夕暮れが谷間を染めるころ、撮影は一段落した。カメラも小道具も片付けられ、現場には乾いた草と土の匂いだけが残る。僕は脚本を抱え、ベンチに腰かけていた。麗花も、木陰に座り、膝の上に小説を置いている。

しばらく沈黙が続いた。風が葉を揺らし、遠くで鳥の声が小さく反響する。
「……さっきの、小石、危なかったですね」
麗花の声は、昼間より少し柔らかく、でもやはり無理に作った感じではない。

「ええ、そうですね……でも、避けられたのは、あなたのおかげです」
口に出すと、言葉が思ったより重く、しかし軽やかに胸の奥を通り抜けた。
麗花は少し首を傾げ、まるで『そんな大げさな』とでも言うような目で僕を見る。
「私、ただ、そこにいただけですけど」

その言い方が、妙に正直で、でも計算されたようにも聞こえ、僕は頭の中で小さな矛盾を何度も回転させる。
「……いや、でも、ありがたいです」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ笑った。声に出さず、目元だけで。

その瞬間、二人の間の空気が、昼間とはまた違うリズムで動き出した。触れられないのに、触れたような、微妙な接触。

「……映画、楽しみにしてます」
思わず彼女が言ったその言葉は、昼間の小石の騒ぎを思い出させるような軽やかさと、同時に少しだけ距離を詰めるような温度を含んでいた。

「はい、僕も……楽しみです」
返事をしながら、僕はふと気づく。昼の偶然と、小さなハプニングが、この沈黙の中でゆっくりと化学反応を起こし、言葉に微かに色を添えていることに。

風がまた葉を揺らす。二人の影は、夕暮れの地面に重なり合い、触れないまま、でも確かに互いを意識する形で揺れていた。

そのまま、時間はゆっくりと流れ、撮影現場の熱気と午後の光が、どこか静かで不思議な余韻を、二人の間に残したまま夜の気配に溶けていく。

夜が完全に山を包むころ、他の部員たちはすでに宿舎に戻り、公民館は薄暗い灯りだけがぽつんと残っていた。机の上には未整理の小道具や、散らばった脚本のページがあったが、昼間の騒ぎとは違い、空気は静まり返っている。

僕は片付けの続きをしようと、机の上のカメラケースを手に取った。その瞬間、麗花も動いた。
「……手伝います」
その声は昼間よりも小さく、耳元で風が通るような、しかし確かにこちらに届く音だった。

二人だけで作業をしていると、距離感が妙に意識される。手元の小道具を渡すたびに、手と手の間に小さな隙間が生まれ、でもその隙間が、まるで何かを測る定規のように思えた。

「……あなたは、こういうの、得意なんですか?」
麗花の声は、質問というより確認のようで、目だけが僕を追っている。
「いや……まあ、誰かのために片付けるくらいは」
言いながら、僕は手元の力を少し緩める。微妙に近づいた体温が、袖口を通して伝わってくる気がした。

すると、彼女も一歩だけこちらに近づき、机の上の小道具を渡してくれる。肩は触れない。だけど、指先の距離感が、昼間とは違う微妙な緊張を孕んでいた。

「……昼間は、ありがとうございました」
ささやくように言われ、僕は返す言葉を探す。
「え、ああ……いえ、こちらこそ」
それ以上の言葉は出なかった。必要もなかった。

公民館の外では、夜風が木々を揺らす音だけが響いている。室内の灯りは弱く、二人の影が床に細く伸びた。その影が微かに触れ合いそうで触れない様は、昼間の空気を少しずつ夜の感覚に塗り替え、僕たちだけの世界を作っていた。

小さな沈黙の中、麗花は窓の外を見やり、僕もその視線に倣った。満天の星はまだ見えず、暗い山の稜線だけが夜の深さを示している。けれど、二人の間にある沈黙は、星よりも確かに煌めいていた。

「……そろそろ、戻った方がいいですか」
「ええ、でも……少しだけ」
少しだけの余白。その言葉は昼間の小石の瞬間や、夕暮れのソファの間合いと同じく、控えめに、でも確実に心の距離を縮めていた。

僕たちは片付けを終え、机の上を整理する。手元の物はただの道具に過ぎないが、二人の呼吸と微妙な間合いが、まるで舞台装置のように作用して、静かな夜の公民館を独特な空間に変えていた。

そして、どちらからともなく立ち上がる。
「お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
言葉だけではなく、体感的な距離感も、昼間の偶然から、夜の静寂を経て、ほんの少し近づいた気がした。