*
「──それで?五千円の返済の代わりにこの掛け軸で勘弁してほしい、と?」
「ぜ、全額とは言いません!」
「ではいくらをお望みで?」
「みょ、妙堂様はおいくらほどと見積もっていらっしゃるのか……」
妙堂さんが『帝都一の怪物』『鬼の金貸し』と言われているのがよく分かったような気がする。
「(いざ妙堂さん……じゃない、漣さんのお仕事に同行してみたはいいけれど、居た堪れなない空気だわ)」
彼のお屋敷で見た優しく丁寧な口調は一切なく、仕事モードの妙堂漣は凄まじいほどの威圧感を持って圧倒的な支配者としてそこに君臨していた。
借金の返済を誤魔化そうとする者を、彼は一切の慈悲もなく冷徹に追い詰めていく。
「(どちらが本当の漣さんなのかしら)」
けれど不思議と私の中に嫌悪感はなかった。
私に対する甘やかすような態度や言葉と、冷徹な高利貸しとしての顔。そのあまりにも激しいギャップに、私はどうしようもなく彼から目が離せなくなっていた。
「こ、この掛け軸は江戸初期の有名な絵師が描いた本物の掛け軸だ。我が池畠家の前当主が大事にしていた代物と聞く。妙堂様は価値のある物の収集がご趣味なんでしょう?これでどうか今回の借金をできる限り帳消しにしていただきたい」
池畠家、という名前に聞き覚えがある。かつては彼らも帝都で幅を利かせていた商人一家だったはず。
継母がよくこの池畠家から夜会や旧家の集まりに行くための洋服や宝石を買い込んでいたことを思い出した。
「(どこのお家も苦しんでいるのね……)」
妙堂さんは静かに掛け軸を見下ろしている。
隣でお茶を淹れていた私は、その絵を見た瞬間に強い違和感を覚えた。
「(あの絵の具のひび割れ方……。それに、落款の朱肉の色が不自然だわ)」
……もしかして、偽物?
絵や掛け軸の専門的な商いの勉強などしたことはない。
けれど、お母様の実家が豪商ということもあってか、幼い頃から『本物の一級品』を見る機会だけには恵まれていた。
「お待ちください」
気づけば私は口を開いていた。
「和泉さん?」
「なんだこの女は……!大事な話をしているんだ、女はすっこんでろ!」
目の前に座っていた池畠家の当主が怒鳴り声を上げて立ち上がる。
「す、すみま……っ」
まずい、と咄嗟に謝罪をしようとしたそのとき。
「──次、一度でもその耳障りな怒鳴り声をあげたら喉を切り裂きます」
「なっ!し、しかし女が……っ!」
「和泉さん、あなたの出番ですよ」
肌がヒリつくほどの殺気を放ちながら、妙堂さんは私の方を見てニッコリ微笑んだ。
彼の静かな怒りにどうしても身体が強張っていく。
けれど、これは私の仕事だ。妙堂さんに与えられた、私にとって人生で初めての仕事だから──。
震える手をギュッと握り締めて、真っ直ぐに掛け軸の絵を指差した。
「この掛け軸は、きっと偽物です」
「な、なんだと!?貴様、何を根拠にそんなことを……っ!」
「江戸初期の絵の具は、このような不自然なひび割れは起きないと聞いたことがあります。それに、落款に使われている朱肉の色も、当時の技術では出せないお色味かと。これはおそらく明治以降に西洋から入ってきた顔料の色だと思います」
「……ほぉ。なるほど」
「みょ、妙堂様!女の言うことに納得などされてはなりませんよ!まったく、最近は女性活動だの、女の社会進出だの、身の程を弁えず出しゃばる女が多いからたまったもんじゃありませんなぁ!」
池畠家の当主の顔がみるみるうちに青ざめていく。図星を突かれたのだと、誰の目にも明らかだった。
妙堂さんの様子を仕切りに伺う彼はもう、後に引けない様子でどんどん口ばかりが動いていく。
「この俺によもや偽物を掴ませようとする輩が出てくるとは」
「ち、ちがっ!」
「俺も甘く見られたものですね、池畠家のご当主」
「……!」
「和泉さん、大変ご苦労様でした。あとはこちらで処理するので、あなたは先に俺の屋敷に戻っていてくれますか?」
「え、でもまだお仕事が……」
「もう十分です。俺が帰ったら一緒に食事をしましょう。そのあとあなたの日用品の買い出しも行かなければならないでしょう?なので先に帰って支度をしておいてもらえますか?」
「はい、分かりました」
そういうと、妙堂さんは私の頭をポンと優しく撫でる。
そして扉の前に立っていた黒服の部下に目配せをした。
「彼女を安全に屋敷まで送り届けるように」
「承知いたしました」
促されるまま応接室を出る直前、背後から甘く、優しい声が届いた。
「ありがとうございました、和泉さん」
「……!」
「では、また後ほど」
──ありがとう、って……私に?
お母様が亡くなってからずっと、誰からも必要とされず、ただのお荷物として売られたのが私だ。
月濱家の邪魔者で、実の父親から塵と呼ばれたのが私のはずだった。
そんな私が、今、帝都で一番恐れられているこの人の役に立ったのだ。
「……っ」
胸の奥がじんわりと熱くなり、視界が滲む。
私の『存在意義』を、他の誰でもない彼が……初めて認めてくれた瞬間だった。
*
初めてのお仕事を終え、妙堂さんのお屋敷に帰ってから共に夕食を済ませたその日の夜。
私は一人で三階の一番奥の部屋にあるお母様の形見が置かれた場所へと足を運んでいた。
静かな月明かりだけが差し込む部屋の中で、私はガラスの飾り棚に並べられたお母様の品々を愛おしく見つめた。
「(知らない人の手に渡っていなくて本当によかった。いつか全部、ちゃんとお仕事をして回収するからね)」
妙堂さんと交わした『お給料の代わりに、毎月一つずつ形見を返す』という契約。
今日、少しだけ彼のお仕事の役に立てたことで、私は「塵」ではない自分の存在意義をようやく見つけられたような気がしていた。
胸の奥がほんのりと温かいもので満たされている。
そんなふ浮かれた気持ちで棚を見渡していたとき、ふと並べられた形見たちの端に、一つだけ異質なものがあることに気がついた。
丁寧に折り畳まれた上質なベルベットの布。その上に、たった一枚の『一銭硬貨』が飾られている。
その一銭硬貨は縁が丸くすり減っていて、表面の桐の紋章も判別できないほど摩耗した、どこにでもある一銭硬貨のよう。
「これは何かしら。お母様が持っていたものではなさそうだけれど」
思わず手を伸ばして、その硬貨に触れようとした瞬間だった。
「……それは俺の、ですよ」
「きゃっ……! 漣、さんっ!」
背後から不意に降ってきた静かな声に、私はビクッと肩を揺らして振り返った。
「仕事がひと段落したのであなたの顔を見に来たのですが。……余程ここが気に入ったようですね」
いつの間にか背後に立っていた彼は静かな瞳で私を見つめたあと、そのまま私の元へ歩み寄って一銭硬貨をまるで壊れ物でも扱うかのようにそっと指先で持ち上げた。
「これは俺が何より大切にしている一銭硬貨です。まぁ、売買契約のうえで得た金ですけど」
「(売買契約のうえ? この一銭硬貨が?……どういう意味かしら)」
首を傾げる私に対し、彼はどこか遠くを見るような、酷く優しくて甘い瞳をして微笑んだ。
私がお仕事を助けた時に見せてくれた笑顔よりも、ずっとずっと、愛おしげな表情で。
「俺の命よりも大切な人からの物なのです。返していただけますか?」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がチクリ、と音を立てて痛んだ。
「(あぁ、彼には大切な人がちゃんといるのね)」
それもそのはずだ。
いくら悪名高き一族とはいえ、今や帝都一のお金持ちであり、この日本の裏側を牛耳っているほどの権力も持ち合わせている彼のことを、世の女性たちが放っておくはずがない。
「(あの妙堂さんをここまで惚れさせた女性って、いったいどんな人なのだろう……)」
彼が普段から表で見せている顔はとても怖いけれど、本当は優しい人だということを私は知っている。借金のカタにされた私に、同じ家に住まわせ、何不自由することなく衣食住を与えてくれるような人だもの。
だから、勘違いしてしまいそうになる。
彼が私を甘やかし、形見を集めてくれていた理由に、特別な感情があるのではないかと。
「(彼のこの優しさに慣れてはダメ。ましてやこの温かさを永遠に感じていたいだなんて……そんなものはただの傲慢だ)」
妙堂さんが『命の恩人』と呼ぶその人は、きっと私なんかとは比べ物にならないくらい、美しくて立派な女性なのだろう。三万円で買われた「塵」の私とは違う。
「……申し訳ありません。あなたの大切な物に、勝手に触れようとしてしまって」
私はギュッと拳を握り締め、彼の大切な人への浅ましい感情を振り払うように、深く頭を下げた。
「和泉さん……?」
「もう夜も遅いですから、私は部屋に戻ります。おやすみなさいませ」
これ以上彼と一緒にいたら、惨めな顔を見せてしまいそうだった。
〝私は三万円の借金のカタにされて売られた女〟
この事実はどんなことをしたって消えないのだから。
私は妙堂さんが何かを言いかける前に、逃げるようにその部屋を飛び出した。
胸の奥の痛みはいつまでも消えなかった。
「──それで?五千円の返済の代わりにこの掛け軸で勘弁してほしい、と?」
「ぜ、全額とは言いません!」
「ではいくらをお望みで?」
「みょ、妙堂様はおいくらほどと見積もっていらっしゃるのか……」
妙堂さんが『帝都一の怪物』『鬼の金貸し』と言われているのがよく分かったような気がする。
「(いざ妙堂さん……じゃない、漣さんのお仕事に同行してみたはいいけれど、居た堪れなない空気だわ)」
彼のお屋敷で見た優しく丁寧な口調は一切なく、仕事モードの妙堂漣は凄まじいほどの威圧感を持って圧倒的な支配者としてそこに君臨していた。
借金の返済を誤魔化そうとする者を、彼は一切の慈悲もなく冷徹に追い詰めていく。
「(どちらが本当の漣さんなのかしら)」
けれど不思議と私の中に嫌悪感はなかった。
私に対する甘やかすような態度や言葉と、冷徹な高利貸しとしての顔。そのあまりにも激しいギャップに、私はどうしようもなく彼から目が離せなくなっていた。
「こ、この掛け軸は江戸初期の有名な絵師が描いた本物の掛け軸だ。我が池畠家の前当主が大事にしていた代物と聞く。妙堂様は価値のある物の収集がご趣味なんでしょう?これでどうか今回の借金をできる限り帳消しにしていただきたい」
池畠家、という名前に聞き覚えがある。かつては彼らも帝都で幅を利かせていた商人一家だったはず。
継母がよくこの池畠家から夜会や旧家の集まりに行くための洋服や宝石を買い込んでいたことを思い出した。
「(どこのお家も苦しんでいるのね……)」
妙堂さんは静かに掛け軸を見下ろしている。
隣でお茶を淹れていた私は、その絵を見た瞬間に強い違和感を覚えた。
「(あの絵の具のひび割れ方……。それに、落款の朱肉の色が不自然だわ)」
……もしかして、偽物?
絵や掛け軸の専門的な商いの勉強などしたことはない。
けれど、お母様の実家が豪商ということもあってか、幼い頃から『本物の一級品』を見る機会だけには恵まれていた。
「お待ちください」
気づけば私は口を開いていた。
「和泉さん?」
「なんだこの女は……!大事な話をしているんだ、女はすっこんでろ!」
目の前に座っていた池畠家の当主が怒鳴り声を上げて立ち上がる。
「す、すみま……っ」
まずい、と咄嗟に謝罪をしようとしたそのとき。
「──次、一度でもその耳障りな怒鳴り声をあげたら喉を切り裂きます」
「なっ!し、しかし女が……っ!」
「和泉さん、あなたの出番ですよ」
肌がヒリつくほどの殺気を放ちながら、妙堂さんは私の方を見てニッコリ微笑んだ。
彼の静かな怒りにどうしても身体が強張っていく。
けれど、これは私の仕事だ。妙堂さんに与えられた、私にとって人生で初めての仕事だから──。
震える手をギュッと握り締めて、真っ直ぐに掛け軸の絵を指差した。
「この掛け軸は、きっと偽物です」
「な、なんだと!?貴様、何を根拠にそんなことを……っ!」
「江戸初期の絵の具は、このような不自然なひび割れは起きないと聞いたことがあります。それに、落款に使われている朱肉の色も、当時の技術では出せないお色味かと。これはおそらく明治以降に西洋から入ってきた顔料の色だと思います」
「……ほぉ。なるほど」
「みょ、妙堂様!女の言うことに納得などされてはなりませんよ!まったく、最近は女性活動だの、女の社会進出だの、身の程を弁えず出しゃばる女が多いからたまったもんじゃありませんなぁ!」
池畠家の当主の顔がみるみるうちに青ざめていく。図星を突かれたのだと、誰の目にも明らかだった。
妙堂さんの様子を仕切りに伺う彼はもう、後に引けない様子でどんどん口ばかりが動いていく。
「この俺によもや偽物を掴ませようとする輩が出てくるとは」
「ち、ちがっ!」
「俺も甘く見られたものですね、池畠家のご当主」
「……!」
「和泉さん、大変ご苦労様でした。あとはこちらで処理するので、あなたは先に俺の屋敷に戻っていてくれますか?」
「え、でもまだお仕事が……」
「もう十分です。俺が帰ったら一緒に食事をしましょう。そのあとあなたの日用品の買い出しも行かなければならないでしょう?なので先に帰って支度をしておいてもらえますか?」
「はい、分かりました」
そういうと、妙堂さんは私の頭をポンと優しく撫でる。
そして扉の前に立っていた黒服の部下に目配せをした。
「彼女を安全に屋敷まで送り届けるように」
「承知いたしました」
促されるまま応接室を出る直前、背後から甘く、優しい声が届いた。
「ありがとうございました、和泉さん」
「……!」
「では、また後ほど」
──ありがとう、って……私に?
お母様が亡くなってからずっと、誰からも必要とされず、ただのお荷物として売られたのが私だ。
月濱家の邪魔者で、実の父親から塵と呼ばれたのが私のはずだった。
そんな私が、今、帝都で一番恐れられているこの人の役に立ったのだ。
「……っ」
胸の奥がじんわりと熱くなり、視界が滲む。
私の『存在意義』を、他の誰でもない彼が……初めて認めてくれた瞬間だった。
*
初めてのお仕事を終え、妙堂さんのお屋敷に帰ってから共に夕食を済ませたその日の夜。
私は一人で三階の一番奥の部屋にあるお母様の形見が置かれた場所へと足を運んでいた。
静かな月明かりだけが差し込む部屋の中で、私はガラスの飾り棚に並べられたお母様の品々を愛おしく見つめた。
「(知らない人の手に渡っていなくて本当によかった。いつか全部、ちゃんとお仕事をして回収するからね)」
妙堂さんと交わした『お給料の代わりに、毎月一つずつ形見を返す』という契約。
今日、少しだけ彼のお仕事の役に立てたことで、私は「塵」ではない自分の存在意義をようやく見つけられたような気がしていた。
胸の奥がほんのりと温かいもので満たされている。
そんなふ浮かれた気持ちで棚を見渡していたとき、ふと並べられた形見たちの端に、一つだけ異質なものがあることに気がついた。
丁寧に折り畳まれた上質なベルベットの布。その上に、たった一枚の『一銭硬貨』が飾られている。
その一銭硬貨は縁が丸くすり減っていて、表面の桐の紋章も判別できないほど摩耗した、どこにでもある一銭硬貨のよう。
「これは何かしら。お母様が持っていたものではなさそうだけれど」
思わず手を伸ばして、その硬貨に触れようとした瞬間だった。
「……それは俺の、ですよ」
「きゃっ……! 漣、さんっ!」
背後から不意に降ってきた静かな声に、私はビクッと肩を揺らして振り返った。
「仕事がひと段落したのであなたの顔を見に来たのですが。……余程ここが気に入ったようですね」
いつの間にか背後に立っていた彼は静かな瞳で私を見つめたあと、そのまま私の元へ歩み寄って一銭硬貨をまるで壊れ物でも扱うかのようにそっと指先で持ち上げた。
「これは俺が何より大切にしている一銭硬貨です。まぁ、売買契約のうえで得た金ですけど」
「(売買契約のうえ? この一銭硬貨が?……どういう意味かしら)」
首を傾げる私に対し、彼はどこか遠くを見るような、酷く優しくて甘い瞳をして微笑んだ。
私がお仕事を助けた時に見せてくれた笑顔よりも、ずっとずっと、愛おしげな表情で。
「俺の命よりも大切な人からの物なのです。返していただけますか?」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥がチクリ、と音を立てて痛んだ。
「(あぁ、彼には大切な人がちゃんといるのね)」
それもそのはずだ。
いくら悪名高き一族とはいえ、今や帝都一のお金持ちであり、この日本の裏側を牛耳っているほどの権力も持ち合わせている彼のことを、世の女性たちが放っておくはずがない。
「(あの妙堂さんをここまで惚れさせた女性って、いったいどんな人なのだろう……)」
彼が普段から表で見せている顔はとても怖いけれど、本当は優しい人だということを私は知っている。借金のカタにされた私に、同じ家に住まわせ、何不自由することなく衣食住を与えてくれるような人だもの。
だから、勘違いしてしまいそうになる。
彼が私を甘やかし、形見を集めてくれていた理由に、特別な感情があるのではないかと。
「(彼のこの優しさに慣れてはダメ。ましてやこの温かさを永遠に感じていたいだなんて……そんなものはただの傲慢だ)」
妙堂さんが『命の恩人』と呼ぶその人は、きっと私なんかとは比べ物にならないくらい、美しくて立派な女性なのだろう。三万円で買われた「塵」の私とは違う。
「……申し訳ありません。あなたの大切な物に、勝手に触れようとしてしまって」
私はギュッと拳を握り締め、彼の大切な人への浅ましい感情を振り払うように、深く頭を下げた。
「和泉さん……?」
「もう夜も遅いですから、私は部屋に戻ります。おやすみなさいませ」
これ以上彼と一緒にいたら、惨めな顔を見せてしまいそうだった。
〝私は三万円の借金のカタにされて売られた女〟
この事実はどんなことをしたって消えないのだから。
私は妙堂さんが何かを言いかける前に、逃げるようにその部屋を飛び出した。
胸の奥の痛みはいつまでも消えなかった。



