*
「さぁ、降りてください。着きましたよ」
初めて乗った黒色の自動車に揺られて連れてこられたのは、妙堂さんが所有しているお屋敷だった。
由緒ある名家や名だたる豪商たちが多く集まる帝都の一等地の中でも、特に立地のいい場所に佇む彼の家は、これまで本の中でしか見たことのなかった西洋のお城そのものだった。
最近の西洋文化の強い流行りで、家を改装する人も出てきていると聞いていたけれど、ここまで忠実な建物は初めて目にした。
アーチ状に造られた門に、薔薇や噴水が出迎えてくれる豪華な庭。家の外壁は赤みのあるレンガ調になっていて、まるで異国の地に来ているかのような感覚に陥ってしまう。
「(す、すごい……)」
「さて、今日からここがあなたの家です」
「あの、妙堂……さん。本当に私を買われたのですか?」
「はい、確かに」
私のその問いに間髪入れずそう答えた彼に、再び心臓がギュッと締め付けられた。
「父があなたに借りていたお金は三万円を超えていたはずです」
「えぇ、利子を含めればそれ以上になるかと」
「そんな大金をどうして……」
全額清算する、だなんて言ったのだろう。
〝これまでの借金の全額、すべてきれいに清算してやる〟
私にそんな価値はないのに。
貸したお金はどんな手を使ってでも回収するのが彼ら妙堂家のやり方だ。
月濱家にある全財産を投げ打っても到底支払えるはずのない額を、どうして私なんかのために帳消しに?
「俺は価値のあるものにしか投資しませんから」
「私にそのような価値はありません。ですからどうか……」
「俺の鑑定眼を疑うのですか?心外だなぁ」
「ち、違います!そういうことではなくて、あの、ですから」
「ふふっ、今日は冷えます。早く家に入りましょう」
慌てふためく私に小さく微笑む妙堂さん。
彼は黒革の手袋を嵌めた手で私の腕をそっと引いて歩き始めた。
父の腕を捻り上げたときとは打って変わって、私に触れる妙堂さんの力加減があまりに優しかったから、これ以上何も聞けずに後を追うことしかできなかった。
*
「おかえりなさいませ、旦那様」
妙堂さんに連れられて家の中へ入ると、スーツを身に纏った男性が一人、そして複数の侍女たちが彼の帰りを待っていた。
妙堂さんの姿を見るなり一斉に頭を下げて、鞄や上着などを預かっていく。
「ただいま戻りました。何か変わったことは?」
「はい、本日の回収金についてですが──」
お屋敷の中は、外観以上に豪奢な造りをしている。
床には足が沈み込むほどふかふかの絨毯が敷かれていて、天井からは太陽のように眩しい硝子でできた大きな照明が吊るされていた。
あまりに日本離れした内装に呆気に取られた私とは正反対に、妙堂さんはスーツ姿の男性と仕事の話を淡々と進めていく。
「あぁ、それから、今日からここに住むことになった月濱和泉さんです。ゲストルームに案内してください」
「承知いたしました」
「和泉さん、まずは風呂へ行ってください。そのあと着替えや身支度が終わったら俺の部屋まで来るように」
「あの、妙堂さ……」
「あと、俺のことは漣と呼ぶように」
「え?そ、そんな」
「それでは俺はしばらく書斎に籠るので、あとは侍女の案内に従ってください」
妙堂さんは私の頭を一度だけポンと撫でたあと、ネクタイを緩めながら足早に二階へ上がって行く。
妙堂家の当主になったばかりの彼は、きっと私が思っているよりも多忙なのだろう。
遠ざかっていく妙堂さんの背中を見ながら、私は「待ってください」と伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
「和泉様、お部屋へご案内いたします」
「はい」
「お鞄、お持ちいたしますね」
「ありがとう、ございます」
背後から声をかけてきた侍女の一人に、案内されるがままついて歩く。
時折私の様子を伺いながら、歩幅を合わせて歩いてくれる。
「(優しい人、なのね)」
月濱家にいる侍女も、お母様が生きていたころはみんな優しく接してくれた。
けれど継母が月濱家の後妻としてやってきてすぐに、彼女はそれまでお母様や私に仕えていた侍女を全員辞めさせ、新たに人を入れ替えた。
それ以来、月濱家で私に親切にしてくれる人はいなくなった。あの広い屋敷の中で、私の味方は一人もいなかった。
「こちらが和泉様のお部屋でございます」
「あ、あの……」
「お召し物はそちらのクローゼットと呼ばれる洋風の箪笥に入っておりますので、好きなものをお選びください」
「いや、だから」
「お風呂は右隣にございますので、存分に温まってください」
案内された豪華な部屋を見て目を丸くする私に、侍女はあれこれと説明をしていく。
見たこともないようなお洒落な調度品の数々に、布団ではなく大きなベッドが堂々と部屋の真ん中に置かれている。
初めて聞くクローゼットの中には女性物の洋服から着物までぎっしりと用意されていて、まるで最初からここに女性が来ることを予想していたかのように全てが完璧に揃えられていた。
「待ってください。私はお客としてここへ来たわけではないのです。ですからこのようなお部屋は使えません」
「そんなことはございませんよ、和泉様」
「ほ、本当に違うんです!私は……っ、三万円分の何かを妙堂さんにお返ししなくてはならないのです。その何かはまだ分かりませんが、ですからもっと動きやすいお着物を貸していただけませんか?お屋敷のお掃除や家事は一度やり方を教えてくだされば私も手伝いますので」
「旦那様から、和泉様には何もさせるなと仰せつかっております」
「どうして……っ」
妙堂さんの考えが何一つ分からない。
あのような大金を清算してまで私を買い取ったその理由はいったい何?
このお屋敷のことをするなということは、他に何かさせたいことでもあるのだろうか。
「(私はこれから、何をさせられるのだろう……)」
先の見えない不安が一気に襲いかかってくる。
三万円という大金で売られた身分なのだから、たとえどんな過酷なことを強いられたとしても私に拒否権がないことは十分理解している。
父が妙堂さんと私の売買に関する契約書に署名した時点で、覚悟は決まっていたはずだった。
それでも怖くてたまらない。
「和泉様、まずはお風呂に入られてはいかがですか?熱めのお湯を用意しておりますので、少しは緊張も解けるかと」
「……っ」
「私は下の階でお食事の準備をしてきますので、何かありましたらいつでもお呼びください」
侍女が部屋から出ていくと、途端に静まり返ったこの豪華な部屋。
椅子や机一つとってみても、きっと相当高額な物に違いない。すべて私には似合わない代物だった。
「お風呂、行かなくちゃ」
月濱の家から最低限のものだけを持ち出した鞄を開けて、準備をして隣にあるというお風呂へ向かう。
けれどここでもまた問題が生じた。
「洋式のお風呂の使い方なんて分からないわ……」
風呂の中には見たこともないようなパイプが通っており、どうやっても水が出てこない。
浴槽の中のお湯で済ませようとしても、肝心の桶がない。
「だ、誰かに聞かないと」
脱いだ着物を慌てて雑に着直して、浴室から飛び出した。
私をここまで案内してくれた侍女に使い方を教わろうと探していたとき。
「おや、もう風呂から上がったのですか?」
「きゃっ!みょ、妙堂さん!?」
お屋敷の長い廊下を歩いていた彼と、不運にも遭遇してしまった。
なにしろ急いで出てきたものだから、乱れた髪によれた服のままだったことに気づいて、私は襟元をギュッと握りしめて俯いた。
「このような姿ですみません!あの、お風呂の使い方が分からず……っ」
「あぁ、なるほど。シャワーですね」
「先ほど案内してくださった侍女に尋ねますので、失礼します」
一刻も早くこの場から立ち去りたい一心に、妙堂さんの横をすり抜けるように走り出す。
そんな私に「待った」と言いながら、片腕を伸ばして阻止した妙堂さん。
「風呂の使い方なら俺が教えてあげましょう」
「え?」
「今日は一段と冷えますから、早く浴室へ戻りましょう」
「そ、そんなわけにはいきません!あなたの手を煩わせるなんて、そんな……」
「こちらもその乱れた姿で屋敷を彷徨かせるわけにはいきませんから」
「……!」
「さぁ、言うことを聞いて」
スッと腰に手を添えて、浴室へ巻き返される。
彼と共に風呂に入るなど言語道断だ。けれど、私にはそれさえ拒否する資格がない。
「湯船に浸かっていてください。髪を流して差し上げます」
「……っ」
私は言われるがまま、再び着物を脱いでお風呂の扉を開いた。
足の先からそっとお湯に浸かる。
彼がやってくるであろう扉に背を向けて座ることが、今の私にできる唯一の反抗だった。
「このレバーを引くと上から湯が出る仕組みです」
「理解、しました」
「止めるときは上げる。これだけのことですよ」
「……」
「石鹸はいくつか用意させたので、好きなものを使ってください」
「ありがとう、ございます」
月濱家にある内風呂とは何もかも造りが違っていた。
そもそも私は風呂に入ることを許されていなかったから、一人で通っていた銭湯が懐かしく感じた。
「ではそのまま頭を浴槽の淵に預けてください。髪をこちらへ」
「使い方を教わったので、あとは自分でできます。ですから、もう……」
「我慢なさい」
「でも!」
多忙なはずの彼が、どうして借金のカタにされた私にここまで手を焼いてくれるのだろうか。
豪華な部屋に、何十着も用意されていた服。文句の言いようのない寝床に、お風呂まで用意されている。
「でも、なんですか?」
「何度も申し上げていますが、私はこのような待遇を受けるべき人間ではありません」
薔薇の香りがする石鹸を丁寧に泡立てて、妙堂さんはそれをそっと私の髪に乗せていく。
羞恥心とこそばゆさが相俟って、私は赤く火照った顔を両手で覆いながらも言葉の続きを話した。
「私は三万円という大金の代わりに売られたのです。これから私は妙堂さんに何をして差し上げればいいのですか?」
「和泉さんはどのようなことを想像しているのですか?」
「どのようなことでも受け入れます」
そう答えると、私の髪に触れていた妙堂さんの手がピタリと止まった。
「どのようなこと、とは?」
「言葉の、とおりです」
「では何をさせられても構わない、と?」
「覚悟のうえでございます」
背を向けているせいで、彼が今どんな顔をしているのか分からない。
ただ、それから妙堂さんは言葉を発することなく無言で私の髪を洗い流した。
彼の荒々しい雰囲気とは打って変わって、何度も、何度も、丁寧に、優しく──。
「髪は洗い流しました。あとは肩まで浸かって、百数えてから出てきなさい」
「分かりました」
私にそう言って立ち上がった妙堂さん。
どこか先ほどまでの雰囲気とは違って見えるのは、私の気のせいだろうか。
「あなたは随分変わりましたね」
「え?」
「……いえ、なんでも。身支度が済んだら俺の書斎へ来るように」
「はい、承知しました」
風呂場から出る間際にそう言って、妙堂さんはそのまま扉を開けて出て行った。
その瞬間、それまでグッと強張っていた身体の力が抜けていく。
こんなふうに温かいお湯を一人で堪能したのはいつぶりだろう。
「一、二、三、四……」
ゆっくりと目を瞑りながら、彼に言われたとおり肩の位置までお湯に沈んで百までの数字を数えていく。
時折、自分の髪から高級な薔薇の匂いが鼻を掠めるたびに、瞼の裏に映るのは妙堂さんの顔だった。



