顔に隈取の化粧を施し、腰には日本刀。正義のヒーロー月武丸が、まるで画面から飛び出すように飛んだ、と思ったその瞬間だった。
「ストップ! 一旦止める!」
時計を見ると十一時を少し過ぎたあたりで、撮影は唐突に止まった。理由は敵役、五十鈴の熱中症である。
着ぐるみの中に隠れた彼女は、分厚くてもこもこの、まるで中身が蒸発してしまいそうなキャラクター衣装に包まれ、派手に斬られて吹き飛ぶ演技を繰り返していた。しかも山奥の昼下がり、太陽は灼熱の鉄板のように大地に張り付いている。そりゃ倒れる。
漂っていた妙な緊張感は、一瞬で現実の熱気に溶かされ、汗とともに空気に蒸発していった。五十鈴は着ぐるみのまま日陰に運ばれ、ファスナーを下ろすと熱気が一気に噴き出した。まるで即席蒸し器である。
「水! スポドリあるやつ!」
「氷嚢どこだ!」
誰かが叫び、誰かが走る。
さっきまでカメラの前で斬られていた本人は、ぐったりとしたまま、まともに返事もできていなかった。
月武丸は、日本刀を腰に差したまま土偶のように立っていた。隈取は汗でにじみ、赤と黒が混ざり合い、正義のヒーローというより、早朝から酒を飲んで悪酔いした大道芸人に見える。
「……すみません、私、もう一回いけると思ってたんですけど」
誰に向けた言葉なのか分からない独り言だった。
それを聞いた岡島は困ったように笑い、肩をすくめる。
「無理させたのはこっちだ。今日はここまでにする」
不満の声は出なかった。全員、同じくらい疲れていたからだ。
そのときだった。
「氷、あります」
静かな声だった。
振り返ると、四宮がクーラーボックスを抱えて立っていた。
いつの間に……。彼女は森の精霊のならぬ美しさで、何食わぬ顔で淡々と現れた。
「首と脇を冷やしてください。あと、これ」
そう言って差し出したのは、塩分タブレットだった。手際が良すぎて、逆に場違いだった。
「……詳しいね」
思わず口にすると、彼女は首をわずかに傾げた。
「暑い場所では、よくあることですから」
“よくある”……この言葉の軽さが、あまりに重力を失っている。山奥の、ほぼ無人の映画現場で起きたことを“よくある”と呼ぶ感覚。世界は、彼女がいるだけで少しずつ歪む。
五十鈴は彼女の手で着ぐるみから抜け出し、呼吸を取り戻した。ありがとう、と言いたい気持ちと、なんだか奇妙に現実感が遠のく気持ちが混ざり合う。
「助かりました……」
「いえ」
それだけ言って、四宮は一歩下がる。感謝を受け取る距離すら、きっちり測っているみたいだった。
片付けが始まり、機材が次々と公民館の中に運び込まれる。ヒーローも、悪役も、ただの大学生に戻っていく。僕は脚本の入ったファイルを抱えたまま、立ち尽くしていた。予定していたカットは半分も撮れていない。
この合宿で本当に映画が完成するのか、そもそも完成させる意味があるのか。
「大丈夫ですか」
知らぬ間に、彼女が隣にいた。
「……何が?」
「さっきから、ずっと同じページを見ています」
言われて初めて気づいた。
開いた脚本のページは、月武丸が登場する場面だった。
「悪者も、暑さに弱いんですね」
冗談なのか、本気なのか判別できない口調だった。
「中の人は普通の人間だから」
倒れたのが敵役であっても、その言葉はヒーローにも、脚本にも向けられた気がした。
「それでも、立ち上がろうとするんですね」
「え?」
「倒れても、格好悪くなっても」
彼女は、脚本ではなく、僕を見ていた。
「あなたが書くヒーローは、そういう人だと思いました」
胸の奥を、指で押されたような感覚があった。
そんなつもりで書いた覚えはない。
ただ、強すぎるヒーローは嘘っぽいと思っただけだ。
「……買いかぶりです」
「いいえ」
即答だった。
「だから、見たかったんです」
昨日と同じ言葉。でも今度は、その意味を聞き返さなかった。遠くで、岡島がこちらを見ている。
目が合うと、なぜか一瞬だけ視線を逸らされた。この合宿は、やっぱり映画を撮るためだけのものじゃない。
少なくとも、僕にとっては。
日の落ちる気配がまだ見えない山の影の中で、四宮麗花は、まるで最初からそこにいることが決まっていたみたいに、静かに立っていた。
エントランスを通ると、年季の入ったソファーに腰掛ける彼女が、小説を手にしていた。その表紙には、いかにも生活感の漂う字体で『六畳一間のアパート』とある。お嬢様が、こうして中古本に手を伸ばすとは、僕の頭の中の“お嬢様の常識”はあっけなく崩れ去った。いや、崩れ去ったというより、そもそも最初からそんなものは存在していなかったのかもしれない。
室内の照明は半分しか灯っておらず、窓の外から差し込む夕暮れの青が、室内に薄く溶け込んでいる。昼と夜の境界が、まるで濃い絵の具と薄い絵の具が混ざり合った水彩画のように、揺らめきながら存在していた。
彼女は、その境目の上に腰掛け、まるで昼と夜のどちら側にも属さない者のように、小説を読む。
「令嬢でも中古を手にするのは意外でした?」
その声は、部屋の静けさにすっと溶け込み、文字通りの静寂に小さな波紋を広げた。僕の心臓は、なぜかそれを“質問”と認識するより先に、“世界が揺れる予兆”として受け取ってしまう。
思わず自分の左頬に手を添えた。表情の微かな凹凸を確かめるように。しかし、温度を受け取る気配すらない、平凡で、しかし異常に整ったいつもの頬だった。
その瞬間、僕は自分が不思議な感覚に囚われていることに気づいた。
彼女はただ座っているだけなのに、まるでこの部屋全体、ひいては夕暮れの青さまでも、自分の物語の小道具にしてしまったかのようだった。
僕の視線は小説の表紙にも、彼女の指先にも、そして微妙に揺れる窓際の光にも、まったくもって制御できずに吸い寄せられていく。
「あ、いえ……休憩、ですか」
「はい。少しだけ」
本を閉じ、膝の上に置く。 栞は使っていない。どこで読むのをやめてもいい、という読み方に見えた。
「皆さん、まだ片付けてますよね」
「まあ……部長が張り切ってるから」
「ふふ」
初めて、はっきりと笑った気がした。 声を立てない、息だけが少し揺れる上品な笑い方。
その瞬間、胸の奥が変にざわついた。 笑顔が珍しいからじゃない。 この人が“笑う”という行為を、僕の前で選んだことが、やけに意識に引っかかった。
「良ければ、お隣どうぞ」
ソファーの空いた部分を、彼女は軽くポン、と叩いた。小さな音だったはずなのに、僕の耳には、まるで遠くの山鳴りのように響いた。
一瞬、迷った。いや、迷う理由はないはずなのに、なぜか腰が宙に浮いたまま止まってしまう。
この距離を縮めることに、理屈をつけて躊躇したくなる。理屈というより、物語の文脈から抜け出す勇気がない、そんな感じだった。
「……じゃあ、少しだけ」
座ると、ソファーが沈む。柔らかく、だが確実に沈む。彼女との距離は、肩が触れるほどではない。しかし、触れていないことを意識するには十分だった。
すると、なぜか彼女の方から、拳ひとつ分くらいの距離まで体を寄せてきた。肩は触れない。それでも、体温の輪郭だけが、妙に鮮やかに感じられる。昼間、山の合宿で彼女が守っていた“安全な間合い”より、ほんの少しだけ近い。
「……狭い、ですか」
「い、いえ」
声が裏返る。否定したいわけじゃない。ただ、これ以上考え続けると、余計なことを口走りそうで怖い。
彼女はちらりと僕を見た。彼女の輪郭を必死で目に焼き付けようとする間、外では夕暮れの光が山を青銅色に染め、微かに風が木々を揺らしていた。その風の音が、まるで古い映画のフィルムが微妙に歪んだときの「シャーッ」という音のように、室内の静けさに紛れ込んでいる。
「……そろそろ皆さん、戻ってきますよね」
思わず口にした言葉に、麗花は小さく笑った。息だけが揺れるその笑いは、森の中の鹿の鳴き声のように静かで、しかし確実に僕の胸に棘を残した。
「ええ、でも少しだけ時間をいただきました」
それは当然のことのようで、しかし僕の中では意味不明のルールを打ち破る一言に感じられた。大学生の合宿、ヒーロー映画撮影――本来ならば汗と泥にまみれた現実が支配するはずの空間。そこに、麗花はさも静かに、しかし決定的な異物として座っている。
僕はふと、部屋の壁に掛かった小さな時計に目をやった。時計の秒針は、まるで僕たちの呼吸に合わせて動いているかのように、時々妙な速さで跳ねる。いや、跳ねるのではなく、僕の意識が秒針の運動を追うたびに、世界全体が揺れるのだ。
「……この本、面白いですか?」
僕の声が、思ったより低く、そして唐突に響いた。自分の声が空気に吸い込まれるような感覚は、初めてではなかったが、今日は妙に心地よい。麗花は顔を上げず、文庫本の背を指先で撫でた。
「……ええ。主人公が、部屋に閉じこもりながらも、世界に抗おうとするところが好きです」
抗う。世界に抗う。そんな言葉が、僕の頭の中で跳ねた。まさに今、僕がいる世界そのものではないか。ヒーロー映画の撮影、汗だくの大学生たち、倒れた五十鈴……それに抗おうとするのは、まさに僕だ。
「……なるほど、抗う、ですか」
言葉を返したつもりだったが、実際には意味が通じたのかどうかも怪しい。麗花は文庫本を膝に置き、僕の方をちらりと見た。その視線は、軽く揺れながらも確実に僕の内側を貫いた。
「でも、あなたの書くヒーローは、抗うだけじゃない。倒れても、立ち上がる」
心の中で、何かがバチッと弾けた。文字通り、胸の中の宇宙が小さな雷に打たれたような感覚。思わず僕は、手にした脚本のページをぎゅっと握りしめた。
その瞬間、外から風が窓を叩き、部屋の中の影が小さく踊った。僕は無意識に息を止めた。風のせいか、影のせいか、あるいは麗花の存在そのもののせいか、判別がつかない。
「……あなたも、見たかったんですね」
静かに、しかし確実に僕の名前にかかるような声。振り向くと、麗花はすでに立っていた。小説は手に抱えたまま、しかしその目は遠く、僕の世界の外側を見ているようだった。
「少し、散歩しませんか」
その提案に、僕の頭の中の霧が一瞬だけ晴れた。理屈はどうでもいい。時間も、場所も、今ここにある空気も、すべてが麗花と歩くための前奏にしか思えなかった。
「……はい」
返事は短く、しかし確信に満ちていた。
僕たちは公民館の外に出た。夕暮れの山影が、長い指のように村を抱き締めている。空はまだ青く、でも昼間の熱はすでに遠くに消え、風が肌を撫でていった。その風が僕の耳の奥まで届き、妙に心臓の音を増幅させる。
「……空気、冷たくなりましたね」
麗花の声は柔らかく、しかし確実に僕の鼓膜に触れる。耳の奥で震えるだけでなく、心の奥まで揺らしてくる。言葉の内容よりも、声の振動が僕に先んじて情報を伝えてくる感覚。僕はうっかり息を吸いすぎ、胸が小さくせり上がった。
「ええ、少しだけ」
僕はどうにか平静を装いながら返したつもりだった。しかし足元の地面を見れば、砂利が微かに光を反射していて、どうやら地面も僕の心臓の鼓動を真似しているらしい。いや、もちろんそんなことはない。脳内で勝手に世界が同期しているだけだ。
「……ところで、あなたはどうして、あの合宿に?」
突然の質問に、僕は頭の中で小さな雷を受けた。麗花の目が、こちらをじっと見つめている。冗談でもからかいでもなく、ただ静かに、確実に僕を見ている。
「え、あ……僕は、映画サークルの……」
言葉が喉で止まる。麗花の視線の中に、自分の存在が透けて映るような錯覚に襲われた。こんなに普通のことを答えようとしているのに、なぜか心臓だけが宇宙規模の速度で暴走している。
「……それだけですか?」
その一言に、僕の理性が小さく喚いた。それだけじゃない。僕は、君に会うためにここにいる、と心の中で叫んでいる。けれど口は、まるで砂漠に埋まったかのように動かない。
「……まあ、半分くらいは偶然です」
言った瞬間、僕の頭の中で自己嫌悪が踊った。しかし麗花は、軽く笑って首を傾げた。笑顔とは言えない、でも確実に好意のある形の笑い。
「偶然……ですか」
その声が、夕暮れの空気に溶けて、二人だけの時間を作り出す。僕は無意識に、麗花と歩く距離をほんの少しだけ詰めた。肩は触れない。それでも体温の存在が、指先で確かめるよりも鮮明に伝わってくる。
「……あの、これ」
麗花が、かすかに手を差し出した。手のひらに載っていたのは、木の実のような小さな石ころだった。光を反射して、赤と青の微妙な色を宿している。
「……拾ったんですか?」
僕は思わず声を上げた。どうしてこんなものに、彼女の心が揺れるのか分からない。
「ええ、なんとなく」
その「なんとなく」の一言で、世界の重力が変わった気がした。目の前にいる麗花の存在が、ただ座っているだけでなく、空気や時間、僕の感覚そのものに影響を与えている。
僕は、そっと手を伸ばして、彼女の手の近くまで指先を運ぶ。しかし、触れようとはしない。触れると、現実が崩れるような気がして怖い。指先がほんのわずかに近づくだけで、心臓がさらに暴れ出す。
「……不思議な石ですね」
麗花の声が、僕の耳の中で残像を作る。ああ、これはただの石ではない。彼女と僕の間の距離、その微妙な揺れ、そして胸の高鳴りを象徴する何かだ。
夜の山道は、昼間の灼熱が嘘のように冷えて、霧が細い毛糸のように道を這っていた。月明かりはぼんやりとしていて、影も形もはっきりしない。僕は麗花と、なぜか二人で歩いていた。合宿のメンバーとは少し離れて、山の中腹に続く古い参道の脇を通っていた。
「……夜は、静かですね」
「ええ、昼よりずっと」
麗花の声は、夜の空気に同化して、どこから聞こえてくるのか分からなかった。声自体は小さいのに、耳の奥で震えるような響きがある。まるで、夜が彼女を通して僕に話しかけているみたいだった。
「歩きやすい靴ですね」
「はい。山道用ですから」
返事は自然で、無理に会話を広げようとする気配はない。けれど、僕は無意識に息を整えながら、足のリズムを合わせて歩いていた。心臓が小さな太鼓のように胸の中で跳ねる。いや、太鼓というより、宇宙の微粒子が暴れ回っているみたいな感覚だ。
参道を照らす月明かりが、麗花の横顔を淡く描いた。黒い髪が微かに風に揺れ、霧がそれを包む。まるで、現実と物語の境界が溶けているみたいだ。僕は思わず立ち止まりそうになった。立ち止まったら、時間ごと彼女が夜に溶けて消えてしまいそうで怖かった。
「寒くないですか」
「いえ……少し涼しいくらいで」
肩は触れない。触れないのに、体温の存在だけが空気を通して伝わってくる。距離は一定で、でも世界全体がほんの少し傾いたような気分になる。
僕は呼吸を整えるふりをして、遠くの山影を見た。夜は静かで、星も少ない。なのに、胸の奥だけが妙にざわついて、まるで小さな灯火が揺れているみたいだ。麗花の存在が、まるで夜の霧を通して映し出された光のように、微かに揺れ、僕の心を撫でる。
「……もう少し、歩きますか」
「はい」
二人の足音だけが、夜に溶けていく。恋でもない、友情でもない、名前のつかない感覚が胸の中で膨らむ。森の中の空気も、夜の静けさも、麗花の存在も、全部が、僕の心をふわりと宙に浮かせる。
月明かりに照らされ、霧が揺れ、影が揺れ、そして僕も揺れる――すべてが微妙に歪んで、しかし不思議と心地よかった。
「ストップ! 一旦止める!」
時計を見ると十一時を少し過ぎたあたりで、撮影は唐突に止まった。理由は敵役、五十鈴の熱中症である。
着ぐるみの中に隠れた彼女は、分厚くてもこもこの、まるで中身が蒸発してしまいそうなキャラクター衣装に包まれ、派手に斬られて吹き飛ぶ演技を繰り返していた。しかも山奥の昼下がり、太陽は灼熱の鉄板のように大地に張り付いている。そりゃ倒れる。
漂っていた妙な緊張感は、一瞬で現実の熱気に溶かされ、汗とともに空気に蒸発していった。五十鈴は着ぐるみのまま日陰に運ばれ、ファスナーを下ろすと熱気が一気に噴き出した。まるで即席蒸し器である。
「水! スポドリあるやつ!」
「氷嚢どこだ!」
誰かが叫び、誰かが走る。
さっきまでカメラの前で斬られていた本人は、ぐったりとしたまま、まともに返事もできていなかった。
月武丸は、日本刀を腰に差したまま土偶のように立っていた。隈取は汗でにじみ、赤と黒が混ざり合い、正義のヒーローというより、早朝から酒を飲んで悪酔いした大道芸人に見える。
「……すみません、私、もう一回いけると思ってたんですけど」
誰に向けた言葉なのか分からない独り言だった。
それを聞いた岡島は困ったように笑い、肩をすくめる。
「無理させたのはこっちだ。今日はここまでにする」
不満の声は出なかった。全員、同じくらい疲れていたからだ。
そのときだった。
「氷、あります」
静かな声だった。
振り返ると、四宮がクーラーボックスを抱えて立っていた。
いつの間に……。彼女は森の精霊のならぬ美しさで、何食わぬ顔で淡々と現れた。
「首と脇を冷やしてください。あと、これ」
そう言って差し出したのは、塩分タブレットだった。手際が良すぎて、逆に場違いだった。
「……詳しいね」
思わず口にすると、彼女は首をわずかに傾げた。
「暑い場所では、よくあることですから」
“よくある”……この言葉の軽さが、あまりに重力を失っている。山奥の、ほぼ無人の映画現場で起きたことを“よくある”と呼ぶ感覚。世界は、彼女がいるだけで少しずつ歪む。
五十鈴は彼女の手で着ぐるみから抜け出し、呼吸を取り戻した。ありがとう、と言いたい気持ちと、なんだか奇妙に現実感が遠のく気持ちが混ざり合う。
「助かりました……」
「いえ」
それだけ言って、四宮は一歩下がる。感謝を受け取る距離すら、きっちり測っているみたいだった。
片付けが始まり、機材が次々と公民館の中に運び込まれる。ヒーローも、悪役も、ただの大学生に戻っていく。僕は脚本の入ったファイルを抱えたまま、立ち尽くしていた。予定していたカットは半分も撮れていない。
この合宿で本当に映画が完成するのか、そもそも完成させる意味があるのか。
「大丈夫ですか」
知らぬ間に、彼女が隣にいた。
「……何が?」
「さっきから、ずっと同じページを見ています」
言われて初めて気づいた。
開いた脚本のページは、月武丸が登場する場面だった。
「悪者も、暑さに弱いんですね」
冗談なのか、本気なのか判別できない口調だった。
「中の人は普通の人間だから」
倒れたのが敵役であっても、その言葉はヒーローにも、脚本にも向けられた気がした。
「それでも、立ち上がろうとするんですね」
「え?」
「倒れても、格好悪くなっても」
彼女は、脚本ではなく、僕を見ていた。
「あなたが書くヒーローは、そういう人だと思いました」
胸の奥を、指で押されたような感覚があった。
そんなつもりで書いた覚えはない。
ただ、強すぎるヒーローは嘘っぽいと思っただけだ。
「……買いかぶりです」
「いいえ」
即答だった。
「だから、見たかったんです」
昨日と同じ言葉。でも今度は、その意味を聞き返さなかった。遠くで、岡島がこちらを見ている。
目が合うと、なぜか一瞬だけ視線を逸らされた。この合宿は、やっぱり映画を撮るためだけのものじゃない。
少なくとも、僕にとっては。
日の落ちる気配がまだ見えない山の影の中で、四宮麗花は、まるで最初からそこにいることが決まっていたみたいに、静かに立っていた。
エントランスを通ると、年季の入ったソファーに腰掛ける彼女が、小説を手にしていた。その表紙には、いかにも生活感の漂う字体で『六畳一間のアパート』とある。お嬢様が、こうして中古本に手を伸ばすとは、僕の頭の中の“お嬢様の常識”はあっけなく崩れ去った。いや、崩れ去ったというより、そもそも最初からそんなものは存在していなかったのかもしれない。
室内の照明は半分しか灯っておらず、窓の外から差し込む夕暮れの青が、室内に薄く溶け込んでいる。昼と夜の境界が、まるで濃い絵の具と薄い絵の具が混ざり合った水彩画のように、揺らめきながら存在していた。
彼女は、その境目の上に腰掛け、まるで昼と夜のどちら側にも属さない者のように、小説を読む。
「令嬢でも中古を手にするのは意外でした?」
その声は、部屋の静けさにすっと溶け込み、文字通りの静寂に小さな波紋を広げた。僕の心臓は、なぜかそれを“質問”と認識するより先に、“世界が揺れる予兆”として受け取ってしまう。
思わず自分の左頬に手を添えた。表情の微かな凹凸を確かめるように。しかし、温度を受け取る気配すらない、平凡で、しかし異常に整ったいつもの頬だった。
その瞬間、僕は自分が不思議な感覚に囚われていることに気づいた。
彼女はただ座っているだけなのに、まるでこの部屋全体、ひいては夕暮れの青さまでも、自分の物語の小道具にしてしまったかのようだった。
僕の視線は小説の表紙にも、彼女の指先にも、そして微妙に揺れる窓際の光にも、まったくもって制御できずに吸い寄せられていく。
「あ、いえ……休憩、ですか」
「はい。少しだけ」
本を閉じ、膝の上に置く。 栞は使っていない。どこで読むのをやめてもいい、という読み方に見えた。
「皆さん、まだ片付けてますよね」
「まあ……部長が張り切ってるから」
「ふふ」
初めて、はっきりと笑った気がした。 声を立てない、息だけが少し揺れる上品な笑い方。
その瞬間、胸の奥が変にざわついた。 笑顔が珍しいからじゃない。 この人が“笑う”という行為を、僕の前で選んだことが、やけに意識に引っかかった。
「良ければ、お隣どうぞ」
ソファーの空いた部分を、彼女は軽くポン、と叩いた。小さな音だったはずなのに、僕の耳には、まるで遠くの山鳴りのように響いた。
一瞬、迷った。いや、迷う理由はないはずなのに、なぜか腰が宙に浮いたまま止まってしまう。
この距離を縮めることに、理屈をつけて躊躇したくなる。理屈というより、物語の文脈から抜け出す勇気がない、そんな感じだった。
「……じゃあ、少しだけ」
座ると、ソファーが沈む。柔らかく、だが確実に沈む。彼女との距離は、肩が触れるほどではない。しかし、触れていないことを意識するには十分だった。
すると、なぜか彼女の方から、拳ひとつ分くらいの距離まで体を寄せてきた。肩は触れない。それでも、体温の輪郭だけが、妙に鮮やかに感じられる。昼間、山の合宿で彼女が守っていた“安全な間合い”より、ほんの少しだけ近い。
「……狭い、ですか」
「い、いえ」
声が裏返る。否定したいわけじゃない。ただ、これ以上考え続けると、余計なことを口走りそうで怖い。
彼女はちらりと僕を見た。彼女の輪郭を必死で目に焼き付けようとする間、外では夕暮れの光が山を青銅色に染め、微かに風が木々を揺らしていた。その風の音が、まるで古い映画のフィルムが微妙に歪んだときの「シャーッ」という音のように、室内の静けさに紛れ込んでいる。
「……そろそろ皆さん、戻ってきますよね」
思わず口にした言葉に、麗花は小さく笑った。息だけが揺れるその笑いは、森の中の鹿の鳴き声のように静かで、しかし確実に僕の胸に棘を残した。
「ええ、でも少しだけ時間をいただきました」
それは当然のことのようで、しかし僕の中では意味不明のルールを打ち破る一言に感じられた。大学生の合宿、ヒーロー映画撮影――本来ならば汗と泥にまみれた現実が支配するはずの空間。そこに、麗花はさも静かに、しかし決定的な異物として座っている。
僕はふと、部屋の壁に掛かった小さな時計に目をやった。時計の秒針は、まるで僕たちの呼吸に合わせて動いているかのように、時々妙な速さで跳ねる。いや、跳ねるのではなく、僕の意識が秒針の運動を追うたびに、世界全体が揺れるのだ。
「……この本、面白いですか?」
僕の声が、思ったより低く、そして唐突に響いた。自分の声が空気に吸い込まれるような感覚は、初めてではなかったが、今日は妙に心地よい。麗花は顔を上げず、文庫本の背を指先で撫でた。
「……ええ。主人公が、部屋に閉じこもりながらも、世界に抗おうとするところが好きです」
抗う。世界に抗う。そんな言葉が、僕の頭の中で跳ねた。まさに今、僕がいる世界そのものではないか。ヒーロー映画の撮影、汗だくの大学生たち、倒れた五十鈴……それに抗おうとするのは、まさに僕だ。
「……なるほど、抗う、ですか」
言葉を返したつもりだったが、実際には意味が通じたのかどうかも怪しい。麗花は文庫本を膝に置き、僕の方をちらりと見た。その視線は、軽く揺れながらも確実に僕の内側を貫いた。
「でも、あなたの書くヒーローは、抗うだけじゃない。倒れても、立ち上がる」
心の中で、何かがバチッと弾けた。文字通り、胸の中の宇宙が小さな雷に打たれたような感覚。思わず僕は、手にした脚本のページをぎゅっと握りしめた。
その瞬間、外から風が窓を叩き、部屋の中の影が小さく踊った。僕は無意識に息を止めた。風のせいか、影のせいか、あるいは麗花の存在そのもののせいか、判別がつかない。
「……あなたも、見たかったんですね」
静かに、しかし確実に僕の名前にかかるような声。振り向くと、麗花はすでに立っていた。小説は手に抱えたまま、しかしその目は遠く、僕の世界の外側を見ているようだった。
「少し、散歩しませんか」
その提案に、僕の頭の中の霧が一瞬だけ晴れた。理屈はどうでもいい。時間も、場所も、今ここにある空気も、すべてが麗花と歩くための前奏にしか思えなかった。
「……はい」
返事は短く、しかし確信に満ちていた。
僕たちは公民館の外に出た。夕暮れの山影が、長い指のように村を抱き締めている。空はまだ青く、でも昼間の熱はすでに遠くに消え、風が肌を撫でていった。その風が僕の耳の奥まで届き、妙に心臓の音を増幅させる。
「……空気、冷たくなりましたね」
麗花の声は柔らかく、しかし確実に僕の鼓膜に触れる。耳の奥で震えるだけでなく、心の奥まで揺らしてくる。言葉の内容よりも、声の振動が僕に先んじて情報を伝えてくる感覚。僕はうっかり息を吸いすぎ、胸が小さくせり上がった。
「ええ、少しだけ」
僕はどうにか平静を装いながら返したつもりだった。しかし足元の地面を見れば、砂利が微かに光を反射していて、どうやら地面も僕の心臓の鼓動を真似しているらしい。いや、もちろんそんなことはない。脳内で勝手に世界が同期しているだけだ。
「……ところで、あなたはどうして、あの合宿に?」
突然の質問に、僕は頭の中で小さな雷を受けた。麗花の目が、こちらをじっと見つめている。冗談でもからかいでもなく、ただ静かに、確実に僕を見ている。
「え、あ……僕は、映画サークルの……」
言葉が喉で止まる。麗花の視線の中に、自分の存在が透けて映るような錯覚に襲われた。こんなに普通のことを答えようとしているのに、なぜか心臓だけが宇宙規模の速度で暴走している。
「……それだけですか?」
その一言に、僕の理性が小さく喚いた。それだけじゃない。僕は、君に会うためにここにいる、と心の中で叫んでいる。けれど口は、まるで砂漠に埋まったかのように動かない。
「……まあ、半分くらいは偶然です」
言った瞬間、僕の頭の中で自己嫌悪が踊った。しかし麗花は、軽く笑って首を傾げた。笑顔とは言えない、でも確実に好意のある形の笑い。
「偶然……ですか」
その声が、夕暮れの空気に溶けて、二人だけの時間を作り出す。僕は無意識に、麗花と歩く距離をほんの少しだけ詰めた。肩は触れない。それでも体温の存在が、指先で確かめるよりも鮮明に伝わってくる。
「……あの、これ」
麗花が、かすかに手を差し出した。手のひらに載っていたのは、木の実のような小さな石ころだった。光を反射して、赤と青の微妙な色を宿している。
「……拾ったんですか?」
僕は思わず声を上げた。どうしてこんなものに、彼女の心が揺れるのか分からない。
「ええ、なんとなく」
その「なんとなく」の一言で、世界の重力が変わった気がした。目の前にいる麗花の存在が、ただ座っているだけでなく、空気や時間、僕の感覚そのものに影響を与えている。
僕は、そっと手を伸ばして、彼女の手の近くまで指先を運ぶ。しかし、触れようとはしない。触れると、現実が崩れるような気がして怖い。指先がほんのわずかに近づくだけで、心臓がさらに暴れ出す。
「……不思議な石ですね」
麗花の声が、僕の耳の中で残像を作る。ああ、これはただの石ではない。彼女と僕の間の距離、その微妙な揺れ、そして胸の高鳴りを象徴する何かだ。
夜の山道は、昼間の灼熱が嘘のように冷えて、霧が細い毛糸のように道を這っていた。月明かりはぼんやりとしていて、影も形もはっきりしない。僕は麗花と、なぜか二人で歩いていた。合宿のメンバーとは少し離れて、山の中腹に続く古い参道の脇を通っていた。
「……夜は、静かですね」
「ええ、昼よりずっと」
麗花の声は、夜の空気に同化して、どこから聞こえてくるのか分からなかった。声自体は小さいのに、耳の奥で震えるような響きがある。まるで、夜が彼女を通して僕に話しかけているみたいだった。
「歩きやすい靴ですね」
「はい。山道用ですから」
返事は自然で、無理に会話を広げようとする気配はない。けれど、僕は無意識に息を整えながら、足のリズムを合わせて歩いていた。心臓が小さな太鼓のように胸の中で跳ねる。いや、太鼓というより、宇宙の微粒子が暴れ回っているみたいな感覚だ。
参道を照らす月明かりが、麗花の横顔を淡く描いた。黒い髪が微かに風に揺れ、霧がそれを包む。まるで、現実と物語の境界が溶けているみたいだ。僕は思わず立ち止まりそうになった。立ち止まったら、時間ごと彼女が夜に溶けて消えてしまいそうで怖かった。
「寒くないですか」
「いえ……少し涼しいくらいで」
肩は触れない。触れないのに、体温の存在だけが空気を通して伝わってくる。距離は一定で、でも世界全体がほんの少し傾いたような気分になる。
僕は呼吸を整えるふりをして、遠くの山影を見た。夜は静かで、星も少ない。なのに、胸の奥だけが妙にざわついて、まるで小さな灯火が揺れているみたいだ。麗花の存在が、まるで夜の霧を通して映し出された光のように、微かに揺れ、僕の心を撫でる。
「……もう少し、歩きますか」
「はい」
二人の足音だけが、夜に溶けていく。恋でもない、友情でもない、名前のつかない感覚が胸の中で膨らむ。森の中の空気も、夜の静けさも、麗花の存在も、全部が、僕の心をふわりと宙に浮かせる。
月明かりに照らされ、霧が揺れ、影が揺れ、そして僕も揺れる――すべてが微妙に歪んで、しかし不思議と心地よかった。

