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『あのとき、一銭で俺を買ったのはあなただ!』
深い暗闇の中で、愛しい人の悲痛な叫び声が響いた。
痛みに沈んでいく意識の底で、私はずっと忘れていた『あの日の記憶』を夢に見ていた。
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それは、私がまだ十歳だった頃の話。
お母様が亡くなってすぐ、父が新しい継母を家に迎え入れ、自分の居場所がどこにもなくなってしまった日のことだった。
つらくて、悲しくて、ただお母様に会いたくて、私は泣きながら雨の降る帝都の街を彷徨っていた。
どれくらい歩いていたのだろう。薄暗い路地裏に迷い込んだ私の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「けっ、妙堂のクソガキが。大人に逆らうからこうなるんだ!」
「金の切れ目が縁の切れ目ってなぁ!こういうことを言うんだよ妙堂家のお坊ちゃまさんよぉ!」
数人の柄の悪い大人たちが、泥水の地面に倒れ込む一人の少年を思いきり蹴りつけていた。
ボロボロになった衣服に、傷だらけの顔。
彼は抵抗することもせず、ただ冷たい雨に打たれながら血を流していた。
「(なんてことを……っ!)」
それまで旧華族の名家として、お母様や侍女たちから大切に育てられた私には信じられない光景だった。
恐怖で震えながらも、彼から目を逸らすことができなかった。
誰からも見捨てられ、ただ路地裏で死を待つだけの彼。
けれど、泥にまみれたその瞳だけは決して死んでいなかった。大人たちを睨みつける鋭いその瞳は、まるで研ぎ澄まされた刃のように美しく、圧倒的な熱を帯びていた。
きっと、幼いながらに思ったんだ。
彼の目が、きれいだって。お母様を亡くし、家に居場所がなくなって、それだけで生きることをやめたいと思っていた自分が恥ずかしくなったんだ。
「(嫌だ、死んじゃ……ダメ)」
「じゃあな、妙堂の坊ちゃんよ!死ね!」
彼を取り囲んでいる大人の一人が、太い木の棒を振り上げたとき。
私は無我夢中で飛び出して、頭の中で考えるよりも先に泥だらけの彼に覆い被さっていた。
「や、やめてくださいっ!」
「あぁ!? なんだお前、どこのガキだ!」
「この人に乱暴しないで!」
「うるせぇ、邪魔するならお前も痛い目見せるぞ!」
「そいつはなぁ、卑しい金貸しの塵なんだよ!」
「──塵なんかじゃないわ!」
土砂降りの雨に打たれながら、必死に大人たちに噛みついていた。
私は震える手をギュッと握り締めながら、着物の袂に隠し持っていた〝たった一つの全財産〟を取り出した。
それは、どこにでもある一銭硬貨。家を飛び出してきた私の、お守り代わりに持っていた唯一のお金だった。
私はそれを大人たちに向かって高く突き出した。
「い、今から私はこの人を一銭で買います!だから、もう手を出さないで!」
「……はぁ?」
「何言ってんだクソガキ」
大人たちを睨みつけながら、私は泥だらけの彼の横に膝をついた。
そして一銭硬貨をそっと彼に手渡した。
「私のお爺様が言っていたわ。『一度買ったものは、己が所有物。主の許しなく、この世から消えることは許されない』って。……だから、この人はたった今から私のものなの!」
十歳の子供の、あまりにも必死で滑稽なハッタリ。
普通なら見向きもされなかっただろう。
「なぁ、このガキもしかして、旧家のガキなんじゃ……」
「家紋入りの着物に、あの帯も……間違いねぇ」
「名家のガキに手を出したりしたら、さすがの俺らもまずいだろ」
「……くそ!」
私が唯一持っていた〝月濱家の長女〟という肩書きが、人生の中で初めて役に立った瞬間だった。
「ちっ、気味が悪いガキだ」
「もう死にかけだし、放っておこうぜ」
悪態をつきながら私たちに距離を取り始めた彼ら。
私は心の中で何度も「もうどこかへ行って!」「あっちへ行って!」と祈っていた。
「ただなぁ、世間知らずのお嬢ちゃん。こいつを生かしておいてもいいことなんか一つもないぜ?」
「アンタもせいぜい後悔しないようにしろ?」
最後に彼らがそんな捨て台詞を吐きながら裏路地を去っていく。
その瞬間、ホッと肩の力が抜けていくのが分かった。
静寂が戻った雨の中。
私は彼の手を自分の小さな両手で包み込んだ。
「ねぇ、大丈夫?」
「……」
「お家はどこなの?怪我の手当てをしましょう?」
「触んな、クソガキ」
壁に横たわって今にも倒れそうになっていた彼は、私の手をパッと払いのけながらそう言った。
声も掠れていて、痛みに顔を歪める彼。
「でも、このままだと死んじゃうよ?早く私の家に来て」
「それでいい」
「……え?」
「お前もさっきのあいつらの話、聞いてただろ。俺は卑しい家の息子なんだよ。だからもう、このままでいい」
きれいだと思っていた彼の瞳から、少しずつ光が消えていく。
それは彼が生きることを諦めようとしているのだとすぐに理解した。
「私が許さない!勝手に死ぬなんて、そんなの絶対に許しませんからね!」
「はぁ?」
「私はあなたを買ったの!この一銭で!だから勝手にいなくなることはもう許されないわ!」
「どう、して」
「もう、誰かがいなくなるのは見たくないの」
「……お前」
「だから、生きて。死ぬことって、とてもつらいことだから」
お母様を失ったばかりの、十歳の私の悲痛な願い。
いろんな思いが溢れてボロボロと涙を溢しながらそう言うと、彼は驚いたように目を見開いた。
「……分かったから」
「本当に?」
「あぁ、だからもう泣くな」
「本当の本当に!?嘘じゃないわよね?」
「……本当だ。俺は嘘はつかない」
そう言って彼は私の手から受け取った『一銭硬貨』を握りしめた。
まるで、自らの命そのものであるかのように、胸に強く抱きしめたのだった。
そんな泥まみれだった彼が、のちに帝都の裏側を支配する『怪物』となる妙堂漣だということを、当時の私は知る由もなかったのだ。
遠のく意識の底で、過去の泥まみれの彼と、私を抱きしめて涙を流す妙堂さんの姿が重なり合う。
『俺の所有者であるあなたが、勝手にいなくなるなんてダメだ!』
十年前、私が彼にかけた『生きるための呪い』。
今度は彼が、その狂おしいほどの強い声で私を現世へと引き留めようとしている。
「(彼の声に、応えなくちゃ……)」
深く暗い水の底から浮かび上がるように、私はゆっくりと、重い瞼をこじ開けた。



