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ふわりと心地よい薔薇の香りが鼻を掠めた。
ゆっくりと重い瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは、眩しい硝子の照明と見たこともないほど豪華な天蓋だった。
「(あれ、ここは……?)」
背中に残る鈍い痛みに目を細めながら、私はゆっくりと身体を起こした。
地面に倒れたせいで汚れていたはずの衣服は清潔な寝間着に着せ替えられていて、傷の手当てもされている。
そして何より──……私の右手が、柔らかくて温かいものに強く握り込まれていた。
「……和泉、さん」
遠ざかっていく記憶の中で、何度も聞こえていたこの声。
その声に向かってゆっくりと振り向くと、そこにはベッドの傍らで私の手を両手で包み込むように握りしめる妙堂さんの姿があった。
どんなときでも完璧に整えられているはずの髪は乱れ、顔は青白くなっている。
いつもの余裕の表情で私を見ていた彼とは正反対に、今にも崩れ落ちそうなほど衰弱している様子が見てとれた。
「漣、さん……っ」
「よかった……っ。本当に、よかった」
掠れた声で私の名前を呼び、妙堂さんは私の手の甲に額を押し当てて、深く震える息を吐き出した。
帝都中から恐れられる『怪物』の、あまりにも脆くて優しい姿。
その温もりを感じながら、私は夢の中で見たあのときの記憶を噛み締めていた。
「私、思い出したんです。私と妙堂さんが、初めて出会った日のこと」
「……」
私が静かにそう告げると、彼は顔を上げて少しだけ目を見開いた。
「私が十歳のとき、土砂降りの雨の中でボロボロになっていたあなたに、当時の私の全財産だった一銭硬貨を渡したこと」
「……」
「お母様の形見が置かれている部屋に飾られていた一銭硬貨は、私があなたを『買った』ときのものだったんですね」
「……はい」
当時のなんでもなかった一銭を、あんなふうに大事に取っておいてくれたなんて。
〝これは俺が何より大切にしている一銭硬貨です。まぁ、売買契約のうえで得た金ですけど〟
〝俺の命よりも大切な人からの物なのです。返していただけますか?〟
彼のあのときの言葉の数々が、少しずつ繋がっていく。
ということは、もしかして妙堂さんは──。
「俺はあのときからずっと、あなたを月濱の家から連れ出すことだけを考えて生きてきた」
「え?」
「月濱の当主が金を貸せといえば、返済の見込みがなかろうと貸し続けた。あなたの母上の形見を馬鹿のように売り捌いていくたびに、新たに持ち主となったヤツの言い値で買い戻した。いつか、和泉さんにすべて返そうと思っていたから」
「そんな……っ!」
「そのくらい、俺はあなたをずっと待っていた──」
妙堂さんはそう言って、ベッドに横たわる私の頬を愛おしげに撫でた。
あたたくて優しい、私が一番安心できる手。
「私は十歳のころから、漣さんの言うとおり優れた審美眼を持っていたようですね。だって『妙堂漣』という怪物を所有していたのですから」
「だから言ったでしょう。あなたはもっと、自分の価値に気づくべきだと」
実の父親から塵と呼ばれ、誰からも必要とされていなかった私。
けれど、私にもちゃんと価値があったのだ。帝都一の怪物にたった一銭で生きる理由を与え、今日まで生かしてきたという何にも代え難い存在意義が。
妙堂さんは私の上にそっと覆い被さると、甘く、熱の籠った瞳でこちらを見つめる。
「改めて、今日からあなたは俺のものだ」
「漣、さん……」
「あの日俺に『勝手に死ぬことは許さない』と呪いをかけたのはあなただ。だから、あなたが俺の前から勝手にいなくなることも絶対に許さない」
「……っ」
「俺の許可なく自分を傷つけることも、俺を庇って血を流すこともだ」
彼の大きな手が、私の髪を梳き、頬を撫で、そして包帯が巻かれた背中の傷を労るように優しくなぞる。
「この髪も、肌も腕も、背中にできた切り傷も、あなたの命も全部俺のものだ」
耳元で囁かれる、身が竦むほど重くて甘い言葉たち。
そんな強引な妙堂さんの言葉は、私をこの世で一番大切に扱ってくれるとい彼なりの不器用な愛の誓いだった。
「ふふっ。本当に、理不尽で強引な人……」
「えぇ、俺は強欲な高利貸しですから」
妙堂さんは私の涙を唇で優しく拭い去ると、これ以上ないほど甘く、蕩けるような微笑みを浮かべた。
こうして私たちが再会するまでの数年間、彼がどれほどの苦労と執念を持って、私を迎えに来てくれたのだろう。
その重すぎるほどの愛が、痛いほどに伝わってくる。
「俺が持つすべて、富も、権力も、財力も、この命でさえあなたの物だから。あなたはこの世界で唯一、俺の『所有者』なのだから」
そう言って、漣さんは私の唇に、深く、甘い口づけを落とした。
「和泉さん、あなたを愛してる」
「私も、漣さんのことが好きです」
──ねぇ、お母様。
『頑張って生きていれば、きっと助けてくれる人が現れる』という言葉は、本当でした。
数年前のあの日、たった一銭で買い取った泥だらけの彼は、こんなにも立派な怪物となって私を最高に幸せな『所有者』にしてくれたのだから。
【完】



