットの知恵袋に乗ってある情報にもう一度目を向けた。
でも、まだ確定してないし。ここで話すと不安を煽るだけか。
お姉ちゃんが目を丸くしながら頭を傾けたところで「そっかありがと」と小さく返事した。
「でも変よね、人で色が変わるなんて。まるで映像みたい」
「なんなんだろうね、これ」
私はもう一度灰色の薄汚い海月に視線を移した。やっぱり、見ても楽しくない。
*
「ねえ、海月何色だった!?」
「私は青色だよ!」
学校に行くと予想通り海月の話題で満ち溢れていた。いつもの女子メンバーに私は『青色』と宣告した。
SNSで調べた限り、青色がネガティブな意味合いはないと言われてたし、これが普通だよね。
すると、クリーム色の艶やかな髪をツインテールで可愛らしくまとめている女の子が教室に入ってきた。
「おはよ、幸」
「おはよう天音」
ニコッと可愛らしく微笑むこの子は、『暁天音』中学からの親友でいつも一緒に居る。
「昨日大丈夫だった?」
「ああ、風邪? 全然大丈夫」
私の隣の席に鞄を置いて、苦笑しながら手をふりふりと振った。そして椅子に座ると、さっきまで話していた女子が天音に訊く。
「天音ちゃんは何色だった?」
「あー私は緑だけど、なんか意味あるのかな」
「あるらしいよー緑はえっと……幸運らしい!」
スマホを見ながら、天音にそう答えた。
「そっか。ならよかった」
ツインテールをひらりと揺らして嬉しそうに答えた。昨日風邪で休んでたけど、大丈夫そうでよかった。
すでにネットで海月の色の意味なんて調べたら無数に出てくるようになっていた。本当にいい時代になったと思う。
「そうそう、ここだけの話なんだけどね」
手で会話のボリュームを抑えながら話す女子に、私と天音は顔を近づけて聞いた。
「夜宮紬さん、灰色らしいよ」
その言葉を聞いた瞬間、ビクンと体硬直し、平衡感覚を失ったように眩暈を感じた。
「灰色?」
天音が不思議そうに頭を傾けて訊くと、里奈は恐ろしい言葉でも言うかのように、ゆっくりと口を開いた。
「そう、灰色の人はなんか、危ない人? らしいよ……」
「え、夜宮さんが? そんなわけあるわけないじゃん。ね、幸?」
私は思うように体が動かなかった。灰色はSNSで調べても決して多くはなかった。なのにあの夜宮さんが……。
「…………幸?」
「え、あ。ごめん!」
天音は私の顔を不思議そうにしたから覗いてきてようやく正気を取り戻した。そして天音たちはいつも通り雑談を始めた。
そして私は、ゆっくりと夜宮さんの方を向いた。夜宮さんはいつも通り読書に熱中しているようで、周りのことなんか見てすらいない。
肩くらいの黒く艶やかな色に、整った顔立ち。だけどどこか人を寄せ付けない負のオーラ。
あの夜宮さんが……。
*
「じゃあこれで終わります! あと幸ちゃん、ちょっといい?」
ホームルームが終わるのと同時に、担任の先生が申し訳なさそうに目を細めながら、私に手を合わせた。
またか……。
みんなが次の授業の準備や、雑談に熱を燃やす中、私は先生のいる教卓に足を運んで、優等生の笑顔を塗り付ける。
「それで、どうしたんですか?」
「そうそう、昨日の委員会決め図書委員だけ決まらなかったじゃない? それで幸ちゃんはなにも入ってなかったから……ね?」
そういうことか。
昨日の6時間目にやった委員会決め。図書委員会はかなり楽ということはみんなが知っていて、やりたいという人がクラスにはいたのだ。
……だけど、一番最初に立候補した人が夜宮紬さんだったのだ。そのせいでみんな立候補しなくなって、各クラス二人必要な図書委員のもう一人が決まらなかったというわけ。
「あー、いいですよ? 私やりたいと思ってたんで!」
「ほんと!? よかったわーやっぱ幸ちゃんは頼りになるなー」
あはは、と笑うこの新人担任の笑顔を見ると、自分の手を汚さずに済んだ安堵感に浸っているようで、ひどく吐き気がした。
一年の頃からこの先生のお願いはどんどんと増加していった。だけど私は断れないんだ。
「全然いいですよ!」
私は優等生だから。
*
そして放課後。図書委員の説明があるということで、私は鉛のような重い足取りで筆箱とタブレットを持って図書室に向かっている途中。
ふと見たことのある背後を見つけた。顔を俯かせて小さな歩幅で歩く姿は、まるで子供が叱られに行くようで私とは違う重い足取りで向かっているようだった。
「夜宮さん」
私は早歩きで夜宮さんの横まで行き、顔を覗くようにして話しかけた。すると、バッと顔を上げて目を丸くさせた。
やっぱ、顔は良いんだけどなこの子。
「……あ、朝凪幸ちゃん?」
「え、覚えててくれたんだ。なんか嬉しーな」
別に私は仲良くなろうと話しかけたわけじゃない。だけど、図書委員は何かと二人になることも多いため、関わりを持っておいて損はないだろう。
それに、灰色の海月が見えるというのは聞いた限り、学校ではこの子だけだからだ。
「当たり前だよ、朝凪ちゃんはなんかクラスの中心って感じだし」
そう笑いながら呟いた。だけど、なにか見通しているような。まるで老人に見つめられているような不気味な笑顔だ。
この子って笑えるんだ、でも背筋が凍るような笑顔だ。
「そんなことないけどね。そういえばなんで図書委員に?」
「うーん……まぁ、私本好きだし。簡単そうだったからかな」
顎に手を当てて考える仕草をしながら、苦笑するように話した。特に強い思いがあったわけじゃないんだろう。
「へぇ……」
私がそう呟くと、特に話すこともなく私たちは黙々と図書館へ歩く。放課後だからか、窓からグラウンドのサッカー部の掛け声が小さく聞こえてくる。廊下にはまだ生徒が若干残っており、いつもよりも静けさがあるがまだ学校の熱気は保たれていた。
特に話題がないからか、私はひびの入った汚い校舎に目を向けた。
リフォームやら何やらすればいいのに。なんて思ったが、ふと夜宮さんに目線を向けると、泣いている子供を宥めているような優しい顔で、廊下の風景を見ていた。
なんでこんな学校を見ながら優しい顔ができるんだろう、意外と性格は明るいのかな。
*
「えー、これで説明を終わる。明日の図書整理の担当は二年A組だから頼んだぞ」
「はい!」
「はい」
先生が私たちの方を向いて、そう言い放った。私は元気に挨拶をしたが、夜宮さんはいつも通り小さく呟くだけだった。
心の底からこの人とは合わないな、と横目で見ながら拳を握りしめた。同じ灰色なのに、なんでここまで合わないんだろう、もしかして性格や心が色に反映されているわけじゃないのかな。
もし同じ性格だとしたら夜宮さんも私と同じく猫を被っているはずだから、そんなこともないのかな。
「はい、じゃあ解散」
その呼びかけでみんなが図書館から出て行った。
私たちも廊下に出て、教室に歩き始めた。30分ほど経ったからか、サッカー部の掛け声はいつも間にか休憩中の雑談に変わっていて、廊下にはコツコツと私たちだけの足音が延々と響いている。
「それにしても、明日の図書委員めんどくさいね」
「まあたしかにそうだね、でもなんか本の整理とかってちょっと憧れてたから嬉しいかも」
「まぁ、おしゃれな雰囲気は確かにあるかもだね」
頭の中で本の整理をしている夜宮さんを想像するのはあまりに容易だった。
私たちの会話は思いのほか弾んだ。初めて話したからか、私も本が好きだからというのもあるかもしれないけど、趣味のことなど色々聞けた。
この高校の校舎が大きいことが、こんなところで利点になるなんて思わなかった。すると夜宮さんは会話が途切れた時、不意に汚れが付いた半透明のガラスを通して、空にぷかぷかと浮かんでいる海月に目を向けた。
「ああ、海月?」
「……ん、あ! そうそう、すごいよね」
「そう、かな……」
私はその海月を一瞬見て、すぐに前を向いた。少し夜宮さんにはぶっきらぼうな態度になってしまったかもだけど、私は海月の話を聞くと心底気落ちする。
あんな海月なんて、なかったらよかったのに。
そんなことを思いながら、私たちは教室に着いた。もちろん教室には誰もおらず、開いた窓から風がカーテンをひらひらと揺らしながら、夕焼けが机に一瞬だけ輝きを見せた。
私は自分の席に掛けてあるスクールバッグをひょいっと持ち上げて、さっさと扉側へ進んだ。
「じゃあこれからよろしくね夜宮さん」
「ああ、うん! よろしく」
ニコッと笑う夜宮さんに私も笑みで返した。これでいい印象で保たれたはず。
私は、敵を作りたくない。
校舎を出ると、夕焼けはもうすでに沈み切りそうになっていた。私がスマホの時計を確認するとすでに17時を過ぎていた。
「はぁ……」
私は大きくため息をついてスマホをポケットにしまった。
そりゃあ下駄箱のところに誰もいないはずだ、こんな時間まで居残りとかほんと最悪。
「お疲れ!」
「うわ!」
バンッと背中に強い衝撃が来て思わず声を上げる。慌てて後ろを見ると満面の笑みで立っている天音がいた。
「って、今もう17時だよ!? なんで待ってんの」
「たまたまうちも居残りだっただけ」
私の隣に並んで歩き始める。私はため息をつきつつ、私も歩き始めた。
「ならいいけど、門限は?」
「学校の用事だし大丈夫!」
いぇーいとピースをする天音を見て思わず吹き出す。
「なにそれ、いつの間にそんな明るくなったのかな?」
私はからかうように目を細めて天音に訊くと、天音は顔を赤らめて視線を外に逃がした。夕陽に照らせれたその横顔は、中学の暗い天音とは似ても似つかないほど綺麗だ。
「いいでしょ、最近は結構頑張ってるんだから」
「まぁ、中学の時よりはいいね」
私と天音は中学の時から親友だった。先生に不登校だった天音の世話を任されたときは、評価が上がるならやっと承諾……くらいの気持ちだったけれど、話しているうちに仲良くなれていた。
今では一番仲の良い親友だ。
「それにしても海月の話ばっかでつまんないね」
「ね、ネットもテレビもそればっかり」
天音は手を頭の後ろに回した。私はできるだけ空を見ないように、まっすぐ道を見た。
「最初は宇宙人来たんじゃないかーなんて思ったんだけどな」
「え、私も!」
その言葉を聞いて私は自分に指を指した、すると天音も嬉しそうに話を続ける。
「ね! それで学校休校になれ! って思ってたのになんもメール来なかったし」
「まぁ、学校には支障ないしねー」
あはは、と苦笑しながら言う。天音も再び手を頭に回して軽い口調で「悲しいなー」と呟いた。
「お姉さんのほうはどう? 政治的に……」
私が言い終わる前に、私は言葉を閉じた。天音が体をびくっと震わせて顔を俯けてしまったからだ。
やばい、やっちゃった。
「私は、お姉ちゃんと話さないからわかんない」
「……そっか」
天音は昔からお姉さんの話が嫌いだった。天音のお姉さんは政治や会社経営など、多方面で活躍しているらしい。
多分、天音はお姉さんが嫌いだ。私はそれを直感ながら悟っていた。
「そ、そうだ! クレープ食べに行こ!」
「え、でも時間的にもう夜ご飯前だよ?」
雰囲気とは逆に声を弾ませて言うと、天音は意外にも顔を上げて目を丸くさせている。
「食べれなかったら頑張って食べれば大丈夫!」
私は意味の分からない根性論をぶつけたが、意外にもしっくり来たようで乗り気で「じゃあ行こ!」と私の手をグイっと引っ張った。
よかった。
私はこうやってズルく生きてきたんだ。
*
そして翌日、私と夜宮さんは予定通り、放課後に図書の整理をしに来ていた。
整理と言っても、返却された本を元の位置に戻すだけという単純な仕事だった。一応司書さんが番号順にはしてくれているため、夜宮さんと二人で番号の近くを回って戻すだけだ。
放課後の図書館は、生徒が溢れかえっているというわけではなく、静かに勉強をしている人や読書をしている人など、都会から外れたところにあるカフェのような静けさと心地よさが漂っていた。
こんなめんどくさい仕事も、雰囲気に流されて嫌ではないと感じている私がいた。
横の夜宮さんを見ると、本を大事そうにしまいながら髪を耳にかけた。クラスで不のオーラを出している夜宮さんとは打って変わって、意外にも話しかけやすそうなオーラが出ていた。
なんか、別に嫌な人ではないような気がするんだけど……。
クラスの女子に言われた「夜宮さんは危ない人」という言葉を思い出したが、私にはとてもそう感じられない。
「終わりましたー」
「あら、ありがとね」
私たちは移動できる本棚を持ってきて、司書さんに報告する。司書さんは本棚を扉の横に移動させて笑顔で言った。
「じゃあ、お疲れ様です」
「はーい」
お辞儀しながら小さめの声で言う私の横で、夜宮さんはただ小さくお辞儀をして図書館を去る。結局私たちはまた二人で教室まで帰ることになった。
「疲れたね」
「だねー」
ぐいーっと固まった体を伸ばす。スマホを取り出そうと思ったが、一緒にいるのにスマホを見始めるのは失礼だな。と思い私は何とか話題を捻りだす。
「そういえば夜宮さ――」
「夜宮じゃなくていい」
「……え?」
私の言葉を遮って、夜宮さんが話始めて私は思わず立ち止まった。
なんか、夜宮っていう名前が気に入らなかったのかな。なにか嫌なことを言っちゃった?
夜宮さんは前を向いたままで、私の目を見ずにただ黙っていた。私は頭が真っ白になってしまっていた、この重い雰囲気に体が耐え切れず、足がぷるぷると少し震えていた。
夜宮さんがようやくこちらを向いたかと思ったら、なぜか間抜けな顔をしていた。
「あ、ごめん。そういうなんか、嫌だったとかじゃなくて!」
手をパタパタと振りながら、必死に否定をする。その光景に、いつの間にか私の足は震えを止めていた。
「その、もう二回もこうやって話すんだから、その下の名前で……」
「……え?」
「あ、いや。全然嫌だったらいいんだけど……」
私は夜宮さんの顔をただ見ていた。照れているわけでもなく、ただ場を和ませようと乾いた笑いを見せているこの行動を。
私は嫌というほど知っている。
「わかった、紬ちゃん」
私は嫌悪感を、ただ笑顔で隠した。外の海月はこんなぽっかりと胸に穴が開いている私を、ただあざ笑うかのように。
汚い色を私に見せつけてきていた。
「もう夜かー」
「だね」
私たちは途中まで一緒らしく、自然と二人並んで帰っていた。昨日の夕焼けに暮れる校舎とは違って、夏の夜の静けさが私の頬をそっと撫でる。
部活動などもすでに終わっているようで、グラウンドからも大きな声は特に聞こえてきていない。
このくらいの気温が一番気持ちいいな。
「セーラー服だとやっぱ涼しいね」
「だね、セーラー服でよかった。可愛いし」
「そういうの気にするんだ?」
「え?」
あ。
何気なく訊いた言葉に、紬が引っかかったようにこちらを向く。その瞬間、時が止まったように感じた。
「あ、ごめん。女の子だしそういうの気にするよね」
「そうだね、可愛いほうがいい」
私が頭を掻きながらそう言うと、紬ちゃんは平然と笑う。私は話を続けようと紬ちゃんの顔を見た。
すると、前と同じように空を見上げた。だけど今回は前とは違う。
海月を見て紬ちゃんは、目を輝かせた。
「きれい」
口角を上げて、目を輝かせながら。まるで星に手が届くと本気で思っている子供のような。
世界は輝いていると信じ切っている眼差しだった。
「なに、それ」
「え?」
「なんだよそれっ!」
何年ぶりだろう、こんな大声を上げたのは。親にも、先生にも、友達にも上げてこなかった。
自分が嫌いだ。
「あんたの海月の色は灰色でしょ!? なんで、なんでそんな幸せそうな顔ができるんだよ!」
道で怒鳴り声を浴びせる私を、冷ややかな目で見ながら去っていく親子。夏風に吹かれて揺らす木々たちも、驚いて音を潜めているようだった。
「あんたはどうせ青色とか、そんなありきたりな色でしょ? あんな色、私には綺麗に見えやしない!」
「幸ちゃん……」
私は疲れ切った肺に急いで空気を送り込む。
あーあ、今まで頑張っていい子してきたのに。こんなくそみたいなことで終わっちゃうのか。
「ごめんね」
ぎゅっと、私の頭が埋められた。
「……へ?」
「それが本当の幸ちゃんなんだね、よかった」
私は理解ができず、顔を上げようとしてもさらに強く抱きしめられるばかりで、なかなか動けそうにない。
「ごめん、綺麗なんて軽々しく言って」
「……え、いや別に……」
そんなことどうでもいいはずだ、なんでこの人は私に怒鳴られてこんなことができてるんだ?
頭が真っ白から少しずつ状況を理解し始めたタイミングで、私はようやく解放された。目線を上げると紬ちゃんがまた、優しそうな顔で私を見ていた。
「幸ちゃんは灰色なんだね」
私は無意識のうちにコクっと頷いてしまっていた。
「私の色はね……」
紬ちゃんはゆっくりと顔を上げて海月の色を確認し、一瞬口角を上げる。
「青色だよ」
「うんうん……」
授業の合間の休憩時間。
私、朝凪幸は仲の良い女友達の恋愛話に口角を上げながら相槌を打つ。
ギシッとぼろい音を立てながら、机に堂々と腰を掛けて大きな声で話す彼女に抱いたのは、憧れなんかじゃなく軽蔑だった。
ふと、スクールカーストなんていつから気になってしまったのだろうと考えた。
小学生? いや中学か。スクールカーストなんて、気づかないうちに私たちの体に染みついていたと思う。周りにいっぱい人がいないと、生きづらい。楽しくない。
そう不思議と植え付けられていたような気がする。
どうして私たちはこうも群れたがるんだろう。
一人でいることは「可哀想」なことで、誰かに選ばれないことは「価値がない」こと。 そんな無言のルールが、この教室、いやこの社会の空気には埃のように混じっている。
その埃を吸い込むたびに、肺の奥が薄汚れていくような気がして、私は浅い呼吸しかできなくなっていた。
*
放課後、誘われるままに駅前のカラオケボックスに流れ込んだ。
マイクを握って今流行りのアップテンポな曲を歌う。タンバリンを叩いて、友達と目を合わせて笑った。
その瞬間だけは、確かに「楽しい」ような気がしていた。お腹の底から声を出し、リズムに身を任せている間は、自分が抱えているドロドロとした何かを忘れられているような錯覚に陥る。
けれど、三時間のコースを終えて、駅の改札で「じゃあね!」と手を振り合った瞬間。
「はぁぁぁ……」
背中を向けた途端に、それはやってくる。
さっきまで体中に漲っていたはずの熱が、指先から急速に逃げていき、代わりに流れ込んでくるのは、鉛のように重たい倦怠感だ。
笑いすぎたせいで強張った頬の筋肉が、情けなくぴくぴくと震えている。
疲れた。なんでか、楽しいとは思えるんだけどなぜか終わった途端疲れるんだよな。なんなんだろう、これ。
「帰りたくないな……」
私は帰り道の真ん中で立ち止まって呟いた。
なんとなく、まっすぐ家に帰るのが嫌だった。
理由なんてない。でも、このまま寝て、明日また同じような一日が始まると思うと少しだけうんざりした。
私は気が付くと、近くの浜辺まで来ていた。まさかこんな時間に海に来るとは思わなかったけれど、足は吸い寄せられるように砂浜へと踏み出していた。
海水が必死に砂浜を掻き分けていく音が、私にはひどく孤独に思えた。夕方をもう過ぎているからか、人なんかいないこの場所に一人で立っている私を強調するように、ただ淡々と機械的なリズムで波打っていた。
私は砂がスカートにできるだけ付かないように、慎重に体育座りをして海を眺める。
理由なんてない。私はただ、死にたい。
私の胸に開いた穴を埋めてくれるというわけではなかった。
そして数分、いや数十分が経った頃だろうか。流石に帰らなきゃ心配かけちゃうと思い立ち上がる。スカートに着いた砂を叩いて払い、少しだけザクザクと音を立てながら砂浜を歩いた。
そしてふと、足を止めて空を見上げる。
別に、特別な星空じゃない。明日もきっと今日と同じ、平凡で退屈な日が続く。そんなことを考えていた、その時だった――。
――カッ、と空が爆発したような光が降り注ぐ。
大きく、空に太陽が降り注いだような眩しさ。
思わず目を手で覆い、恐る恐る手を外した。すると、暗い星空の向こうから巨大な「何か」がゆっくりと降りてくる。
「……え、なに、あれ」
――それは、夜の底をかき乱すように、巨大な海月が空を泳いでいた。
半透明の傘が脈打つたびに、星の光がキラキラと弾ける。
現実感のない。けれど圧倒的に衝撃的なその光景に、私は瞬きすることさえ忘れていた。スマホの画面に逃げることすら許さないその光景に、私はただ、射抜かれたように立ち尽くしていた。
逃げなきゃ。
私の体はぶるぶると震えていて、私は走って階段を駆け上った。
宇宙人? なにあれ。
私はおぼつかない足をできるだけ早く動かし、家まで走り切った。
*
「ただいま……!」
ガチャッと家の扉を開け、リビングに入ろうとすると、ベランダから空を見上げていたお母さんがこっちを向く。
「あ、お帰り! ねえ、空の海月見た?」
「見たよ、なにあれ!?」
バサッとソファーに鞄を投げ捨てて、コップに水を灌ぐ。リビングのテレビには、海月の出現を知らせるアナウンサーの声が響いている。
だけど、カメラでは観測できていないようで、綺麗な星空だけが映し出されていた。
変なの。
「なんか、現実味がないわよね……綺麗なんだけどちょっと心配……」
「……本当にね」
乾ききった喉にゴクっとコップの水を流し込んで、心拍数がようやく落ち着いてきたタイミングで改めてお母さんと空を見上げた。
だけどなんか違和感を感じる。
私の目に映っている海月は、綺麗な青色や綺麗な輝きを見せているわけでもない。
出てきた時の海月とはまるで打って変わって、ぷかぷかと浮かんでいる海月は、なぜか灰色でドブネズミのような色をしていて、私にはかなり不快感があった。
別に見て楽しいものでもない。
すると、ニュースのアナウンサーが急遽横から紙を受け取って、早口で話し始めた。
「えっと、速報です。海月は見える人と見えない人がいることと、人によって色が変わっていることが分かったそうです」
その瞬間、私はもう一度お母さんと目を合わせた。
「幸、あんた何色?」
「私は灰色」
「そう、私は青色だわ……」
だけど、なんとなく。私が見ている”灰色”がよくないことは、直感で感じていた。
「なんか騒がしいね」
「あ、お姉ちゃん……」
「あんたも見なさいよこれ」
「ん?」
お母さんが庭の窓を開けて、月を指さした。するとお姉ちゃんはびくっと体を震わせて、じっと見つめた。
「なに、これ」
「ほんと、現実じゃないみたいよね」
そんなことをぼそっと呟いて、お母さんは顔を顰めながら海月を見上げた。そしてお姉ちゃんもその現実味のない状況を飲み込めていないようだった。
「あ、お姉ちゃん何色に見える? なんか人によって違うらしいんだけど」
私はスマホで検索しながら言うと、興味深い考察が出てきた。
赤は危険信号、か……。
お母さんも私も赤じゃないから大丈夫――。
「――色? あー、私は多分赤だね」
「赤……」
ネットの知恵袋に乗ってある情報にもう一度目を向けた。
でも、まだ確定してないし。ここで話すと不安を煽るだけか。
お姉ちゃんが目を丸くしながら頭を傾けたところで「そっかありがと」と小さく返事した。
「でも変よね、人で色が変わるなんて。まるで映像みたい」
「なんなんだろうね、これ」
私はもう一度灰色の薄汚い海月に視線を移した。やっぱり、見ても楽しくない。
*
「ねえ、海月何色だった!?」
「私は青色だよ!」
学校に行くと予想通り海月の話題で満ち溢れていた。いつもの女子メンバーに私は『青色』と宣告した。
SNSで調べた限り、青色がネガティブな意味合いはないと言われてたし、これが普通だよね。
すると、クリーム色の艶やかな髪をツインテールで可愛らしくまとめている女の子が教室に入ってきた。
「おはよ、幸」
「おはよう天音」
ニコッと可愛らしく微笑むこの子は、『暁天音』中学からの親友でいつも一緒に居る。
「昨日大丈夫だった?」
「ああ、風邪? 全然大丈夫」
私の隣の席に鞄を置いて、苦笑しながら手をふりふりと振った。そして椅子に座ると、さっきまで話していた女子が天音に訊く。
「天音ちゃんは何色だった?」
「あー私は緑だけど、なんか意味あるのかな」
「あるらしいよー緑はえっと……幸運らしい!」
スマホを見ながら、天音にそう答えた。
「そっか。ならよかった」
ツインテールをひらりと揺らして嬉しそうに答えた。昨日風邪で休んでたけど、大丈夫そうでよかった。
すでにネットで海月の色の意味なんて調べたら無数に出てくるようになっていた。本当にいい時代になったと思う。
「そうそう、ここだけの話なんだけどね」
手で会話のボリュームを抑えながら話す女子に、私と天音は顔を近づけて聞いた。
「夜宮紬さん、灰色らしいよ」
その言葉を聞いた瞬間、ビクンと体硬直し、平衡感覚を失ったように眩暈を感じた。
「灰色?」
天音が不思議そうに頭を傾けて訊くと、里奈は恐ろしい言葉でも言うかのように、ゆっくりと口を開いた。
「そう、灰色の人はなんか、危ない人? らしいよ……」
「え、夜宮さんが? そんなわけあるわけないじゃん。ね、幸?」
私は思うように体が動かなかった。灰色はSNSで調べても決して多くはなかった。なのにあの夜宮さんが……。
「…………幸?」
「え、あ。ごめん!」
天音は私の顔を不思議そうにしたから覗いてきてようやく正気を取り戻した。そして天音たちはいつも通り雑談を始めた。
そして私は、ゆっくりと夜宮さんの方を向いた。夜宮さんはいつも通り読書に熱中しているようで、周りのことなんか見てすらいない。
肩くらいの黒く艶やかな色に、整った顔立ち。だけどどこか人を寄せ付けない負のオーラ。
あの夜宮さんが……。
*
「じゃあこれで終わります! あと幸ちゃん、ちょっといい?」
ホームルームが終わるのと同時に、担任の先生が申し訳なさそうに目を細めながら、私に手を合わせた。
またか……。
みんなが次の授業の準備や、雑談に熱を燃やす中、私は先生のいる教卓に足を運んで、優等生の笑顔を塗り付ける。
「それで、どうしたんですか?」
「そうそう、昨日の委員会決め図書委員だけ決まらなかったじゃない? それで幸ちゃんはなにも入ってなかったから……ね?」
そういうことか。
昨日の6時間目にやった委員会決め。図書委員会はかなり楽ということはみんなが知っていて、やりたいという人がクラスにはいたのだ。
……だけど、一番最初に立候補した人が夜宮紬さんだったのだ。そのせいでみんな立候補しなくなって、各クラス二人必要な図書委員のもう一人が決まらなかったというわけ。
「あー、いいですよ? 私やりたいと思ってたんで!」
「ほんと!? よかったわーやっぱ幸ちゃんは頼りになるなー」
あはは、と笑うこの新人担任の笑顔を見ると、自分の手を汚さずに済んだ安堵感に浸っているようで、ひどく吐き気がした。
一年の頃からこの先生のお願いはどんどんと増加していった。だけど私は断れないんだ。
「全然いいですよ!」
私は優等生だから。
*
そして放課後。図書委員の説明があるということで、私は鉛のような重い足取りで筆箱とタブレットを持って図書室に向かっている途中。
ふと見たことのある背後を見つけた。顔を俯かせて小さな歩幅で歩く姿は、まるで子供が叱られに行くようで私とは違う重い足取りで向かっているようだった。
「夜宮さん」
私は早歩きで夜宮さんの横まで行き、顔を覗くようにして話しかけた。すると、バッと顔を上げて目を丸くさせた。
やっぱ、顔は良いんだけどなこの子。
「……あ、朝凪幸ちゃん?」
「え、覚えててくれたんだ。なんか嬉しーな」
別に私は仲良くなろうと話しかけたわけじゃない。だけど、図書委員は何かと二人になることも多いため、関わりを持っておいて損はないだろう。
それに、灰色の海月が見えるというのは聞いた限り、学校ではこの子だけだからだ。
「当たり前だよ、朝凪ちゃんはなんかクラスの中心って感じだし」
そう笑いながら呟いた。だけど、なにか見通しているような。まるで老人に見つめられているような不気味な笑顔だ。
この子って笑えるんだ、でも背筋が凍るような笑顔だ。
「そんなことないけどね。そういえばなんで図書委員に?」
「うーん……まぁ、私本好きだし。簡単そうだったからかな」
顎に手を当てて考える仕草をしながら、苦笑するように話した。特に強い思いがあったわけじゃないんだろう。
「へぇ……」
私がそう呟くと、特に話すこともなく私たちは黙々と図書館へ歩く。放課後だからか、窓からグラウンドのサッカー部の掛け声が小さく聞こえてくる。廊下にはまだ生徒が若干残っており、いつもよりも静けさがあるがまだ学校の熱気は保たれていた。
特に話題がないからか、私はひびの入った汚い校舎に目を向けた。
リフォームやら何やらすればいいのに。なんて思ったが、ふと夜宮さんに目線を向けると、泣いている子供を宥めているような優しい顔で、廊下の風景を見ていた。
なんでこんな学校を見ながら優しい顔ができるんだろう、意外と性格は明るいのかな。
*
「えー、これで説明を終わる。明日の図書整理の担当は二年A組だから頼んだぞ」
「はい!」
「はい」
先生が私たちの方を向いて、そう言い放った。私は元気に挨拶をしたが、夜宮さんはいつも通り小さく呟くだけだった。
心の底からこの人とは合わないな、と横目で見ながら拳を握りしめた。同じ灰色なのに、なんでここまで合わないんだろう、もしかして性格や心が色に反映されているわけじゃないのかな。
もし同じ性格だとしたら夜宮さんも私と同じく猫を被っているはずだから、そんなこともないのかな。
「はい、じゃあ解散」
その呼びかけでみんなが図書館から出て行った。
私たちも廊下に出て、教室に歩き始めた。30分ほど経ったからか、サッカー部の掛け声はいつも間にか休憩中の雑談に変わっていて、廊下にはコツコツと私たちだけの足音が延々と響いている。
「それにしても、明日の図書委員めんどくさいね」
「まあたしかにそうだね、でもなんか本の整理とかってちょっと憧れてたから嬉しいかも」
「まぁ、おしゃれな雰囲気は確かにあるかもだね」
頭の中で本の整理をしている夜宮さんを想像するのはあまりに容易だった。
私たちの会話は思いのほか弾んだ。初めて話したからか、私も本が好きだからというのもあるかもしれないけど、趣味のことなど色々聞けた。
この高校の校舎が大きいことが、こんなところで利点になるなんて思わなかった。すると夜宮さんは会話が途切れた時、不意に汚れが付いた半透明のガラスを通して、空にぷかぷかと浮かんでいる海月に目を向けた。
「ああ、海月?」
「……ん、あ! そうそう、すごいよね」
「そう、かな……」
私はその海月を一瞬見て、すぐに前を向いた。少し夜宮さんにはぶっきらぼうな態度になってしまったかもだけど、私は海月の話を聞くと心底気落ちする。
あんな海月なんて、なかったらよかったのに。
そんなことを思いながら、私たちは教室に着いた。もちろん教室には誰もおらず、開いた窓から風がカーテンをひらひらと揺らしながら、夕焼けが机に一瞬だけ輝きを見せた。
私は自分の席に掛けてあるスクールバッグをひょいっと持ち上げて、さっさと扉側へ進んだ。
「じゃあこれからよろしくね夜宮さん」
「ああ、うん! よろしく」
ニコッと笑う夜宮さんに私も笑みで返した。これでいい印象で保たれたはず。
私は、敵を作りたくない。
校舎を出ると、夕焼けはもうすでに沈み切りそうになっていた。私がスマホの時計を確認するとすでに17時を過ぎていた。
「はぁ……」
私は大きくため息をついてスマホをポケットにしまった。
そりゃあ下駄箱のところに誰もいないはずだ、こんな時間まで居残りとかほんと最悪。
「お疲れ!」
「うわ!」
バンッと背中に強い衝撃が来て思わず声を上げる。慌てて後ろを見ると満面の笑みで立っている天音がいた。
「って、今もう17時だよ!? なんで待ってんの」
「たまたまうちも居残りだっただけ」
私の隣に並んで歩き始める。私はため息をつきつつ、私も歩き始めた。
「ならいいけど、門限は?」
「学校の用事だし大丈夫!」
いぇーいとピースをする天音を見て思わず吹き出す。
「なにそれ、いつの間にそんな明るくなったのかな?」
私はからかうように目を細めて天音に訊くと、天音は顔を赤らめて視線を外に逃がした。夕陽に照らせれたその横顔は、中学の暗い天音とは似ても似つかないほど綺麗だ。
「いいでしょ、最近は結構頑張ってるんだから」
「まぁ、中学の時よりはいいね」
私と天音は中学の時から親友だった。先生に不登校だった天音の世話を任されたときは、評価が上がるならやっと承諾……くらいの気持ちだったけれど、話しているうちに仲良くなれていた。
今では一番仲の良い親友だ。
「それにしても海月の話ばっかでつまんないね」
「ね、ネットもテレビもそればっかり」
天音は手を頭の後ろに回した。私はできるだけ空を見ないように、まっすぐ道を見た。
「最初は宇宙人来たんじゃないかーなんて思ったんだけどな」
「え、私も!」
その言葉を聞いて私は自分に指を指した、すると天音も嬉しそうに話を続ける。
「ね! それで学校休校になれ! って思ってたのになんもメール来なかったし」
「まぁ、学校には支障ないしねー」
あはは、と苦笑しながら言う。天音も再び手を頭に回して軽い口調で「悲しいなー」と呟いた。
「お姉さんのほうはどう? 政治的に……」
私が言い終わる前に、私は言葉を閉じた。天音が体をびくっと震わせて顔を俯けてしまったからだ。
やばい、やっちゃった。
「私は、お姉ちゃんと話さないからわかんない」
「……そっか」
天音は昔からお姉さんの話が嫌いだった。天音のお姉さんは政治や会社経営など、多方面で活躍しているらしい。
多分、天音はお姉さんが嫌いだ。私はそれを直感ながら悟っていた。
「そ、そうだ! クレープ食べに行こ!」
「え、でも時間的にもう夜ご飯前だよ?」
雰囲気とは逆に声を弾ませて言うと、天音は意外にも顔を上げて目を丸くさせている。
「食べれなかったら頑張って食べれば大丈夫!」
私は意味の分からない根性論をぶつけたが、意外にもしっくり来たようで乗り気で「じゃあ行こ!」と私の手をグイっと引っ張った。
よかった。
私はこうやってズルく生きてきたんだ。
*
そして翌日、私と夜宮さんは予定通り、放課後に図書の整理をしに来ていた。
整理と言っても、返却された本を元の位置に戻すだけという単純な仕事だった。一応司書さんが番号順にはしてくれているため、夜宮さんと二人で番号の近くを回って戻すだけだ。
放課後の図書館は、生徒が溢れかえっているというわけではなく、静かに勉強をしている人や読書をしている人など、都会から外れたところにあるカフェのような静けさと心地よさが漂っていた。
こんなめんどくさい仕事も、雰囲気に流されて嫌ではないと感じている私がいた。
横の夜宮さんを見ると、本を大事そうにしまいながら髪を耳にかけた。クラスで不のオーラを出している夜宮さんとは打って変わって、意外にも話しかけやすそうなオーラが出ていた。
なんか、別に嫌な人ではないような気がするんだけど……。
クラスの女子に言われた「夜宮さんは危ない人」という言葉を思い出したが、私にはとてもそう感じられない。
「終わりましたー」
「あら、ありがとね」
私たちは移動できる本棚を持ってきて、司書さんに報告する。司書さんは本棚を扉の横に移動させて笑顔で言った。
「じゃあ、お疲れ様です」
「はーい」
お辞儀しながら小さめの声で言う私の横で、夜宮さんはただ小さくお辞儀をして図書館を去る。結局私たちはまた二人で教室まで帰ることになった。
「疲れたね」
「だねー」
ぐいーっと固まった体を伸ばす。スマホを取り出そうと思ったが、一緒にいるのにスマホを見始めるのは失礼だな。と思い私は何とか話題を捻りだす。
「そういえば夜宮さ――」
「夜宮じゃなくていい」
「……え?」
私の言葉を遮って、夜宮さんが話始めて私は思わず立ち止まった。
なんか、夜宮っていう名前が気に入らなかったのかな。なにか嫌なことを言っちゃった?
夜宮さんは前を向いたままで、私の目を見ずにただ黙っていた。私は頭が真っ白になってしまっていた、この重い雰囲気に体が耐え切れず、足がぷるぷると少し震えていた。
夜宮さんがようやくこちらを向いたかと思ったら、なぜか間抜けな顔をしていた。
「あ、ごめん。そういうなんか、嫌だったとかじゃなくて!」
手をパタパタと振りながら、必死に否定をする。その光景に、いつの間にか私の足は震えを止めていた。
「その、もう二回もこうやって話すんだから、その下の名前で……」
「……え?」
「あ、いや。全然嫌だったらいいんだけど……」
私は夜宮さんの顔をただ見ていた。照れているわけでもなく、ただ場を和ませようと乾いた笑いを見せているこの行動を。
私は嫌というほど知っている。
「わかった、紬ちゃん」
私は嫌悪感を、ただ笑顔で隠した。外の海月はこんなぽっかりと胸に穴が開いている私を、ただあざ笑うかのように。
汚い色を私に見せつけてきていた。
「もう夜かー」
「だね」
私たちは途中まで一緒らしく、自然と二人並んで帰っていた。昨日の夕焼けに暮れる校舎とは違って、夏の夜の静けさが私の頬をそっと撫でる。
部活動などもすでに終わっているようで、グラウンドからも大きな声は特に聞こえてきていない。
このくらいの気温が一番気持ちいいな。
「セーラー服だとやっぱ涼しいね」
「だね、セーラー服でよかった。可愛いし」
「そういうの気にするんだ?」
「え?」
あ。
何気なく訊いた言葉に、紬が引っかかったようにこちらを向く。その瞬間、時が止まったように感じた。
「あ、ごめん。女の子だしそういうの気にするよね」
「そうだね、可愛いほうがいい」
私が頭を掻きながらそう言うと、紬ちゃんは平然と笑う。私は話を続けようと紬ちゃんの顔を見た。
すると、前と同じように空を見上げた。だけど今回は前とは違う。
海月を見て紬ちゃんは、目を輝かせた。
「きれい」
口角を上げて、目を輝かせながら。まるで星に手が届くと本気で思っている子供のような。
世界は輝いていると信じ切っている眼差しだった。
「なに、それ」
「え?」
「なんだよそれっ!」
何年ぶりだろう、こんな大声を上げたのは。親にも、先生にも、友達にも上げてこなかった。
自分が嫌いだ。
「あんたの海月の色は灰色でしょ!? なんで、なんでそんな幸せそうな顔ができるんだよ!」
道で怒鳴り声を浴びせる私を、冷ややかな目で見ながら去っていく親子。夏風に吹かれて揺らす木々たちも、驚いて音を潜めているようだった。
「あんたはどうせ青色とか、そんなありきたりな色でしょ? あんな色、私には綺麗に見えやしない!」
「幸ちゃん……」
私は疲れ切った肺に急いで空気を送り込む。
あーあ、今まで頑張っていい子してきたのに。こんなくそみたいなことで終わっちゃうのか。
「ごめんね」
ぎゅっと、私の頭が埋められた。
「……へ?」
「それが本当の幸ちゃんなんだね、よかった」
私は理解ができず、顔を上げようとしてもさらに強く抱きしめられるばかりで、なかなか動けそうにない。
「ごめん、綺麗なんて軽々しく言って」
「……え、いや別に……」
そんなことどうでもいいはずだ、なんでこの人は私に怒鳴られてこんなことができてるんだ?
頭が真っ白から少しずつ状況を理解し始めたタイミングで、私はようやく解放された。目線を上げると紬ちゃんがまた、優しそうな顔で私を見ていた。
「幸ちゃんは灰色なんだね」
私は無意識のうちにコクっと頷いてしまっていた。
「私の色はね……」
紬ちゃんはゆっくりと顔を上げて海月の色を確認し、一瞬口角を上げる。
「青色だよ」
