理由はないけれど、私はいつも死にたい。そんな言葉が、ずっと心を浸けている。
「あはは、それでねーあいつがさ!」
「うんうん……」
授業の合間の休憩時間。
私、朝凪幸は仲の良い女友達の恋愛話に口角を上げながら相槌を打つ。
ギシッ、と教室の古い机がぼろい音を立てる。そこに堂々と腰を掛けて笑う彼女の声は教室の隅まで届いていて、まるでそれが許されている人間だけに与えられた特権であるかのようだった。
私がその声に重ねたのは、憧れなんかじゃない。喉の奥にこみ上げてくる、飲み込みそこねた苦い唾のようなものだった。
ふと、スクールカーストなんていつから気になってしまったのだろうと考えた。
小学生? いや中学か。思い出そうとしても起点が見つからない。気づかないうちに肌に染みついていた、というのが正しいのだと思う。周りにいっぱい人がいないと、生きづらい。楽しくない。そう不思議と、骨の髄に刷り込まれていたような気がする。
どうして私たちはこうも群れたがるんだろう。
一人でいることは「可哀想」なことで、誰かに選ばれないことは「価値がない」こと。そんな無言のルールが、この教室の――いやこの社会の空気には埃のように混じっている。
その埃を吸い込むたびに、肺の奥が少しずつ薄汚れていくような気がして、私はいつからか浅い呼吸しかできなくなっていたように思う。
放課後、私は誘われるままに駅前のカラオケボックスに流れ込んだ。
マイクを握って今流行りのアップテンポな曲を歌う。タンバリンを叩いて、友達と目を合わせて笑った。
その瞬間だけは、確かに「楽しい」ような気がしていた。お腹の底から声を出して、リズムに身を任せている間は、胸の奥に沈んでいるドロドロとした何かが、音に紛れて溶けていくような錯覚に陥る。
けれど、三時間のコースを終えて、駅の改札で「じゃあね!」と手を振り合った瞬間。
「はぁぁぁ……」
背中を向けた途端に、それはやってくる。
さっきまで体中に漲っていたはずの熱が、指先から急速に抜け落ちていく。代わりに足元から這い上がってくるのは、鉛を流し込まれたような倦怠感だ。笑いすぎたせいで強張った頬の筋肉が、情けなくぴくぴくと痙攣している。
疲れた。
楽しかったはずなのに、終わった途端、体が重くなる。いつもそうだ。楽しさの底が抜けた瞬間に、全部が流れ落ちていく。
「帰りたくないな……」
帰り道の真ん中で、足が止まった。
なんとなく、まっすぐ家に帰るのが嫌だった。思い付きでそんなことがふと頭に浮かんでくるということが、最近多くなってきた。
気がつくと、近くの浜辺まで来ていた。まさかこんな時間に海に来るとは思わなかったけれど、足は吸い寄せられるように砂浜へと踏み出していた。
波が砂を削っている。何度も何度も、同じ場所を。
必死に掻き分けているようにも、ただ機械的に繰り返しているだけのようにも聞こえるその音が、ひどく孤独だった。
夕方をとうに過ぎた砂浜には人の影はなく、私の輪郭だけが暗がりの中にぽつんと残されている。波音がそれを強調するように、淡々と打っていた。
砂がスカートにできるだけ付かないように、慎重に体育座りをする。両膝を抱えて、海を眺めた。
潮の匂いが鼻の奥を刺す。水平線の向こうは真っ暗で、空との境目がどこにあるのかもわからない。
理由なんてない。私はただ、死にたい。
波音は、私の胸に開いた穴を埋めてくれるわけではなかった。ただ同じリズムで繰り返されるだけで、何も変わらない。穴はそのままそこにあって、潮風が吹き抜けていくだけだった。
数分か、数十分か。砂に押し付けていたスカートの裏がひんやりと冷たくなった頃、ようやく「帰らなきゃ心配かけちゃう」という言葉が頭を過る。
自分のために立ち上がったのではないことに気づかないふりをして、スカートについた砂を叩いて払う。ざく、ざくと音を立てながら砂浜を歩いた。
そしてふと、足を止めて空を見上げる。
別に、特別な星空じゃない。どこにでもある、ぼんやりとした光の粒が散らばっているだけだ。明日もきっと今日と同じ、平凡で退屈な日が続く。そんなことを考えていた、その時だった――。
――カッ、と空が爆発した。
そう思うほどの光が、頭上から降り注ぐ。太陽を直視したときのような、目の奥が焼けるような眩しさ。
思わず手で目を覆い、まぶたの裏に残る白い残像がようやく薄れたところで、恐る恐る手を外した。
暗い星空の向こうから、巨大な「何か」がゆっくりと降りてくる。
「……え、なに、あれ」
――夜の底をかき乱すように、巨大な海月《くらげ》が空を泳いでいた。
半透明の傘が脈打つたびに、星の光が砕けたガラスのようにきらきらと弾ける。傘の縁から垂れた触腕が闇の中をゆっくりと揺れて、まるで海の底から空を見上げているような、上下の感覚を失うような光景だった。
現実感がない。けれど、あまりにも圧倒的で、瞬きすることさえ忘れていた。スマホを取り出すことも、目を逸らすことも、その光景が許さなかった。私はただ、胸を射抜かれたように砂浜に立ち尽くしていた。
逃げなきゃ。
体がぶるぶると震えている。膝が笑っているのに、足は勝手に動き出して、私は砂浜から階段を駆け上がった。
宇宙人? なにあれ。
おぼつかない足をできるだけ速く動かす。息が上がって、肺が軋んで、それでも振り返ることが怖くて、家まで走り切った。
「ただいま……!」
ガチャッと扉を開け、リビングに駆け込もうとすると、ベランダの窓を開けて空を見上げていたお母さんがこちらを振り向く。
「あ、お帰り! ねえ、空の海月見た?」
「見たよ、なにあれ!?」
バサッとソファーに鞄を投げ捨てて、コップに水を注ぐ。手がまだ震えていて、蛇口のレバーがうまく掴めない。リビングのテレビでは、海月の出現を知らせるアナウンサーの声が響いていた。
だけどカメラには映っていないのか、画面にはただ綺麗な星空だけが映し出されている。
変なの。
「なんか、現実味がないわよね……綺麗なんだけどちょっと心配……」
「……本当にね」
乾ききった喉にコップの水を一気に流し込む。冷たい水が食道を落ちていく感触で、ようやく心臓の暴走が少しずつ収まっていく。お母さんの隣に立って、改めて空を見上げた。
だけど、なんだろう。違和感がある。
私の目に映っている海月は、綺麗な青でも、輝いてもいない。出現した瞬間のあの圧倒的な光とはまるで別物で、ぷかぷかと浮かんでいるそれは灰色をしていた。ドブネズミの毛皮のような、濁った、汚い灰色。
胃の奥がむかつくような不快感が這い上がってくる。
別に見て楽しいものでもない。
すると、テレビのアナウンサーが急遽横から紙を受け取って、早口で話し始めた。
「えっと、速報です。海月は見える人と見えない人がいることと、人によって色が変わっていることが分かったそうです」
その瞬間、私はお母さんと目を合わせた。
「幸、あんた何色?」
「私は灰色」
「そう、私は青色だわ……」
お母さんの声に含まれた微かな安堵。その安堵の外側に自分が立っていることに、胸の奥がちくりと痛んだ。
だけど、なんとなく。私が見ている"灰色"がよくないことは、理屈ではなく体がわかっていた。あの汚い色を見たとき、肌が粟立ったのを覚えている。
「なんか騒がしいね」
「あ、お姉ちゃん……」
「あんたも見なさいよこれ」
「ん?」
お母さんが庭に面した窓を開けて空を指さす。お姉ちゃんはびくっと肩を震わせて、そのまま空をじっと見つめた。
「なに、これ」
「ほんと、現実じゃないみたいよね」
そんなことをぼそっと呟いて、お母さんは眉間に皺を寄せながら海月を見上げている。お姉ちゃんもその現実味のなさを飲み込めていないようで、口が半開きのまま動かない。
「あ、お姉ちゃん何色に見える? なんか人によって違うらしいんだけど」
片手でスマホを操作しながら訊く。検索結果には、すでにいくつかの考察記事が並んでいた。
赤は危険信号、か……。
お母さんも私も赤じゃないから大丈夫――。
「――色? あー、私は多分赤だね」
「赤……」
指先が止まった。スマホの画面に目を戻す。知恵袋に並んだ文字列を、もう一度読み直す。
でも、まだ確定した情報じゃない。ここで口にしたら不安を煽るだけだ。
お姉ちゃんが首を傾げて目を丸くしたのを見て、私は「そっかありがと」と、できるだけ軽く返した。
「でも変よね、人で色が変わるなんて。まるで映像みたい」
「なんなんだろうね、これ」
私はもう一度空に目を向ける。灰色の海月が、ぷかぷかと浮いている。薄汚い傘がゆっくりと脈打つたびに、胸の底に溜まった澱が揺すられるような気がした。
やっぱり、見ても何も楽しくない。
*
「ねえ、海月何色だった!?」
「私は青色だよ!」
翌朝、教室に足を踏み入れた途端、海月の話題が四方から飛んできた。いつもの女子グループに混ざって、私は「青色」と答えた。
SNSで調べた限り、青色にネガティブな意味合いはないとされている。これが普通だ。嘘をついたのではなく、普通の側に立っただけ。そう自分に言い聞かせるとき、舌の上にわずかに苦い味が残った。
すると、クリーム色の艶やかな髪をツインテールで可愛らしくまとめた女の子が教室に入ってきた。
「おはよ、幸」
「おはよう天音」
ニコッと笑うこの子は、暁天音。中学からの親友で、いつも一緒にいる。
「昨日大丈夫だった?」
「ああ、風邪? 全然大丈夫」
私の隣の席に鞄を置いて、苦笑しながら手をふりふりと振る。椅子に座ると、さっきまで話していた女子が天音に訊いた。
「天音ちゃんは何色だった?」
「あー私は緑だけど、なんか意味あるのかな」
「あるらしいよー緑はえっと……幸運らしい!」
スマホの画面を見せながら答えると、天音はツインテールをひらりと揺らして「そっか。ならよかった」と嬉しそうに頬を緩めた。昨日風邪で休んでいたけれど、顔色は悪くなさそうだ。
ネットにはすでに、海月の色の意味と称する記事が無数に上がっていた。出現からたった一晩で、人はこんなにも言葉を並べたがるのだと思う。
「そうそう、ここだけの話なんだけどね」
手で口元を覆いながら声を潜める女子。私と天音は自然と顔を近づけた。
「夜宮紬さん、灰色らしいよ」
その言葉を聞いた瞬間、背骨の底を氷の指で撫でられたような感覚が走った。視界の端がぐらりと揺れて、机の縁を掴んでいないと椅子から滑り落ちそうだった。
「灰色?」
天音が不思議そうに頭を傾ける。里奈は恐ろしい秘密を漏らすように、ゆっくりと口を開いた。
「そう、灰色の人はなんか、危ない人? らしいよ……」
「え、夜宮さんが? そんなわけあるわけないじゃん。ね、幸?」
天音の声が、水の底から聞こえてくるみたいに遠い。灰色。SNSで見た数少ない報告。あの汚い、あの色。私と同じ色。
「…………幸?」
「え、あ。ごめん!」
天音が顔を覗き込んできて、ようやく教室の輪郭が戻ってくる。天音たちはすぐにいつもの雑談に流れていった。
私は、ゆっくりと視線を教室の隅に向けた。
夜宮紬。窓際の席で、いつも通り本に目を落としている。周囲の喧騒が存在しないかのように、ページに視線を縫い止められている。
肩くらいの黒い髪。整った横顔。だけどその周りには、人の足を踏み入れさせない空気が薄い膜のように張り付いていた。
あの夜宮さんが。
――私と、同じ色なのかな。
「じゃあこれで終わります! あと幸ちゃん、ちょっといい?」
ホームルームが終わるのと同時に、担任の先生が申し訳なさそうに目を細めて、私に両手を合わせた。
またか。
みんなが席を立って次の授業の準備や雑談に散っていく中、私は先生のいる教卓に足を運ぶ。頬の筋肉が自動的に動いて、優等生用の笑顔が貼り付く。
「それで、どうしたんですか?」
「そうそう、昨日の委員会決め図書委員だけ決まらなかったじゃない? それで幸ちゃんはなにも入ってなかったから……ね?」
そういうことか。
昨日の六時間目の委員会決め。図書委員は楽だということをみんな知っていて、やりたいという声はいくつか上がっていた。だけど、一番最初に立候補したのが夜宮紬だった。
その瞬間、挙がりかけていた手が全部降りて、各クラス二人必要な図書委員のもう一枠が、ぽっかりと空いたまま残された。
「あー、いいですよ? 私やりたいと思ってたんで!」
「ほんと!? よかったわーやっぱ幸ちゃんは頼りになるなー」
あはは、と笑うこの新人担任。その笑顔には、自分の手を汚さずに済んだ安堵がべったりと張り付いていて、喉の奥が締まるような吐き気がした。
一年の頃からこの先生のお願いは増え続けている。そして私はそのたびに、断るという選択肢を持たない自分に気づく。
「全然いいですよ!」
私は優等生だから。
声が自分のものじゃないみたいに、教卓と先生の間に落ちて消えた。
*
放課後。図書委員の説明があるということで、筆箱とタブレットを持って図書室に向かう。足が重い。靴底と廊下の間に粘着質の何かが挟まっているような感覚がまとわりつく。
ふと、前方に見覚えのある背中を見つけた。顔を俯かせて、小さな歩幅で歩いている。叱られに行く子供のような、私とは違う種類の重さを引きずった足取り。
「夜宮さん」
早歩きで横に並んで、少し屈むように顔を覗き込んだ。夜宮さんはバッと顔を上げて、目を丸くした。
――やっぱ、顔は整っている。
「……あ、朝凪幸ちゃん?」
「え、覚えててくれたんだ。なんか嬉しーな」
口が勝手に動く。別に仲良くなろうと話しかけたわけじゃない。ただ、図書委員は二人で作業することが多い。関わりを持っておいて損はない。
それに。灰色の海月が見えるのは、聞いた限りこの学校ではこの子だけだ。
「当たり前だよ、朝凪ちゃんはなんかクラスの中心って感じだし」
夜宮さんが笑った。だけど、その笑みの奥に何かが透けている。まるで、こちらの輪郭をとっくに見抜いている老人の目のような――背中を這い上がる冷たい感触があった。
この子って笑えるんだ。でも、その笑顔は背筋が凍る種類のものだった。
「そんなことないけどね。そういえばなんで図書委員に?」
「うーん……まぁ、私本好きだし。簡単そうだったからかな」
顎に手を当てて首を傾げながら、苦笑するように答えた。特に強い思いがあったわけじゃないらしい。
「へぇ……」
会話が途切れると、私たちは自然に黙って図書室へ向かった。窓の向こうからグラウンドのサッカー部の掛け声が微かに聞こえてくる。廊下にはまだ帰り支度をしている生徒がちらほらと残っていて、放課後特有の弛緩した空気が漂っていた。
話題がない。私はなんとなく、ひびの入った壁や色褪せた掲示物に目を滑らせた。
リフォームでもすればいいのに。
ふと夜宮さんのほうに目を向けると、驚いた。彼女は、泣いている子供を宥めているような、不思議な優しさを含んだ顔で廊下の風景を見ていた。
こんなぼろい校舎を見ながら、どうしてそんな顔ができるんだろう。
優しい表情ができる夜宮さんの目には、一体何が映っているのか。私には到底わからないや。
*
「えー、これで説明を終わる。明日の図書整理の担当は二年A組だから頼んだぞ」
「はい!」
「はい」
先生が私たちのほうを向いて言い放った。私は反射的に明るい声を出したが、隣の夜宮さんはいつも通り小さく呟いただけだった。
その差に、拳を握り締める。同じ灰色なのに、どうしてここまで噛み合わないんだろう。もし海月の色が心や性格を映しているなら、この子も私と同じように猫を被っていてもおかしくないのに。
そうじゃないとしたら、あの海月って一体なんなんだ。
答えは出ないまま、握り込んだ爪が掌に食い込んでいた。
「はい、じゃあ解散」
その声で、周りの生徒たちが席を立って図書室から出て行く。
私たちも廊下に出た。教室までの帰り道は同じ方向で、また二人で歩くことになった。説明が三十分ほどかかったせいか、先ほどまで聞こえていたサッカー部の掛け声はいつの間にか休憩中の雑談に変わっていて、廊下には私たちの足音だけがコツ、コツと響いている。
「疲れたね」
「だねー」
ぐいーっと固まった体を伸ばしながら、スマホを取り出しかけた手を止める。一緒に歩いているのにスマホを見始めるのは、さすがに感じが悪い。私は何とか話題を探す。
「そういえば夜宮さ――」
「夜宮じゃなくていい」
「……え?」
私の言葉を断ち切るように、夜宮さんが言った。足が止まる。
名前が気に入らなかったのだろうか。何か、触れてはいけないところに触れてしまったのだろうか。
夜宮さんは前を向いたまま、私のほうを見ない。廊下の蛍光灯がジジ、と微かに鳴る音だけが、空気の中で輪郭を持つ。頭が真っ白になって、この重さに体が耐え切れず、足がぷるぷると震え始めた。
夜宮さんがようやくこちらを向いた。
なぜか、間の抜けた顔をしていた。
「あ、ごめん。そういうなんか、嫌だったとかじゃなくて!」
手をパタパタと振りながら、必死に否定する。その光景が目に入った瞬間、張り詰めていた糸がふっと緩んで、足の震えが引いていった。
「その、これからもこうやって話すんだから、その下の名前で……」
「……え?」
「あ、いや。全然嫌だったらいいんだけど……」
私は夜宮さんの顔を見ていた。照れているわけでもなく、ただ場を繕うように浮かべた乾いた笑い。気まずさを打ち消そうとしているのが透けて見える、あの表情。
私は嫌というほど知っている。鏡の前で何度も練習した、あの顔だ。
「わかった……紬ちゃん」
笑顔で答えた。嫌悪感を、ただ笑顔の裏に畳んで押し込んだ。
窓の外に、灰色の海月がぷかぷかと浮かんでいる。まるで私の嘘を見透かしているように、こちらに向けてあの汚い色を静かにさらしていた。
「もう夜かー」
「だね」
校舎を出ると、空はすっかり暗くなっていた。私たちは途中まで帰り道が同じらしく、自然と並んで歩いていた。昨日の夕焼けに暮れる校舎とは打って変わって、初夏の夜の湿った空気が頬をそっと撫でていく。
部活動はすでに終わったようで、グラウンドから声は聞こえない。虫の声が遠くで細く鳴いているだけだ。
このくらいの温度が一番気持ちいいな、と思った。そう思えたこと自体が少し意外で、自分の感覚がまだちゃんと動いていることに驚いた。
「セーラー服だとやっぱ涼しいね」
「だね、セーラー服でよかった。可愛いし」
「そういうの気にするんだ?」
「え?」
あ。
何気なく訊いた一言に、紬ちゃんが引っかかったようにこちらを向く。暗がりの中で目が合って、一瞬、空気が凍った。
「あ、ごめん。女の子だしそういうの気にするよね」
「そうだね、可愛いほうがいい」
頭を掻きながらそう返すと、紬ちゃんは平然と笑った。私はそのまま話を続けようと彼女の顔を見た。
すると、紬ちゃんがまた空を見上げた。校舎の中で窓越しに見たときと同じように。
だけど今回は、違った。
「きれい」
口角が上がって、目が輝いていた。星に手が届くと本気で信じている子供のような、世界は美しいと疑っていない眼差し。あの灰色の、汚い、あの海月を見て。
胸の底で何かが、ぐしゃりと潰れた。
「なに、それ」
「え?」
「なんだよそれっ!」
何年ぶりだろう。こんな声を出したのは。親にも、先生にも、友達にも、一度も向けたことのなかった声が、喉を裂くようにして飛び出した。
自分が嫌いだ。
「あんたの海月の色は灰色でしょ!? なんで、なんでそんな幸せそうな顔ができるんだよ!」
道で怒鳴り声を浴びせる私の横を、親子連れが冷ややかな目で通り過ぎていく。街路樹の葉が夜風に揺れていたのに、私が叫んだ瞬間、何もかもが音を潜めたような気がした。
「あんたはどうせ青色とか、そんなありきたりな色でしょ? あんな色、私には綺麗に見えないよ……」
「幸ちゃん……」
はぁ、はぁ、と荒い呼吸が夜気に白く散る。だけど体は知っていた。ここで息を整えてしまったら、私はこの場から走り去りたくなる。冷静になった瞬間に、取り返しのつかないことをした実感が押し寄せてくる。
あーあ、今まで頑張っていい子してきたのに。こんなことで、全部終わるのか。
「ごめんね」
ぎゅっ、と。頭が誰かの胸に埋められた。
「……へ?」
「それが本当の幸ちゃんなんだね、よかった」
理解が追いつかない。顔を上げようとするとさらに強く抱きしめられて、紬ちゃんの制服の布地が頬に押し付けられる。
柔軟剤の匂いがする。その匂いが、怒りでも悲しみでもない、名前のつかない何かを胸に流し込んでくる。
「ごめん、綺麗なんて軽々しく言って」
「……え、いや別に……」
そんなことはどうでもいいはずだ。なんでこの人は怒鳴られて、こんなことができるんだ。
頭の中の真っ白が少しずつ薄れて、状況の輪郭が戻ってきた頃、ようやく腕が解かれた。顔を上げると、紬ちゃんがまた、あの優しい顔で私を見下ろしていた。
「幸ちゃんは灰色なんだね」
言葉は要らなかった。気がつくと、こくりと頷いていた。
「私の色はね……」
紬ちゃんがゆっくりと顔を空に向ける。海月を確かめるように見上げて、一瞬だけ口角を上げた。
「青色だよ」
そう言って笑った紬ちゃんの顔が、背中を向けた後もまぶたの裏に貼り付いて剥がれなかった。
逃げるように走って、振り返らなかった。自分の足音と息遣いだけが耳の中で反響して、紬ちゃんの声を上書きしようとしていた。でも、消えない。「青色だよ」の声が、走るたびに頭の中で弾んで、弾むたびに別の形を取る。
あの目。
笑顔が消えた一瞬の、あの目。
何も映していなかった。青色を見ている人間の目じゃなかった。
信号が赤に変わって、足が止まる。膝に手をついて、荒い呼吸を繰り返す。汗が首筋を伝って、制服の襟に染みていく。横断歩道の向こうで点滅する赤い光が、涙で滲んだみたいにぼやけていた。泣いてはいない。泣いてはいないのに、視界の輪郭がうまく結ばない。
青色。
――今朝、私もそう言った。
教室で、いつもの女子グループに混じって、「私は青色だよ」と。あのとき、私の声はどんなふうに聞こえていたんだろう。紬ちゃんの「青色だよ」と、同じだったんじゃないか。
信号が青に変わる。足を踏み出した瞬間、腹の底がひやりと冷えた。
私は嘘をついた。灰色を隠して、青色だと言った。嘘だとわかっていたし、嘘をつく理由もわかっていた。灰色は「危ない人」の色だから。そう言われたくなかったから。
紬ちゃんも、同じだ。
あの子も何かを隠している。「青色」と言ったとき、目が笑っていなかった。笑顔の端が消えた一瞬に見えたあの暗さは、自分の色を口にした人間の顔じゃない。持っていない色を名乗ったときの、嘘の裏側の顔だ。
私が知っている。私がそうだから。
横断歩道を渡りきって、住宅街の細い道に入る。街灯が等間隔に並んでいて、その光の輪を一つずつ踏んでいくたびに、紬ちゃんの顔が浮かんでは消えた。
海月を見上げて「きれい」と言ったときの、あの目。
自分が持っていないものを見つけた人間の目。あの瞬間だけは嘘じゃなかった。だからこそ、直後の「青色だよ」が嘘だと確信できてしまう。
じゃあ、本当は何色なんだろう。
灰色なのか。私と同じ、あの汚い色なのか。それとも、もっと別の――私が見たこともないような色を、一人で抱え込んでいるのか。
知りたかった。
理由は、うまく言葉にならない。紬ちゃんが嘘をついていると知ったところで、何かが変わるわけでもない。私の灰色が消えるわけでも、明日の教室が楽になるわけでもない。
でも、喉の奥に引っかかったまま落ちていかない。あの言葉が、小骨みたいに刺さって抜けない。私が「青色」と嘘をついたとき、誰も気づかなかった。誰も疑わなかった。あの嘘は教室の空気に溶けて、誰にも引っかからずに消えていった。
――なのに、紬ちゃんの嘘には気づいてしまった。
私だけが。
家の玄関に手をかけたとき、ふと空を見上げた。灰色の海月が、薄い闇の中でゆらゆらと揺れている。今朝よりも、ほんの少しだけ輪郭がはっきりして見える気がした。気のせいかもしれない。でも、さっきまで目を背けていたものを、今は直視している。
紬ちゃんの目に映っている海月は、本当は何色なのか。
その答えを知るまで、この小骨は抜けない。そんな予感だけが、玄関の冷たいドアノブを握る指先に、じんわりと残っていた。
「あはは、それでねーあいつがさ!」
「うんうん……」
授業の合間の休憩時間。
私、朝凪幸は仲の良い女友達の恋愛話に口角を上げながら相槌を打つ。
ギシッ、と教室の古い机がぼろい音を立てる。そこに堂々と腰を掛けて笑う彼女の声は教室の隅まで届いていて、まるでそれが許されている人間だけに与えられた特権であるかのようだった。
私がその声に重ねたのは、憧れなんかじゃない。喉の奥にこみ上げてくる、飲み込みそこねた苦い唾のようなものだった。
ふと、スクールカーストなんていつから気になってしまったのだろうと考えた。
小学生? いや中学か。思い出そうとしても起点が見つからない。気づかないうちに肌に染みついていた、というのが正しいのだと思う。周りにいっぱい人がいないと、生きづらい。楽しくない。そう不思議と、骨の髄に刷り込まれていたような気がする。
どうして私たちはこうも群れたがるんだろう。
一人でいることは「可哀想」なことで、誰かに選ばれないことは「価値がない」こと。そんな無言のルールが、この教室の――いやこの社会の空気には埃のように混じっている。
その埃を吸い込むたびに、肺の奥が少しずつ薄汚れていくような気がして、私はいつからか浅い呼吸しかできなくなっていたように思う。
放課後、私は誘われるままに駅前のカラオケボックスに流れ込んだ。
マイクを握って今流行りのアップテンポな曲を歌う。タンバリンを叩いて、友達と目を合わせて笑った。
その瞬間だけは、確かに「楽しい」ような気がしていた。お腹の底から声を出して、リズムに身を任せている間は、胸の奥に沈んでいるドロドロとした何かが、音に紛れて溶けていくような錯覚に陥る。
けれど、三時間のコースを終えて、駅の改札で「じゃあね!」と手を振り合った瞬間。
「はぁぁぁ……」
背中を向けた途端に、それはやってくる。
さっきまで体中に漲っていたはずの熱が、指先から急速に抜け落ちていく。代わりに足元から這い上がってくるのは、鉛を流し込まれたような倦怠感だ。笑いすぎたせいで強張った頬の筋肉が、情けなくぴくぴくと痙攣している。
疲れた。
楽しかったはずなのに、終わった途端、体が重くなる。いつもそうだ。楽しさの底が抜けた瞬間に、全部が流れ落ちていく。
「帰りたくないな……」
帰り道の真ん中で、足が止まった。
なんとなく、まっすぐ家に帰るのが嫌だった。思い付きでそんなことがふと頭に浮かんでくるということが、最近多くなってきた。
気がつくと、近くの浜辺まで来ていた。まさかこんな時間に海に来るとは思わなかったけれど、足は吸い寄せられるように砂浜へと踏み出していた。
波が砂を削っている。何度も何度も、同じ場所を。
必死に掻き分けているようにも、ただ機械的に繰り返しているだけのようにも聞こえるその音が、ひどく孤独だった。
夕方をとうに過ぎた砂浜には人の影はなく、私の輪郭だけが暗がりの中にぽつんと残されている。波音がそれを強調するように、淡々と打っていた。
砂がスカートにできるだけ付かないように、慎重に体育座りをする。両膝を抱えて、海を眺めた。
潮の匂いが鼻の奥を刺す。水平線の向こうは真っ暗で、空との境目がどこにあるのかもわからない。
理由なんてない。私はただ、死にたい。
波音は、私の胸に開いた穴を埋めてくれるわけではなかった。ただ同じリズムで繰り返されるだけで、何も変わらない。穴はそのままそこにあって、潮風が吹き抜けていくだけだった。
数分か、数十分か。砂に押し付けていたスカートの裏がひんやりと冷たくなった頃、ようやく「帰らなきゃ心配かけちゃう」という言葉が頭を過る。
自分のために立ち上がったのではないことに気づかないふりをして、スカートについた砂を叩いて払う。ざく、ざくと音を立てながら砂浜を歩いた。
そしてふと、足を止めて空を見上げる。
別に、特別な星空じゃない。どこにでもある、ぼんやりとした光の粒が散らばっているだけだ。明日もきっと今日と同じ、平凡で退屈な日が続く。そんなことを考えていた、その時だった――。
――カッ、と空が爆発した。
そう思うほどの光が、頭上から降り注ぐ。太陽を直視したときのような、目の奥が焼けるような眩しさ。
思わず手で目を覆い、まぶたの裏に残る白い残像がようやく薄れたところで、恐る恐る手を外した。
暗い星空の向こうから、巨大な「何か」がゆっくりと降りてくる。
「……え、なに、あれ」
――夜の底をかき乱すように、巨大な海月《くらげ》が空を泳いでいた。
半透明の傘が脈打つたびに、星の光が砕けたガラスのようにきらきらと弾ける。傘の縁から垂れた触腕が闇の中をゆっくりと揺れて、まるで海の底から空を見上げているような、上下の感覚を失うような光景だった。
現実感がない。けれど、あまりにも圧倒的で、瞬きすることさえ忘れていた。スマホを取り出すことも、目を逸らすことも、その光景が許さなかった。私はただ、胸を射抜かれたように砂浜に立ち尽くしていた。
逃げなきゃ。
体がぶるぶると震えている。膝が笑っているのに、足は勝手に動き出して、私は砂浜から階段を駆け上がった。
宇宙人? なにあれ。
おぼつかない足をできるだけ速く動かす。息が上がって、肺が軋んで、それでも振り返ることが怖くて、家まで走り切った。
「ただいま……!」
ガチャッと扉を開け、リビングに駆け込もうとすると、ベランダの窓を開けて空を見上げていたお母さんがこちらを振り向く。
「あ、お帰り! ねえ、空の海月見た?」
「見たよ、なにあれ!?」
バサッとソファーに鞄を投げ捨てて、コップに水を注ぐ。手がまだ震えていて、蛇口のレバーがうまく掴めない。リビングのテレビでは、海月の出現を知らせるアナウンサーの声が響いていた。
だけどカメラには映っていないのか、画面にはただ綺麗な星空だけが映し出されている。
変なの。
「なんか、現実味がないわよね……綺麗なんだけどちょっと心配……」
「……本当にね」
乾ききった喉にコップの水を一気に流し込む。冷たい水が食道を落ちていく感触で、ようやく心臓の暴走が少しずつ収まっていく。お母さんの隣に立って、改めて空を見上げた。
だけど、なんだろう。違和感がある。
私の目に映っている海月は、綺麗な青でも、輝いてもいない。出現した瞬間のあの圧倒的な光とはまるで別物で、ぷかぷかと浮かんでいるそれは灰色をしていた。ドブネズミの毛皮のような、濁った、汚い灰色。
胃の奥がむかつくような不快感が這い上がってくる。
別に見て楽しいものでもない。
すると、テレビのアナウンサーが急遽横から紙を受け取って、早口で話し始めた。
「えっと、速報です。海月は見える人と見えない人がいることと、人によって色が変わっていることが分かったそうです」
その瞬間、私はお母さんと目を合わせた。
「幸、あんた何色?」
「私は灰色」
「そう、私は青色だわ……」
お母さんの声に含まれた微かな安堵。その安堵の外側に自分が立っていることに、胸の奥がちくりと痛んだ。
だけど、なんとなく。私が見ている"灰色"がよくないことは、理屈ではなく体がわかっていた。あの汚い色を見たとき、肌が粟立ったのを覚えている。
「なんか騒がしいね」
「あ、お姉ちゃん……」
「あんたも見なさいよこれ」
「ん?」
お母さんが庭に面した窓を開けて空を指さす。お姉ちゃんはびくっと肩を震わせて、そのまま空をじっと見つめた。
「なに、これ」
「ほんと、現実じゃないみたいよね」
そんなことをぼそっと呟いて、お母さんは眉間に皺を寄せながら海月を見上げている。お姉ちゃんもその現実味のなさを飲み込めていないようで、口が半開きのまま動かない。
「あ、お姉ちゃん何色に見える? なんか人によって違うらしいんだけど」
片手でスマホを操作しながら訊く。検索結果には、すでにいくつかの考察記事が並んでいた。
赤は危険信号、か……。
お母さんも私も赤じゃないから大丈夫――。
「――色? あー、私は多分赤だね」
「赤……」
指先が止まった。スマホの画面に目を戻す。知恵袋に並んだ文字列を、もう一度読み直す。
でも、まだ確定した情報じゃない。ここで口にしたら不安を煽るだけだ。
お姉ちゃんが首を傾げて目を丸くしたのを見て、私は「そっかありがと」と、できるだけ軽く返した。
「でも変よね、人で色が変わるなんて。まるで映像みたい」
「なんなんだろうね、これ」
私はもう一度空に目を向ける。灰色の海月が、ぷかぷかと浮いている。薄汚い傘がゆっくりと脈打つたびに、胸の底に溜まった澱が揺すられるような気がした。
やっぱり、見ても何も楽しくない。
*
「ねえ、海月何色だった!?」
「私は青色だよ!」
翌朝、教室に足を踏み入れた途端、海月の話題が四方から飛んできた。いつもの女子グループに混ざって、私は「青色」と答えた。
SNSで調べた限り、青色にネガティブな意味合いはないとされている。これが普通だ。嘘をついたのではなく、普通の側に立っただけ。そう自分に言い聞かせるとき、舌の上にわずかに苦い味が残った。
すると、クリーム色の艶やかな髪をツインテールで可愛らしくまとめた女の子が教室に入ってきた。
「おはよ、幸」
「おはよう天音」
ニコッと笑うこの子は、暁天音。中学からの親友で、いつも一緒にいる。
「昨日大丈夫だった?」
「ああ、風邪? 全然大丈夫」
私の隣の席に鞄を置いて、苦笑しながら手をふりふりと振る。椅子に座ると、さっきまで話していた女子が天音に訊いた。
「天音ちゃんは何色だった?」
「あー私は緑だけど、なんか意味あるのかな」
「あるらしいよー緑はえっと……幸運らしい!」
スマホの画面を見せながら答えると、天音はツインテールをひらりと揺らして「そっか。ならよかった」と嬉しそうに頬を緩めた。昨日風邪で休んでいたけれど、顔色は悪くなさそうだ。
ネットにはすでに、海月の色の意味と称する記事が無数に上がっていた。出現からたった一晩で、人はこんなにも言葉を並べたがるのだと思う。
「そうそう、ここだけの話なんだけどね」
手で口元を覆いながら声を潜める女子。私と天音は自然と顔を近づけた。
「夜宮紬さん、灰色らしいよ」
その言葉を聞いた瞬間、背骨の底を氷の指で撫でられたような感覚が走った。視界の端がぐらりと揺れて、机の縁を掴んでいないと椅子から滑り落ちそうだった。
「灰色?」
天音が不思議そうに頭を傾ける。里奈は恐ろしい秘密を漏らすように、ゆっくりと口を開いた。
「そう、灰色の人はなんか、危ない人? らしいよ……」
「え、夜宮さんが? そんなわけあるわけないじゃん。ね、幸?」
天音の声が、水の底から聞こえてくるみたいに遠い。灰色。SNSで見た数少ない報告。あの汚い、あの色。私と同じ色。
「…………幸?」
「え、あ。ごめん!」
天音が顔を覗き込んできて、ようやく教室の輪郭が戻ってくる。天音たちはすぐにいつもの雑談に流れていった。
私は、ゆっくりと視線を教室の隅に向けた。
夜宮紬。窓際の席で、いつも通り本に目を落としている。周囲の喧騒が存在しないかのように、ページに視線を縫い止められている。
肩くらいの黒い髪。整った横顔。だけどその周りには、人の足を踏み入れさせない空気が薄い膜のように張り付いていた。
あの夜宮さんが。
――私と、同じ色なのかな。
「じゃあこれで終わります! あと幸ちゃん、ちょっといい?」
ホームルームが終わるのと同時に、担任の先生が申し訳なさそうに目を細めて、私に両手を合わせた。
またか。
みんなが席を立って次の授業の準備や雑談に散っていく中、私は先生のいる教卓に足を運ぶ。頬の筋肉が自動的に動いて、優等生用の笑顔が貼り付く。
「それで、どうしたんですか?」
「そうそう、昨日の委員会決め図書委員だけ決まらなかったじゃない? それで幸ちゃんはなにも入ってなかったから……ね?」
そういうことか。
昨日の六時間目の委員会決め。図書委員は楽だということをみんな知っていて、やりたいという声はいくつか上がっていた。だけど、一番最初に立候補したのが夜宮紬だった。
その瞬間、挙がりかけていた手が全部降りて、各クラス二人必要な図書委員のもう一枠が、ぽっかりと空いたまま残された。
「あー、いいですよ? 私やりたいと思ってたんで!」
「ほんと!? よかったわーやっぱ幸ちゃんは頼りになるなー」
あはは、と笑うこの新人担任。その笑顔には、自分の手を汚さずに済んだ安堵がべったりと張り付いていて、喉の奥が締まるような吐き気がした。
一年の頃からこの先生のお願いは増え続けている。そして私はそのたびに、断るという選択肢を持たない自分に気づく。
「全然いいですよ!」
私は優等生だから。
声が自分のものじゃないみたいに、教卓と先生の間に落ちて消えた。
*
放課後。図書委員の説明があるということで、筆箱とタブレットを持って図書室に向かう。足が重い。靴底と廊下の間に粘着質の何かが挟まっているような感覚がまとわりつく。
ふと、前方に見覚えのある背中を見つけた。顔を俯かせて、小さな歩幅で歩いている。叱られに行く子供のような、私とは違う種類の重さを引きずった足取り。
「夜宮さん」
早歩きで横に並んで、少し屈むように顔を覗き込んだ。夜宮さんはバッと顔を上げて、目を丸くした。
――やっぱ、顔は整っている。
「……あ、朝凪幸ちゃん?」
「え、覚えててくれたんだ。なんか嬉しーな」
口が勝手に動く。別に仲良くなろうと話しかけたわけじゃない。ただ、図書委員は二人で作業することが多い。関わりを持っておいて損はない。
それに。灰色の海月が見えるのは、聞いた限りこの学校ではこの子だけだ。
「当たり前だよ、朝凪ちゃんはなんかクラスの中心って感じだし」
夜宮さんが笑った。だけど、その笑みの奥に何かが透けている。まるで、こちらの輪郭をとっくに見抜いている老人の目のような――背中を這い上がる冷たい感触があった。
この子って笑えるんだ。でも、その笑顔は背筋が凍る種類のものだった。
「そんなことないけどね。そういえばなんで図書委員に?」
「うーん……まぁ、私本好きだし。簡単そうだったからかな」
顎に手を当てて首を傾げながら、苦笑するように答えた。特に強い思いがあったわけじゃないらしい。
「へぇ……」
会話が途切れると、私たちは自然に黙って図書室へ向かった。窓の向こうからグラウンドのサッカー部の掛け声が微かに聞こえてくる。廊下にはまだ帰り支度をしている生徒がちらほらと残っていて、放課後特有の弛緩した空気が漂っていた。
話題がない。私はなんとなく、ひびの入った壁や色褪せた掲示物に目を滑らせた。
リフォームでもすればいいのに。
ふと夜宮さんのほうに目を向けると、驚いた。彼女は、泣いている子供を宥めているような、不思議な優しさを含んだ顔で廊下の風景を見ていた。
こんなぼろい校舎を見ながら、どうしてそんな顔ができるんだろう。
優しい表情ができる夜宮さんの目には、一体何が映っているのか。私には到底わからないや。
*
「えー、これで説明を終わる。明日の図書整理の担当は二年A組だから頼んだぞ」
「はい!」
「はい」
先生が私たちのほうを向いて言い放った。私は反射的に明るい声を出したが、隣の夜宮さんはいつも通り小さく呟いただけだった。
その差に、拳を握り締める。同じ灰色なのに、どうしてここまで噛み合わないんだろう。もし海月の色が心や性格を映しているなら、この子も私と同じように猫を被っていてもおかしくないのに。
そうじゃないとしたら、あの海月って一体なんなんだ。
答えは出ないまま、握り込んだ爪が掌に食い込んでいた。
「はい、じゃあ解散」
その声で、周りの生徒たちが席を立って図書室から出て行く。
私たちも廊下に出た。教室までの帰り道は同じ方向で、また二人で歩くことになった。説明が三十分ほどかかったせいか、先ほどまで聞こえていたサッカー部の掛け声はいつの間にか休憩中の雑談に変わっていて、廊下には私たちの足音だけがコツ、コツと響いている。
「疲れたね」
「だねー」
ぐいーっと固まった体を伸ばしながら、スマホを取り出しかけた手を止める。一緒に歩いているのにスマホを見始めるのは、さすがに感じが悪い。私は何とか話題を探す。
「そういえば夜宮さ――」
「夜宮じゃなくていい」
「……え?」
私の言葉を断ち切るように、夜宮さんが言った。足が止まる。
名前が気に入らなかったのだろうか。何か、触れてはいけないところに触れてしまったのだろうか。
夜宮さんは前を向いたまま、私のほうを見ない。廊下の蛍光灯がジジ、と微かに鳴る音だけが、空気の中で輪郭を持つ。頭が真っ白になって、この重さに体が耐え切れず、足がぷるぷると震え始めた。
夜宮さんがようやくこちらを向いた。
なぜか、間の抜けた顔をしていた。
「あ、ごめん。そういうなんか、嫌だったとかじゃなくて!」
手をパタパタと振りながら、必死に否定する。その光景が目に入った瞬間、張り詰めていた糸がふっと緩んで、足の震えが引いていった。
「その、これからもこうやって話すんだから、その下の名前で……」
「……え?」
「あ、いや。全然嫌だったらいいんだけど……」
私は夜宮さんの顔を見ていた。照れているわけでもなく、ただ場を繕うように浮かべた乾いた笑い。気まずさを打ち消そうとしているのが透けて見える、あの表情。
私は嫌というほど知っている。鏡の前で何度も練習した、あの顔だ。
「わかった……紬ちゃん」
笑顔で答えた。嫌悪感を、ただ笑顔の裏に畳んで押し込んだ。
窓の外に、灰色の海月がぷかぷかと浮かんでいる。まるで私の嘘を見透かしているように、こちらに向けてあの汚い色を静かにさらしていた。
「もう夜かー」
「だね」
校舎を出ると、空はすっかり暗くなっていた。私たちは途中まで帰り道が同じらしく、自然と並んで歩いていた。昨日の夕焼けに暮れる校舎とは打って変わって、初夏の夜の湿った空気が頬をそっと撫でていく。
部活動はすでに終わったようで、グラウンドから声は聞こえない。虫の声が遠くで細く鳴いているだけだ。
このくらいの温度が一番気持ちいいな、と思った。そう思えたこと自体が少し意外で、自分の感覚がまだちゃんと動いていることに驚いた。
「セーラー服だとやっぱ涼しいね」
「だね、セーラー服でよかった。可愛いし」
「そういうの気にするんだ?」
「え?」
あ。
何気なく訊いた一言に、紬ちゃんが引っかかったようにこちらを向く。暗がりの中で目が合って、一瞬、空気が凍った。
「あ、ごめん。女の子だしそういうの気にするよね」
「そうだね、可愛いほうがいい」
頭を掻きながらそう返すと、紬ちゃんは平然と笑った。私はそのまま話を続けようと彼女の顔を見た。
すると、紬ちゃんがまた空を見上げた。校舎の中で窓越しに見たときと同じように。
だけど今回は、違った。
「きれい」
口角が上がって、目が輝いていた。星に手が届くと本気で信じている子供のような、世界は美しいと疑っていない眼差し。あの灰色の、汚い、あの海月を見て。
胸の底で何かが、ぐしゃりと潰れた。
「なに、それ」
「え?」
「なんだよそれっ!」
何年ぶりだろう。こんな声を出したのは。親にも、先生にも、友達にも、一度も向けたことのなかった声が、喉を裂くようにして飛び出した。
自分が嫌いだ。
「あんたの海月の色は灰色でしょ!? なんで、なんでそんな幸せそうな顔ができるんだよ!」
道で怒鳴り声を浴びせる私の横を、親子連れが冷ややかな目で通り過ぎていく。街路樹の葉が夜風に揺れていたのに、私が叫んだ瞬間、何もかもが音を潜めたような気がした。
「あんたはどうせ青色とか、そんなありきたりな色でしょ? あんな色、私には綺麗に見えないよ……」
「幸ちゃん……」
はぁ、はぁ、と荒い呼吸が夜気に白く散る。だけど体は知っていた。ここで息を整えてしまったら、私はこの場から走り去りたくなる。冷静になった瞬間に、取り返しのつかないことをした実感が押し寄せてくる。
あーあ、今まで頑張っていい子してきたのに。こんなことで、全部終わるのか。
「ごめんね」
ぎゅっ、と。頭が誰かの胸に埋められた。
「……へ?」
「それが本当の幸ちゃんなんだね、よかった」
理解が追いつかない。顔を上げようとするとさらに強く抱きしめられて、紬ちゃんの制服の布地が頬に押し付けられる。
柔軟剤の匂いがする。その匂いが、怒りでも悲しみでもない、名前のつかない何かを胸に流し込んでくる。
「ごめん、綺麗なんて軽々しく言って」
「……え、いや別に……」
そんなことはどうでもいいはずだ。なんでこの人は怒鳴られて、こんなことができるんだ。
頭の中の真っ白が少しずつ薄れて、状況の輪郭が戻ってきた頃、ようやく腕が解かれた。顔を上げると、紬ちゃんがまた、あの優しい顔で私を見下ろしていた。
「幸ちゃんは灰色なんだね」
言葉は要らなかった。気がつくと、こくりと頷いていた。
「私の色はね……」
紬ちゃんがゆっくりと顔を空に向ける。海月を確かめるように見上げて、一瞬だけ口角を上げた。
「青色だよ」
そう言って笑った紬ちゃんの顔が、背中を向けた後もまぶたの裏に貼り付いて剥がれなかった。
逃げるように走って、振り返らなかった。自分の足音と息遣いだけが耳の中で反響して、紬ちゃんの声を上書きしようとしていた。でも、消えない。「青色だよ」の声が、走るたびに頭の中で弾んで、弾むたびに別の形を取る。
あの目。
笑顔が消えた一瞬の、あの目。
何も映していなかった。青色を見ている人間の目じゃなかった。
信号が赤に変わって、足が止まる。膝に手をついて、荒い呼吸を繰り返す。汗が首筋を伝って、制服の襟に染みていく。横断歩道の向こうで点滅する赤い光が、涙で滲んだみたいにぼやけていた。泣いてはいない。泣いてはいないのに、視界の輪郭がうまく結ばない。
青色。
――今朝、私もそう言った。
教室で、いつもの女子グループに混じって、「私は青色だよ」と。あのとき、私の声はどんなふうに聞こえていたんだろう。紬ちゃんの「青色だよ」と、同じだったんじゃないか。
信号が青に変わる。足を踏み出した瞬間、腹の底がひやりと冷えた。
私は嘘をついた。灰色を隠して、青色だと言った。嘘だとわかっていたし、嘘をつく理由もわかっていた。灰色は「危ない人」の色だから。そう言われたくなかったから。
紬ちゃんも、同じだ。
あの子も何かを隠している。「青色」と言ったとき、目が笑っていなかった。笑顔の端が消えた一瞬に見えたあの暗さは、自分の色を口にした人間の顔じゃない。持っていない色を名乗ったときの、嘘の裏側の顔だ。
私が知っている。私がそうだから。
横断歩道を渡りきって、住宅街の細い道に入る。街灯が等間隔に並んでいて、その光の輪を一つずつ踏んでいくたびに、紬ちゃんの顔が浮かんでは消えた。
海月を見上げて「きれい」と言ったときの、あの目。
自分が持っていないものを見つけた人間の目。あの瞬間だけは嘘じゃなかった。だからこそ、直後の「青色だよ」が嘘だと確信できてしまう。
じゃあ、本当は何色なんだろう。
灰色なのか。私と同じ、あの汚い色なのか。それとも、もっと別の――私が見たこともないような色を、一人で抱え込んでいるのか。
知りたかった。
理由は、うまく言葉にならない。紬ちゃんが嘘をついていると知ったところで、何かが変わるわけでもない。私の灰色が消えるわけでも、明日の教室が楽になるわけでもない。
でも、喉の奥に引っかかったまま落ちていかない。あの言葉が、小骨みたいに刺さって抜けない。私が「青色」と嘘をついたとき、誰も気づかなかった。誰も疑わなかった。あの嘘は教室の空気に溶けて、誰にも引っかからずに消えていった。
――なのに、紬ちゃんの嘘には気づいてしまった。
私だけが。
家の玄関に手をかけたとき、ふと空を見上げた。灰色の海月が、薄い闇の中でゆらゆらと揺れている。今朝よりも、ほんの少しだけ輪郭がはっきりして見える気がした。気のせいかもしれない。でも、さっきまで目を背けていたものを、今は直視している。
紬ちゃんの目に映っている海月は、本当は何色なのか。
その答えを知るまで、この小骨は抜けない。そんな予感だけが、玄関の冷たいドアノブを握る指先に、じんわりと残っていた。
