*
「申し訳ございません、和泉様。旦那様は仕事が押しておりまして、もう少しお時間を頂戴したいとのことでございます」
「もちろんです」
「時間になりましたらお呼びいたしますので、それまでこの屋敷内で自由に過ごされていてください」
妙堂さんのこのお屋敷には侍女が十人、それからお金や妙堂さんの財産などを管理をしている家令が一人、そして専属の運転手や仕事関係の人たちが常時ここへ滞在しているそうで、部屋数も二十を超える間取りになっているそうだ。
一階は主に妙堂さんが使用する部屋が集中しているらしく、二階は客間やゲストルームと呼ばれる他人をもてなすための部屋で、三階は妙堂さんが趣味で集めている絵画や食器、陶芸などが展示されているのだとか。
「(どうせなら三階に行ってみようかしら)」
長い階段を登って、一つずつ厳重に保管されている品々を見て回る。
彼が帝都の中でも上位を争うほどのお金持ちであることは知っていたけれど、こうして並べられている一級品の数々を見ると、本当にすごい人なのだと思い知らされた。
月濱の家もかつては華族として名誉ある一族だった。
けれど時代の流れと共にその栄光は消え去り、お母様が亡くなって父が当主の座に着くと、家はだんだんと傾いていく一方だった。
度重なる事業の失敗に、継母や弟たちのやめられない豪遊。そして妙堂さんにお金を借りてはまた同じ過ちを繰り返す。
その結果、借金は莫大な金額まで膨れ上げり、お母様の財産でさえただの一つも私の手元に残ることはなく、すべて売り飛ばされてしまったのだった。
まるで展示会場のようになっている三階の大部屋には、妙堂さんのお眼鏡に叶う絵画や陶芸、日本では見たことのない艶やかな生地で作られたドレスなど、さまざまな物で溢れている。
「素晴らしいわね」
こうして素敵なものをゆっくりと見物するなんていつぶりだろう。
うっとりしながらすべての部屋を見終わったとき、最後の部屋にもう一つ奥につながる扉があることに気づいた私は、そっとそれを押し開けた。
「──え?」
嘘、でしょう?
奥の部屋に入った瞬間だった。中にずらりと置かれているものを見て、思わず息を呑んだ。
そんなはずはない、ここにあるわけがない。
私は一瞬のうちにパニックに陥り、頭の中が激しく混乱していく。
「どうしてここに……っ、お母様の形見があるの?」
信じられなかった。
三階に置かれている展示品とは違って、この小さな部屋にはかつて父が売り払ったお母様の遺品や形見たちがすべて揃っていたから。
生前、お母様が大事にしていた指輪やペンダントに、お母様の一族が大事にしていたというお着物や宝石、簪や万年筆など、思い出の品々が丁寧に一つずつしまわれていた。
お母様の一家は江戸から続く豪商一族だった。本物だけを、本当に望む人の元へ届ける。それがお母様の家の家訓だったそうだ。
お母様は決して贅沢をする人ではなかったけれど、年に一度だけ、自分の誕生日に実家から本当に欲しいものを一つだけ買い付けていた。
『和泉も一緒に行きましょう。お爺様に美味しい物をご馳走になりましょうね』
普段は凛としていて威厳のある人だったけれど、毎年あの日だけは心から笑っているように見えた。
そんな思い出の品々が、どうして妙堂家のこのお屋敷に?
「──探しましたよ。まさかここにいたとは」
「……!」
突然、背後から聞こえたこの家の持ち主の声。
私を三万円という大金で買い取り、部屋を与え、風呂に浸からせ、そしてなぜか母の形見を持っている男──。
「みょ、妙堂さん、あの……っ」
「この部屋に入ることは許可していませんが、まぁいいでしょう」
彼の方へは振り向かず、私は妙堂さんに背を向けたまま声だけをそちらに向けた。
「この部屋にあるものについて、お聞かせください」
「ある程度和泉さんの言いたいことは予想できますが、どうぞ?あえて聞きましょう」
「どうしてここに、私のお母様の形見が揃っているのですか?」
偶然とは思えない。
たまたまお母様の形見を手に入れたにしてはあまりにも数が多すぎる。
「(彼が、故意に集めたとしか……)」
──けれど、その理由は?
「あの能無しが……いえ、失礼。あなたのお父上がこんな高級な物の価値も分からないまま、どこぞの阿呆に言い値で売ってしまっていたので買い戻しただけのことですよ」
「……分かりません。どうしてわざわざ、私の母の物を妙堂さんが買い戻したのかが」
「本当に分かりませんか?」
「分からないからこうしてお聞きしているのです」
「では金持ちの道楽とでも思っておいていただければ。どちらにせよ、今この品々の所有権は俺のものです」
お母様の形見が周りに回って妙堂さんの手元にあることが、吉なのか凶なのか。
今の私には、まだ分からない。
「──お願いです。どうか、お母様の形見を私に返してはくれませでしょうか」
「……」
「もちろんそれなりの対価を払うつもりです」
「へぇ、対価とは?」
「それは、その、私、働きに出ます。学校の教員やどこかのお屋敷の侍女、工場で働くでも構いません。いただいたお給料はすべて妙堂さんにお渡しいたします!ですから、どうか──って、キャッ!」
深く頭を下げて彼に懇願しようとしたとき、言い終わるよりも早く私の背中が壁に押し付けられた。
逃げ場を奪うように両腕を壁につかれ、私は完全に妙堂さんに閉じ込められてしまった。
「……外で、働く?」
驚くほど低い声に、くすみ上がるほどの恐怖を覚えた。
「は、はい。これは私の母の形見です……っ。父にすべて売り払われてしまい諦めていましたが、目の前にそれらがある以上、見て見ぬ振りはできません」
「やっとの思いであなたをここへ連れてきたというのに、今さらみすみす外へ出すと思いますか?」
至近距離にある彼の瞳が、怒りと、それ以上の酷く熱い感情を孕んで私を射抜いていた。
──やっとの思いで?
どういう意味だろうか。
今日、妙堂さんにここへ連れてこられてからずっと、何かを隠されているような気がしてならない。
何を聞いても、何を尋ねても、うまく核心から逸れた言葉ばかり並べられている。
「今さらあなたを外へやる気はありませんよ」
「では私はどのようにしてお金を稼げば良いのですか!?どうすれば、お母様の形見を返していただけますか?」
「そんなに働きたいのなら、俺のもとで働きなさい」
「妙堂さんの、隣で?」
「えぇ、あなたのその教養と母上から受け継いだ審美眼を活かさない手はないでしょう」
私に「はい」の返事を求めるように、「ね?」と再び聞き返す妙堂さん。
「いい加減あなたは自分の価値に気づくべきでは?和泉さんほど優れた目を持った人はそうそういませんよ?」
彼はどうして私をそこまで評価してくれているのだろう。
私はこれまで一度だって何かを売買したり、経営に携わったことなどないというのに。
昔、母方のお爺様から物の見極め方や売買について簡単に教わったことはあるけれど、それは私がまだ十歳のときの話だ。女学校に通っていたころもお仕事に関する勉強は一つもなく、裁縫や家事やお作法などを徹底的に仕込まれただけ。
「(もしかして妙堂さんは、私と誰かを間違えているのかしら?)」
けれど、今はそれでも構わない。
どんな仕事であっても、お母様の形見を返してもらえるだけのお金が稼げるのであれば私はなんだってする。
「わ、私は妙堂さんの隣でどのような仕事をすればよいですか?」
「あなたの仕事は俺の隣にいることです」
「え?」
「ふっ。不服そうな顔ですね」
「不服だなんて、そんなことは……」
「冗談ですよ。俺の元には毎日金に代わるような『物』がたくさん届きます。あなたはそれが本物かどうか見極めていただきたい」
「な、なるほど」
「そして、こうしましょう。和泉さんに渡すお給料の代わりに、毎月一つずつ母上の形見を返して差し上げます」
「ほ、本当ですか!?」
「俺は嘘はつきませんよ」
妙堂さんのその提案に、飛び跳ねるほど喜んでしまいそうになるのをグッと堪えた。
私にとってはお金より何倍もお母様の形見が返ってくることのほうが重要だ。
「だからくれぐれも、外に出たいなど思わないように。いいですね?」
「しょ、承知いたしました!私、頑張ります!」
「やる気が出たようで何よりです。それでは夕食にしましょう。一階のダイニングルームへ来てください」
「はい!」
「……あぁ、それから俺のことは妙堂さんではなく、漣と呼ぶように」
「で、でも」
「これも条件に入れますか?名前で呼ばない限り給与はなし、とか」
「い、いえ!きちんとお名前で呼ぶように……気をつけます」
「では一度練習してごらんなさい」
「今、ですか?」
「今、です」
男性の下の名前を呼んだことなど数えるくらいしかない私にとって、なんだかとてもこそばゆい。
キュッと肩に力を入れながら、私はそっと息を吸い込んだ。
「れ、漣……さん」
「はい、合格です」
ドキドキと顔が赤くなっていく私と違って、彼はとても満足そうな表情で私の手を引いて階段を廊下を歩き始めた。
「申し訳ございません、和泉様。旦那様は仕事が押しておりまして、もう少しお時間を頂戴したいとのことでございます」
「もちろんです」
「時間になりましたらお呼びいたしますので、それまでこの屋敷内で自由に過ごされていてください」
妙堂さんのこのお屋敷には侍女が十人、それからお金や妙堂さんの財産などを管理をしている家令が一人、そして専属の運転手や仕事関係の人たちが常時ここへ滞在しているそうで、部屋数も二十を超える間取りになっているそうだ。
一階は主に妙堂さんが使用する部屋が集中しているらしく、二階は客間やゲストルームと呼ばれる他人をもてなすための部屋で、三階は妙堂さんが趣味で集めている絵画や食器、陶芸などが展示されているのだとか。
「(どうせなら三階に行ってみようかしら)」
長い階段を登って、一つずつ厳重に保管されている品々を見て回る。
彼が帝都の中でも上位を争うほどのお金持ちであることは知っていたけれど、こうして並べられている一級品の数々を見ると、本当にすごい人なのだと思い知らされた。
月濱の家もかつては華族として名誉ある一族だった。
けれど時代の流れと共にその栄光は消え去り、お母様が亡くなって父が当主の座に着くと、家はだんだんと傾いていく一方だった。
度重なる事業の失敗に、継母や弟たちのやめられない豪遊。そして妙堂さんにお金を借りてはまた同じ過ちを繰り返す。
その結果、借金は莫大な金額まで膨れ上げり、お母様の財産でさえただの一つも私の手元に残ることはなく、すべて売り飛ばされてしまったのだった。
まるで展示会場のようになっている三階の大部屋には、妙堂さんのお眼鏡に叶う絵画や陶芸、日本では見たことのない艶やかな生地で作られたドレスなど、さまざまな物で溢れている。
「素晴らしいわね」
こうして素敵なものをゆっくりと見物するなんていつぶりだろう。
うっとりしながらすべての部屋を見終わったとき、最後の部屋にもう一つ奥につながる扉があることに気づいた私は、そっとそれを押し開けた。
「──え?」
嘘、でしょう?
奥の部屋に入った瞬間だった。中にずらりと置かれているものを見て、思わず息を呑んだ。
そんなはずはない、ここにあるわけがない。
私は一瞬のうちにパニックに陥り、頭の中が激しく混乱していく。
「どうしてここに……っ、お母様の形見があるの?」
信じられなかった。
三階に置かれている展示品とは違って、この小さな部屋にはかつて父が売り払ったお母様の遺品や形見たちがすべて揃っていたから。
生前、お母様が大事にしていた指輪やペンダントに、お母様の一族が大事にしていたというお着物や宝石、簪や万年筆など、思い出の品々が丁寧に一つずつしまわれていた。
お母様の一家は江戸から続く豪商一族だった。本物だけを、本当に望む人の元へ届ける。それがお母様の家の家訓だったそうだ。
お母様は決して贅沢をする人ではなかったけれど、年に一度だけ、自分の誕生日に実家から本当に欲しいものを一つだけ買い付けていた。
『和泉も一緒に行きましょう。お爺様に美味しい物をご馳走になりましょうね』
普段は凛としていて威厳のある人だったけれど、毎年あの日だけは心から笑っているように見えた。
そんな思い出の品々が、どうして妙堂家のこのお屋敷に?
「──探しましたよ。まさかここにいたとは」
「……!」
突然、背後から聞こえたこの家の持ち主の声。
私を三万円という大金で買い取り、部屋を与え、風呂に浸からせ、そしてなぜか母の形見を持っている男──。
「みょ、妙堂さん、あの……っ」
「この部屋に入ることは許可していませんが、まぁいいでしょう」
彼の方へは振り向かず、私は妙堂さんに背を向けたまま声だけをそちらに向けた。
「この部屋にあるものについて、お聞かせください」
「ある程度和泉さんの言いたいことは予想できますが、どうぞ?あえて聞きましょう」
「どうしてここに、私のお母様の形見が揃っているのですか?」
偶然とは思えない。
たまたまお母様の形見を手に入れたにしてはあまりにも数が多すぎる。
「(彼が、故意に集めたとしか……)」
──けれど、その理由は?
「あの能無しが……いえ、失礼。あなたのお父上がこんな高級な物の価値も分からないまま、どこぞの阿呆に言い値で売ってしまっていたので買い戻しただけのことですよ」
「……分かりません。どうしてわざわざ、私の母の物を妙堂さんが買い戻したのかが」
「本当に分かりませんか?」
「分からないからこうしてお聞きしているのです」
「では金持ちの道楽とでも思っておいていただければ。どちらにせよ、今この品々の所有権は俺のものです」
お母様の形見が周りに回って妙堂さんの手元にあることが、吉なのか凶なのか。
今の私には、まだ分からない。
「──お願いです。どうか、お母様の形見を私に返してはくれませでしょうか」
「……」
「もちろんそれなりの対価を払うつもりです」
「へぇ、対価とは?」
「それは、その、私、働きに出ます。学校の教員やどこかのお屋敷の侍女、工場で働くでも構いません。いただいたお給料はすべて妙堂さんにお渡しいたします!ですから、どうか──って、キャッ!」
深く頭を下げて彼に懇願しようとしたとき、言い終わるよりも早く私の背中が壁に押し付けられた。
逃げ場を奪うように両腕を壁につかれ、私は完全に妙堂さんに閉じ込められてしまった。
「……外で、働く?」
驚くほど低い声に、くすみ上がるほどの恐怖を覚えた。
「は、はい。これは私の母の形見です……っ。父にすべて売り払われてしまい諦めていましたが、目の前にそれらがある以上、見て見ぬ振りはできません」
「やっとの思いであなたをここへ連れてきたというのに、今さらみすみす外へ出すと思いますか?」
至近距離にある彼の瞳が、怒りと、それ以上の酷く熱い感情を孕んで私を射抜いていた。
──やっとの思いで?
どういう意味だろうか。
今日、妙堂さんにここへ連れてこられてからずっと、何かを隠されているような気がしてならない。
何を聞いても、何を尋ねても、うまく核心から逸れた言葉ばかり並べられている。
「今さらあなたを外へやる気はありませんよ」
「では私はどのようにしてお金を稼げば良いのですか!?どうすれば、お母様の形見を返していただけますか?」
「そんなに働きたいのなら、俺のもとで働きなさい」
「妙堂さんの、隣で?」
「えぇ、あなたのその教養と母上から受け継いだ審美眼を活かさない手はないでしょう」
私に「はい」の返事を求めるように、「ね?」と再び聞き返す妙堂さん。
「いい加減あなたは自分の価値に気づくべきでは?和泉さんほど優れた目を持った人はそうそういませんよ?」
彼はどうして私をそこまで評価してくれているのだろう。
私はこれまで一度だって何かを売買したり、経営に携わったことなどないというのに。
昔、母方のお爺様から物の見極め方や売買について簡単に教わったことはあるけれど、それは私がまだ十歳のときの話だ。女学校に通っていたころもお仕事に関する勉強は一つもなく、裁縫や家事やお作法などを徹底的に仕込まれただけ。
「(もしかして妙堂さんは、私と誰かを間違えているのかしら?)」
けれど、今はそれでも構わない。
どんな仕事であっても、お母様の形見を返してもらえるだけのお金が稼げるのであれば私はなんだってする。
「わ、私は妙堂さんの隣でどのような仕事をすればよいですか?」
「あなたの仕事は俺の隣にいることです」
「え?」
「ふっ。不服そうな顔ですね」
「不服だなんて、そんなことは……」
「冗談ですよ。俺の元には毎日金に代わるような『物』がたくさん届きます。あなたはそれが本物かどうか見極めていただきたい」
「な、なるほど」
「そして、こうしましょう。和泉さんに渡すお給料の代わりに、毎月一つずつ母上の形見を返して差し上げます」
「ほ、本当ですか!?」
「俺は嘘はつきませんよ」
妙堂さんのその提案に、飛び跳ねるほど喜んでしまいそうになるのをグッと堪えた。
私にとってはお金より何倍もお母様の形見が返ってくることのほうが重要だ。
「だからくれぐれも、外に出たいなど思わないように。いいですね?」
「しょ、承知いたしました!私、頑張ります!」
「やる気が出たようで何よりです。それでは夕食にしましょう。一階のダイニングルームへ来てください」
「はい!」
「……あぁ、それから俺のことは妙堂さんではなく、漣と呼ぶように」
「で、でも」
「これも条件に入れますか?名前で呼ばない限り給与はなし、とか」
「い、いえ!きちんとお名前で呼ぶように……気をつけます」
「では一度練習してごらんなさい」
「今、ですか?」
「今、です」
男性の下の名前を呼んだことなど数えるくらいしかない私にとって、なんだかとてもこそばゆい。
キュッと肩に力を入れながら、私はそっと息を吸い込んだ。
「れ、漣……さん」
「はい、合格です」
ドキドキと顔が赤くなっていく私と違って、彼はとても満足そうな表情で私の手を引いて階段を廊下を歩き始めた。



