麗花は、参道の途中でふと立ち止まった。
「……月が、きれいですね」

視線を上げると、山の合間から淡い光が漏れていた。月はまだ低く、霧の隙間を通して銀色の筋を描いている。森の影に隠れた枝が、月光を揺らし、葉の間に小さな点描を落としていた。

僕はしばらく黙って、彼女の隣に立った。肩は触れない。触れないのに、存在がゆっくりと体の周囲に流れ込むような感覚があった。まるで、夜そのものが彼女を介して僕に話しかけているようだ。

「月が、こんなに近くに見えるのは久しぶりです」
「ええ……でも、少し低すぎるかもしれませんね」

その言葉の軽さと正確さのギャップに、僕は笑いそうになった。けれど、笑うと世界の均衡が崩れる気がして、息を殺す。

霧がさらに濃くなり、月光は輪郭をぼやかしていく。僕の目には、麗花の横顔が、現実より少し柔らかく、少し浮いたように見えた。胸の奥のざわつきは、昼間の撮影での熱気や汗よりも、静かで、しかし確実に僕の中心を揺さぶる。


霧の川を渡り、林の小道を抜けると、夜の冷気が少し緩んだ。僕たちは無言のまま歩いていた。足音だけが、霧に吸い込まれるように消えていく。

「宿舎、もうすぐですね」
麗花がぽつりと言った。声は昼間と同じくらい静かだが、どこか夜の空気に溶け込んでいて、遠くの星のように柔らかく輝く。

「そうですね」
僕は答える。言葉があまりに平凡で、逆に自分の胸のざわめきを隠せない。昼間、映画の撮影で見た彼女の力強さは、霧に溶けた今、影のように柔らかく、でも確かにそこに残っている。

ふと、麗花が歩く速度を緩め、僕と同じ歩幅に合わせた。肩は触れない。しかし、距離感が昼間よりもぐっと縮まったような気がする。目線を横に向けると、霧に透けた森の奥で、二人だけの時間がじっと揺れている。

「昼間の撮影、暑くて大変でしたね」
「ええ……でも、皆、楽しそうでした」

昼間と同じ言葉。なのに、夜の森の空気を経由すると、同じ言葉が少し違って聞こえる。軽やかで、柔らかく、しかも確かな温度を帯びている。

「……夜の森って、昼よりもずっと近く感じます」
「……近く」
「木も、葉も、匂いも、全部輪郭がはっきりする気がします」

僕は思わず小さく息を吸った。昼間の騒々しさや汗の熱気が、今は霧に吸い取られ、静けさだけが残る。麗花の声と呼吸のリズムだけが、胸の中でぽつんと響く。

小道の先に、宿舎の窓明かりがちらりと見えた。黄色く揺れる光は、昼間の眩さとは違い、柔らかく包み込むような温かさを持っている。麗花はその光を見つめ、僕にちらりと視線を向けた。

「……明日も、撮影、ありますね」
「ええ……」

言葉にするまでもなく、二人の間には昼間とは違う、静かな同意があった。肩は触れない。触れないのに、霧と夜のせいで、距離感は妙に近く感じられる。
僕はその距離の微妙な揺れに、少し戸惑いながらも、安心感を覚えていた。

宿舎の扉を開けると、温かい光と昼間の喧騒が戻ってきた。部屋の中では、仲間たちがまだ片付けをしている。
麗花は小さく息をつき、静かに微笑む。肩が触れないまま、僕の横を通り過ぎて、部屋の端に座った。

その瞬間、僕は気づいた。
距離感は変わらない。触れることもない。けれど、確かに何かが動いている――昼間の熱気とも、夜の霧とも違う、二人だけの微妙な共鳴。

僕はふと、夜の森で感じた空気の揺れを、胸の奥にそっとしまった。
触れなくても、言葉にしなくても、この瞬間は、確かに存在している。