朝の光は、山あいの村にしては意外なほど淡く、霧がまだ地面を這うように漂っていた。宿舎の窓から漏れる光は、昨日の夜とは違い、静かな緊張を帯びている。僕は脚本のファイルを抱えながら、庭に置かれた撮影用の小道具を見つめていた。空気が湿って、木々の匂いが少し強くなっている。

「おはようございます」
声を上げると、麗花が窓から顔を出した。髪にはまだ夜露が残っていて、少し濡れた黒い線が頬をかすめる。僕は思わず、昨日と同じように鼻の奥がくすぐられる感覚を覚えた。だが、昨日とは違い、微妙な緊張感も混ざっている。

「おはようございます」
僕は返事をする。簡単な言葉なのに、なぜか心臓が少し高鳴った。

彼女は準備運動もそこそこに、淡々と機材の位置を確認し始める。手際が良すぎて、見ているだけで撮影全体の秩序が整うような気さえする。僕はその様子を、遠くからそっと眺める。触れることも、干渉することもなく、ただ存在を確認するだけ。

「昨日、暑さで大変でしたね」
「はい。でも、皆さん、頑張っていました」
返事はまたしても静かだ。昼の太陽に照らされると、彼女の声は霧のように輪郭がぼやけ、けれど確かにここにあることを伝えてくる。

撮影が始まる。僕はカメラの後ろに立ち、彼女が演じる月武丸を見守る。昼の光に包まれる麗花は、昨日の夜の柔らかさとは異なる、精確な緊張感を纏っている。歩き方も、刀の振り方も、彼女自身の体温で空気を震わせる。

「その動き、もう少しゆっくり」
岡島の声がかかる。
彼女は軽く頷くだけで、手を止めず、体の向きや視線を微調整する。僕はその手の動きや背中の角度を、無意識に追いかけていた。肩は触れない。触れないのに、心の中では確かに、何かが接触しているような錯覚に陥る。

撮影の合間、彼女が僕の方をちらりと見た。
視線は長く留まらない。だが、一瞬で昨日の夜の共鳴を思い出させる。
僕は思わず手をファイルに絡め、視線をそらす。

「……大丈夫ですか?」
今度は彼女の方から声をかけてくる。短い、けれど昨日より少しだけ距離を縮めた声。
「ええ……大丈夫です」
僕は答える。嘘ではない。胸の奥のざわめきは残っているが、撮影の緊張がそれを包み込む。

昼が近づくにつれ、太陽は容赦なく村を照らす。麗花は汗をかきながらも、静かに、しかし確実に演技を続ける。僕はカメラのファインダー越しに、彼女の一挙手一投足を追う。昼と夜、静寂と熱気、距離感と心の揺れ――すべてが微妙に絡まり、僕の胸の中で揺れる。

そして、昼休み。彼女は木陰に座り、軽く息をつく。僕は近づくべきか迷ったが、昨日と同じように、少し距離を置いて隣に腰を下ろした。肩は触れない。しかし、存在は確かに近い。

「……昨日の夜、少し霧が濃かったですね」
「はい、幻想的でした」
返答は軽く、しかし温度を帯びている。昼の光の中でも、昨日の夜の余韻が混ざる。

その瞬間、僕は気づいた。
触れない距離でも、時間や光、空気の濃淡で、心は確かに揺れるのだ、と。
映画の撮影のための距離でも、日常の距離でもない、二人だけの微妙な距離感――それは昼と夜で形を変えながら、僕の胸にしっかりと刻まれていく。

昼の光は、山の谷間にぶつかると、逆さまになった水彩画のように柔らかく反射していた。撮影は再開され、僕はカメラを肩にかけて、麗花の動きを追う。

そのときだった。小道具の鎧を着たエキストラの一人が、足元の石につまずき、体勢を崩した。軽く蹴っただけのはずの小石が、思った以上に大きく飛び、麗花の前に転がる。

「危ない!」
思わず声を出した瞬間、彼女は笑わずに、しかし微妙に目を細めて小石を避ける。ほんの一瞬、体が止まり、空気が固まる。胸の奥が、びくっと揺れた。

「大丈夫です」
麗花は淡々とそう言い、腰を落として再び演技の姿勢に戻る。
僕はファインダー越しに、彼女の背中に流れる汗や、襟元から覗く首筋の線に目を奪われる。触れられないのに、心の奥では、ほんの一瞬、何かが接触した気がした。

岡島が「よし、続けるぞ!」と叫ぶ。撮影が再開され、月武丸は小道具の刀を振るう。しかし、僕の視線は、麗花が石を避けた瞬間のわずかな身体の揺れと、息づかいのリズムに釘付けになっていた。

その後のカットでも、僕はつい目で追ってしまう。昼の光に照らされる彼女の姿は、夜の影とはまた異なる透明感を帯び、まるで光の粒子に溶け込んでしまいそうだった。

撮影が一区切りついたとき、彼女はそっと僕の方に近づいてきた。
「……大丈夫でしたか?」
「え?」
「さっき、小石が飛んだときです」

言われて初めて気づく。僕の心拍は、知らぬ間に早鐘のように打っていた。
「……ああ、大丈夫です」
声は普通でも、胸の奥のざわめきは隠せない。

彼女は微かに微笑み、そしてすぐに演技に戻る。肩は触れない。しかし、昼の光と小さなハプニングが、二人の間に見えない線を引いたことを、僕は確かに感じた。

午後の撮影は再び通常のリズムに戻る。しかし、僕の胸には、昼の光の中で触れたか触れなかったかわからない、微妙な距離感の記憶だけが残っていた。それは、夜のソファーで隣に座ったときの感覚と、昼の現場での小さな出来事が、奇妙に交錯した瞬間だった。